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みんな杜子春  作者: 青山獣炭
4/8

極月

承然和尚は、僧衣を身につけ、自身の寺の本堂の一室でお経を暗誦していた。

 質素な印象を与える祭壇の中央には、あちこち金箔のはげた大日如来の仏像が安置されている。

 三十人ぐらいは入れるが、それほど広いとはいえないその部屋に、老人は今、独りでいた。


 がらんとしたその室内に、低く単調なお経の声だけが響いている。

 黄土色の長い線香の煙が、祭壇の中央にある大日如来の仏像に絡みながら、立ちのぼっている。


 彼は、いつもの調子が出ないのを感じていた。というのも、木魚のばちは床に置かれたままになっていて、おりんの音が鳴ることもなかったからである。


 今まで何度唱えたか知れないこのお経ではあるが、やはりお経の声だけだとリズムが取りづらいのであった。

 承然和尚は、シャラップ宣言に備えて、お経だけを録音しているのである。


 僧侶とて、来年から声を出すのは禁止であった。しかしながら、お経のない葬儀は考えられない。困ってしまった仏教系の各宗教団体の幹部たちは、こぞって総務省と掛け合い、録音したものを流すことだけは許可させたのだった。


 もちろん、録音された声もスマホはひろってしまうわけだが、後日音声管理局から指摘された際に、使った音声データを提出すれば良しとされた。音声管理局では、それを使って声紋の照合を行う予定なのである。


「はんにゃらみったしんぎょうおーーー、おーおおおー、おーおおおー」

 承然は、お経を唱え終わった。


 目の前の祭壇に置いてあったカセットテープレコーダーを止める。大型でゴツゴツとした感じの前世紀の遺物。承然が自らの住まいである僧房の居間で、ほこりをかぶっていた私物を持ち出してきたものだ。


 ──これでは、あかん。まっぺん、やるか。それにしても、どえりゃあ冷えてきた。


 今は昼下がりであるが、室内に射し入る光もなくうす暗かった。

 大日如来の金色のお姿だけが、ぼんやりと祭壇から浮かび上がっていた。


 承然は、今年もいよいよ石油ストーブを出そうと思い、立ち上がった。左膝に少し痛みがはしる。ここ数年、患っている持病だった。


 祭壇のある部屋の裏には、もうひとつ部屋があって、そこが本堂の納戸になっている。

 今日は膝の調子がとくに悪く、老人は少し足を引きずりながら移動した。


 納戸までの廊下を、壁を伝いながら歩いてゆく。


 この本堂にエアコンの設備はない。少しぐらいの寒さを我慢するのも修行のひとつと承然は考えているが、入れない主な理由は、やはり金銭的なことが大きかった。

 

 老人には細々とした年金の収入があるものの、その大半は妻の入院費で消えてしまっていた。もちろん檀家からのお布施の収入もあることはあるが、それでも足りないほどの高額な入院費を毎月支払わなければならなかったのである。


 納戸のドアを開けると、卒塔婆用の白木、焼香台やゴザ、大型の扇風機、予備の花瓶や燭台などが雑然と置かれていて、肝心の銀色をした石油ストーブは、奥の方に鈍く光っているのが確認できた。


 今、膝が痛みだした老人にとって、そのストーブを運び出すのは骨が折れそうな作業であった。承然は、ためらって立ちすくんだ。


「来たわ」

 男の声が、本堂の出入口の方からした。承然にとっては聞きなれた声。息子の水谷和彦だった。


「おお、来てくれたか」

 承然は返事をして、出入口の方まで足を引きずりながらて歩いていった。少し息が切れた。


 和彦は、お賽銭箱の脇に腰かけていた。彼は落ち着いたブルーのダウンジャケットのポケットに不織布マスクを入れていて、白くて細い紐の部分がはみ出ているのが見えた。


 承然は、大きな息をつきながら彼の隣りに腰かける。二人の間でダマットレがはじまる気配はない。新型コロナの感染者を出したことがない地域に住むこの親子にとって、シャラップ宣言は、いまだ遠い世界の出来事なのであった。声を出さない日々が来月から始まるとういうことに現実感はない。違和感しかなかった。


「スマホの設定が、わからないとはねえ。困ったおじいちゃんだ」

「すまん。せっかくの休みに」

「じゃ、さっそくやりますか。ひとりで歩けそうかな」

「しばらく待ってくれ。痛みが治まる思うで」


 二人は黙って、目の前の風景を眺めた。この寺は山の中腹にあり、分厚い雲におおわれた暗い空、その色を映し出しているかのような黒みがかった海、こじんまりとした漁港に、それを中心にして扇形にひろがる町並みが見えた。町の左端付近には大きな商業施設が、ぽつんと建っていた。


「もう、だあじょうぶだ。歩けそうだ」

 二人は立って、本堂の隣にある承然が住んでいる僧房に歩いていった。


 平屋の木造の古びた家の玄関を開けて、居間に入る。こたつの上に、黄色いスマホと充電器が二つずつ、それに取扱説明書が二部置かれていた。


 これらは数日前、書留で承然のもとに届いた。スマホの機能は、声を感知するものと『音声管理局』と名付けられたアプリがひとつだけ入ったシンプルなものだったが、各携帯電話会社のサービスで、というよりは宣伝的な意味合いで、ネットやメールの利用も一ギガまでは通常の速度で使用可能になっていた。ただし、通話はできない。シャラップ宣言下では必要ないからである。


「こんなの簡単なのに」

「そうか。その説明書が日本語で書かれとるような気がせなんだ」

「お経より、よっぽど分かりやすい思うがねえ」


 和彦は説明書を見ながら、軽やかにスマホをいじり、数分で二台の設定を終えた。


「俺の携帯の電話番号とメールを入れとくがね。あとおふくろのメールアドレスも」

「おお、頼む」


 和彦は、また踊るような指さばきで二つのスマホに入力をし、一つを承然に渡した。


「こっちは病院のおふくろに、このあと持ってくわ」

 そう言って、和彦は三点セットをショルダーバッグにしまった。


「これで俺もおやじも、おふくろとメールのやり取りができるようになる。まあ、来年の一月までだけど」

「ありがたあことだな」


 承然の妻──水谷頼子は、十年以上も前にクモ膜下出血で倒れ、半身不随となった。自宅で介護ができないほどの重い後遺症のため、もう長きにわたって介護病院のベッドの上にいた。彼女とは新型コロナが蔓延して以降、入院患者との面会が禁止になったため一度も会っていない。


 頼子の声は、担当の看護師から一週間に一度くらい、電話が掛かってくるので聞くことができた。看護師が、自身のスマホを使って頼子の口もとにかざし、話しをさせてくれているようだった。


 看護師の厚意で成り立っていたその通話も、来月にはできなくなる。電話が使えなくなることは、ゼロシキに書かれている中でも際立った事項のひとつだった。


「じゃ、俺、もう行くわ」

「ちょっと待ってくれ。ひとつ手伝ってもりゃあてえんだが」


 承然は息子に、納戸の奥の方にしまわれた石油ストーブのことを話した。

 二人は僧房を出て、もう一度本堂の方に歩いていった。





レッスンスタジオの中は、活気に満ちていた。

 アイドルポップスの曲とともに、人が激しく移動する音。様々な香水と汗の入り混じった匂いが、室内にただよう。女の振付師の叩く手拍子が、正確に十六ビートを刻んでいる。


 今日は、アイドルグループの正月公演に向けた練習の一日目。四十人くらいの娘たちが、三チームに別れ、ダンスの練習をしているのだった。室内にいる者は全員マスクを着用している。


 今は、片柳萌奈が所属するチーム青紫の十三人が、フロアの真ん中に出て踊っていた。他の二チームのメンバーは、チーム青紫のダンスを真剣に見つめたり、何人かが寄り集まって振付の細かい確認をしたりしている。


 青紫が踊っているこの曲のダンスは、複雑なフォーメーション移動で構成されていて、グループのオリジナル曲の中でも難度の高いものとされていた。センターが頻繁に入れ替わる曲であったが、その曲でさえ萌奈は、その位置に立つことはない。彼女に要求されているのは主に、後ろの方ですばやく端から端まで移動することだった。


 練習の一日目ということもあって、ダンスの完成度はそれほど高くはない。今日やっていることは、各メンバーの頭の中に振りがちゃんと入っているかの確認と、フォーメーションの場位置をしっかりと覚えてもらうことだった。


 当然のことながら彼女たちは、数日前にスマホに送信されてきた振付ビデオのファイルを見て自主練習をし、ある程度のレベルまで仕上げてきてはいるのだが、それでも午前中から始まった練習は、正午を挟んで今の夕方近くまで続いていた。


 曲がエンディングに入り、やがてピアノの余韻とともにダンスが止まった。


「はい。青紫、おつかれさま。今日はもう上がっていいわよ。次は薄桃、スタンバイして」

 振付師の言葉に、娘たちはドタドタと移動した。


 ここでもダマットレは、まだ行われてはいない。そんな余裕はないのだった。久々の公演だからといって、手を抜いたパフォーマンスを観客に見せるわけにはいかない。ヲタクたちは意外と目が肥えているのであった。出来の悪いパフォーマンスの評判はSNSを通して、あっという間にひろがってしまう。


 片柳萌奈は、頭から流れ出る汗をタオルで拭きながら、青紫の他のメンバーといっしょにレッスンスタジオを出た。その拭いているタオルも、かなり湿り気を帯びている。マスクもTシャツもジャージのパンツもびしょびしょだ。萌奈は、他の娘たちといっしょに更衣室へと向かった。


 シャラップ宣言の発出を受けて、事務所はこのアイドルグループのコンサートツアーの再開を、先月発表した。今までは人気のある中心メンバーが、ぽつぽつと地元のテレビ局のバラエティー番組に出演する程度だったので、全員そろっての本格的な活動は久しぶりとなる。


「おつかれさま。相変わらずダンス、かんぺきやったね」

 萌奈の隣を歩いていた城崎つぼみが声をかけてきた。つぼみとは、同期で同じチームという間柄である。たれ目で丸顔の、おっとりとした雰囲気の子で、そこそこ人気がある。


「そげんことなかばい。新曲は、まだまだだし。覚えるのがやっと」

 コンサートツアーに合わせて、新曲の発売も予定されていた。そのレコーディングは先週終わり、完成された楽曲が早くも今日の練習に使われていた。


「さっきスマホ見たらね、けさ発売なのに、全公演完売しとった。すごかねえ」

「ふうん」

 萌奈は、興味なさげに相槌を打った。歌唱を重視している萌奈にとって、今回のコンサートの客入りがどうなろうと、あまり関心がないのであった。


 チーム青紫のメンバーたちは、大声で談笑しながら更衣室へと入ってゆく。


 事務所が活動の再開を決断したのには、理由があった。今まで何となく緩和されていたコンサート会場におけるソーシャルディスタンスのルールが、シャラップ宣言下では公式に撤廃されることになったのだった。今までルールとしては半数程度しか入れられなかった観客を、大手を振ってフルで入場させることが可能になったのである。事務所としては、採算面で二の足を踏んでいたコンサートを、復活させる好機なのであった。


 ただ、コンサートといっても生で声を出すわけにいかないので、当然全曲口パクということになる。あらかじめ録音された歌声を流すわけだが、それもやはりスマホは声と感知してしてしまうので問題は残る。それについては、コンサートの開催を事前に音声管理局に届け出ることによって、歌声の音を流しても良いということで解決済みとなっていた。


 正月公演で披露するセットリストは、ダンスに見せ場がある楽曲で構成されていた。どちらかというと歌声が魅力的な萌奈にとって、今回の公演も華々しい出番はないのであった。


 片柳萌奈と城崎つぼみは、着替えを終えて更衣室から出てきた。


「久しぶりだし、どげん? ごはんとか」

 つぼみは、自分のおなかを撫でながら萌奈に言った。

「ごめん。これからバイトなんだ」

「まだ続けとーと? カラオケボックス」

「うん┄┄」


 二人は、レッスンスタジオから外に出て、別々の道を歩いてゆく。


 萌奈は《カラフルシング》が入っている雑居ビルに向かって歩を進めた。体は、練習でかなり疲れていたが、バイトに行くのにタクシーをひろうのもなんか変なので、彼女は歩くことに決めた。《カラフルシング》までは三十分ほどの道のりであった。萌奈は、マスクを外した。それは、彼女にとって、これから声を出さないという切り替えのスイッチであった。ダマットレの開始である。萌奈は、大きく息を吸い込み、歩く速度を早めた。


 街はクリスマスシーズンということもあって、華やいだ雰囲気だった。暗くなり始めた並木道に冷たい光のイルミネーションが映えていた。路に居並ぶショップの入り口のところどころに、飾り付けられたツリーがあって、風景に静かな彩りを添えていた。


 今日は休日ということで、行きかう人々も多く、マスクをしているしていないは人それぞれだったが、会話をしながら歩いている人を、萌奈が見ることはなかった。みなメモ帳やスマホを、やり取りしながら歩いていた。ゼロシキに載っていたあいさつ程度の簡単な手話をしている人もいた。この都市でダマットレを行う事は、公の場ではマナー化しつつあったのだ。


 萌奈は、雑居ビルに入り《カラフルシング》の扉を開けた。

 受付のカウンターの中に女社長が、ひとり座っている。彼女の表情は明るい。カウンターの上には、メモ帳とボールペンがいくつか置いてあった。


 萌奈もバッグからメモ帳を取り出し、筆談をはじめた。

『すいません。練習が長引いちゃって』

『いいのよ。これから混んでくる時間帯だから、ありがたいわ』

『今日も満室ですか』

『あと2つぐらい。このあと予約もいくつか入ってるから、そろそろ延長をお断りしないと』


 この店の売上は、最近うなぎ上りだった。今月の売上は、シャラップ宣言発出前の二か月分を優に超えていた。

 店の中はマスク着用、マスクを外さないようにお酒と食べ物は提供しない、喫煙は禁止にしているにも関わらずである。


 お客が増えた理由は、来月歌えなくなるということで、今月のうちに思いっきり歌っておこうという、いわゆる駆け込み需要だけではなかった。人々の、心の底に眠っていた歌って曲を楽しむという喜びをシャラップ宣言は刺激したのだった。


『来月も、お店開けるんですか』

『そのつもり』

『だいじょうぶなんですか。歌えないカラオケボックスなんて』


 計算上は、来月分まで今月既に稼いでしまったわけなので、無理して店を開ける必要もないのである。休業すれば、雀の涙ながら支援金も出ることになっている。


『さあね。でもやれるだけやってみないと、くやしいじゃない。コロナに負けるみたいで』

 女社長は萌奈にメモ帳を見せて、にっこり笑った。


 フロアの奥の方にある八番ルームのドアが開いて、客が出てきた。

『いつものように、消毒とおそうじ、お願い』

 萌奈は、うなずいた。受付カウンターのカーテンで仕切られた裏に行き胸当てエプロンを身につける。清掃道具を持って八番ルームに向かおうとしたところで、会計が終わった女社長に肩を叩かれた。


『ルームの中に、来月の宣伝ポスター貼っといたから、しっかり見といてね』

 萌奈は、感心した表情をつくって何度もうなずくと、清掃作業に入っていった。



♪♪



音声管理局。

 それは、シャラップ宣言下による感染対策が、成功するかどうかを決める重要な機関である。


 シャラップ宣言により特別に新設された国の機関であり、支局が設置される場所は、全て各地方公共団体の施設の中にあった。国と地方に垣根が存在するこの国の機関としては、まれで特異であると云えた。その組織形態は、場所を同じくすることによって国と地方の連携を強め、行政全体でシャラップ宣言を実現しようとする意図と決意が現れていた。


 雫森玲香と村越優也は、とある区役所に設置された音声管理局の支局に来ていた。


 戸籍住民課や税務課、地域振興課、医療保険課など様々なセクションに分かれたフロアーの奥の片隅に、机ひとつだけ置かれたこじんまりとした場所がある。その机には、人材会社から派遣された女性――橋本美咲がひとり座り、パソコンの画面を見つめていた。軽くブラウンに染めた長い髪。目鼻立ちがはっきりとしたこの彼女は、ついこの間まで大手電話会社のお客様苦情センターに派遣されていた。


 玲香と村越は女性のかたわらに立っていた。室内にも関わらず、玲香はイエローグリーンのリバーコート、村越は濃紺のチェスターコートを、はおったままだ。というのも、両手がふさがっているからである。


 玲香と村越は、それぞれ筆記用具を両手に持って筆談をしている。二人とも、もうマスクはしていない。お互いに顔を見合わせ、相手の表情を読み取りながらメモを書いていくことで、よりスムーズに考えていることが伝わるようになった気が、二人はしていた。

 ただ玲香は、はっきり見れるようになった村越の形の良い唇に、目がいってしょうがなかったけれども。


『なんとか間に合ったようだね』

『ワクチン接種の時に作った記録システムが土台になったの。それでもこのシステムを作った会社の人たちは、総出になって徹夜続きだったらしいけど。けっこう倒れちゃった人もいたみたい』


『システムの詳しいことは分からないんだけど、出来はどうなんだい』

『完璧とは、ほど遠いわね。あちらこちらでバグとか出てるみたい。今はその修正で、やっぱり徹夜続きらしいわよ。しょうがないわね。時間がなかったんだから』


『そんなので、だいじょうぶなのかな』

『ゆるゆる。言いだしっぺは村越さん』

 村越は頭をかきながら、うなずいた。


『デモ画面、始まりそうよ』

 二人は、パソコンの画面をのぞき込んだ。


 支局の仕事が来月どのくらいの量になるのか、玲香は測りかねていた。違反者として過料に処すべきか否かの最終決定をくだすのが、この支局だからである。支局員の仕事量は、当然のことながら声を発したかどうかの被疑者の数によって上下する。


 パソコンにデモンストレーション用のメールが何通か送られてきた。当局の問い合わせに対しての被疑者からの返信という設定である。


【すいません。たしかにしゃべったと思います】

【話なんかしてねえよ!】 

【あたしは言ってません。隣りにいた母の声がひろわれただけです】

【よくおぼえてませんが、わたしの声なのでそうなのでしょう】

【記憶にございません。何かの間違いなのでは】…………


 音声管理局は、各支局の上層に地方本局を置いている。地方本局には、管轄する地域の音声データ、警備会社等からの抽出データ、密告データが集中することになっている。違反者の認定は、まず地方本局から違反と思われる音声ファイルと共に定型文で被疑者にメールが送られる。被疑者は一日以内に支局に返信しなければならないことになっていた。


 橋本美咲は送られてきたメールを読んで、声を発したと認めている者には、被疑者リストの各行の左端に設けられたタブから、(認定)を選択し完了したことのチェックを入れていった。


 また、他人の声だと主張している者については(要調査)を選択した。被疑者リストは地方本局と共有されている。地方本局はGPSデータを検索して、近くにいた者を割り出し、結果を支局に連絡をすることになっていた。


 そして、チェックの入らなかった被疑者及び返信のなかった被疑者に対しては、支局から再度メールを送り、確認を促すのであった。


 橋本美咲は、その返信用のメールを書き始める。文例集があるとはいえ、一件ごとに細やかな対応が必要なので、気を使うむずかしい作業ではあった。


『過料を課すとなると、一人一人確認をとらなきゃならないんだね』

『どのくらいの手間になるか、予想つかないから人員だけは確保しました。研修も終わってます』

『だいじょうぶだと思うけど。感染者も減少傾向だし』

『ほんと。ダマットレが浸透しただけなのにね』


 全国の一日当たりの感染者数は、十二月に入ってから急激に減りはじめ、ここ二、三日は五千人を割り込んでいた。国民は、この感染対策の威力を実感しつつあった。ダマットレを行う人の数は、感染者数と反比例するように伸びていた。閣僚の中には、あえてシャラップ宣言を施行しなくても収束するのではないかと言い出す大臣さえいた。


 一通りの入力を終えた橋本は、玲香の方を見て指でOKのサインをつくった。


『ありがとう。見学させてもらって』

 玲香は橋本美咲にメモを見せて深々と礼をした。村越もつられて、少し遅ればせながら礼をする。


 それから玲香は、この場所で書いたメモのページを全て破り、村越にも同じようにするように目配せをした。村越も破って、それを彼女に渡した。

 玲香は税務課の机が並んでいる方に歩いていき、そこに置いてあるシュレッダーの口の中へ、手に持っていた紙の束を滑り込ませ、処分した。


 二人は、区役所から外に出た。自動ドアが開いた瞬間、年の瀬の冷たい硬質な空気が二人をつつんだ。


 この街の高台に立てられた区役所から、二人は坂道を下ってゆく。様々な高さのビルが並ぶ雑然とした街の上にある空を眺めながら、玲香は歩いた。うすぐもりの空の中から、力なくぼんやりと輝く太陽が、西の端に近づきつつあった。クリスマスがはじまる日没の時が迫っていた。


 坂を折りたところで、玲香は村越に肩を叩かれた。彼の開かれた手帳が目の前に現れる。

『仕事、終わりなんだろ。これからプロスぺラに行かないか』


「えっ? これから」

 思わず声が出てしまっていた。玲香は、あわてふためいてリバーコートの深い大きなポケットからメモ帳とペンを取り出す。


 村越は、にっこり笑って手帳の新しいページを彼女に見せた。


『来月だったら、過料10万円』

『びっくりさせるからでしょ。プロスぺラは今夜、予約で満席よ。きっと』

『予約なら、してある。2名で。先月に』


 玲香は、胸の鼓動が高鳴るのを感じながら新しいメモを書いた。


『そうなの。じゃあしかたないから行こうかな』

『プレゼントとかは用意してないけど』

『そう。10万円徴収する気がないなら、それでいいわ』


 村越は、バッグからスマホを取り出して画面をいじりはじめた。


『手際、わる。プロスぺラへの最短ルートの駅は、あっちよ』

 玲香は地下鉄の駅に向かって、つかつかと歩き出した。



♪♪♪



 コロナ禍になって、二度目の大晦日がやってきた。そしてこの日は、第四次緊急事態宣言の最終日であり、またダマットレの最終日でもあった。


 徳山拓信は、不織布マスクをして雑踏の中を歩いていた。かなり大きめのリュックサックを背負っている。正月に食べる物の買い出しをしているのであった。それは拓信にとって、大晦日の恒例となっていた。


 年末になると爆発的な安売りをする横丁。密になっていることを恐れることもなく、動き回る人々。だが、店の売り子も買い物客もみな、一様にマスクをつけている。昨年の末頃から既に売り子の声は小さくなっていたが、今年はさらに身振り手振りを加えて、できるだけ声を出さないように努力をしているようであった。


 拓信はウニやイクラ、カズノコ、かまぼこ、お菓子の大袋を買い込んだ後、最後に本タラバガニが背高く縦に大量に並べられている店に行った。そこで、彼は指で数字をつくりながら、いかつい体つきのおじさんと長らく交渉して、値段よりもだいぶ安く本タラバガニを手に入れることに成功した。


 手提げ袋に入れたカニを持ち、ささやかな充実感に満たされながら歩いていると、ドラッグストアの軒先のワゴンに見慣れないマスクが、どさっと置かれているのが目に入った。


『シャラップ宣言下対応! 幼児用マスク! これであなたのお子さんもダンマリ』


 黄色い紙に赤い文字のポップ広告がワゴンの正面横に貼られていた。マスクは一枚ずつビニール袋に入れられている。


 拓信は、マスクを手に取った。幼児用というだけあって、大人用の半分ぐらいの大きさの布マスクである。一枚五百円。とんでもなく高額だ。

 しかし、その値段には理由があった。マスクの内側に、おしゃぶりのような突起物が付いているのだ。


 ──そうか。これを口に含ませて黙らせるのか。これは、いいかもしれない。


 大樹は、家と幼稚園でダマットレを一ヶ月余り続けてきたが、声を出さない生活が明日からできるかというと不安があった。今でも大樹は家にいる時ふいに、声を出してしまうことがあるのだ。


 明日は大樹を連れて、両親が住む実家に行くことになっている。外出時に大樹が声を出してしまわないか、拓信はだんだん心配になってきた。

 彼は、そのマスクを予備のものも含めて三枚買い、家路に着いた。



♪♪♪♪



 承然和尚は、僧房の居間で僧衣に着替えて、寺の中庭に出た。もうあと一時間ほどで今年も終わろうとしている。


 空気は、冷えるほどに澄みわたっていて、承然の気持ちを凛とさせた。


 海に向かった中庭のへりの方には、古びた鐘楼堂があって、彼はそこに向かって歩を進める。


 お堂の屋根の四隅は、幾分せりあがって天に向かって伸び、吊るされた撞木が半分、四方の柱によって区切られた空間からはみ出ていた。これといって特徴のない鐘楼堂ではあるが、ひとつ他のそれと比べて決定的な違いがあった。


 そこには鐘が無かった。


 承然がこの寺を継いだ時、既に鐘楼堂は、もぬけの殻だった。


 鐘は、もう半世紀以上も前からこのお堂からは無くなっていた。太平洋戦争の際に、ときの軍部から供出を強要されて、鐘は溶かされ、ただの鉄となり何処へと行ってしまったのである。


 お堂を戦前の姿に戻すことは、この寺を継いだ承然の使命であり夢でもあったが、思うように資金が集まらず、どうやら果たすことはできずに終わりそうであった。


 承然は、吊るされた撞木のかたわらに立った。


 眼下は、深夜だというのに家々の灯りに満ちて、光の靄となって町なみを照らしている。


 彼は合掌した後、撞木を括り付けた太い紐を手に持ち、何もない空間を突いた。


 重々しい響きが承然の胸の中にひろがって、余韻を保ちながら消える。


 鐘は無くても、除夜の儀式はできる。いやむしろ、この土地に住む人々の煩悩を今年中に取り払うために、除夜は行わなくてはならない。承然は律儀にも、そう考えていた。


 いつの頃からか始めた独りっきりの除夜の儀式ではあったが、今年は特に紐を握りしめる手に力が入った。


 コロナ禍で生み出されてしまった人々の感情──ささやかな幸福が消えてしまったことへの立腹や、ほころんだ人間関係の悲嘆、対策がお粗末過ぎる政府や地方公共団体への失望や、思わぬ幸運で大金を得た人たちへの嫉妬などを除くべく、承然は一回一回念を込めて空間を突き続けた。


 はたから見れば、それは愚かでばかばかしい行為のように見えるかもしれないが、彼は真剣だった。

 額には、いつしかうっすらと汗が滲み、吐く息の白さは濃くなった。突き続けるうちに、持病の膝の痛みが始まってしまったが、それで彼の動きが止まることはなかった。


 胸の中ではあったが、承然は百七回の鐘の音を聞いた後、腕時計を見た。


新型コロナウイルスという見えない、得体の知れないものに振り回され続けた一年が、終わろうとしていた。


 承然は、明日からはじまるシャラップ宣言の成功を祈って合掌し、目を閉じた┄┄。


 来年こそ、来年こそは平穏な日常に戻りますように。胸の奥にくすぶり続ける不安で、顔がくもる日々が終わりますように。かけがえのない人と、気兼ねなく楽しく会話できる日が帰って来ますように。


 承然は、コロナ禍で今を生きている人々の共通の願いを聞いたような気がした。



♪♪♪♪♪



 後に、この国の歴史に深く刻まれることとなる奇跡の二か月間が、やって来ようとしていた。









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