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みんな杜子春  作者: 青山獣炭
6/8

睦月──中旬

『このままでは、ゼロにならない』


 雫森玲香は、村越優也の書いた手帳のメモを見つめていた。それはいつもの走り書きではなく、一文字一文字ていねいに書かれていた。彼女に会う前に、書いたものだった。


 玲香と村越は《プロスぺラ》のフロアーのテーブル席で、注文した料理とワインが運ばれてくるのを待っていた。激しいダンスを想起させる情熱的なリズムのギター曲が流れている。店内の席は、ディナーを楽しむ人たちで、ほとんど埋まっていた。声は聞こえないものの、せわしく動く数名のウエイトレスの姿が、店内を活気あるものにしていた。


 窓ガラスによって締め切られたフロアーの外には、玲香と村越がシャラップ宣言について何度も話しをしたオープンテラスがある。そこは今、寒さのために閉鎖中になっていて、パーテーションが無くなったテーブルと、その周りの椅子が凍り付いたように並べられているだけだった。


 玲香は村越を見た。眼光が鋭くなっている。久々に見る彼の表情だった。


 ──今夜はデートのつもりで、きたんだけどな。

 彼女は、そう思いながらもメモを書いた。

『ここのところ、感染者数が横ばいだから?』


 村越は首を横に振って、テーブルに置いてあったグラスを取り、水を飲み干した。


 一月に入ってから、全国の一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、ずっと三千人前後で推移していた。しかしこれは、シャラップ宣言が発令される前の十二月に感染した人の数字である。感染者数は、まもなく激減するだろうと誰もが予想しているところであった。


 玲香は、続けてメモを書いて、村越に見せた。

『じゃあ、水際対策のこと? もう落ち度はないはずだけど』


 村越は、また首を横に振った。メモを書きはじめる。


 入国者の水際対策は、シャラップ宣言の発令に合わせて強化されていた。自宅待機を一切取り止めにし、政府が指定したホテル等の宿泊施設に全員入居してもらっていた。期間は一箇月。入国者は、感染者の軽症とほとんど同じ扱いの、強い監視体制下で生活していた。今年になってからは、入国者がこの国の人と会ったり街を出歩くという事態は、全く無いはずであった。用意された宿泊施設は間もなく満杯になるため、大人数が収容可能なスポーツ選手のエリート村の施設を利用することも既に決定している。


『シャラップ宣言は問題ない。成功する。この国のみんなの力で、何とかここまでにした。だからこそ、ゼロを目指す生活様式だけでは意味がないんだ。ゼロにしないと。こんなことを二度とやるわけにはいかない。ここでゼロにしなければ、このやっかいなウイルスは、また必ず数を増やす。そうなったらイチから出直しだ。こんな生活は、これで終わりにしなければ。今は、一度きりの大勝負の時なんだ』

 村越の手帳を持つ指が、かすかに震えていた。


『わかったわ。ゼロにするには、どうすればいいの?』


 その時、店長のなぎさがサービスワゴンにタパスの皿と赤ワインを乗せて、ふたりのテーブルにやってきた。


 玲香は、あわててメモを書いて、彼女にだけ見せた。

『ごめん、なぎさ。後にしてもらっていいかな? この人と、これからちょっと仕事なの』


 なぎさも黒いロングエプロンのポケットから、注文伝票を取り出して、その裏をメモ代わりにして書き、玲香にだけ見せる。


『あら。今夜はプライベートなのかと思ってたわ』

『そうね。だから、お食事はお食事でゆっくり楽しみたいの。ほんとにごめん』


 なぎさはうなずいて、微笑みながらサービスワゴンを引いて厨房の方に戻っていった。


『明日から、わたしはまた眠れないほど忙しくなるのよね』

『たぶん。でもこの前ほどには、ならないと思う』


 ふたりは、しばらく見つめあっていたが、やがて周囲に決して聞かれることのない密談に入っていった。





 徳山拓信は、経理課の同僚たちと会社の近くにある老舗の和食の店に入っていく。


 今夜は遅ればせの新年会だった。ほんとは上旬にと企画されていたのだけれども、この店の一月限定のコースが、けっこうな評判を取っていて予約が取れなかったのである。そのコースの名は《サイレント会食》。美味しい食べ物とお酒は、人を黙らせる力がある。それを提供しようとするこの店からの挑戦状のようなコースだった。


 靴を下駄箱に入れ、暗めの照明の廊下を拓信は同僚たちと歩く。彼の気持ちは、軽いとは云えないものの、若干の高揚感があった。


 この新年会は、昨年の四月に人事異動があってから、初めての飲み会だった。普通ならば、花見を兼ねた新人の歓迎会から始まって、決算業務終了の打ち上げや、暑気払い、忘年会それから営業課などの他のセクションとの交流やらなんやらで頻繁に行われる飲み会が、昨年は全く行われなかった。


 拓信は、飲み会が無くなってせいせいしている反面、どこかで一抹の寂しさも感じていた。それは好きとか嫌いとかの気持ちを超えて、仕事の一部になっていたからだろう。むろん、残業手当など出たことなどないが。


 宴会の部屋は、襖が開いていた。拓信たち十人は、それぞれ宴席につく。課長は座敷側の奥の中央に、ほかの者はそれなりに。席には本日のお品書きと共に、箸やグラス、おちょこが置かれている。

 部屋は純和室のおもむきだが、席は掘りごたつのようになっていて、座りやすかった。


 酒類は部屋に入った時からテーブルの上に置かれていた。冷えたビールやウイスキーのボトル、赤白のワイン、ソフトドリンク。日本酒は大吟醸や純米酒の著名な銘柄が十本近く並んでいる。高級な部類の飲み放題で、料理との合わせを楽しんでもらおうという、この店が考えた企画だった。


 グラスやおちょこに酒をついでいるうちに、仲居さんによって、先付けが運ばれてきた。

 ふぐ刺しをこんもりと盛り付け、その上に、ちりめんじゃこを振っただけのシンプルなものだった。


 一同は、酒の入ったグラスを掲げて笑みを浮かべると、隣りどうしになった人とそのグラスを静かに合わせて宴をはじめた。


 拓信は、箸で先付けのものをつまみ、口に入れた。こりこりとかりかりの食感が同時におとずれた。ちりめんじゃこの塩の味がほどよい繊細な味だった。とろっとした日本酒と合わせて、喉に流し込むと、口の中には複雑な旨みが残った。


 彼は同僚たちを見渡した。みな満足げな顔をしている。自分もたぶんそんな顔をしているのだろうと拓信は思った。たまにはこんな飲み会もいいかもしれない。これで同僚とのコミュニケーションが取れるかどうかは正直疑問だが。コロナ禍が去ったら、今夜の話をゆっくりすればいい。共通の同時体験は、意外と長く記憶に残るものだから。


 先付けに続いて、お凌ぎが運ばれてきた。鮨が二貫。ぷっくりとした小ぶりのホタテと、銀の筋が鮮やかなキビナゴ。北と南の食材を一皿に盛った大胆な取り合わせだった。


 どんな酒と合わせようか、拓信はそう思いながらテーブルの端に並んだ充実した酒類を見つめた。極上の酔い心地を予感していた。



♪♪



昭和の時代にタイムスリップしたような錯覚に陥るほどの、古い住宅が立ち並ぶ細い道を一台の車がゆく。こげ茶色のコンパクトカー。かなりの年代物ではあるが、手入れは行き届いており、ときおり真冬の午後の光を反射して、ボンネットが輝きをみせる。


 その車は、とある一階建ての家屋の小さな庭に駐車した。角ばった大型のカセットテープレコーダーと、風呂敷に包んだ荷物を抱えた僧衣姿の承然和尚が、車から出てくる。


 ガラス戸の玄関の前で、ジャージ姿の若い小太りの男が、承然の到着を待っていた。若者は、この家の者ではない。


 互いに黙礼したあと無言のまま、承然はその若者に案内されて家の中に入った。仏壇がある居間には大きな犬がいて、承然と顔を合わせたとたん、ワン、と鳴いた。


 彼は犬が苦手なので少したじろいだが、そんなことで居間を出ていくわけにはいかない。今日は仕事で来ているのだ。


 部屋の中央で、この家の年老いた主人が目を閉じて座り、横たわった犬の腹を撫でていた。ジャージ姿の若者が主人のかたわらについて、正座をした。主人の肩を何度か軽く叩いて、合図のようなものをする。そうすると主人は、犬から手を離し、居ずまいを正した。目は閉じたままで。


 承然は、老主人と若い男に、一礼して仏壇の前に行った。畳に僧衣の触れる音がした。

 カセットテープレコーダーを先に置いて、座って風呂敷をとき、数珠や中啓や教本や、携帯用の小さな焼香の香炉を取り出す。香炉に火を入れて整え、教本を乗せた中啓とともに、正座を続けている若者に差し出した。


 承然は数珠を手にして、視線の先に置かれた遺影を、見つめた。

 微笑みを浮かべた銀色の髪の老婆が写っている。承然は、その故人の思い出をたどった。はたから見ていても、彼女は夫の身の回りの世話を本当によくしていた。その生活は献身的だったといえるかもしれない。近所の人たちと、いつも明るく話をしていた姿が承然の胸によみがえってきた。彼女の、一筋を貫いた人生の充実が、遺影の笑顔によく表れているように承然には思えた。本日は故人の三回忌であった。


 読経をする前に承然は振りかえり、二人にもう一度礼をした。仏壇に線香をあげ、数珠を音立てる。おりんを二度鳴らして、カセットテープレコーダーの再生ボタンを押した。


〈ぶっせつまーかーはんにゃーはーらーみーたーしーんぎょおーー、かーんじざいぼーさーぎょーしん、はんにゃーはーらーみーたーじーしょーけん〉┄┄


 ┄┄おりんの音が幾重にも響きわたり、レコーダーの停止ボタンが押されてテープに録音されていた三つの読経が終わった。あたりは焼香と線香の煙がただよい、その香に満ちていた。しばしの静寂。


 承然は入念に練習を重ねてきたものの、やはり数珠やおりんを鳴らす所作事の間が、今ひとつになってしまい、満足のいく出来にならなかったことを悔いていた。


 彼は座ったまま、仏壇を背にした。

 犬が寝そべったまま、横を向いてしっぽを振っている。経が流れている間、この犬が吠えることはなかった。よく訓練された犬なのである。


 承然は、犬の隣で正座したままの老主人の手を取った。そして掌の上に一文字一文字ゆっくりと、片仮名で字を書きはじめた。


『ス、マ、ナ、イ  コ、ン、ナ、ノ、デ』


 老主人は首をを大きく横に振り、承然の手を取って、同じように字を書く。


『ヨ、カ、ツ、タ  ク、ヨ、ウ、ニ、ナ、ツ、タ』


 その言葉に承然は、深く頭を下げた。また老主人の掌に字を書く。


『ツ、ラ、イ、デ、シ、ヨ  コ、ノ、ク、ラ、シ』


 この老主人は独り住まいであった。承然も同じ独り住まいであるが、彼らは自宅においても声を出すことは禁じられていた。独り言だとしても、口から放たれた飛沫や漏れたエアロゾルは、部屋の調度品や床のあちこちに付着する。もしそれにコロナウイルスが含まれているとすると、ウイルスが消え去る前に部屋を訪れる者が感染する可能性があるというのが、その理由であった。


 そんな声を出せない自らの生活よりも、さらなる不自由を抱えて日々を過ごしているであろう、この老主人に承然は心を寄せた。


 だが老主人は、またも大きく首を横に振った。


『ミ、ン、ナ  ガ、マ、ン、シ、テ、ル  ソ、レ、ニ』

『ソ、レ、ニ、?』

『モ、ウ、ス、グ、オ、ワ、ル』


 承然は、思わず老主人の肩に手を置いて、何度も何度もうなずいた。


 一月も半ばを過ぎ、一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、全国で二百人を割り込むまでになっていた。大方の予想通り、激減したのである。発声をする違反者は全国で後を絶たないものの、シャラップ宣言は着実に成果を上げているのだった。


 若者がにこやかに、台所からお茶と和菓子を運んできた。


 大型犬は窓のある方にのっそりと動いていき、そこでまた寝そべった。日射しが気持ち良さそうだった。


 本来ならば、ここで承然は長々と説法をするのだが、今日は割愛するしかなかった。


 三人は居間の中央で座を囲み、熱いほうじ茶と、かりんとう饅頭を喫っしながら、しばらく静かな時を過ごした。



♪♪♪



片柳萌奈は、このあいだ歩いた波止場の舗道に来て、白い息を吐きながら入江を眺めていた。


 左には遠く競艇場が見え、正面の海の向こうには商業圏の街並み、右には高架道路となった橋があり、その先の埠頭の景観を遮っている。


 波止場の下では、さざ波が絶え間なく打ち寄せ、長い時をかけてコンクリートを侵食しているのが見える。


 萌奈は《カラフルシング》に出勤する前に、わざわざこの場所に足を運んだ。どうしても、したいことがあったのだ。ちょっとだけ早起きしただけなのに、かなり眠い。


 彼女は、入江から視線をはずし、左右に首を振って舗道の長さを確かめようとした。

 直線の道がけっこう続いており、首を振るだけでは分からず、小走りで移動して確認したが、やはり分からない。萌奈は、結局スマホの地図アプリで距離を確認することとなった。


 ──ふう。だいたい三百メートルぐらいかな。二メートル間隔として百五十人ってところか。当たるやろうか。当てな。


 昨日ついに、一日当たりの新型コロナウイルスの新規感染者数は、全国で二桁になった。九十六人。待望の二桁に、あらゆるマスメディアとSNSでは、喜びの言葉があふれた。


 政府は二桁になるのを待っていたかのように、新しいイベントを全国的に開催することを、昨日の午後九時に発表した。


 それは、シャラップ宣言の緩和政策と云えるものであった。《十分声出し会》と名付けられたそのイベントの参加者は、政府指定の場所で十分間だけ声を思いっきり出してもいいことになったのである。国民の、黙っていることによるストレスを少しでも和らげようとする意図が、この政策にはあった。


 片柳萌奈が住む地域では、今いるこの波止場が政府の指定した場所なのであった。波止場の舗道から、思い切っきり海に向かって声を出す。風が強かったり向きが悪い場合は、中止になることも告知されていた。


 彼女にとって、これは朗報だった。そのイベントでは、歌をうたってもいいはずだからだ。二月になれば、声は出せるようになると彼女は考えているものの、やはり早く歌って喉の具合がどうなっているか確かめたかった。ただ、単純に歌いたいという気持ちもある。また、萌奈には歌のトレーニングを一刻も早く再開しなければならない事情があった。


 けれども。このイベントは誰でも参加できるわけではなかった。参加希望者が多数の場合は、抽選で参加者が選ばれることにになっていたのである。抽選になることは、目に見えていた。それも当選の確率が、かなり低くなるであろう抽選になることが。


 会場を確認したところでどうなるものでもなかったが、とりあえずゲン担ぎのつもりで、会場の現場から、彼女は申し込みをしたかったのである。現場まで足を運んだ労苦を、運命が報いてくれるような気がしていたのだ。


 萌奈は、クリームイエローのハーフコートのポケットから、スマホを取り出した。操作をして、参加希望者登録画面にたどり着く。彼女は、要求されている事項を軽やかなリズムで次々に入力した。


 ──よし、いってしまええ。

 萌奈は、送信ボタンを押した。


 しばらくして、スマホの画面が切り替わり『ご応募、ありがとうございました。日時は決まり次第、ご登録のメールアドレス宛にメールにて、ご連絡致します』と出た。


 ──重かったんな、きっと応募が殺到しとうけん。


 ポケットにスマホを戻して、萌奈は歩き出す。実入りは少ないものの、客の入りは良好の《カラフルシング》に出勤である。


 橋を渡っている途中で、ポケットの中のスマホが振動した。


 立ち止まって、もう一度スマホを取り出すとメールが届いていた。事務所からだった。春のコンサートツアーのために用意された、新曲の楽譜と音源がファイルで添付されている。


 ──もう、できたと。


 送られてきたその曲は、萌奈がメインボーカルをつとめることになっていた。


 春からは通常の状態でコンサートが行われることを前提に、事務所のスタッフは既に動き出していたのである。


 萌奈がメインボーカルを担当するのは、この曲が初めてであった。アイドルになって四年目。やっとつかんだ飛躍のチャンスだった。


 ──曲も決まった以上、早う声に出して歌うてみたか。練習ば重ねて自分のもんにしたか。ばってん。


 事務所は、萌奈に対して春のコンサートについては、ひとつの条件を提示していた。

 それは、マスクを着用してのパフォーマンスだった。この間のコンテストの結果に気を良くした事務所は、コンサートの話題作りのひとつとして、この曲を企画したのである。


 彼女は、もちろんアイドルだがマスクをつけてパフォーマンスすることに、自分でも意外なほど抵抗はなかった。むしろメインをつとめることができる喜びの方が大きい。危惧しているのは、マスクをつけて歌唱することの影響であった。


 萌奈は、歌声がこもってしまうことによる変化が、やはり不安だった。歌声に、こもりを解消する加工を施してもらってもいいのだが、できれば生の声をお客さんに聞いてもらいたい。そうするには曲を歌い込んで、歌の先生とも相談しながら、今までの歌い方とはかなり異なる技術的な修正が必要だった。


 評判を取り過ぎて、ずっとそのままになるのも困る。史上初のマスク歌手とか呼ばれるようになったりしたら、かなりげんなりするだろう。


 ──なんかなし。やるしかなか。


 萌奈は、届いたばかりの音源をイヤホンで聴きながら職場に向かう。ストリングスやピアノが効いた、胸に染み込むようなバラードだった。



♪♪♪♪




執務室の壁掛けの時計が、九時を指している。


 部屋の中央にある大ぶりの黒みがかった茶色いテーブル。その周りにあるソファーのひとつに、総理大臣は深々と腰掛けていた。


 夜の会食で酒を少し入れたので、のぼせ気味ではあるが頭は、はっきりしている。夕刻まで感じていた疲れも、会食の出席者から贈られた色紙の束が、それを吹き飛ばしてくれた。その色紙には、シャラップ宣言に対する数々の賛辞が書かれていた。


 残り三つのソファーには、浅溝局長と雫森玲香、そして村越優也が腰かけている。浅溝とは頻繁にこの執務室で宣言のさまざまな状況報告を受け、指示もしてきたが、この四人が一堂に会するのは昨秋のあの日以来だった。


 あの秋の日、テーブルを取り囲んでいた分厚いパーテーションは、もう無い。テーブルもその機能を取り戻し、今はホチキスで留められた書類がぽつんと置かれている。


 書類の表紙には『第五次緊急事態宣言プラスとその発出及び施行について』と書かれていた。右肩には赤くマル秘の印が押されている。


 総理大臣は、書類を手に取って読みはじめた。数日前から浅溝局長と何度もメールをやり取りして、発出の内容については詰めてきた。この書類は素案などではなく最終決定なのである。既に内容は頭に入っており、あまり分量もないので、彼はすぐに読み終えた。


 ──これをやるのか、本当に。


 総理大臣は、ほかの三人を眺め渡した。みな不安げに彼を見つめている。総理は大きくため息をついて、禿げあがった額をパシッと強く叩いた。


 浅溝がメモを書き、おそるおそる見せた。

『いかが、ですか。総理。発出していただけますか』


 このシャラップ宣言プラスの重要性は、頭では充分に理解していた。これを実行しなければ、おそらく新型コロナウイルスをこの国から葬り去ることはできないだろう。いまだウイルスは、この国の誰かの体内にくすぶり続け、増殖の機会をうかがっているのである。


 しかし、これをやっても。総理は思う。成功するとは限らない。むしろ失敗する可能性の方が高い気がする。こんなリスクの高い方法をとって失敗したら間違いなく辞任問題に発展するだろう。いや、成功しても問題にはなるだろうな。今の私の支持率は上向きの六割だったか。このまま宣言を予定通り解除して、仮に感染者がまた増えたとしても、誰も私を咎めたりしないのではないか。┄┄そんなことはないな。やっぱり辞任問題になるだろう。この国の民は、政治家の責任を追及するのが大好きだから。


 総理大臣は、顔をしかめて首を横に振った。彼はメモを書いた。

『ワクチンの開発は、どうなってるんだ』


 そのメモを受けて、雫森玲香が答える。

『昨年の秋に発生した我が国由来の変異株ワクチンの開発は、はかどってません。今までのものと極端にタイプが違うのです。また、都が行っている永久抗体型ワクチンの開発は、まだ研究段階です』


『そういえば抗体の状況は?』

 総理は、またメモを書いて雫森に見せた。


『検査対象が少なすぎて、はっきりと言える段階ではありません。ただ、今月の検査で昨年の春に接種を終えた9割以上の人の抗体が既に無かったという報告が来ています』


 ──ワクチンに頼ることは、できんか。


 ワクチンの接種は、今二まわり目の一回目が半ばに入っているが、この国ではワクチンを打ち続けるスピードより、抗体が消えるスピードの方が早いのであった。


『村越君の考えは、どうなんだ。わざわざ君が来たということは、私に引導を渡しに来たんだろ?』


 内部の者より外部の者のほうが言いやすい、いや書きやすいと浅溝局長は考えたのだろう、彼らしいな、総理は思った。


『総理大臣。僕は法律の専門家ではありませんが、この宣言プラスは明らかに憲法の基本的人権に抵触します。しかしそれが裁判になって是非を問われるのは、ずっと先のことです。それに、今までの宣言の内容だけでも、後々抵触していると言われかねない。喋っただけで、過料を課しているわけですから。どうせやるなら徹底してやるべきです』


 ──今さら後戻りは、できないというやつか。まいったな。辞任は前提だったか。


 総理は苦笑いした。またメモを書く。

『宣言プラスを実行しよう。月末の発出を目指して、策定局は根回しと段取りを頼む』


 総理は、メモを破って浅溝局長に渡した。浅溝は、それを大事そうにスーツの内ポケットにしまった。


『ところで、村越君。最初からプラスの内容を含んだ第五次にすれば良かったのでは?』

『感染者がここまで減った今でも、プラスの内容に賛同してもらえるか不透明です。始めから含めていたら、黙ってもらうことすら、拒否されたでしょう』


 三人は、立ち上がった。村越はメモをまた書いて、それを破り、裏返しにしてテーブルに置いた。三人は、深く礼をして執務室を出ていった。


 総理は、しばらく呆然としていたが、やがて村越のメモを取って、それを読んだ。


『社会学者の駆け出しの立場から言わせていただくと、世論の動きによっては総理の再登板も有り得るのではないかと思います』


 ──ふっ。慰めにもならん。


 総理はメモをテーブルに戻して、部屋の奥に歩いていき自身の肘掛け椅子に腰かけた。


 そういえば、あの村越君、この前よりも随分とこざっぱりしてたな、彼は思う。黒のスーツが、なかなかだったぞ。何かあったのか。┄┄まてよ。あの雫森もかなり落ち着いてたな。藤色のスーツだった。あっ、村越君のネクタイは、たしか紫┄┄ということは、あのふたりはつまり┄┄どうでもいいことだったな。


 総理は、いつも机に置いてあるマカダミアナッツチョコレートの箱を手に取った。箱の中には一粒だけチョコが残っていた。それを大事そうにつまみ、ゆっくりと口に入れる。


 ──今までいろいろ頑張って、それこそ寝る間も惜しんで人のために働いて、総理大臣にまでなったが、結局新型コロナウイルスと刺し違えて終わるようだな。まあ、悪くない。新型コロナウイルスに打ち勝った総理として名前が残るのも。


 ナッツチョコが口の中でとろけて、総理大臣の苦々しい気持ちを癒した。







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