ー幕間ー
「行ったか……」
靂は独り呟き、天を仰いだ。
胸元には、最後の抱擁の熱がまだ残っている。
<姫沙夜、お前は怒るだろうか>
啼義を生かしておけば、そばに居なくとも目的の障害に成りかねない。いや、確実になるだろう。そして、ここに手にしている髪だけで、啼義を始末したとダリュスカインが信じるだろうか。
<茶番だな>
分かりきった現実に、靂は自分を笑った。いつからだったのだろう。啼義の存在が、消すのを躊躇うほどの重さになっていたのは。思い返しても、明確には分からなかった。
さりとて、逃がした啼義が無事に生き延びる保証もない。ダリュスカインが啼義の生存に気づき、追撃に向かうのは時間の問題だろう。こんな不確かなことに、長いこと追ってきた目的も、頭としての責任も差し出してしまうとは、我ながら愚かだと思う他ない。
それでも何故か、後悔はなかった。
心の何処かで、分かっていたのだ。淵黒の竜の力こそ、不確かであること。そして、それに縋らなければ立っていられなかった自分の弱さも。
あんな場所で、一人泣き声を上げて自分を呼んでいた赤ん坊を、あるいは生まれ変わりのような気すらして抱き上げた日のことが、昨日のことのように思い出された。
<名に与えた"啼"は、獣のように力強く啼く声。"義"は──正しき道にあれ>
余計な名を与えてしまったものだ。
声に出さず少し笑って、靂は踵を返した。刀を再び手に取り、鞘から抜く。刀身は抜け目なく磨かれ、曇りひとつない。こんなものを突きつけられて、啼義はよく動じなかったものだ。
それをしばらく眺めてから、迷いを断ち切るようにひと振りし、再び鞘に戻した。
そして、扉の前で片膝をつき、礼の姿勢をとっている壮年の男を振り返る。
靂は厳かに口を開いた。
「桂城、報告ご苦労であった。そなたに最後の命を下す」




