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みんな杜子春  作者: 青山獣炭
8/8

夢見月

【正午の解除の瞬間は、誰といるつもり?】

【玲香といっしょに決まってるだろ】

【ふたりでないとだめかな】

【どういう意味?】

【どうしても、いっしょに過ごしたい人がいるの】

【いいけど。誰? 会ったことがない人だと嫌だな】

【だいじょうぶ。シャラップ宣言の功労者の一人よ】

【まさか総理じゃないよね】

【もう。その時、総理はテレビの中にいるわよ】

【ところで、総理はやっぱりやめるのかな。周囲がざわつく前に先手を取って】

【うん。今日の夕方に記者会見の予定が入ってる】

【そうか。がっかりしているだろうね。総理にも悪いことをした】

【そうでもないみたい。この前会った時は、ゴキゲンだった】

【そうか。よかった。待ち合わせはどこにする?】┄┄




 雫森玲香と村越優也は、アーケード付きの商店街の中心にある、こじんまりとしたスーパーから出てきた。

 ここは特別区内北部の、とある駅に直結した商店街である。

 ふたりは、商店街の駅とは反対の方向の出入り口に向かって歩いてゆく。


 玲香はカーキ色のワイドパンツにネイビーのロングコート、村越は黒のコーチジャケットにデニムと、ふたりともカジュアルな服装をしている。玲香は手提げカバンを肩にかけ、村越は大きめのリュックを背負い、ふたりとも筆記用具を両手に持っていた。


 今日は三月一日、国民の祝日である。昨日、唐突に制定されたものだ。


 一日当たりの新規感染者数は二月十日を過ぎた頃から徐々に減りはじめ、十八日になったところで、ゼロになった。それは、国民全員が待ち望んでいた数字であった。ゼロの日が、十日続いた翌日。昨日の二十八日になって政府は突如、シャラップ宣言の半日延長と同時に、新しい国民の祝日を制定すると発表したのだった。

 あわせてシャラップ宣言の解除を、都の西の方にある記念公園で、総理大臣が宣言することも発表された。


 ふたりは商店街を抜けた。頭上には雲ひとつない青空が広がっている。今日は気温が高い。まるで春先のような天気だった。


 目的地に続く道の両側には、多くの畑が点在している。ふだんは見ることのない土に囲まれた光景┄┄。玲香は、この道を歩くたび、いつもどこか遠くの郊外に来たような錯覚に陥るのだった。


『シャラップ宣言プラスって、結局何だったんだろう』

 村越が玲香に手帳を見せてきた。


『わからない。わたしにも』


 宣言プラスが発出された当日から翌日にかけて、SNSのあらゆるサイトでプラスの内容に関する否定論者が跳梁跋扈したものの、それはすぐに終わり、後は無反応となった。わずかに北国で、賛同するキャンペーンが盛り上がったが、それも感染者ゼロの日が出てからは、立ち消えになった。


 国民は、かなりの不満を持っていたのだろうが、あからさまにこの話題を論じるとなると、やはり苦手なんだろうなと玲香は推測していた。ついこの間まで、この手の話題をタブー視してきた国民性なのである。


 発声違反者の数は、宣言の無期限延長の不満からか二月に入って一割ほど増えたものの、それが新規感染者数に影響を与えたかどうかは、玲香には、もはや分からなかった。


 宣言プラスの違反者についても、認定に至ることは無かった。


 十五日以降の新規感染者は、そのほとんどが飲食店での宴会や学校の部活動から発生したクラスターによるものだった。個人の感染としては、コロナによる肺炎で入院している患者を、直接治療もしくは介護する医療関係者だけだった。その感染経路も、入院患者が二月初めにはゼロになっていたので、すぐに無くなった。


 もちろん、この国の人々の凄まじいまでの葛藤やいらだちや苦悩の日々が、きっとあったのだろうと玲香は思っていたが、それは表に出ることなく、祝すべき今日を迎えていた。


 また、彼女はこうも考えていた。感染していないと自分に確信を持っていた人々は、宣言プラスの内容を無視して、一月と変わらない生活をおくったのではないかと。一月末の時点で、ウイルスを体内に保有していた者は、ごくわずかだったはずだ。感染しているかもしれないと自覚を持っていた者だけが、相手のことを配慮して禁欲的な生活を守ったのかもしれない。


 いずれにしても、目に見えない新型コロナウイルスは、目に見えないかたちで、この国から消え去ってしまった。まるで空気が入っていた容器の中が、いつの間にか真空になっていたかのように。


『なあ、そろそろ誰の家に行くか、教えてくれよ。重い荷物を背負ってる甲斐がないよ』


 ──そうだった。忘れてた。

 玲香は筆記用具をコートのポケットにしまい、手提げカバンから、ぼろぼろになった冊子を取り出した。ゼロシキのパンフレットだった。その表紙をポンポンと指で叩く。


 村越は、ああという感じでうなずいた。

『で、誰?』


 玲香は、パンフレットをまたカバンに戻し、筆記用具をポケットから取り出す。

『それはその人の家に着いてからの、お楽しみにしましょ。もうすぐだし』


 イラストの作者の家は、もうふたりからは見えていた。玲香は、畑の中にぽつんと建っている紅い屋根の小さな家を指差した。


『前々から聞こうと思ってたんだけど、どうして作者を公表しなかったの』

『パンフレット作ってる時って、忙しかったのよね。コンペをしている暇も無かった。結局、知ってる人に頼んじゃったから。うるさいのよ。そういうの。だから、これからも公表はしないつもり』

『あんなにいい絵なのに、もったいないなあ。公表すればオーダーが殺到するだろうに』


 ふたりは、家の前に着いた。築五十年は超えている木造の古い家である。

 その家と同じ時を重ねた木製の表札には『如月』と書かれていた。


 玲香は、ドアの横に付けられているベルのボタンを押す。

 ビーという音が家の中からして、どたどたと人の足音がした。

 ドアが引かれて、人の姿が現れる。


 ┄┄なぎさだった。《プロスペラ》の店長。


 彼女はオレンジのスモックを身に着けていた。ところどころ様々な色の油絵の具が染みついている。彼女もまた、両手に筆記用具を持っていた。


 なぎさに導かれ、ふたりが家の中に入ると油絵の具の匂いがした。入ってすぐの所に、二つの部屋があった。奥に向かって左側がアトリエ、右側がリビングになっている。内装は家の外側と比べると新しく、洋風に改装して五年ぐらいのものだ。


『なぎさ、描きかけの新作、見てもいいかな』

 玲香は、如月なぎさにメモ帳を見せた。


『どうぞ。もう少しってとこかな』


 三人は、左のアトリエに移動する。中は雑然としていた。旧作のカンバスが、何枚も壁に立てかけられ、画集は横に積み重なり、デッサンが描かれた画用紙は床に散らばっていた。そんな部屋の中央に、油絵の具がのったパレットと数本の筆が置かれた背高い机、そしてイーゼルに乗ったままのカンバスがあった。


 玲香は、そのカンバスに描かれている絵を見た。


 シルエットになったブルーの街なみから、桜色のマスクのような形をしたものが何百枚も回りながら見る者の方へ飛んできている画面だった。


 玲香にはその絵が、ようやく終わろうとしているコロナ禍を象徴しているように思えた。いい絵だった。街なみのブルーの色合いにも魅せられた。著名な画家のどんなブルーよりも好きになれそうだった。桜色とのコントラストが絶妙だった。


 玲香は、涙を溜めた瞳のまま、村越とともにリビングに通された。アトリエとは対照的に、リビングは簡素で整然としていた。テレビにパソコン、台所には最低限のキッチン用品。


 村越はリュックを肩から外し、ジッパーを引っ張って、先ほどスーパーで買った酒とつまみの袋を取り出して、テーブルに置いた。酒は五百ミリ缶のビールやハイボールやチューハイ、そしてプラスチックボトルの赤と白のワインだ。

 その間になぎさは、食器棚からグラスと五枚ほどのガラス皿をテーブルに持ってきた。

 玲香は、リモコンをいじって、テレビをつけた。


 テレビ画面には、総理が宣言することになるステージが映し出されていた。何も置かれていない飾りもない殺風景な空間。白い壁と床だけ。しかしそれがむしろ、何かの始まりを予感させて、今日の解除宣言にはふさわしいステージだと、玲香は思った。


 それから三人は椅子に座り、無言で乾きもののつまみの袋を開け、皿に盛っていった。


 三人の頭の中で、結局は二年以上に渡ってしまった悲痛なコロナ禍の思い出が駆けめぐっていた。長かった。ほんとうに。


 ガラスの皿は、肉厚のビーフジャーキー、大粒の干し貝柱、イベリコ豚の熟成サラミ、一口サイズの旨みチーズ、多品目のドライフルーツアンドナッツ等々で、いっぱいになった。


 玲香はそのあと、にこにこしながら自分のバッグの中をガサゴソした。そして保冷袋から、お取り寄せのマンゴープリンを三個取り出し、テーブルの隅っこにちょこんと置いた。プラスチックのスプーン付きだった。


 三人は、それぞれグラスを取り、思い思いの酒を自分でついだ。玲香はハイボール、村越はビール、なぎさは赤ワインだった。


 こうして宴会の準備はすっかり整ったが、解除宣言の時間までは、少々の間がある。

 解除までの時を埋めるように、如月なぎさは雫森玲香にメモ帳を差し出した。


『ずっと思ってたんだけどさ。シャラップ宣言ほど厳しくやらなくても、電話は通じないようにして、建物の中とか外とか関係なく全ての場所で会話を自粛させるだけで、けっこう効果あったんじゃないかな。もちろんゼロにはならないだろうけど』

『そうね。わたしもダマットレの時、そう思った。今度はそうする』

『今度って? またやるの?』

『もともとこのウイルスは、外国から入ってきたものでしょ。水際対策の手は、ゆるめないつもりだけど、このウイルスが世界から消えない限り、いつかまた入ってくるかもしれない。そうなったら、またやる。この国の人たちは、黙るという感染対策が有効だって、しみじみ分かってるから、きっと機能すると思うわ』


 村越優也の手帳が、二人のメモ帳の間に割って入った。


『新型コロナウイルスに限らず、飛沫感染が主体のウイルスには全て有効だしね。変異株だろうが新種だろうが未知だろうが、万能に対応する』


 二人がメモを読み終えた時、テレビのスピーカーから正午の時報が聞こえてきた。


 テレビ画面に、移動する総理大臣の姿が映った。

 銀灰色のスーツを着て、ハンドヘルドのワイヤレスマイクを持ち、すたすたと勢いよく歩いている。

 会場に集まった大勢の国民が映る。総理は、その群衆の中へ躊躇なく入ってゆく。

 警備員たちに囲まれ、それを盾にして、群衆を割るようにして歩いてゆく。


 そうして総理はついに解除宣言を放つ白いステージに立った。


 マイクを口元に持ってくる。

 総理大臣は、晴れ晴れとした顔で、声高らかに叫んだ。


「ただいまより、第五次緊急事態宣言を解除します!」





 その瞬間、大小の島々が連なるこの国のあらゆる場所で、その隅々に至るまで一億二千万を超える人々の歓喜の叫び声が、いっせいに湧き起こった。それは、この国の長い歴史において空前の、最も巨大な声量であった。

              

(了)

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― 新着の感想 ―
[一言] 時代にあった小説で、とても面白かったです! とはいえ、現実に皆を黙らせたら、さすがに日本でも暴動が起きそうですね。
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