霜降月
この国で最も過ごしやすく快適な季節は、終わりを告げようとしていた。
そうはいっても今年の秋を快適に過ごした者などいなかった。親族の死など不幸に直面した人や、職を失った人、そこまでいかなくとも何らかの我慢を強いられた人ばかりであった。
今、間近に迫った冬を前にして、人々の心はいよいよ絶望に近づいていた。ここのところの冬といえば、感染者が急増した記憶しかなかったからである。
十月の終わりに、この国で発見された新たな変異株の影響からか、十一月に入って新型コロナウイルスの一日当たりの新規感染者数は、二万人を常時超えるようになった。一日当たりの死亡者数も五百人を上回る日が多くなり、人々は感染爆発の予感におびえていた。
雫森玲香は、タクシーの後ろの席に座って、半ば眠っていた。午前三時を少し回った頃である。
ここ一箇月余りというもの、彼女は膨大な事務量をこなすために、労働規定の時間をはるかに超えたサービス残業を続けていた。それでも一日の間に一度は公務員宿舎の自宅に帰り、三十分でもいいから仮眠をとって、服も着替えて、また出勤するという生活をしていた。
そのかいあって、第五次緊急事態宣言を発出するための準備は、ほぼ終わりつつあった。
この宣言は、十月の初め頃に玲香が素案を徹夜で作った後、すぐに策定作業に入っていった。
と同時に、各省庁と野党への根回しも始まったが、そちらは緊急事態宣言策定局の他の局員にまかせた。
玲香は全体の進行の管理をしただけだった。それでも、すぐにこなさなければならない仕事は山のようにあり、玲香を追い詰めていった。
根回しの際に、表立った反対意見は、策定局の予想を裏切り、ほとんど出なかった。ただひとつ、急進的な野党から、声を発するだけで前科がつくのはいかがなものかとして、罰金刑から過料への変更を求めてきただけであった。それだけ、各省庁も野党も新型コロナウイルスの問題について手詰まりになっていたのである。
それは有識者会議もまた同じであった。飛沫感染が主体らしいのは確実視しているものの、その先の新たな展開を促す情報やアイディアを持っていなかったのである。病理学や疫学とはほとんど無縁の、政策だけとも云える今回の宣言の内容について、彼らが助言できることは何もないのであった。
タクシーが、玲香の住んでいる公務員宿舎についた。
建ってから数十年経過した、簡素な三階建ての独身寮である。エレベーターはない。
玲香は、ふらふらしながら何とか居室に続く階段まで歩く。
真っ赤な薄手のトレンチコートが非常灯に照らされて、闇から浮かび上がった。
肉体は限界まで疲れ切っているが、仕事のことが頭から離れることはない。
今はいわゆる新新生活の様式について詰めているところだが、一番の問題になっているのは、生の声が社会から消えることで困る人たちを、どうフォローするのか、あるいはしないのかということであった。耳からの情報を頼りに生活している人や、声を発することによって生計を立てている人たちが、この国には少なからずいるのである。
また、唇のきれいな助教授さんに相談しなきゃ、階段を上がりながら玲香は思う。
村越とは十月に何度も例のスパニッシュバー《プロスペラ》で話し合いを重ねてきた。彼はその度に的確なアドバイスをしてくれた。ここまでこれたのは、村越のおかげといっても過言ではなかった。
──いつの間にか、服装がこぎれいになってたのよね。初めはひどいもんだったけど。ふわあ。眠い。とりあえず寝ないと。今日は何時間寝れるんだっけ。二時間か三時間ってとこか。あっ、お取り寄せしたマンゴープリン、まだ冷蔵庫にあったはず。あれはお風呂あがりに食べてから寝ないと。酸味がほどよい感じなのよね。お風呂、マンゴープリン、ベッド。お風呂、マンゴープリン、ベッド┄┄。
玲香は居室の扉の前に立ち、茶色のショルダーバックから鍵を取り出した。眠気と戦いながらも過ごす、至福のひと時を思い浮かべながら。
♪
拓信は、リビングにある大型テレビを見つめていた。
画面には、首相官邸の中にある記者会見室が映し出されている。ソーシャルディスタンスを意識して、椅子がまばらに置かれ、そこに記者たちが座っている。画面を見る限り、空席はない。
記者会見は、午後六時から行われることになっていた。もう間もなくである。
在宅勤務している拓信にとっては、まだ勤務中であった。なので、ノートパソコンは開いたままである。
今は月の中ということもあって、ディスプレイにスキャンされた書類はほとんどない。拓信の現在の主な仕事は、九月に終わった中間決算の最終チェックだった。月末にはグループ会社全体の中間決算の公表を控えている。先月は決算を組むために、けっこう忙しかったのだが、この時期は比較的余裕があるのであった。
彼がながら仕事をしているわけは、今回発出される緊急事態宣言が今までと全く異なるものになりそうだという、マスコミのリーク報道が、昨日から流れていたからである。お昼のニュースでも、特別措置法が今日にでも改正される見込みであると報じられていた。
今までの生活が大きく変わりそうな予感が、拓信にはあった。
内閣総理大臣が、画面に現れたのは六時を少し回ってからだった。彼は数枚の紙と、黄色いスマートフォンと小さいプラスチックのボトル、それからやや厚目のパンフレットを持っていた。
会見の場に歩を進める。総理は透明な檻のようなパーテーションの中で、マスクを取らないまま話し始めた。
〈まずは、国民の皆様方に第四次緊急事態宣言に対する、並々ならぬ御協力を感謝致します。そして、その御労苦について敬意を表させていただきます〉
大臣は深々と、おじぎをした。
そんなに協力していないけどな、拓信は思う。コロナ禍の始めの頃のように、宣言に対して誠意をもって対処してきたかというと、それは嘘になってしまう。
「ただいまあ」
玄関の方で、扉を開ける音と同時に繁美の声がした。
すぐに繁美と大樹が、リビングに姿を現す。
「ぼく、おててあらってくるね」
大樹は、洗面所の方に歩いて行った。
「どうだった? 緊急宣言」
「緊急事態宣言ね。さっき始まったばかりだよ。まだ前振り」
〈┄┄というわけで、政府としましては、新たな緊急事態宣言を発出することに致しました。第五次緊急事態宣言であります〉
「はいはい、わかってますよ」
繁美が茶化すように言った。
〈今回の宣言は、今まで行ってきた飲食店の方々の営業時間制限の自粛、企業における従業員の方々の出勤削減の要請、国民の皆様方の不要不急の外出自粛、地域をまたいでの移動の自粛などは、一切行わない方針であります。ロックアウトは、しません。この宣言が施行されて以降は、経済活動にできるだけ制限を設けないこととします。政府が重視しているのは経済です。この宣言によって、疲弊しきった経済を立て直したい、急回復させたい。もちろん十割とはいきませんが、九割ぐらいを目標に経済を回したいと思っています〉
拓信と繁美は、驚いて顔を見合わせた。画面の中の記者たちも、意外な内容に戸惑いを隠せないようで、きょろきょろ周りを見渡している。みな政府が罰金刑をともなったロックアウトに踏み切るだろうと予想していたのである。
「ひょっとして、総理大臣、あきらめちゃったの?」
「まあ、待て」
〈ただひとつ、国民の皆様方に守って頂きたいことがあります〉
そこで、総理大臣は言い淀んでいるかのように、いったん目を閉じた。しかし、すぐに目を開けて、語り出す。
〈それは、声を発しないということです。御存知のように、新型コロナウイルスの主な感染源は、飛沫感染です。残念ながら、マスクをしていても細かな飛沫は隙間から漏れ、エアロゾルとなって空中に飛んでいきます。もうこれを防ぐには一人一人の努力で、唾液を飛ばすのをやめるしかない。感染の元を断てば、すぐに収束に向かうだろうと政府は考えたのです〉
「そうきたのか」
「たしかに、みんなが話をしなければ、そうなるだろうけど。わたしは、おしゃべりできなくなるなんて、やだわ」
〈┄┄本日の国会において新型インフルエンザ等対策特別措置法を改正させていただきました。国民の皆様方におかれましては、この声を発しないというルールを、お守り頂けると存じておりますが、もし万が一お守り頂けなかった場合に備えまして、過料を課すことと致しました〉
画面の中の記者席が、うめきや小声で騒然となった。
「かりょうって、なに」
「たしか┄┄前科はつかないけど、お金は払わされるやつじゃなかったけ」
「ふうん。えっ、お金とられるの。やだ」
「罰金みたいなものかあ。まあ、そうなるわな。今までの要請レベルじゃ、こんなの守れっこないし。外出すらろくに我慢してこなかった報いだな。こりゃ」
「今までのことは、とりあえず置いときましょうよ。問題は、そのかりょうってやつで、お金がいくら取られるかよ」
〈┄┄という大きな決断を迫られたわけであります。内閣の間でも充分審議を尽くしまして、最終的に過料の金額については、声を発した時間の長さにより十秒ごとに十万円と致しました〉
「たっ、たっか。冗談だろ」
「えっ、一分話したら六十万円ってこと? あなたの給料より全然高いじゃない」
「重すぎるだろ。待てよ。俺たちが話しているのをどうやって見つける気なんだ」
〈┄┄予算を組んで環境を整えさせて頂くことに致しました。第一に、皆様方がお持ちになっているスマートフォン及びお持ちになっていない方へお配りするこの黄色のスマートフォンに、あるアプリを┄┄〉
総理大臣が発表する違反者を把握するための三つの方法を、拓信と繁美はテレビに釘付けになって見続けた。洗面所から戻ってきた大樹が、二人の間に座ったことも気づかないまま。
三つの方法を話し終えた総理大臣は、かたわらに置いてある水差しに手を伸ばした。
「たいへん。あなた、どうなるの。これから」
「政府、本気なんだな。これ。でも、俺は無理そうだ。政府から他人から四六時中監視されている生活なんて」
「パパ、ママ、どうしたの?」
水を飲み終えた総理大臣は、手元にあったやや厚目のパンフレットを持って、表紙がテレビの画面に映るように掲げた。
表紙には《感染者ゼロを目指す新たな生活様式》と書かれ、老若男女、さまざまな人々が密になってバンザイをしているイラストが描かれていた。みんな笑っていた。稚拙な感じを与えるがやわらかくて太い線、暖かみのあるその色合い┄┄。
拓信は、その絵を見て懐かしいと思った。ずいぶんと昔に、絵のような光景の中に自分がいたような気がした。
〈このパンフレットには、第五次宣言下における生活様式が、こと細やかに書かれています。また、声を発してもよいケースも書かれています。どうか国民の皆様方におかれましては、このパンフレットに書かれている内容を御理解いただき、新たな生活様式を守っていただきますようお願い申し上げます〉
総理大臣は、パンフレットを置き、小さいボトルを手に取って掲げた。
〈これは携帯用のアルコールボトルです。国民の皆様方、全員に先ほどのパンフレットと共に配布致します。どんな時にアルコールを使うかは、パンフレットを御参照ください。それから、パンフレットの内容を十五分ほどにまとめた動画を制作致しましたので、こちらもどうぞご覧ください。テレビ各局、ネット配信、街なかにある広告用の大型ビジョンでも放送していきます。テレビではこの会見の後すぐに──〉
「なんだか、めんどう。あなた、勉強してね」
「なに言ってんだ。ひとこと十万円だぞ。真剣になれ」
「ねえ、どうしたの。どうしたんだよ」
〈┄┄ビジョンでは近日中に放送を開始する予定です。なお、この第五次緊急事態宣言は来年の一月一日に施行することと致しました。期間は一箇月とします。今の第四次は年末まで施行し続けることとし、四次とはバトンタッチする形で五次が施行されることとなります。なぜ、発出から施行までこれだけの期間を置いたか。それは国民の皆様方に施行に向けての準備をしていただきたいのです。いわばトレーニング期間と申しますか、今年中に声を発しない練習をして、その生活に慣れてから来年を迎えていただきたいのです〉
総理大臣は、そこで話をいったん切り、記者会見室全体を眺め回した。記者たちの反応を、うかががっているように見えた。
〈最後に。この宣言は国が出す最後のものとして考えてください。もし、この宣言によっても感染が収束しなかった場合、政府としては、この新型コロナウイルスを指定伝染病から外す覚悟です。どうか国民の皆様方も、このウイルスを撲滅するんだという決意をもって、宣言の内容に臨んでいただきたい。私からは以上です。ありがとうございました〉
〈続きまして、記者の皆様からの御質問をいただきます。あまり時間もございませんので幹事社である──〉
「終わりの方のあれ、どういう意味なの」
「んー、よく分からないけど指定から外して、ただの風邪ってことにするんじゃないかな」
「そうすると、どうなるの」
「そうだな。政府はコロナ予防のことをほとんど考えなくてもよくなるし、かかった人の治療費も負担しなくていいし、休業してる飲食店へお金を渡すこともなくなる┄┄他の政策に集中できるようになる。つまりは放り投げだね」
「ずるいわねえ」
「いや、それだけお前ら真剣にやれってことだよ。やらないと見捨てるぞっていう一種の脅しだよ」
「こわーい」
そう言って、大樹は拓信に抱きついてきた。今の家族がおかれた状況を分かっているはずもないが、夫婦の雰囲気がそうさせたのだった。
「とりあえず、大樹をどうするか、だな。仮に俺たちは黙っていることができたとしても、こいつはいくら言い聞かせてもしゃべるだろ」
「ぼく、しゃべらないでいるよ」
「できるかなあー」
そう言いながら、繁美は大樹に近づき頭を撫でて、くしゃくしゃにした。
テレビの画面が切り替わり、妙に明るい音楽が流れ始めた。先ほど総理が言った動画の番組が始まるのであった。
徳山家族は、その番組を食い入るように見つめた。
♪♪
首都からは遠く離れた西に位置する地方都市。その都市でも有数の繁華街。
大規模なデパートや地下にいくつものショッピング通りを抱えたこの街は、複数の鉄道やバスが駅に乗り入れ、常に活気に満ちている。
第五次緊急事態宣言の発出から、一夜明けたこの街なかの風景は、見た目はいつもと変わらなかった。
駅は職場へと向かう降車した人々で混雑し、駅の付近では、朝食を済ましてこなかった人を当て込んで、カフェや牛丼チェーン、立ち食いそば屋などが、店を開いていた。
その中のひとつ、本来なら二十四時間営業のはずだが、短縮営業の要請を受けて、今は午前六時から営業しているラーメン屋があった。
厨房からは白い湯気が立ちのぼり、二人の料理人がせわしく動いている。
客層は、年齢高めの男性サラリーマンがほとんどだ。黙々と麺をすすり、スープを飲む。会話をするものなどいない。
そんな客たちに混じって、ひとり豚骨ラーメンをすすっている若い女がいた。ボブヘアが、よく似合う卵形の顔。切れ長の目。だぼだぼの薄茶色をした厚手のワンピースの袖をまくり、一心不乱にラーメンと戦っている。
──朝でも、うまかもんはうまかね。んー、たまらんちゃ。スープ最高。
彼女の名前は、片柳萌菜。この街に移り住んで四年目になる。
萌菜は、麺を食べ終えると、わざと最後に残しておいたチャーシューを口に入れた。薄い肉は、すぐに彼女の舌から無くなったが、それで彼女は満足した。
膝に置いてあった、お気に入りの焦茶色のベレー帽を被り、不織布マスクをして外に出る。
萌菜は人混みの中を歩く。黒いロングブーツで舗道を叩くようにして。五分ほど歩き、とある雑居ビルに入ってゆく。
エレベーターに乗って五階で降りると、そこは彼女の現在の職場だった。
《カラフルシング》と書かれたポップな看板が掲げられている。部屋が十室ほどのカラオケボックスの店。
萌菜は鍵を開けて店内に入り、胸当てエプロンをして店全体の掃除をはじめた。といっても、昨日閉店してからアルコールを使っての入念な掃除は済ませてあるので、チェックを兼ねてふきんで軽く拭く程度ではあったが。
店は十時から開けることになっている。一連の宣言下の前は正午に開けていたが、閉店時間が午後八時に制限されてからは、二時間繰り上げて営業しているのであった。
部屋の掃除が半分ほど終わったところで受付カウンターを拭いていると、店内に中年の女性が入ってきた。
「あっ、社長、おはようございます。┄┄どうしたと。まだ開店まで、時間があるとに」
「心配で眠れんかったとよ。ここに来てじっくり考えたかったんよね」
「なんかあったと」
「あんたテレビ見とらんの」
萌菜は昨夜、部屋に戻るとすぐにベッドに入り、スマホを見ながら寝落ちしたのだった。ダイエットのために電車に乗らず歩いて帰ったため、ひどく疲れていたのである。
店長から宣言のことを大まかに説明された萌菜は、狼狽した。
「声出し禁止って、この店はどうなるとね」
「そればこれから考えるけん。あんたは、おそうじ続けて」
「は、はい」
萌菜は、残りの部屋の掃除に取り掛かった。テーブルや機材を拭きながら、彼女もこれからのことを考えていた。年末まではこのバイトは続けられるとして、一月からは職なしかあ。生活はどうすると。切り詰めにゃいかんとね。┄┄不安でしょうがなかった。
片柳萌菜の本業はアイドルである。
この都市に本拠地を置く多人数のグループに所属して、四年目だ。といっても、そのうちの半分はコロナ禍で休業しているようなものだったが。
高校を卒業してからの遅い参加にも関わらず、彼女は歌もダンスも懸命に練習して、他のメンバーの実力をしのぐようになっていた。とりわけ歌は、艶のある歌声と音程の精度で、レッスンの先生からも一目置かれていた。
しかしながら。萌菜の人気は、なかなか上がらなかった。所属しているということ自体、一般の人には知られていなかった。その原因は本人にも分かっていた。そこそこかわいいのでアイドルにはなれたものの、センターに立つだけの華やかさが彼女には欠けていたのである。事務所のスタッフやグループ内で一度評価が定まると、それを変えるのはむずかしい。萌菜は、アイドルをやめてからのことを、もう考えていた。
──歌っていきたい、ずっと。そのためには練習やわ。
このカラオケボックスのバイトでは、客の少ない時間帯に、空いてる部屋をただ同然で貸してもらっていた。ここは萌菜のレッスン場とも云えた。お金のことも心配ではあったが、思いっきり歌える場所が無くなることの方が心配だった。この場所だけではない。この国のどこにいても思いっきり歌える場所など無くなってしまうのだ。
萌菜が、掃除を終えて受付カウンターに戻ると、女社長は両手で頭を抱え込み、肩を震わせて泣いていた。
店を閉めることになるかもしれない、萌菜は思う。バイトながら、この店の経営が限界なのは薄々気づいていた。最後に部屋が満室になったのがいつだったか、萌菜はもう思い出せなかった。
──あたしが客寄せパンダにでも、なれれば良かったと。
表向きはバイト禁止になっているものの、休業同然のアイドル活動下においては、バイトは事実上黙認されていた。熱心なヲタクたちの間では、どこで嗅ぎ付けるのかメンバーたちのバイト先を巡礼するのが、はやっているという。しかし萌菜の勤めるこの店には、それらしき風貌の者がやってきたことはなかった。彼女は、ヲタクたちの好奇の目からさえ外れてしまっているのだった。
開店時間の午前十時が迫ってきていた。
萌菜は女社長の肩にそっと触れて、それを知らせた。
♪♪♪
雫森玲香は、《プロスぺラ》のオープンテラスにいた。冬が近いことを知らせているかのような肌寒い日。
テーブルには、店のメニュー、フォークとナイフ、彼女の分厚いメモ帳とボールペン、文字で埋まっているペーパーが置かれている。
設置されたパーテーションの先には村越が座っていた。彼は、紫のシャツに紺のテーラードジャケットを着ている。
ここ実質、外なんだけど、寒くないのかしら、玲香は思う。ひょっとして寒さに強いタイプ?
彼女はトレンチコートを着たままだった。
村越は、満席になっているフロアをしばらく眺めていたが、やがて口を開いた。
「この店、ランチ始めたんだね。デリバリーも──」
その声に、玲香は両方の人さし指を交差させて✕をつくった。メモ帳にペンを走らせる。彼女は、村越にメモ帳を見せた。
『声出し禁止。言いだしっぺは村越さん』
「ごめん、もうとっくにトレーニング期間に入ってたね。あっ」
玲香は、ムッとしてメモの下半分を隠して、もう一度村越に見せた。
『声出し禁止』
彼は、親指と人差し指で〇をつくった。
玲香は、メモ帳を数枚切って、パーテーションの下から村越に渡した。またペンを走らせる。
『昼間のスタッフが雇えて、ランチメニューも作ることができたの』
村越はメモ用紙を玲香に返して、鞄からシャープペンシルがはさまった手帳を取り出し、走り書きをした。
『なるほど。資金は? よく銀行から借入できたね』
『ちがう。まとまったお金が入ったのよ』
店長のなぎさが、オープンテラスに入って来て、二人のテーブルにやって来た。
「いらっしゃい。中が満席で、ごめんね。寒いでしょ」
玲香は、もみじ柄の布マスクの上から人差し指を立てて、しーっのポーズをした。
「ああ、ダマットレね。それも、ごめんなさい。うちの店は来月からやるわ。お客さんに周知してから始めないと」
最近では、黙るトレーニングのことをダマットレと言うのが、流行りになっていた。
なぎさは注文伝票に走り書きした。
『ご注文は?』
『昼特ランチ、ふたつ』
『かしこまりました』
なぎさが去った後、玲香は手元に置いてあったペーパーをパーテーションの下からくぐらせて、村越に渡した。彼は、それを読みはじめる。
【諸問題の進捗状況について】※口外絶対禁止
◎ パンフレットとミニアルコールボトルを全国民に郵送する作業は、現在6割ぐらい終了しています。今月中には終了する予定です。全国の公的な場所への配布は既に終了し、そこから任意に受け取る人の分も合わせると、全国民の8割近くの方が手にしていると思われます。
◎音声管理局は、全国の地方公共団体レベルで設置できる見込みです。現在急ピッチで導入作業が進んでいます。既存のネットワークを一元化します。設置完了は来月上旬をめどにと考えています。また、音声管理局のスタッフについては、人材派遣会社から採用する予定です。電話が不通になることにより、電話会社に派遣されている方々が失職することが予想されますので、そちらの方から優先的に採用していきます。
◎携帯電話会社はどこも、諸手を挙げて賛成でした。自社製品の宣伝になり、収束した後も継続契約が期待できるからです。どこで発せられた声なのか、特定するために必要なGPSデータの提供も同意していただきました。アプリの開発は終了し、今月中に配信する予定です。持っていない人へのスマホの配布は、来月中旬には終わる予定です。
◎電話会社に対しては既に了承をもらい、現在は支援金額を算定するための資料の提出を求めています。
◎警備業協会・銀行協会等監視カメラを有する業界団体との折衝は、数が多いこともあって難航してますが、基本報酬及び成功報酬を高めに設定することにより、最終的には説得できる予定です。また、個人の協力は持ち主の特定に時間が掛かるので、こちらは断念しました。しかしながら、全国のカメラ台数の9割はカバーできると思います。
◎結論 概ね順調に推移!
読み終えた村越は、また手帳に走り書きをした。
『完ぺきだね。もう僕の出番はなさそうだ』
『まだまだですよ。これからどんな問題が起こるか分からないんだから』
『起こらないと思う』
玲香のもとに、ペーパーが滑って戻ってきた。ちょっと態度が冷たい感じがして、彼女はメモ帳に、急いで言葉を書き込んだ。
『また会いましょ。問題が起こらなくたっていいじゃない。アドバイザーに経過報告を定期的にするのは当然だし。こんどはこの店の夜とかどう。見てみたくないですか。どんな感じなのか』
細かい字でびっしり書かれたメモを見て、村越はびっくりしたような目をし、そのあと何度もうなずいた。
──えっ。これって。勘違いされてもしょうがないやつ?
玲香は、顔が熱くなるのを感じた。書いたメモのページをちぎって、くしゃくしゃにする。
店長のなぎさが昼特ランチを運んできて、テーブルに並べた。
「わあ」
思わず出た声に、玲香はマスクを押さえた。
昼特と銘打っているだけあって、皿には代表的なスパニッシュの料理が小分けで盛られている。子羊のあばら肉、パエリア、生ハム、トルティージャ、ししとうのオリーブオイル煮、焼いた肉厚のマッシュルーム┄┄。
二人はマスクを外し、視線を合わせて黙っておじぎをすると、すぐに皿の上に没頭していった。
挨拶などのかわりに礼をする習慣を身に付けることは、第五次宣言下の新しい生活様式のひとつなのだった。
♪♪♪♪
朝の通勤時間。超満員の地下鉄。
徳山拓信はドア近くの吊革につかまり、人の波に揉まれながらスーツの内ポケットにあるスマホを何とか取り出そうとしていた。
一週間前の出勤日では、スマホを見るくらいのスペースぐらいは余裕で確保できたのに、今朝の混雑ぶりは、コロナ禍の前までとはいえないものの、それに近いものにまで戻っていた。
車内のスピーカーから、女性のやわらかい声でアナウンスが流れてきた。
〈ガッ。シャラップ宣言に基づきましたぁ、新型コロナウイルスの感染予防対策としてぇ、車内の会話は禁止とさせていただきましたぁ。どうぞ、みなさま声を出さずにぃ、到着駅までお過ごしください。ガッ〉
たしか先週までは(マスクを着用していただき、会話はお控えください)じゃなかったかな、徳山は思う。シャラップ宣言で変わったのか。喋らなければ、マスクはしなくてもいいみたいだな。そういえば、マスクしてない人もけっこういるぞ。
シャラップ宣言とは、第五次緊急事態宣言のことを指していた。テレビの朝のワイドショーの中で、コメンテーターのお笑い芸人が、ぽつりと言ったことが急速にひろまり、いまや流行語と云っても、おかしくない浸透ぶりだった。
通勤する者が増えたことには、明らかな理由があった。今月の下旬に入って大企業が、従業員の在宅勤務の大半を取りやめると、次々に発表したからである。シャラップ宣言で示されたトレーニング期間に反応して、大企業は会社内の環境を迅速に整えた。その結果、出社する従業員を何も減らす必要はないだろうという結論に達したのであった。今はその波が、中小企業にまで及んでいる。
経済は、確実に回り始めていた。
徳山は結局、スマホを取り出すことができず、窓の外で過ぎゆく灰色の壁や、まわりの乗客、中吊り広告などを見ただけで、会社近くの駅のホームに降り立った。
二人分ぐらいの幅しかない狭い階段を通って、地上に出る。
徳山の会社は、そこから十分くらいのところにあった。
ビジネス街は往来する人が増え、活況を取り戻しつつあるように、徳山には思えた。
マスクを外して黙々と歩く人が増えた気がする。片手に、ペンを挟んだ手帳やメモ帳を持っている人を見かけるのも、珍しいことではなくなっていた。
徳山は、一階にレストラン街が併設された十三階建てのビルに入ってゆく。そこの八階に彼が勤める警備会社があるのであった。エレベーターに乗る。
彼の会社は、支店と子会社で全国にネットワークを持つ巨大な警備会社グループの親法人であった。先だってシャラップ宣言に基づいた国との契約が成立したばかりだ。業績の予想は上向いていた。警備会社にとっては、新たな設備投資もなく、通常の監視業務に若干の注意力を付加するだけなので、まあおいしい仕事と云えるのであった。
エレベーターの扉が開くと、受付カウンターの下に、でかでかとしたポスターが貼ってあった。
『弊社はゼロシキに書かれた生活様式に対応した、経営を行っております』
ゼロシキというのは《感染者ゼロを目指す新たな生活様式》の略称である。これはSNSから火がつき、急速に浸透したものであった。
ポスターの字の背景には、ゼロシキのパンフレットの表紙に描かれていたのと同じイラスト。さまざまな人が、密になってバンザイをしている。
このイラストは転載可と一般に周知されているので、広報部が時間と予算の都合から使用したのだろうと、徳山は推測した。
いい絵だよな、これ。彼は思う。ぜひともがんばって、描かれている世界を実現しようって気持ちになる。誰が書いたんだろう。有名なイラストレーターかな。なんで作者を公表しないんだろう?
フロアーに入る。ひろびろとしたワンフロアーに整然と机が並んでいた。人の数は、意外にも先週と変わっていなかった。徳山の会社では、従業員の自宅とのリモート体制が、とうに確立されており、在宅勤務は変わらず継続されていたのである。
ひとつ先週と大きく変わっていることがあった。それは、机上の電話が全て取り外されていたことであった。
彼の会社は、内部の組織、外部の取引先を問わず一切の電話連絡を、止めてしまったのである。もちろん来年の一月までという期限付きではあったが。
机の上にある穴からは、相手のいないコードが死んだ生き物のように伸びていた。
徳山が、フロアーの奥の経理課の席に座るまで、会話はまったく聞こえてこなかった。始業前だからではない。ダマットレが既に、はじまっているのであった。
彼が執務をしている経理課は十人で構成されているが、机の並びに行ってみると、出社しているのは、徳山を除いて課長と雑務をこなす若手の新人だけだった。
彼は挨拶は交わさずに、ただ黙って二人に礼をした。二人も黙って礼を返した。三人ともマスクは、したままだ。ゼロシキではマスクは外してもかまわないことになっていたが、まだその新しい生活様式に彼らは慣れていないのであった。
徳山は、机のノートパソコンを開き、始業時間を待たずに仕事を開始した。
在宅期間中に発行された社内報を読み、窓際でこちら側を向いて座っている課長とのチャットの準備をする。
始業時間になったところで、徳山はチャットを使って課長へ、在宅勤務中の報告をした。それが終わると、書類が置かれている倉庫に行き、大きなダンボール箱と数冊のファイルを持ってきた。
ダンボール箱の中には、ひもでしばられた書類の束。子会社の先月のエビデンスが現実のルートでも届いていた。
それを会社ごとに並べ、ひもをほどいてファイルに綴っていく。ときおり、パソコンの送られてきたデータと違っていないか照合する。エビデンスをいじくって、不正をする者がごく稀にいるためだ。
今日は中間決算の公告日とあって、パソコンのメールボックスには、子会社からの質問メールが、ぽつぽつと入った。徳山は、それに返信しながら、書類の整理を続けた。
はあ。コーヒーでも飲むか、徳山は思う。
彼は休息室に行き、自動販売機でミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレの缶コーヒーを買って、その場で飲んだ。もう暖かいものに切り替わっていた。
声が無くても、仕事の内容はたいして変わらないな、徳山は思う。むしろ、いろんな部署から電話が掛かってこないぶん、集中できて能率はアップしてるかも。だけどなあ。もともと無味乾燥な仕事だけど、さらに味気ないよな、これじゃ。
徳山はコーヒーを飲み終えると、缶を専用のダストボックスに入れ、気の乗らない仕事へと戻っていった。




