睦月──下旬
大通りの公園の両脇には、中高層のビルが立ち並んでいる。
平日の宵の口ではあるが、公園には、LEDのライトに照らされて雪像の粗削りをする人たちや、その関係者、作業を眺める観光客、仕事の終わったサラリーマンなどで、けっこう人影がある。雪まつりが近いのだ。
鹿泉勇人は、大きな直方体の黒いバッグを背負って、通りを歩いている。バッグの下の方は、一時的にしゃくれた形に拡張されている。大皿の料理も運んでいるのだ。鹿泉は、真新しいダウンジャケットを身に付け、慎重に足を進めている。ダウンジャケットは密告の報奨金を手にしたことで、この間やっと新調できたものだ。
彼は、道を右に折れて五階建てのビルに焦点を定め、そこを目指す。そのビルは今月の始めに遭遇した老人が、経営をしている会社の自社ビルだった。明るいライトブルーの外壁で、すらっとした印象を与えるビルである。
一月三日に不意に出会った老人の境遇は、ネットを使ってすぐに割れた。鹿泉は、まずこの都市に在住しているであろう社長の名前を集めた。そしてその社長たちの画像を、かたっぱしから検索したのである。
その老人は、ローカルテレビの取材を受けたことがあった。その取材の模様が、動画サイトにアップされていた。その動画を見たことにより、老人が近松豊治と云う名前で、経営する会社が何という名前なのか、知ることができた。
ラブホテルの店名と同じ名前のその会社──《素敵な二人》のホームページには、各店舗や本社の所在地が全て記されていた。
鹿泉は次に、会社と社長の名前をキーワードにして検索をした。近松豊治が、どんな生活をしているか探るためである。さすがに個人の情報ということになると、なかなかつかめなかった。
分かったことは、《北国のラブホテル王》と呼ばれてること、豪放な性格らしいということと、演歌の名盤のコレクターであるということ、反社会的な組織には関わっていないようだ、ということぐらいであった。
それを知ったからといって、鹿泉の目的には何の役にも立たない。老人の発する声をもう一度捕えるという目的には。
老人の近くにいって声を聞くことができなければ、このネットにおける探索の意味はないのである。
スマホのメモ画面に、せっかく打ち込んだ車のナンバーも役には立たなかった。陸運支局などの公的機関から個人情報を取得するには、車のエンジンルームにしか記載されていない車台番号も必要だったからだ。
あれこれ検索を続けるうち、鹿泉は興味深いブログに、たどり着いた。今は《素敵な二人》を退職しているが、かつて店長をしていた者が過去の経験を振り返った記事だった。
『┄┄それでさ。
毎月下旬に本社に呼び出されるのさ。店長全員。
そこで売上の報告会議と慰労パーティーをやるわけ。
とにかく憂鬱だった。
行きたくなかったね。
特に会議のあとの立食パーティーが、ひどかった。
慰労といいながら、立ちんぼなんだぜ。
それに社長のじじいはさあ、売上が下がると怒鳴るのよ。
ほかの店長の前でさ。何度も。
ずーっと、同じこと言われるんで、頭おかしくなりそうだった。
しかもひと息つくときに、ニヤニヤ笑ってるんだ。
怖いというか、気持ち悪いというか。
今でも思い出すと、いやーな気分になる。┄┄』
鹿泉は、この記事からパーティーが毎月下旬に行われるらしいということを知った。今でも続いているかどうかは分からないが賭けてみる価値はあった。
彼は厳冬の中、下旬に入ってから本社の周りをうろつきはじめた。といってもそれに専念しているわけではない。気の向くままに人が群れている所に行っては耳をそばだてる行為の合間に、断続的に本社の場所を訪れるのだ。
鹿泉は、一月三日に遭遇した幸運のあと、街を徘徊する行動を毎日続けていた。しかし成果は、あれ以来なかった。彼は、自然とパーティーに対する関心が高まってきていた。
そして、本日。昼過ぎくらいに、ビジネスコート姿の男たちが矢継ぎ早に本社ビルに入ってゆくのを目撃した。
すぐに鹿泉は、かねてより目を付けていたオードブルのテイクアウト専門店にメールをして、大皿を一つ、小皿を二つ注文した。内容は、サンドイッチや焼きそばとかの炭水化物を抜いて、ローストビーフや白身魚のムニエルや極太のアスパラガスの天ぷらなどの、わりと高級感のあるものにしてもらうことにした。四時間ほどで、できるとのことだった。
次に地下鉄に乗って、いったん自宅に戻り、昼寝をした。うまくいくかどうか心配だったので、あまり眠れなかった。ベッドの上でゴロゴロしながら、時を過ごした。そして夕暮れ時になってから、今は使っていない商売道具の黒いバッグをつかみ、外に出た。
それから彼は本社ビル付近にあるテイクアウト専門店へ、できあがった料理を取りに行き、またこの通りに戻ってきたのであった。
鹿泉勇人は、ビルの正面入口の自動ドアから中に入った。
日頃から無人の小さな受付カウンターには連絡用の電話の代わりに、ビニールでコーティングされたオフィスの簡単な案内図が、ぽつんと置かれていた。今月に限り、どこのビルでも行われていることだった。
鹿泉は、粗い見取り図に部署名が記載されただけの案内図を眺め、何も書かれていない部屋で最も大きなものを探した。一階のいちばん奥にある部屋がそうだと分かり、彼はそこに当たりを付けて歩を進める。
その部屋への廊下を歩いているうち、彼の見当が間違いではないことが分かった。ざわざわとした大勢の人の声に混ざって、聞き覚えのある老人の声が聞こえてきたからである。
彼は部屋の前に立ち、軽くノックして中に入った。ドアを開けたところで、ひとつ礼をする。
五十人くらいの男たちが、しまを六つぐらいに別けて立食のパーティーをしていた。久しぶりに聞く人々の声の騒音で満ちている。耳が痛くなるような大音量。
鹿泉の視点が、部屋の真ん中で止まった。メインとおぼしきテーブルの上に、透明なプラスチックのコンテナボックスが置いてある。ボックスの中は、ウレタンスポンジで満たされ、『聞かざる君、大成功!』と蛍光色のピンクの文字で書かれた看板が、突き刺さしたように立っていた。
異様な光景ではあったが、鹿泉には何のことか分からなかったので、視線をすぐに外し、料理が置けそうなテーブルを探した。
彼は、考えてきた自分の設定を思い浮かべていた。パーティーの料理が予想以上に食べつくされ、困った幹事が追加で注文したオードブルを、急いで届けにきた小柄な配達員──そういう設定の雰囲気を出すように心がける。
会場の手前右奥に、酒類だけを置いていそうなテーブルが有った。その上の半分くらいには、空になっているビールや日本酒、焼酎などのビンが乱雑に並んでいる。
──あれを床下に移せば、なんとかなるかも。
鹿泉は、そのテーブルの方に歩を進めた。その間、耳をそばだて、パーティーのようすを盗み見しながら、一人一人の特徴を頭に刻み込んでゆく。
「おまえにはさあ、考える力が無いんだよ! 考えれよ少し。バカタレが!」
近松豊治の怒鳴り声だけが、際立って聞こえてきた。
彼はテーブルのスペースを開け、バッグを床に置いて開き、三つの皿を全てテーブルに乗せた。
そそくさとバッグを元の形に戻し、背負って部屋を出ていこうとする。その間も鹿泉は、パーティーの観察を続けた。
開けたままのドアのノブを握って出ていこうとした時、強い視線を感じて、彼は振りかえった。
五メートルぐらい離れたところにいる、濃紺のぼってりとしたスーツ姿の中年男と、目が合った。
鹿泉は、にっこり笑って一礼し、ゆっくりとドアを閉めて会場を出た。
帰りの廊下を足早に歩く。追いかけてくる足音はない。彼はビルを出ていく前に、一度振り返った。人影は確認できなかった。
ビルを出た鹿泉は、しばらく公園の方に向かってゆっくり走った。立ち止まる。一刻も早く、現場から離れるべきだったが、記憶が薄れる前に発声者目撃情報を作って送信したい気持ちの方が勝った。
彼はダウンジャケットの右ポケットからスマホを取り出し、操作をはじめた。記憶のあやふやな者からデータを作ってゆく。
四人目のデータを送信し終えた時、いきなり背負った黒いバッグを強く押されたのを感じた。
「うおっ」無意識に声が出てしまっていた。
ずさっと地に転ぶと同時に、鹿泉は振り返った。
先ほどの中年男と、背高いがっしりとしたラガーマンのような黒スーツの男が並んで立っていた。
「誰もオードブルなんど頼んでなあぞ。おめ、何者だ?」
鹿泉は、とっさに左ポケットから携帯用のアルコールボトルを取り出した。
立ち上がってスーツ姿の二人の顔を目がけ、思いきっり噴射する。
二人ともアルコール液が目に入ったのか、悲鳴をあげてのけぞり、よろめいた。
鹿泉は、公園に向かって全速力で走る。大通りの雑踏にまぎれることを目指して。路面の氷に足を滑らせないように注意しながら。
ゼロシキに書かれていた生活様式を守っていて良かった、彼はつくづくそう思った。
『携帯用のアルコールボトルは、常に持ち歩いてください。そして不意のくしゃみや咳が出た際には、飛沫が付着した箇所を、すぐにアルコールで消毒してください』
結果的に用途は違ったが、思わぬ場面で役に立った。
鹿泉は、走りながら振り返った。追いかけてくる者の姿は確認できない。
──食べ物を置いてきただけだ。やつらもそったら執着しないべ。地下鉄にさえ乗ってしまえば、安心だ。
今回の件は、ひょっとしたら住居侵入の罪に問われるかもしれないが、そうなってもかまわないと彼は思っていた。入ってくるであろう金の大きさの方が重要だった。
鹿泉勇人は、公園をあっという間に横切り、地下鉄の出入り口の中へ消えた。
♪
凍えるような空気の中。突き抜けた青天の下。
自宅で朝食をすませた徳山一家は、ジャンパーとデニムの家族コーデをした気軽な服装で、駅へと続く坂道をのぼっている。ここは自転車道路と兼用の遊歩道だ。
平日のこの日、夫婦はともに休暇を事前に取った。大樹を連れてテーマパークに行き、夕方まで遊ぶ予定なのである。
テーマパークの人気の中心である絶叫系マシンは、今月休みになっているものの、どのみち大樹が年齢制限と身長制限で引っかかるものばかりなので、彼らには関係ない。大きなねずみや犬やアヒル、お姫さまを身近に感じて、ファンタスティックな気分にひたれれば、それで満足なのだ。
大樹は例の特殊マスクをつけている。テーマパークだと、やはりしゃべりだす心配があったからだ。出かける直前の玄関で、拓信が大樹に頭をさげて拝むように手を合わせ、やっとつけてもらったものだった。これが最後の一枚である。
正月に泣かれて以降、繁美はマスクの耳にかけるゴムを、引っぱりに引っぱって伸ばしてしまった。というわけで、今日の大樹は、少しゆるめではあるが快適なおしゃぶり付きマスクをしているので、表情は明るい。
拓信は、スマホの画面をテーマパークのホームページにして、それを大樹に渡した。
大樹は、それを見てテンションが上がったのか、小踊りしながら夫婦が歩いている前に出ていく。
拓信は、その姿に思わず顔がほころんだ。繁美も同じだった。楽しい休日の始まりである。
その時。
坂の上から、連れ立って並列に走る女子高生たちの自転車集団が、ふっと現れた。それはまるで、車の付いた紺色の壁が走っているようだった。
登校時間が迫りくる朝のひと時。自転車のスピードは早い。
拓信は、大樹が自転車集団によって作られた危険な領域の真ん中まで、躍り出てしまっていることに気づいた。
「大樹、危ない! よけろ!」
拓信は大樹のいるところまで猛然と走り寄り、うずくまって我が子を抱きしめた。血だらけになりながらも、大樹を守り抜く自分をイメージする。抱きしめる腕に力が入った。
ところが女子高生たちの乗る自転車は、一台、二台とぶつかりそうになりながらも器用に二人のかたわらをすり抜けていった。
坂道を下りきり学校へと急ぐ自転車集団を、拓信は茫然と見送る。
ほおと一息ついて、大樹をもう一度抱きしめたあとに、彼はようやく気づいた。
──しまった。叫んじまった。
シャラップ宣言下での初の失態だった。十万円┄┄。
拓信は繁美を見た。彼女は、あろうことかスマホをいじっていた。
──こんな時に、何をやってるんだ。
彼は大樹の手を取り、繁美に急いで近づいて、スマホの画面を見た。
『ご連絡ありがとうございました。情報を受け付けました。あなたの行動に政府は心より感謝致します』という文字が浮かんでいた。
繁美はスマホをジャンパーの内ポケットにしまい、かわりに外ポケットからボールペンと、終わりの方まで使い込んでいるメモ帳を取り出した。
『自転車の女の子たちより、早く送らないとね』
拓信もポケットから筆記用具を取り出した。筆談をする。
『ありがとう。でかした。これで10万円損しなくて済むな』
『まだ分からないわよ。近しい人からの密告は、認められない場合もあるってネットでささやかれてた』
『そうなのか。じゃ、ヤバいのか』
『遊び半分で、わざと何度も繰り返している人だけらしいけど』
『なんだ。おどすなよ。だいじょうぶじゃないか』
『なに安心してるのよ。あなたはあなたで、貯めたおこづかいからしっかり払ってね。わたしはわたしで、もらえるお金はちゃんと使うから』
┄┄そうなるか、やっぱり。まあ、いいか。家族でみればトントンだ。
拓信は筆記用具をしまい、大樹の左手を強くつかんだ。家族は、足取り軽く坂をのぼってゆく。徳山一家の頭の中は、電車に乗って行けるファンタジー世界のことで既にいっぱいになっていた。
♪♪
スマホのメール着信音が鳴った時、承然は夕餉の真っ最中だった。
テーブルには、赤味噌仕立てのけんちん汁の椀に、大根とがんもどきの煮物、お新香の皿が乗っている。
承然は、茶碗と箸をテーブルに置き、畳に置いてあった黄色いスマホを手に取った。
メールは、後遺症で入院している妻の担当看護師からのものだった。
【水谷さん、危篤。面会謝絶】
そのメールを見るなり、承然は立ちあがって寝室にいった。衣装箪笥から僧衣を取り出し、何年も使っているどてらと安物の灰色のスウェットから素早く着替える。
急いで僧房の玄関を出ると、黒々とした地面に激しい雨が打ちつけていた。
承然和尚は濡れるのもかまわず、走って本堂に向かった。冷たい雨も感じないほど、心はひとつのことに囚われていた。突風が承然を揺さぶり、僧衣が波打った。
──とにかく経をあげよう。こんな時に祈祷せな、何のために帰依しているのか分からん。
数日前に、入院中の承然の妻──水谷頼子は、細かに切ったキャベツを誤って気管に入れてしまい肺炎を発症していた。
容態は悪いと担当看護師の昨日のメールから知ってはいたものの、いきなり来た危篤のメールに承然はすっかり動揺していた。面会謝絶なので、病院に出向いたとしても、どうすることもできない。今、僧侶として承然にできることは、祈祷しかないのであった。
わずかな距離であったが、僧衣はびしょびしょになり、暗がりの本堂の床を濡らした。
彼の目の前には、大日如来のお姿が闇の中から浮かびあがっている。雨と風の音が、さらに激しくなった。
承然は、左右のろうそくを灯し、線香をあげた。
大きく息を吐いて、いったん目を閉じ、集中してから数珠を音立てた。
おりんを強く弱く二度、鳴らす。
「おんあぼきゃーべいろしゃのうーまかぼだらーまにはんどまじんばらはらばりたやうんー」
承然は一息で光明真言を唱え、またおりんを強く弱く二度、鳴らした。
頭の中には、やせて皺だらけになった妻の頼子の顔があった。長年の労苦が刻まれたような顔。
笑みをもたらすことが承然には難しかった顔┄┄。
彼は合掌し、しばらく固まったように動かなかったが、やがて祭壇の下部に設けられた引き出しの取っ手をつかんだ。
そのまま一気にそれを強く手元に引き寄せる。引き出しには、いっぱいに詰め込まれた経本が入っていた。勢いで、その何冊かが床に落ちる。
承然は、さらに残りの経本も床にぶちまけた。
そして一冊一冊手に取り、それをろうそくの灯りに持っていき、中身を調べはじめた。それを繰り返し、ひとつのお経を見つける。
延命十句観音経。承然はそのお経を、本を読みながら唱えた。
唱え終わると、また経本を調べ、薬師本願功徳経を見つけた。それも唱えた。
また次をさがす。却温神呪を見つける。それも唱える。
そうやって、承然和尚は持っている経本を調べ、頼子の助けになりそうなお経は全て唱えた。
最後の読経が終わったのは、夜半過ぎであった。
真冬の嵐の音は、まだ続いていた。
承然は気が抜けたようにぼんやりしながら、本堂を出て、また激しい雨に濡れ、強風に吹かれながら僧房に戻る。途中から、持病のひざの痛みが襲ってきて、彼は左足を引きずりながら歩く。
──長時間の正座がようなかったか。いや、ずっと痛んどったのかもしれん。それを感じとらなんだだけか。
僧房に帰り、居間の食べかけの夕餉が乗ったテーブルを過ぎ、再び寝室にゆく。ずぶ濡れの僧衣を、とりあえずハンガーに掛け、灰色のスウェットに着替える。やれることはやったという充実感に満ちあふれていた。
┄┄ふと。
大切なことを失念していたことに、彼はようやく気づいた。声を出してしまっていたのだ。あまりにも読経に集中していたために、そのことに考えが及ばなかったのである。愚かだった。愚か過ぎた。
承然は、数日後に課せられるであろう多額の過料を想像し、身ぶるいした。
しかし┄┄。
──スマホはどこだ。
僧衣の中に入れた記憶はない。彼は、あたりを見回した。
黄色いスマホは、畳の上に放り出されたまま画面を暗くしていた。
承然は、二重の過ちを犯したために、かえって事なきを得たことを知った。安堵感が胸にひろがる。
┄┄だが。これでええのか。
いかに不条理な法律とは云え、その禁を二重に破ってまで行った祈祷に御利益などあるのだろうか。そんな不埒な者に仏は、はたして手を差し伸べるのだろうか。この数時間にも及んだ祈祷は、全く意味のないことだったのではないか。
彼は不安になって、へなへなと座り込んだ。左膝の痛みが立っていられないほど、ひどくなっていた。が、なんとか這って居間に行き、夕餉の残りを食した。
洗い物は明日することにし、また這って寝室に戻った。押し入れから、布団を出して敷く気力は残っていなかった。
承然は、着古したどてらを引き寄せて体の上に掛け、膝の痛みはひどいものの、とりあえず無理にでも眠ることにした。
これからどうなるか分からない。眠ることなどできなくなる日々が、やってくるかもしれない。彼は心底、それを恐れた。
承然は妻との想い出に沈み込んでいった。遠い親戚にあたる頼子と初めて会った日、湖が好きな頼子とあちこち旅行をしたこと、断食修行が終わった直後の手作り弁当のやさしい味、結婚を申し込んだらずっと手を離さなかったこと、ふたりきりでこのぼろ寺に初めてやってきた日、一人息子が生まれて名前をどうするか迷いに迷って結局頼子が決めたこと、貧しくとも穏やかな日々が微風のように過ぎて、頼子が突然台所で倒れた瞬間┄┄。
想い出は、いつしか浅い夢と混じり合い、承然は眠りに落ちていった。
妻の病が峠を越し、快方に向かったことを知らせるメールが承然和尚のスマホに届いたのは、夜明け前のことであった。
♪♪♪
片柳萌奈は、不織布マスクをして波止場近くの橋までやってきた。多くの警察官の姿が目に映り、ものものしい雰囲気である。
人の列が橋の先まで伸び、左に折れてゆるやかな坂、そして波止場の舗道の入り口まで、それは続いていた。
晴れた平日の昼下がり。萌奈がいる橋の歩行者道路のかたわらで、車がスピードを上げて絶え間なく行き交っている。まるで経済を作り出す力強い流れであるかのように。
萌奈は、列の最後尾について、波止場の舗道を眺め渡した。
舗道では人々が、間隔を開けて一列にならんでいる。そこにいる人たちはみな、海に向かって叫んだり喋ったりしていて、萌奈の耳にも届くほどのけっこうな騒がしさだ。
彼女がならぶ待機列に続々と人が集まり、雑然と後ろに伸びてきていた。
ホイッスルが鳴って、警官が四本指を立てたり、直立姿勢をしたりして、身振り手振りで四列に整列するように促した。へたくそなパントマイムを見ているようだと、萌奈は思った。
萌奈のスマホに奇跡のような《十分声出し会》の当選メールが届いたのは、一週間前のことだった。メールには参加をする際の注意事項がびっしりと書かれていた。そのうんざりする量の注意事項を読んだ時から、彼女は今を心待ちにしていた。
事務所から届いた新曲の音源を何百回も聞き込み、楽譜とにらめっこをし、歌詞をおぼえた。萌奈のために創られた、そのバラードを歌ってみるつもりだった。事務所の許可は、何度もメールのやりとりをして、渋々ながら昨日取れた。
萌奈は《カラフルシング》のバイトをちょっと抜け出して、ここに来ていた。もちろん、女社長にはメモで説明をしてから。女社長は『できるなら、いっしょに行って聴きたいぐらい』というメモをくれた。
このめったにない幸運の日時に、東風だけは吹かないで欲しいと、彼女は前から願っていた。東風が吹くと、発声した者の飛沫やらエアロゾルが海に向かわない可能性があるからだ。そうなるとこの会場は危険極まりないものとなり、中止になってしまう。せっかく当たったのに、中止になったりしたら彼女の歌える瞬間が、宣言解除の日まで伸びてしまうのだった。この《十分声出し会》は振替の日程とかは組まれないことになっていた。希望者殺到でスケジュールがキチキチなのである。
彼女の願いが通じたのか、今は無風に近かった。
萌奈は、スマホの時計を見た。メールで指定されている時刻まで、あと十分余りだった。《十分声出し会》と云っても、人の入れ替えに時間がかかるので、一時間に三組のスケジュールで行われているのである。
ウーウーと、舗道にいる複数の警官が手持ちのメガホン型拡声器のサイレンを鳴らして、前の組の声出しが終わった。
すっきりとした表情の人たちが橋に向かって歩きはじめ、萌奈たちの列が進みはじめた。
四列のまま進み、橋が終わっている所で別れ、入場のチェックを受ける。
女性警察官にスマホの当選メールを見せて、非接触型の赤外線検温器でピッと熱を測られる。不織布マスクをした萌奈の顔をみた女性警察官は、ちょっと不思議そうな表情をみせた。
──だいじょうぶ。平熱みたい。
彼女は、他の参加者とともに、ゆるやかな坂を下り、舗道を歩いてゆく。
左に見える海面が鏡のように、なだらかだった。日の光をきれいに反射している。
萌奈が歩を進めていくと、やがて舗道の並木ごとに佇んでいる警察官の一人のホイッスルが鳴った。その警察官は舗道のある場所を指で示した。彼女は立ち止まり、その場所に移動する。長く伸びた列の真ん中ぐらいの位置で、萌奈は歌うことになった。
彼女のほかにマスクをしている者などいない。
アイドルという職業がら、視線に敏感な萌奈は、あちらこちらから疑問の視線を投げられているのが分かった。
両隣りになった人の視線も、もちろん感じて、自然と左右に目がいった。左は藍色のトレンチコートをはおったサラリーマン風の男、右は学生服にショートコート姿の若い女の子だった。
ウーウーとサイレンの音がして、強運の持ち主である百五十人の声出し会が、はじまった。
絶叫。普通の話し声。小声。老若男女のさまざまな声が入り混じり、一人一人の言っていることは、もはやよく聞き取れない。
「あー、あー」
騒然とする中、萌奈はこわごわ声を出してみた。今年初めて聞く自分の声だった。懐かしい自分の声だった。
次に低音から高音へ、高音から低音へと少しずつ声量を上げながら繰り返して歌声を出す。それだけで彼女の歌声は、もう昨年末の調子を取り戻していた。
「よし。片柳萌奈、歌いまーす」
彼女独特の、艶やかな心地良い響きの歌声が流れはじめる。
消えていった 時間は
もう戻らないけど
この両手にある ぬくもりは
まだ 何かをあたためられる
だからわたしは 向かう
あなたが住んでいた 静かな街へ
楽しげに だいじそうに
話をしていた あなたの街へ
わたしはそこで きっと見つけるだろう
あなたが残した きら星のような想いを
あなたがつくった かがやきの砂の時計を
消えていった あなたは
もう戻らないけど
この心にある ぬくもりは
まだ たしかに息づいている
だからわたしは 向かう
くちもとをおおっていた ベールを取って
悲しみに 沈んでいた
日々を抜け出し あなたの街へ
わたしはそこで きっと溶かすだろう
あなたが残した かがやきの砂の時計を
氷が止めた かがやきの砂の時間を
わたしはそこで きっと笑うだろう
ふたたび動いた かがやきの砂の時計を
まぢかに見つめ 想い出を抱きしめながら
歌い終わると、萌奈の歌声が届いた空間に、声が無くなっていた。彼女は歌の途中で、歌詞に合わせてマスクを外していた。
萌奈に、周りにいる者たちの視線が集中していた。
やがて、どこからともなく拍手が起こり、それは周りにいる全員のものに変わった。
右側にいた女子学生が、海の方を向いた。
「良かったです。最初からちゃんと聴かせてください。アンコール、お願いします」
その声を皮切りに、みんな海の方を向いて口々にアンコールを叫び始めた。
それは萌奈が、ソロで初めてもらったアンコールだった。何よりも欲しかった、自然にわき起こったアンコールだった。
片柳萌奈は、あふれそうになる涙を抑え、またマスクをつけて歌いはじめた。
♪♪♪♪
外灯が少ない、ちょっと暗めの公園。ビジネス街の高層ビルに挟まれた、ぽっかりとした空間。大通りの道路がカーブしている外側に設けられた十段余りの階段をのぼりきったところに、その公園の出入り口はあった。仕事が忙しくてなかなか時間の合わない年頃のカップルが、ちょっとだけ会いたい時に、よく利用する公園である。
今は深夜近くにもかかわらず、意外なほど人影は多い。数個しかないベンチは、全てカップルに占領されている。
そんな人影に混じって雫森玲香は、外灯と外灯の間のうす暗い闇の中に立ち、公園の内側には背を向けて、独り静かに泣いていた。真冬の夜の凍るような空気が、彼女の涙をすぐに冷たいものに変えていた。
そこに階段をのぼってきた村越優也が、あたりを見回し、しばしの時間を要して彼女のそばにやってきて、肩を叩いた。
玲香は振りかえり、彼をみとめて涙顔のまま微笑みを浮かべた。
村越は、スマホのメモ帳の画面に文字を打ち込んで彼女に見せる。
『だいじょうぶ? 仕事が終わらなかったのかな』
玲香もスマホの画面をメモ帳にし、文字を打ち込む。ふたりの筆談がはじまった。
『そんなわけないでしょ。明日の準備は万全』
『びっくりしたよ。突然呼び出されたから』
『急に怖くなっただけ』
スマホを見せた玲香は、村越の顔をじっと見つめた。怪訝な表情だった。
この人には、わたしの今の気持ちは分からないだろう、玲香は思う。彼女は明日がくるのが怖かった。宣言プラスが発出される明日が。
本来なら、明日でシャラップ宣言は解除されるはずだった。一箇月という約束で、この国の人々に尋常ではない我慢を強いてきたのだ。みんな、明日には解除されると思い込んでいる。宣言プラスは、その期待を真っ向から裏切ることになるのだ。発出の後の、落胆しか有り得ない反響を玲香は受け止められる自信がなかった。
この国の人たちのためになるだろう、喜んでもらえるだろうと思って、今までシャラップ宣言が成功するように玲香は尽力してきた。だがその努力も虚しく、明日の夜になれば彼女の所属する策定局にも非難が及ぶことは避けられないだろうと、彼女は考えていた。
玲香は、また涙を流した。
『宣言プラスは、あなたの中では計画の範囲内のことなの?』
その画面を見て、村越は暗い表情になってうつむき、スマホにメモを打ち込んだ。
『計画ではないといえば嘘になってしまう。でも予定していたことではなかった。正直な話、僕はこの国の人たちを、あまり評価してなかったんだ。みんなして声を出さないなんて、できるわけないと思っていた。シャラップ宣言は、違反者の数に圧倒されてパンクするだろうと予測していたんだ。失敗すると思っていた。だから、次の段階に移ったら、どんなことになるか深く考察してなかった』
「だったら、最初に言ってよ! 成功すると思ってないって!」玲香は叫んでいた。「わたしは成功を信じて今までやってきたのに┄┄何日も徹夜同然で仕事をして、体もこわしかけて┄┄けっきょく、わたしも策定局も、総理だって、国民さえも、あなたに振り回されてただけなのよね。あなたはみんなをだましていたのよ。総理は明日の宣言プラ──」
玲香はいきなり男の手で口を塞がれた。村越に抱き寄せられる。彼女は反射的に首を激しく振った。しかし、村越の手はゆるまなかった。
「これ以上は、まずい。とにかく黙ってくれ」
耳元でささやかれ、玲香は動きを止めた。
──そうだった。宣言プラスは、まだ機密事項だった。
声を出したことはもちろんまずいが、機密の漏洩はもっとまずいことになる。
玲香は、身を挺して声を出してまで止めてくれた村越に感謝した。
「あやまる。僕が悪かった。僕の社会学者としての認識の甘さが、こんなを事態を招いた。認めるよ。どうすれば許してくれる?」
玲香は、村越の左腕をつかみ口もとから手を、そっと外した。
「┄┄もういいわ。もともとゆるゆるの精神ではじめたことだし。あなたの計画自体もゆるゆるだったてことよね」
村越は苦笑いした。玲香の目の前には、口角のあがった唇があった。
──そういえば、最初はこの唇の形が気になったのよね。今見ても、なんて形のいい唇なんだろ。触れてみたいな。指とかじゃなくて。
ふたりは、見つめあった。
玲香の唇が、村越の唇に近づいてゆく。彼女は目を閉じた。しかし。
──だめだ。わたしから、こんなことをしては。
玲香は目を開けた。村越のとまどっている顔が目に入った。気恥ずかしくなって、彼女は村越の腕をほどいて、少し離れた。持っていたスマホにメモを打ち込む。
『また会おうね。ゆるゆるだめだめ学者さん』
びっくりしている村越を、軽く突き飛ばし、玲香は公園の出入り口に向かって走り出した。
公園にいる人々の間では、ふたりの会話をもとにした密告ゲームが、たけなわになっていた。
♪♪♪♪♪
近松豊治は、ひとつ小さく咳をした後、本格的に咳き込んで革張りのソファーから転げ落ちた。
この老人の自宅の一室。演歌の名盤が集っている自慢のコレクションが置かれた視聴覚室。
豊治は、だるい体を動かしてソファーに戻ってアルパカの毛布にくるまった。悪寒はしないものの、微熱が昨日から続いていた。
部屋の中では、昭和の大歌手と云われる女性の曲が流れていた。ときおり豊治は、その歌手とデュエットしているような気分で、がなり声を出して歌う。
声を収集するアプリが入ったスマホを、この広い邸宅のどこかに電源を入れたまま置いておけば、何の問題もなく唯一の趣味を楽しむことができることに、老人は月の半ばを過ぎてから、ようやく気づいた。
──我ながら、アホだったな。もうろくしたもんだ、まったく。
今テーブルに乗っているのは、仕事の連絡用に使っている別のスマホだった。体の具合が悪いとはいえ、いつ重要なメールを受信するか分からないので、門は開いておく必要があった。
五日前、慰労パーティーに出席していたある店長から、新型コロナウイルスに感染したと連絡が入った。その後、間をおいて他の店長からも続々と感染報告のメールが入ってきた。
慰労パーティーでクラスターが発生したのだった。
パーティーを行ったことは、あらかじめ各店長に緘口令を敷いておいたので、その事実は伏せられるはずだった。しかし、密告の情報と一分ほどではあるが音声ファイルを管理局は握っており、豊治の会社は任意ではあったが音声管理局と保健所合同の調査を受けることとなった。
その調査が三日前。結果が出て保健所から豊治が濃厚接触者となったことを告げるメールがプライベートのスマホに届いたのが今日。メールは他にも、パーティーの主催者である豊治に対して、責任を問う叱責文が届いたが、それは読み飛ばした。
豊治は、保健所から文章で叱責されたことより、音声管理局の調査結果が出て、これから課されるであろう多額の過料の方が気になっていた。管理局が握っている証拠の分析から何人の者が違反者として認定されることになるのか。もし出席者全員が認定されたら、五千万円近くになるはずだった。仮に時間をおいて喋っている者がいたとすると、さらに金額は上がっていくことになる。
法律的には過料は社員個人に課されることになるので、なにも会社が負担する必要はないのだが、社長の心情としては、社員たちに支払わせる気にはなれなかった。
──資金繰りの予定の外のことだ。銀行から特別に借り入れするしかないべ。
豊治は、また咳をした。明日はPCR検査に行かなければならない。ワクチンは打っているものの、重症化しない保証はないのだ。この国で発生した変異ウイルスに従来のワクチンは効かないと、彼は聞いていた。
昭和の大歌手の名盤は、いつの間にか演奏を終えていた。もうすぐ午後六時になる。
豊治はリモコンを手に取って、大型テレビのスイッチを入れた。
総理大臣の記者会見が始まるのであった。
本来なら会見を、この邸宅のメインリビングで、妻と長男夫婦そして三人の孫と大型プロジェクターで見るはずだった。だが、豊治は妻から家庭内強制隔離命令を言い渡されるという憂き目にあい、独りこの部屋にいるのであった。
豊治は、この会見が解除宣言になると考えていたが、この昼下がりに措置法がまた改正されたらしいというネットニュースを読んで、不思議に思っていた。解除に措置法の改正は必要ないからである。
総理大臣がテレビの画面に登場した。演説台に向かってゆく。その台に今日はマイクが置かれていない。後ろの壁には、大きなスクリーンが設置されている。総理大臣が演説台に立った。
『まずは、国民の皆様方に第五次緊急事態宣言に対する、並々ならぬ御賛意、御協力を感謝致します。そして、その御労苦、御忍耐について敬意を表させていただきます』
総理の声はない。スクリーンでテロップの文字が上から下に流れていくだけだ。
『国民の皆様方の御尽力により、新型コロナウイルスの新規感染者数は、一日当たり全国で二桁まで激減し、お亡くなりになった方は、ここのところいらっしゃらない日が続いております。また、入院している方も数日後には、退院できると聞いております。誠にありがとうございます』
総理はテロップの流れに合わせて、深々と礼をした。
──解除だな。来るぞ。
『しかしながら』
──えっ?
『新規感染者数がゼロになったわけではありません。我々政府はここで新規感染者数をゼロにしなければ、解除してもまた同じことを繰り返すという過去の事実に鑑み、宣言の期間を延長することといたしました。期間はとりあえず一箇月。その後は、ゼロになるまで延長し続けることと致します。第五次緊急事態宣言は一箇月というお約束が、こんなことになってしまい、誠に申し訳ございません。心よりお詫び申し上げます』
そこでテロップの流れが止まり、総理は演説台を離れて横に移動し、膝を折って土下座した。
──何をやってるんだ。このじいさん。土下座すればすむ問題でないぞ。なんだ。実質的なシャラップ宣言の無期限延長って。ほとんど収束してる状況でないか。
テロップが再び流れはじめた。総理は土下座したままだ。
『そして、我々政府は今までの生活様式ではゼロにはならないという考えに至り、国民の皆様にさらなる御負担をしていただくことにしました。本日、その内容の実行について必要な法律は改正させていただきました。ここに第五次緊急事態宣言プラスを発出させていただきます』
またテロップが止まり、総理はいったん顔を上げたあと、今度は禿げあがった額を擦り付けるように土下座した。テロップが流れる。
『国民の皆様方に、新たなる御負担をしていただく生活様式は、ただひとつです。それは唾液交換型接触の禁止です』
──唾液交換型接触?
『この接触の定義は、深い口づけ、及びそれ以上の親密な行為を含むものとします』
「なんだとおおお!」
豊治はソファーから思わず立ち上がっていた。彼の商売に影響を及ぼすことは必至だった。
『ただ、我々政府は、この禁止に対する違反者を、すぐに見つける手立てはありません。仮に口づけをしている状況を捕らえたとしても、唾液まで交換しているかどうかは分からないからです。
従って、この禁止事項に対する特別な政策は一切行わないこととします』
「休業補償もしないっていうのか? 誰も来ないラブホテルを営業させるつもりか?」
『ただし、それでは法律として抑止力がないと我々政府は考え、来月の後半以降、新たに感染した方の感染経路を徹底的に調べ上げ、もし唾液交換型接触による感染と判明した場合は、一千万円の過料を課すことと致しました。以上です。ありがとうございました。本日は質問を受け付けません』
豊治は、ソファーにすとんと腰を下ろした。政府の度を越した奇策に腰が抜けたのであった。
テレビでは画面が切り替わり、記者たちが急いで会見場を出ていくさまが映し出されている。
しばらくその映像が流れたあと、画面が再び演説台に切り替わった時には、既に総理の姿は無かった。
──とりあえず、酒だ。体の具合は最悪だが、飲まないとやってられん。
豊治は、夜も詰めているお手伝いさんにメールをして、二十年もののモルトウイスキーと寒鱈の乾きものを持ってくるよう頼んだ。送信したあとアルパカの毛布を引き寄せて、横になった。
頭の中では、閑古鳥が鳴く《素敵な二人》のラブホテル群が渦巻き状になって、ぐるぐると回っていた。
これは感染者が早くゼロになってもらわないと俺は破産だ、豊治は思う。一代で築き上げた俺の会社も、息子に譲る前に終わりか。とりあえず明日から店は休業だな。一千万円のリスクを背負って、わざわざ客が来るとは思えん。せっかく作った《聞かざる君》も用なしというわけだ。それにしても手が空いてしまう従業員はどうするんだ。遊ばせとくのか┄┄。そうだ。キャンペーンでもさせるか。宣言プラスとかいうのに、賛同するキャンペーンを従業員にさせるんだ。そうすれば、少しは感染者がゼロになる日も近くなるべ。もう政府にたてつくのは、疲れた┄┄。
視聴覚室の扉をノックする音がした。
「はい、どーぞお」
豊治は、気の抜けた返事をした。
扉が開いて、お手伝いさんが入ってくる。彼女は、サージカルマスクに防護服、ぴったりしったビニール手袋というまるでコロナ病棟の看護師のような重装備で、酒とつまみの乗ったお盆を持って、近松豊治に近づいてきた。
♪♪♪♪♪♪
こうして、しぶとく残った新型コロナウイルスを殲滅するために、人々は生物として最も根源的な愛情行為を抑制するという、この国において前例のない挑戦を開始したのだった。




