睦月──上旬
二〇二✕年元旦。真昼。
世界的に有名なスクランブル交差点。多くの若者が主人公になって集う広場。かたわらにある駅の出入り口から、次々に人が出てきて、その広場に溜まってゆく。マスクをつけている人は、ごく少数だ。
この街のシンボルのひとつになっている忠犬の銅像とともに、人々は交差点の信号を見つめている。人々は、その交差点の先に何かがあると思い、今日もこの街を訪れているのであった。
信号の色が青緑に変わる。一斉に歩き出す人々。交差点の横断歩道はあっという間に、うごめく人々で埋まった。
行き交う人々に、ざわめきが起こることはない。それは、一ヶ月半に渡って行われたダマットレの成果のあらわれであった。だが、ほほえみはある。かすかな希望と期待が胸にあるからだ。シャラップ宣言が、今までの宣言とは違う成果を生み出すかもしれないという考えが人々にはあった。
昨日の新規感染者数は、全国で二千九百九十四人。三千人を下回るのは、実に半年ぶりのことであった。感染爆発と云う言葉は、もう人々の脳裡から消えつつあった。
ビルの上部にある四基の大型ビジョンが、交差点を囲むように設置されている。そのビジョンの全てが切り替わり、あのゼロシキパンフレットの表紙のイラストが映った。みんながバンザイをしているイラスト。それが三十秒ほど映ったあと、内容の説明をするビデオが流れはじめた。
しかしそのビデオは、昨日まで流されていたものとは明らかに違っていた。
活気のある陽気なBGMは流れているものの、声が無いのだ。声のかわりに詳細なテロップが表示されている。ときおり画面がテロップで埋め尽くされるほどに。
┄┄ビデオの録音された声も、今日から基本的には流すことが禁止になったのである。人々の発声を誘発しかねないというのが、その理由であった。
交差点を歩く人々の中で大型ビジョンに目をやる者は、ほとんどいない。ゼロシキの内容は、昨日までに頭の中に叩き込まれていたからである。
自分がしゃべりさえしなければ、面と向かっている人もしゃべったりはしない。だから、マスクをしていなくても感染しない――人々はそれを肝に銘じながら、覚悟をもって、新年を迎えた喜びを満喫するために街へ繰り出して行った。
♪
徳山拓信は、家族といっしょに自身の実家を訪れていた。
両親の人生とともに歩んできた古い和室の居間で、五人の者が同じ席についている。
徳山たちは、大きめのコタツを三方に囲んで遅い昼食を摂っていた。
拓信の両親――明彦と恵子は、初孫の大樹の姿を久しぶりに見れたうれしさで、顔がゆるんだままだ。
五人が揃うのは二年ぶりのことであった。コロナ禍の前は元旦の会食を恒例にしていたが、昨年は自粛した。両親への感染を拓信と繁美は、恐れたからである。
コタツの上のテーブルには『かんぱい!』と書かれたメモ帳とボールペンが、四セットばらばらに置かれ、さらにお正月の料理がところ狭しと並んでいた。すまし汁仕立てのお雑煮、伊達巻や黒豆や栗きんとんなどのおせち料理、正月特製ラベルの瓶ビール。そして五人全員、大好きなタラバガニが乗った大皿は中央に。
シャラップ宣言下では、カニは重宝な食べ物であった。会話を忘れて食べることができる。五人は、先ほどから黙々とタラバガニを食べ続けていた。
コタツから少し離れたところには、大型のテレビが置いてある。
カニを食べる音に混じって、テレビのスピーカーからも、音が流れ出ていた。
その画面を拓信は、タラバガニを咀嚼しながら見つめている。他の四人は、どちらかというとカニの方に注意がいっているが、拓信は違っていた。
テレビの画面に映っているのは、今年は元旦に行われることとなったサッカーの決勝戦だ。クライマックスを迎えている。後半残り十五分。二対一の接戦。
激しく切り替わる映像とは裏腹に、音はいたって静かなものだ。ロック調のBGMが小さめに流れ、主に聞こえてくるのは、サッカーボールを蹴る音、選手が走る音。
ソーシャルディスタンスの規制が撤廃された超満員の観客席が映っても、歓声はない。熱心にボールを追いかけているたくさんの顔があるだけだ。
実況や解説もない。テレビ放送でも、声を出すことは禁じられているからだ。
その他にも、昨年から変わったところがある。
選手も審判も、みなユニフォームの腕の部分に、半透明の黒い硬質のプラスチックにガードされたスマホを、バンドで括り付けているのだ。それは、試合中でもスマホを持っているぞというアピールと同時に、見る人たちに対して常にスマホを持ち歩きましょうというプロパガンダにもなっていた。
さらに。彼らはみなマスクをしていた。激しい運動をする者からの呼気には、やはり新型コロナウイルスが混じっている危険があるということで、スポーツなどをする時はマスク着用を義務付けられたのだった。
──けっこうレアで、おもしろいな。こんな試合、二度と見れないかもしれないぞ。拓信は、そう思って先ほどからテレビに釘付けになっていた。
マスクをしていることで選手たちの疲労度は、いつもより増し、足がほとんど止まっている。たたでさえキツイ時間帯なのだ。
そんな中、渾身と思われる鋭いシュートが画面左側のゴールのネットに突き刺さった。蹴ったのは、赤いユニフォームを着たゼッケン三十番の選手だった。
テレビを注視していた拓信は、思わず声を上げそうになったが、口いっぱいにほおばっているタラバガニの弾力ある身が、それを防いでくれた。
スコアは三対一になった。ゲームの行く末は、ほとんど決まった。
赤いレプリカのユニフォームを着た観客が、総立ちになっているシーンが、映し出される。その中に、感激のあまり口を大きく開けて叫んだ者がいたのを、拓信は見逃さなかった。
彼はタラバガニの咀嚼を止めて、あわてて背後に置いてあったバッグからスマホを取り出した。
スマホのホーム画面の時計を見たあと、すぐに『音声管理局』と名付けられたアプリを開く。
密告をするための送信用のフォームが、パッとあらわれた。拓信は、そのフォームに矢継ぎ早に文字を打ち込む。
☆発声者目撃情報☆
【日時】一日午後二時四十七分
【場所】国立競技場の観客席
【人の特徴】赤いユニフォームを着た四角い顔のおっさん
【どんな声】おそらくウオーと叫んだ
【その他】テレビで見ました
拓信は、文字を打ち終わると、間髪入れずに送信ボタンを押した。
画面に『ご連絡ありがとうございました。情報を受け付けました。あなたの行動に政府は心より感謝致します』の文字が浮かぶ。
──よし、これでいい。でもテレビだからな。自分より早く送信したヤツがいるだろうな。
ゼロシキによると、送信された内容が事実と確認されると、違反者の住んでいる地方公共団体から報奨金として十万円を受け取れることになっていた。ただし複数の者から同じ情報が寄せられた場合、報奨金は先着の一名に限られるのであった。
拓信は、軽いゲーム感覚とともに、何か社会の役に立ったような、ちょっとした満足感も味わった。
テレビは、サッカーの試合中継が終わり、やがてニュースがはじまつた。
『シャラップ宣言、本日発令される。各地のようすは┄┄』
画面の下の方にテロップが出て、首都を皮切りに全国の街の風景が次々に映る。アナウンサーの声も、レポーターの姿もない。人々の足音や車の音、電車の音、様々な音が混じり合ったわーんとした感じのものが、ただ聞こえるばかりだ。
拓信たち五人は、大皿から消えかかっているタラバガニの味を惜しむように楽しみながら、テレビの画面を黙って見続けた。
♪♪
百万都市としては列島の最北に位置している大都会、その街なみ。
この都市は真冬になると、厳しい冷気につつまれる。空から舞い降りたせっかくのさらさらの雪を、その冷気が、白くて固い氷に変えてしまう。
アイスバーンになった路面を歩くひとりの男。地元民なので、足元がおぼつかなくなることはないが、手にはスマホを持っていて、バランスが取りづらそうである。
男の名前は、鹿泉勇人。つるりとした卵型の顔に肩まで伸びた髪。着古した茶色のダッフルコートで寒さをしのいでいる彼は、かなり小柄である。
鹿泉は、地上を長く歩き過ぎて顔面が冷気でこわばってきたのを感じていた。もうとても地上を歩き続けることができそうもない。彼の足は、自然に地下街へと向かった。
階段を降りると、地上と比べて人通りが、かなり多かった。三が日の休みは、今日が最後とあって、買い物や食事を楽しむ人たちで活気に満ちていた。
──失敗したな。始めから地下を歩いていれば、よかった。
彼は、人の流れに乗りながら、ゆく当てもなく地下街を回遊しはじめた。そして、耳をそばだてて、人の声が聞こえないか集中する。
しかしながら、鹿泉が期待しているような声は、なかなか聞こえてこなかった。彼は、小さい子供を連れた家族たちには特に注意を向けた。だが、子供たちは親に抱きかかえられて手で口をふさがれているか、歩いていても極小の布マスクをしていた。みんなおとなしくしていて、しゃべり出しそうな気配はなかった。
──やっぱり、うまくいくはずないよな。
鹿泉は、密告の報奨金である十万円を手に入れようとして街を徘徊しているのであった。
それほどまでに彼のふところは寂しくなっていた。雪に街が覆われるまでは、自転車の荷台に黒い箱を載せて、料理を飲食店から近くの住民へと運ぶ配達員の仕事をしていた。しかしそれも今は路面の走行が危険になったので休業している。自動車の運転免許を持っていれば車を借りて続けることができたが、あいにく彼は、免許を持っていなかった。
ふと思い立ち、声を求めての探索を開始してから二日目。成果はまだない。昨日は駅周辺のいくつかの観光地を回ったが、見事な空振りだった。ただ歩いているだけなので、食費以外の出費はなかったが、さすがに俺は何をやっているんだろうと、鹿泉は思いはじめていた。
「正月早々、高い買い物させやがって」
しわがれた男の声がした。鹿泉は、瞬間的に声をした方を見た。
落ち着いた明かりに照らされたジュエリーショップの前に、白髪の体格のがっしりとした老人と若い女の二人連れが立っていた。光沢が美しい黒い革のコートと、派手なデザインの毛皮のコート。
──空耳でない。たしかに聞こえた。
鹿泉は、手にしていたスマホに急いで入力しはじめた。発声者目撃情報の画面は、ずっと開いたままにしてあった。左端上部の小さな文字で、時間を確認する。
彼は十数秒の後に、音声管理局への送信を終えた。
続いて、あたりを見渡す。スマホを手にしている者を数名見かけたが、まだ入力の最中のように見えた。
──トップいけたかも。
鹿泉は、成果が出そうなことにホッとした。寒い中、朝からうろつきまわった甲斐があったというものである。
彼の視界の片隅に、先ほどの二人連れが映った。老人と若い女はぴったりと寄り添っていて、どうみても親子には見えない。どうやら地下街の西の外れに向かって歩いているようだ。
鹿泉は、つけていることを二人に悟られないような距離まで、速足で寄った。足音を立てず、滑るように。
不釣り合いなカップルの後ろ姿は、ときおり会話をしているように見えたが、声までは聞き取れない。見つめ合っているだけの可能性もあった。鹿泉は、情報を送ることをためらっていた。誤った情報として音声管理局に認定された場合、逆に十万円の過料を払わなければならなくなる。不確かな情報を送るのは、避けるべきだった。先ほどのように、複数の情報が寄せられれば誤った情報として認定されることはまずないだろうが、カップルの周りを歩いている人たちで、声を聞き取ってスマホを取り出している素振りを見せる者はなかった。
二人は、地下街と直結している駐車場に入って行った。鹿泉は、その後を追った。
入口近くに設けられている管理室のおじさんから、じろっと見られたが、鹿泉はとっさにコートのポケットに手を入れて、車のキーを探すふりをしながら、通り過ぎた。
駐車場の中は、三人の他には誰もいない。しんと静まり返っている。午前中で買い物をすまして、そのまま帰るという人は、まれだ。なおも後をつけていくと、二人は広い駐車場の奥の方に置いてあったライトブルーの高級車の前で立ち止まった。しっかりとしたボディが際立つ、世界有数のブランドのものだった。
老人と女の姿は、その車の中に消えた。
鹿泉は、せめてナンバーでも控えようと思い、大胆にも外車の近くまでまで行って、駐車している車の陰に隠れた。出ていく一瞬をとらえて、ナンバープレートの数字を確認できそうな気がしていた。
すぐにでも車は出ていくだろうと鹿泉は予想していたが、意外にも老人と女は、もう一度姿をあらわした。
二人はタバコを吸っていた。かぼそい紫煙が、二筋、空中をただよう。駐車場は、もちろん禁煙だが、それを気にする人たちではなさそうだった。
「腹減ったな。何か食いに行かないか」
「いいわよ。夜まではひまだし」
「ジンギスカンにするか。落ち着いて食べられる店を知ってる」
「そうしましょ」
「じゃあ決まりだな。どうせ飲むから、帰りのために誰か呼びつけておくか」
老人はタバコを口にくわえて、車の後部座席から、ウレタンスポンジでパンパンになっているビニール袋を持ち出した。そして袋を開けて、ガサゴソやり、中からある物を取り出した。スマホが二台だった。一台を女に渡し、残りの一台を老人は、いじりはじめる。
鹿泉も、すかさずスマホに視線を移し、発声者目撃情報を二人分作成し、送信した。認定されれば二十万円になる。さっきのと合わせると三十万円だ。彼の顔が、思わずほころんだ。
車のエンジンがかかる音がした。鹿泉は、外車に視線を戻した。
やがて車は、のっそりと動いて駐車場を出ていった。鹿泉は、ナンバープレートの数字を目に焼き付け、それをスマホのメモ画面に打ち込んだ。
──それにしても、変なジジイだったな。
彼は、老人の顔を思い浮かべ、強く記憶にとどめようとした。ボリュームのある白髪に、角ばった輪郭、眼光の鋭い細い目。この老人を追いかければ、まだ稼げそうだった。金持ちであるのは間違いない。どこかの会社の社長のようだった。ネットで調べれば、素性が割れるかもしれない。
鹿泉は、はずむ気持ちになって管理室の前を駆け抜けて、再び地下街に出ていった。次なる獲物をさがすために。
♪♪♪
仕事始めも過ぎて、日常をすっかり取り戻した区役所のフロアーの一角。
橋本美咲は、紺のスーツ姿で自分の席につき、長い髪を指でいじくりながら、パソコンの画面を見つめていた。
画面には、音声管理局の地方本局から送られてきた被疑者リストの一覧表が映っている。被疑者の数は、五百八十七件。元旦からの累計の数である。これが多いのか少ないのか、他の支局の状況を知ることが美咲にはできないので、判断はつかなかった。
ただ、地方本局から応援者が来ていないところをみると、だいたい想定の範囲内の件数なのだろう。事実、年が明けてから毎日出勤を義務付けられている美咲の、一覧表の現在の未処理件数は五十二件だった。
彼女は画面から目を離した。パソコンのかたわらに置いてあるメモ帳に落書きでもして、ひと休みしようかと思った矢先。パソコンからのメールの着信音が鳴った。メール画面に切り替える。
【政府は俺の声を合成して無理やり10万円取ろうとしている。これはひどい冤罪だ】
──こういうの、いちばんこまっちゃうのよねえ。ぜんぶ否定。
美咲は、溜め息をついて一覧表の画面に戻った。送られてきたメール主の行の右側には、監視動画アリ、目撃情報アリとなっている。彼女は、右端のリクエストボタンをマウスでクリックした。
すぐにファイルが二つ、送られてきた。美咲は、ファイルの中身を確認したあと、返信メールを書きはじめる。
【添付させていただきましたファイルを、どうか御覧になっていただき、当日に発声したことを是非思い出していただきたく、再度メールをさせていただきました。御返信の程、よろしくお願い致します】
悪文ではあるが、これはこれで役人の書いた文章っぽくなっていた。美咲は、ファイルを添付して送信した。
──さあて、休憩しようかな。ちょうど三時過ぎだし。
美咲は、デスクの引き出しからビニール袋に入ったミニどら焼きを二個取り出した。そして、十メートルほど離れた所に設けられたドリンクサーバーに行き、紙コップに入れた緑茶を持ち帰った。
彼女はミニどら焼きをほおばりながら、お茶を飲み、自分のメモ帳に落書きをはじめた。書いているのは、ゼロシキのイラストに描かれていた、小さな女の子の姿だ。
┄┄書き終えると、美咲は微笑みを浮かべた。出来栄えに満足したのだった。
頭を上げて、再び被疑者リストの一覧表を見ると、未処理件数が一件減って五十一件になっていた。
彼女の顔に、さっと明るい輝きが入った。
画面をスクロールすると、終わりの方にある行の左端に(期限徒過)の文字が浮かんでいた。
──苦労したんだ、この人。三回送っても、たしか返事がなかった。
音声管理局の支局での調査期間は、一週間と決められていた。その間に返信メールが無かったり、信憑性の高い証拠が有るのに偽りの弁明を続ける者がいた場合は、強制的に過料の手続きに移行することになっていた。調査期間と名付けられてはいるものの、実質は被疑者の釈明期間のようなものだったのである。
橋本美咲は、今日の夕食をどうするか、レストランに行くか自宅で作るか、何を食べるか考えながら、パソコンの画面を見つめて、メールが送られてくるのを待った。
♪♪♪♪
片柳萌奈は、私服のクリームイエローのハーフコートをはおり、独りでコンサートホールのロビーにたたずんでいた。
彼女を除く他のグループのメンバーたちは、このホールからマイクロバスに乗り自宅への帰路に着いていた。
一月二日から九日間ぶち抜きで行われたコンサートが、先ほど終わったばかりである。本日の千秋楽は、遠い場所から連泊して観に来ている熱心なお客が自宅に帰ることを考慮して、昼過ぎからスタートしていた。そういうわけで、今はまだ夕暮れ時だった。
あらかじめ告知されていたように、歌は録音された声で、曲の間のトークはいっさい無し、パフォーマンスはダンスだけの内容だった。それでも萌奈は、踊りきった疲れとともに、コンサートの余韻を感じていた。久しぶりにコンサートの熱気を味わった七日間だった。
客席はコールこそ無いものの、乱舞する色とりどりのペンライトの光、統率の取れた手拍子やジャンプ、メンバーが踊る振り付けを真似する行為などで、異様な盛り上がりをみせた。
お客さんたちのその反応は、コロナ禍の前に萌奈が感じていたものと同じであった。久しぶりにも係わらず、ありがたいことだった。お客さんの笑顔が見えるたび、彼女の胸は熱くなった。とりわけ、一曲が終わるたびに必ず起こる拍手の波は、歓声が無いぶん、より強く際立っていたように萌奈には思えた。コンサートは大成功で幕を閉じたのであった。
ただ、演じるメンバーたちは、全員マスクを着用していたけれども。
コンサートも、動きの激しい内容のものについては、スポーツと同じようにマスクの着用義務の対象となっていたのだった。
──顔が半分隠れとるのに、わたしたちのパフォーマンスに満足して帰ってくれた。顔がウリのアイドルのコンサートなのに。萌奈は、お客さんたちに深く感謝した。
事務所の発案で、このコンサートの余興としてコンテストが催されていた。
それは《マスク美人は誰だ? 一回限りの新春特別投票!》と名付けられていた。
初日から八日間、会場を訪れてくれた客に投票権が与えられ、自身の推しとは関係なく、いいと思ったメンバーに票を入れる。ランク付けが大好物の事務所が、いかにも考えつきそうな企画であった。
その投票結果が、コンサートの最終日の今日、ホールの壁に貼り出されていた。
順位が上のメンバーは大きな写真で、下にいくほど小さくなる。写っているメンバーは、当然のことながらマスクをした顔である。
萌奈は、居並ぶメンバーを押しのけ、三位にランクされていた。一位と二位は、いわゆるグループの二トップのメンバーで、どんな投票でも必ず上位にランクインするメンバーであった。
日頃からマスク顔を鏡で見て、切れ長のまなじりが色っぽく感じられ、なかなかよかばいと思っていた萌奈でも、この結果は意外だった。
──ばってん、わたしは歌いたか。歌えたら人気なんかいらん。
まったく声を出さなくなってから、もう十日になる。萌奈は、喉のコンディションが心配だった。毎日歌わないと上達しないとも聞く。喉に良いとされるストレッチは、体がコンサートで疲れていても、自分の部屋で毎日半分眠りながら続けてはいるが、それだけでは不安だった。
萌奈は、踵を返した。帰宅する前に、寄り道をして《カラフルシング》へ顔を出そうと思っていたのである。コンサートに集中していたので、年が明けてから一度も店には行っていない。どうなっているか心配だった。女社長にも会いたかった。
ホールを出ると、南からの風に乗って潮の匂いがした。彼女は、例によって歩きはじめた。歩くのが好きなのだ。
目的地の《カラフルシング》までは、歩いて二十分ほどの道のりである。
国際会議場を右にして歩き、川の水が海と混じり合う埠頭の方へ回り道をして、波止場の横に設けられた舗道に行く。彼女は、そこで陽の落ちかけた海をしばらく眺めた。おだやかな水面の動きとともに、潮の香と波の音。水面は、闇を抱える前の複雑な色合いをしながら、うごめいていた。
舗道の道路側に枝だけになった植樹が立ち並ぶ、ゆるい坂を上りきり、さらに右に折れて橋を渡ると、左に市民会館と美術館が見えてきて、右には巨大な競艇場と、この道はランドマークだらけなのに気づく。道がやがて駅前の通りに合流すると、目指す《カラフルシング》がある雑居ビルまでは、もうすぐだった。
程なくしてビルに着くと、エレベーターの脇にある階数ごとの看板には『お休み処』の紙が《カラフルシング》の上に貼られてあった。
萌奈は、エレベーターから降りて店に入った。店内は先月までの騒々しさはなく、静けさに満ちていた。
女社長が受付カウンターに座っていて、萌奈の姿を見て取ると、にっこりして迎えてくれた。
二人は、筆談をはじめた。
『疲れてるのに、ようすを見に来てくれたの?』
『どのくらい入ってるんですか』
『今は半分くらい。休日だからしかたないわね。平日は満杯になることもあるのよ』
『よかった。心配してたんです』
シャラップ宣言下で、この店でやっているのは、ごく短時間の部屋貸しのようなものだった。カラオケ機材しかない部屋の中で、照明を暗くして寝てもいいし、パソコンを持ち込んで仕事をしてもいい。もの思いに耽ることもできる。買い物の間の休息所や待ち合わせ場所としても使えた。女社長は、このサービスをソフトドリンク付きで一時間ごとに三百円という低料金で提供していた。
『どんなお客さんが多いんですか。なんか興味ある』
『圧倒的にタバコを吸う人ね。ほら、いまは街なかで吸えないし。ここはインターネットカフェより安いから』
萌奈は納得して二、三度首を縦に振った。
『でもワリに合わないじゃないんですか』
『そんなことないわよ。たしかに、お金は少ししか入ってこないけど、お店閉めるよりはね。どのみち、お店のそうじはしなきゃいけないんだし。常連さんに、休んでるんだ、タダ金もらってるんだと思われるのも、なんかしゃくじゃない』
突然、店の扉が開いて、ジャンパーにジーンズ姿の中年の男が入ってきた。目がうつろで、足元がおぼつかなく、体がゆらゆらしている。酒の臭いが、ただよいはじめた。
女社長は、とっさにカウンターに置いてあったポスター大の紙を取って、男に見せつけた。
『泥酔しているお客様は、お断りしております!』
毛筆で、でかでかと書かれたその文字には、異様な迫力があった。
女社長は紙を置くと、無言のまま男に触れて店の外に押し出してしまった。
そして、扉の内側から鍵を掛け、耳を押し当てて外の様子をうかがう。
「バカにしとっとか!」
店の外から大きな声がした。
ドン、とひとつ扉が叩かれ、ガチャガチャとノブをいじる音がした後、静かになる。
女社長は、カウンターに戻り、裏の隠し棚からスマホを取り出した。しばらくスマホの画面の上で指が動き、最後にポンと人差し指が跳ねた。
続いてメモ帳に字を書いて、萌奈に見せる。
『10万円、ゲットしちゃったかも~』
『いいんですか? お客さん帰しちゃって』
『いいのよ。寝込まれてもこまるし。あげくのはてにゲロリンされたら、たいへんなことになるでしょ』
二人は、声が出ないように手で口を押さえて、笑った。
『明日も来てくれる? 出ずっぱりだと、やっぱりつかれるの』
『了解しました』
片柳萌奈は女店長に深々と礼をした。赤字覚悟で今月も雇ってくれる女社長の気持ちが、ありがたかった。
扉の内鍵を開けて、おそるおそる狭いエレベーターホールに出る。人影は無かった。彼女は、その後も一応周りに注意しながらビルを出て、暗くなった夜の街を歩いていった。
♪♪♪♪♪
邸宅と呼ぶにふさわしい家が立ち並ぶ、閑静な住宅地。
漆黒の闇を背景に、パウダースノーが、ちらちらと舞い降りている。
周りの住宅と比べても、ひときわ高級感のある外観。まるでモダンな美術館のような。それは、やわらかなタッチで人気のある著名なイラストレーターであり、テーマパークの設計もする建築家が、初めて個人住宅を手掛けた野心作だった。
その一階の一室に設けられた広々とした視聴覚室。そこにある革張りのソファーに寝転んで、口を曲げて不機嫌そうな顔をしている白髪の老人がいた。フリース生地の濃紺の作務衣を身に付け、低いテーブルにぽつんと置いてあるスマホを、にらんでいる。
画面には、『過料決定』の文字が浮かんでいた。通常、過料決定の通知は文書で送られるが、シャラップ宣言下に限ってはメールで送られることになっていた。件数が非常に多くなることが予想されたので、発送する人手を省くのと通知のスピードを重視したためだった。
通知書には、当事者として『近松豊治』の名前が記載され、主文には『当事者を過料金百万円に処する』とある。理由として『スマートフォン不携帯にもかかわらず声を発したため』とあり、併せて場所と日時が記載されていた。通知書には、その他にも当事者の住所や、決定の根拠となった法令が書かれていた。
スマホの電源を切ったり、声が届かない場所に置いたまま喋ったことが判明した場合、過料百万円という普通のケースよりも厳しい措置がとられることになっていたのである。
近松豊治は、横になったまま手を伸ばし、スマホを操作した。同じような内容の過料決定通知書が、もう一通届いていた。
──こんなので、二百万円かよ、おい。
老人は寝返りをうって、天井を見つめた。大きなシャンデリアが目に入った。
こんなに早く通知が来るとはな、豊治は思う。確認メールを全部無視したからか。
地下街で女と会話したのは、むろんワザとしたことだった。豊治としては、発声を規制するという前代未聞の行動に出た政府に対する軽い挑戦のつもりでやったことだった。ちょっとしたいたずら、もしくは実験という気持ちだった。
監視カメラと密告のメールだけでは、どこの誰だか分かるはずがない。豊治はそう思っていた。この制度の穴を突いたはずだったのだが。
──ひょっとして、俺が有名人だからか。
近松豊治は《北国のラブホテル王》という異名を持つ実業家であった。
ラブホテルのチェーンを展開しており、北国のあらゆる場所に四十軒を超える店舗を有している。ホテルは、部屋ごとに様々な外国の都市をテーマにした豪華な内装がほどこされ、各国の現地から取り寄せた調度品が室内を盛り立てる。その国の音楽をBGMで流し、部屋の香りや温度や湿度にまでこだわって、きめ細かな部屋の雰囲気が創り出されている。まるでその国に行ったような気分になれるとユーザーには人気だった。
豊治は、マスコミにも何度か取材されているので、世間的には顔が割れているのは確かなことだった。ネットに顔写真が流出していることも確認している。
それにしても。住所までは、知られていないはずだった。
豊治は、にが笑いしながら思う。そうだった。この件の相手は政府だったな。政府なら俺の顔と住所を結びつけるぐらい朝めし前だべ。待てよ。他のやつらは、どうなんだ。俺みたいに簡単でないはずだ。見つけられないんでないか。すると有名税みたいなもんか。なんか損した気分だな。まあ、過料の金額から考えて、俺みたいな事をしでかすやつが、たくさんいるとは思えないが┄┄。
──そうか。警察も動いているのか。
公表はされていないが、おそらくそうなのだろう、彼はそう推察した。
豊治は、また寝返りをうって横向きになった。
真正面には視聴覚室と呼ぶにふさわしく、年代物のオーディオセットや懐かしい大型のスピーカー、百インチを超えるモニター、レコードやCDが大量に整然と並んでいる。カラオケセットもあった。
レコードは、ほとんど演歌ではあるが、貴重なコレクションと云える感じで、半世紀以上も前の物も散見された。
──俺の楽しみを、奪いやがって。
豊治は、演歌を聴くのが趣味であった。仕事を終えた後、毎晩酒を飲みながら、この部屋で演歌を聴くのが習慣になっていた。気が向くと自らマイクを持ち、歌うこともあった。音程は、かろうじて合ってはいるものの、がなるだけの何の変哲もない歌声ではあったが。
だからこそ、幾多の演歌歌手の凄さが実感できて、興がいっそう深まるのであった。
その何よりの楽しみが、今月はいっさいできていない。
シャラップ宣言下では、歌うことはもちろん、声楽曲を流すことも基本的には禁止だからである。本来、独りしかいない部屋の中で演歌を流すことは感染と何の関係もないはずだが、音声管理局のサーバーを圧迫するからという理由で、それもできないのであった。
──なんだ、この茶番は。ヘッドホンで、ちまちま聴けってか。
耳元で聴くために、この手の込んだ視聴覚室をあつらえた訳ではない。たっぷりの臨場感とともに名曲を味わいたかったのである。
コロナ禍を収束させるために必要なことであることは、彼も分かっている。シャラップ宣言が、今までの宣言と違って一番効果的なのも、頭では理解していた。しかし豊治にとって、この状況は、やはり耐えがたいことであった。
シャラップ宣言へのささやかな抵抗として、豊治はラブホテルの各部屋に、ウレタンスポンジを詰め込んだプラスチックの箱を配備しようと考えていた。《聞かざる君》と名づけたその箱に、利用客たちのスマホを入れてもらい、男女の秘め事の会話を思う存分楽しんでもらおうという趣向である。室内には密告者が隠れひそんでいることは有り得ないし、彼らをのぞき見る監視カメラも無い。
おおっぴらに宣伝はできないものの、SNSか何かで評判になれば、少ない設備投資で、かなりの売上の増加が見込まれた。
ひょっとしたら音声管理局か警察の手入れがあるかもしれないが、いったい何の罪に問われることになるのだろう、豊治は思った。そうこうしているうちに、一月は終わるはずだった。
彼は、今月下旬に本社で行われる予定の定例会議とその後の慰労パーティーのことを思い浮かべた。各ラブホテルの店長を集めて、売上の状況報告を会議で聞き、慰労というか豊治が店長たちを恫喝し続ける宴会のことを。
先月までは自粛要請に応えて開催していなかったが、今月は絶対にやると既に決めていた。《聞かざる君》を置いた後の各店舗の反響も確認したいし、部下たちを叱咤激励するのも楽しみであった。
──これだけは、外せないな。
もちろん会議もパーティーも黙ってやるなんて、考えてないぞ。くっちゃべってやる。豊治は寝返って、また天井を見つめた。久々に行われる当日の光景を想像しながら。