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みんな杜子春  作者: 青山獣炭
2/8

神無月


 二〇二✕マイナス一年。夏の暑さが去り、心地よい涼しさが感じられる頃。


 官公庁の建物が立ち並ぶ街。


 その街の一角に、ひときわ高くそびえる中央合同庁舎がある。


 庁舎の中には多くの会議室があるが、その中でも広い部類に入る第七会議室。


 そこでは、感染症対策の有識者たちが集う会議が行われていた。テーブルと椅子が巨大な口の字形式で配置され、内閣総理大臣ほか、経済再生担当大臣、厚生労働大臣など新型コロナウイルス関連の閣僚の姿もあった。もちろん出席者全員、マスクをしている。ソーシャルディスタンスということで、席にはかなりの間隔が空けられていた。


 議題は《現在の感染状況と今後の見通し及び新規の感染予防対策について》。


 このような議題になったのは、八月からスタートした第四次緊急事態宣言の効果が、かなり芳しくないことになっているからだった。


 現在の感染状況と今後の見通しについては、既に報告と議論が終わっていた。


 新たな感染者は梅雨の時期に、いったん収束し全国で一日当たり二千名を下回るようになり、政府は第三次緊急事態宣言を解除した。


 しかし夏の到来とともに、新たな感染者はまたも急激に増え始め、七月末には全国で一日当たり一万名を超えることとなった。


 政府は慌てて、第四次緊急事態宣言を策定し、八月十日に施行した。


 前回と寸分たがわない、この宣言に対する国民の反応は鈍かった。施行されたのが、お盆休み直前とあって、国民の動きは止まらなかった。予定していた旅行を中止してホテルのキャンセルをした者は、ほとんどなく、午後八時までの時短営業に協力した飲食店は僅かだった。とりわけ大手の飲食店チェーンは皆無であった。


 マスクの着用率も下がっていった。街中では、マスクをしないまま闊歩する人が、明らかに増えた。年齢を問わず、老若男女一様に。例年よりも厳しい暑さという理由だけではない。国民の感染症と闘うモチベーション自体が下がっていたのである。


 アルコール消毒液の消費量も、少しだが減っていた。国民は、手を消毒するという簡易な行動すら、虚しさを覚えつつあった。


 さらに頼みのワクチンも感染そのものを防ぐものではないため、感染の拡がりに対してどの程度の効果があるのか測定できないでいた。ワクチン接種によって集団抗体を作る計画も、今は頓挫していた。接種者の中から、変異種由来の感染が複数確認されたためである。


 結果、感染者数は日によって一万名を下回ることがあるものの、現在まで概ね一万名から二万名の間の高い水準で推移していた。


 内閣は追い詰められていた。支持率は二十パーセントを割り込み、その存続が危ぶまれていた。従来の対策では、もはや感染拡大が抑えられないことは、大臣たちの共通認識になっていた。


 会議は次の議題である新規の感染予防対策に移っていた。


 議論は低調を超えて全く行われていないと、云ってよかった。


 この国でトップレベルの有識者たちが席に座っているにも関わらず、新規の感染対策の提案が出てくることはなかった。


 ただただ沈黙が空気を支配し、時だけが流れてゆく──。


 総理大臣の隣の席にいる白髪頭の議長は、時計を見ると、諦めたようにガクッと頭を落とした。


「それでは、これで会議を終わります。次回は──」


 議長が言葉を発した、その時だった。


 会議室の扉から一番近い席の男が、ゆっくりと手を上げた。男は、議長を見つめた。


「あっ┄┄はい┄┄ええと┄┄村越君」


 議長は、テーブルに置いてある資料に目を落としながら言った。


 村越は、申し訳なさそうに立ち上がった。椅子を引きずる音が、あたりに響いた。


 三十を過ぎたか過ぎないかの風貌。ひょろりとして背高い彼の頭は小さく、いかにも自信なさげに見えた。しかし彼は、最近書いた『スペイン風邪と大正社会』という修士論文が注目され、若くして社会学の助教授に抜擢された逸材なのであった。この会議に参加するのは、今日が初めてだ。


 村越は回ってきたマイクを受け取り、会議室を眺め渡した。


「あの┄┄思い付きのようなもので、すいませんが」


「何だね」


 議長は顔を、しかめながら言った。


「国民の皆様に黙っていただく、というのはどうでしょう」


 会議室内が、一斉にざわめいた。


「そもそも」


 そう言った村越の眼光は、急に鋭いものに変わった。


「我々は最初から感染対策の方向性を誤っていたのではないでしょうか。空間と時間を制限して感染を抑えるという方法は、一見有効のように思えますが、ウイルスは空間と時間に偏在しているわけではありません。午後八時以降の飲食店の営業を止めても、ランチを食べながら大声で話をしたり、酒をいずこから調達して昼間からうっぷん晴らしの宴会をする人たちには無意味です。映画館や劇場、ライブハウスは、鑑賞が問題なのではない。その前後で、久々に会ったお友達や恋人と、おしゃべりとか会食をするのが問題なのです」


 村越は、ここでいったん言葉を切って、ため息をついた。さらに続ける。


「国民は常に感染の危機にさらされています。それは時間とか場所は関係ありません。我々は感染対策を状況から考えていくべきだったのです。たとえマスクをしていたとしても、対面で会話するのは危険だし、いくら換気と消毒を徹底しても、床に沈んだウイルス入りのエアロゾルを百パーセント取り除くことはできません。ですから──」


「もういい」


 突然、総理大臣が立ち上がって言った。


「そんなことは私だって、とうに分かっていたさ。でっ。村越君はどうやって国民から声を取り上げるつもりなの?」


 急に名指しされた村越は、恫喝のような口調にたじろぎ、言葉を返すことなく、へなへなと椅子に座ってしまった。


「┄┄まあ、いいよ。私は村越君の思い付きを検討してみる。どんなバカげた提案でも、ひとつもないよりはマシだ。ありがとう。有意義な会議だった。コストには見合わないがね」


 そう言って、総理大臣は足早に会議室を去った。


 後には重苦しい雰囲気が立ち込めたが、やがて会議に出席した面々も、荷物を取りまとめると、次のスケジュールに臨んでいった。





都心から少し離れた住宅街。


 その街の中心に地下鉄の駅がある。駅から歩くこと十数分。そこに、徳山拓信の家族が住む賃貸マンションがあった。二LDKだけの三階建てのマンションだ。


 拓信は、リビングのテーブルにノートパソコンを置き、仕事をしている。

 彼の仕事は経理事務だ。拓信が勤めている会社の子会社のうち、経理部門を持たない四社の経理事務を一手に請け負っている。


 今は月末の締めで、けっこう忙しい。彼は、各社からメールの添付文書で送られてくる請求書や納品書、領収証などのエビデンスと伝票に違いがないか、朝からずっとチェックをしていた。


 玄関の方で、扉を開ける音がした。繁美と大樹が帰ってきたらしい。幼稚園に通っている大樹を、繁美が迎えに行っていたのである。


 もうこんな時間かと思い、拓信はパソコン画面の右下にある時計を見た。勤務時間が終わる十八時を少し回っていた。


 拓信はパソコンを閉じて、大きく伸びをした。

 夕めしの後に、もう少しやらないと今日の分は終わらないな、彼は思う。サービス残業か。やんなっちゃうな。


 繁美と大樹がリビングに入ってきた。


「おかえり」

「ただいま。大樹、先に手を洗ってらっしゃい」


 子供用ながら顔半分が隠れるほどの不織布マスクをした大樹は、黙ってうなづくと、洗面所の方に歩いて行った。


 繁美は不織布マスクを外すと、リビングの片隅に置いてあるマスク専用の小さなゴミ箱に入れた。


「このマンションで、また出たらしいわよ。こんどは三階ですって。二階でなくて良かった」


 徳山家族は二階に住んでいるのである。


「また? この前、一階で出たばかりじゃないか。いったい何をやったら、うつるのかねえ」

「それが分からないから、みんな苦労してるんじゃない」


 玄関の方で、来訪を告げるチャイムが鳴った。


「はーい。何かしら」


 繁美は、テレビの隣りにある壁掛けのボードの方に、そそくさと歩いて行った。

 そこには、彼女が作った布マスクが三つぶら下がっている。黒と、花柄のオレンジと、小さな蛍光色の黄。繁美は、オレンジ色の布マスクを取ると玄関の方に走って行った。


 家の中でもマスクをすることは、政府から要請されている。しかし彼らは、そこまでする気にならず、外から人が来た時だけ布マスクをするようにしていた。


 大樹が手を洗い終わって、リビングに戻ってきた。


「パパァ、ちゃんと、てをあらったよ」


 大樹は、拓信に手を差し出した。拓信は大樹の手を取り、撫でながら見つめた。


「きれいに洗えたねえ」

「きょうは、うがいもしたよ」

「ほう。えらいじゃないか」


 拓信は、大樹の頭も撫でてやった。


 繁美がリビングに戻ってきた。細長い箱を抱えている。


「だいぶ前、ふるさと納税で買った──」

「寄付しただろ」

「そう、寄付して買ったタラバガニ、届いたわよ」

「なんか違うけど、まあいいいや。買い置きのビール、まだ有るよね」

「さあ。冷蔵庫の中、のぞいてみたら」

「無かったら、スーパー行ってくる」


 仕事は明日がんばればいいや、拓信は思う。


「大樹、おいしいんだよ、これ」


 繁美はそう言って、息子を呼んだ。拓信も二人の側に行った。


 三人は寄り添って、顔に笑みを浮かべながらタラバガニの箱を開け始めた。



♪♪



 総理大臣は自身の執務室にいた。


 大きくてやわらかな肘掛け椅子に座って、正面を見据えている。


 はた目からは、呆然としているように見えるかもしれない。だが、彼は真剣に考え続けていた。もう二時間以上に渡って。夜の会食にも出掛けずに。


 仮に感染予防対策の要請の条件を上げたとしても恐らく駄目だろう、総理は考える。


 飲食店舗は全ての営業を自粛させテイクアウトに限ることとし、スーパーやドラッグストアを除いた他の業種についても同じように休業を促す。学校は休みとし、自らの住む地域外への移動を控えさせる――第一次緊急事態宣言のようなレベルのことを行ったとしても、もはや国民が要請に応じるかどうか疑わしかった。


 それに、第一次の時のような潤沢な財源も、既に無かった。要請に応じる見返りがなければ、人は従わない。今の宣言下の状況をみれば明らかだった。


 第四次緊急事態宣言は、施行してからだらだらと三ヶ月目に入っていた。さすがに旅行や大規模な宴会を催す者は少数だったが、その他のこと──買い物や会食、映画に観劇など、国民は普通に外出を楽しむ生活を満喫していた。マスクをしながら。それがまるで免罪符であるかのように。


 では、このまま現在の状況を放置したらどうか。それは許されなかった。医療の現場は、いよいよ逼迫していた。重症患者用のベッドの空きは探すのに苦労するほど無くなり、軽症患者が入院するホテルは、満杯になっては新しいホテルを借り、満杯になっては新しいホテルを借りるということを繰り返していた。最も問題なのは、自宅療養中に死亡する者が増えているということだった。最近の自宅療養中の死亡者数は、概ね全国で一日当たり二桁の後半で推移していた。百人を超える日も珍しくなくなっていた。もう医療崩壊は始まっていると云えるのかもしれなかった。


 総理大臣は前髪が完全に無くなった額を、パシッと強く叩いた。ものを考える時に、よくやる癖だった。


 ──いよいよ次の段階に入るしかないな、総理は思った。


 それは本格的なロックアウトの導入である。外国のほとんどが行っている制度であった。要請を命令にし、従わない者には罰金を課す。罰金刑より軽い、行政罰の過料という制度は既に導入されてはいるが、それは飲食店や入院を拒否する感染者に限られていた。対象の範囲を広くし、罰金刑に変えた特別措置法を改正すれば、可能なことだった。


 しかしながら。


 外国の例をみても、その制度がドラスティックに成果を出すとは、彼はどうしても思えなかった。確かに多少の効果は期待できるかもしれない。だがそれを、マスコミや世論の反対を押し切ってまで施行する必要があるのか。それで新型コロナウイルを撲滅できるのか。世界の中で撲滅に成功した国など、まだ無いというのに。


 総理大臣は、また額を強く叩いた。こうして彼の思考は、また振り出しに戻った。


 彼は、机の上にいつも置いている菓子の箱を手に取った。マカダミアナッツのチョコレートだった。一個つまんで、口に入れる。しゃりっとした噛みごたえとともに、甘みが穏やかにひろがった。


(国民の皆様に黙っていただく、というのはどうでしょう)


 突然、昼間の会議の終わりで聞いた若い学者の言葉が蘇った。


 ばかばかしい、そんなことできるわけないだろう、彼は首を振った。まあ、検討だけでもしてみるか。怒りにまかせて、つい会議で言ってしまったしな。


 総理は、国民を無言にさせるとどうなるか、新しい検討に入った。


 しばらくすると、絶望に沈んでいた彼の表情が、少しずつ変わり、やがて輝きが射した。


 ──いけるかもしれない。


 そう思って、内閣総理大臣は机の上にある電話の受話器を取り、プッシュボタンを押した。


「あっ。明日でいい。明日でいいから、朝一番で私の執務室に来てくれないか。私も朝までじっくり考えたいんでね。あと、若くてイキのいいのも一人頼む。今回は新鮮な頭脳の方がいいと思うんだ」



♪♪♪



徳山拓信は夜明け前に起きて、リビングでノートパソコンを起動し、仕事を始めた。


 昨晩ビールを飲み過ぎて二日酔いなのか、はたまた早起きして眠いのか、仕事はそれほど捗ってはいない。


 突然、彼は二つ咳をした。


 あわててテーブルに常時置いてある体温計で、熱を測った。三十六度四分。平熱だった。


 拓信は、安堵のため息をした。

 たぶん、だいじょうぶだろう、彼は思う。これまでも咳が続いたり、夜中に寒気がしたり、三十七度近くまで熱が上がったことがあった。


 そのたびに、拓信はコロナに罹ってしまったことを覚悟してきた。医者にかかる手順もスマホで調べてみたりもした。だが数日すると、その症状はなくなり、拓信の杞憂であったことが分かった。大げさかもしれない。少しナーバスになり過ぎているかもしれない。けれども彼は真剣だった。自分が罹患して、大樹と繁美にうつすのだけは、したくない。そういう思いで彼は、もう随分と長い間、過ごしてきたのである。その経験から、この二つの咳は、コロナの症状とは違うと思ったのだった。


 時計が午前七時を告げた。繁美が、のそのそとパジャマ姿のままやってきた。彼女はリモコンを持って、テレビのスイッチを入れた。


〈昨日の新たな感染者の数は、一万九千五百六十四名でした。総理大臣は昨日の夕方、引き続き不要不急の外出を控え、リモートワークを徹底するように呼び掛けました――〉


「へえ。昨日は割と多かったのね」


 繁美が独り言を呟いた。

 テレビのニュースは、もうずっと前から、同じようなような文言を繰り返していた。定型化していると云ってもいい。


 拓信は昨日の新規感染者数を聞いても、もう何も思わなかった。少し前までは、当日の午後四時四十五分になったら、スマホで最新情報を必死になって検索したものだった。けれども、もうそんなことはしていない。自分の知らない人が、どこの誰がコロナになろうが、拓信にとっては、どうでもいいことだった。


 要は自分と自分の家族が罹らなければそれでいい。そういう思いで彼の胸は満ちていた。けれども、この病原菌から、どうやって家族の体を守ったらいいか、拓信はまるで分からなかった。


 三人がいまだコロナに感染していないのは、ただ運がいいだけなのかもしれなかった。彼らは感染した人たちと同じような予防をしているだけなのだから。


 拓信もまた、政府が新しい方策を繰り出してくれるのを、ただ待っている人のひとりなのだった。


 彼は、繁美が朝食をつくっているのをしばらく見ていたが、やがてパソコンを見続ける仕事を再開した。



♪♪♪♪



 総理大臣の執務室。壁掛けの時計が、九時を指している。


 部屋の中央に、大ぶりのテーブル。黒味がかった茶色のそれは、よく手入れされているのか、艶が輝きを放っている。しかしそのテーブルに物が置かれることは、今やない。本来であるならば、大量の書類が一面に置かれ、書類をつかんだり、もとに戻す手がしきりに行き交うはずだが、もうそんなことはない。テーブルは、ただの飾りになっていた。


 そのテーブルを取り囲んでいるのは、一人がけのソファー四つ。テーブルと同じ色をしている。ソファーには、どれもテーブル側を前にして三方に、分厚い透明なアクリル板のパーテーションが設置されていた。


 席は、三つ埋まっている。男二人と女が一人。三人は、みなマスクをしていた。出入り口に近い席に座っている男と女は、手に分厚いメモ帳とボールペンを持っていた。


「遅いな」


 浅溝は、まるまると太った手首にしている腕時計を見ながらつぶやいた。彼は、内閣府の中に設けられている特別機関――新型コロナウイルス緊急事態宣言策定局の局長を務めていた。


「学者の方だから、のんびりされているのでしょう」


 そう言ったのは、雫森玲香。浅溝局長の下で働いている。彼女はショッキングピンクのビジネススーツを着て、布マスクの色も、それに合わせていた。公務員としては、ほとんどアウトな服装だが、浅溝はそれを注意することはなかった。派手な服装という欠点よりも、彼女の能力の高さに瞠目していたのである。


「始めるか。入館に手間取っているのかもしれない」

 総理大臣は、言葉を続ける。

「今日君たちに来てもらったのは、分かっていると思うが、新しい宣言の話だ」


 浅溝と雫森は、居ずまいを正した。


「第五次は、これまでとは全く異なるものにしたいと思っている。私が今、頭の中にある素案が、はたして実現可能かどうか今日は話し合ってもらいたいのだ」

「どんな内容ですか」

 浅溝は総理に訊いた。


「国民に沈黙してもらう。感染のもとになっている飛沫を、口の中に封じ込めるんだ」


 それを聞いて、浅溝の角張った顔の色が一変した。彼は明らかに困惑していた。


 しかし雫森は違った。目を伏せて考え込むような態度を取った。


 ┄┄総理が少し話をしただけで、国民に沈黙してもらう前に、この部屋が早くも沈黙に支配されてしまった。


 その時、扉が開いて一人の男が入ってきた。


「遅れてすいません」


 村越優也。早朝に見ず知らずの内閣府からのモーニングコールで叩き起こされ、何とかこの部屋まで辿りついた若き社会学の助教授。彼は安っぽいペラペラの紺色のスーツを着ていた。不織布マスクも使い古されているのか、くしゃくしゃだ。


 彼は、どうしたらいいのか分からないような顔をして、出入り口に立ちすくむ。


「おお、来たか。君が言い出したことだ。責任は取ってもらうよ。こっちへ来たまえ」


 村越は、すごすごと歩き、申し訳なさそうに総理の隣りの席に座った。


「こちらにいるのは、内閣府の人間だ。君はこれから、この人たちとチームを組んで、新しい宣言を作っていくんだ」

「僕がですか┄┄。しかし僕も、いろいろと忙しいので」

「なんだ。やらないつもりか。報酬は出すぞ。ボランティアをお願いしている訳じゃない」

「は、はあ┄┄」

「分かってるよ。思い付きってのは方便で、本当はけっこう考えてるんだろ」

「ま、まあ┄┄」

「自分の考えていることを実現化するチャンスだぞ」


 だしぬけに雫森が顔を上げた。実現化、という言葉に反応したのかもしれなかった。


「すいません」

「ん? 何だね。雫森君」

「実現できると思います。いえ、実現させます。総理が、お考えになっていることが実現化すれば、百パーセントとはいかないまでも、経済はちゃんと回るんですよね?」

「そう。その点なんだ。私がこの村越君の提案を採用しようと思ったのは」

「分かりました。明日までにわたしが素案をまとめます。そこの学者君と相談して。こんな人がアドバイザーになってくれるなんて心強いわ」

「な、なにを言い出すんだ、雫森さん」

浅溝は驚いて、思わず大きな声を上げた。


 雫森はそれを、まるで聞こえていなかったかのようなふうで、言葉を続ける。


「こんなテーブルに何も置けない、メモ帳しか使えないところで、議論しても非効率です。時間も長くなるし。それよりまず、わたしが叩き台を作って、それを基に議論を推し進めた方がいいと思います。いかがですか? 総理」

「┄┄いいよ。それでいい」

「局長。わたしはこれで失礼します。徹夜になるかもしれないから┄┄。学者君、行くわよ」

「あっ、ちょっと待って。僕はまだ承諾──」


 雫森と村越は、そそくさと執務室を出て行った。


 後に残ったのは総理と浅溝。嵐が去ったような静けさになった。


「いやいや凄いね、彼女は。さすが局長の選択だ」

 総理は、あごに手をやりながら言った。

「あんな感じなんですよ。ふだんも」

「頼もしいじゃないか。最初、あの格好を見た時は、イキのいいという言葉を局長が勘違いしたのかと思ったよ。入府して何年目?」

「ええと┄┄五年目ですかね」

「そうか。持ってる能力というのは、経験年数とか関係ないのかもしれんな」

浅溝は立ち上がって、深々と礼をし、執務室を去った。


 総理はソファーにもたれて、目を閉じる。この小会議のために、午前中のスケジュールを押さえてあったので、思いがけず時間に余裕ができた。彼は、昨夜からほとんど寝ていないことを思い出し、大きなあくびをひとつすると、短い眠りに入った。



♪♪♪♪♪



徳山拓信は、リビングでノートパソコンを見つめ続けていた。次々チェックをしては、完了のマークを入れてゆく。ある程度溜まったらそれを、総勘定元帳のシステムにアップする。そういった作業を、彼はもう何時間も続けていた。


 そうしている間にも、伝票とエビデンスが添付されたメールは、続々とボックスに届く。未読のメールは、百件を超えていた。しばらくは増える一方だろう。月初めの、機械的な辟易するような作業。しかしそれで、拓信は収入を得ているのである。作業を止めるわけには、いかなかった。


 はあ。コーヒーでも飲むか、拓信は思う。彼はキッチンに行き冷蔵庫の中から、ミルクと砂糖がたっぷり入ったカフェオレのペットボトルを取り出した。リビングに戻り、それをちびちびと飲む。甘い物を摂ると集中力が戻ってくるような気がした。


 ふとテーブルの下に置いてある、充電中のスマホから音が鳴った。SNSの新着メッセージの着信音だった。


 やれやれ。今は新着ってのに、うんざりしてるんだけどな。彼はそう思いながら、スマホを手に持つと、メッセージを確認した。


 繁美からだった。彼女は、徳山家の近くの弁当工場に午後四時までパートに行っている。


【ランチ、いっしょにどう? もちろんあなたのおごりで。おこづかい余って、困ってるんじゃない? あのイタリアンの前で、十二時十五分に待ってる。時間厳守ね。昼休みが終わっちゃうとたいへんだから】


 たしかに小遣いは、最近余裕があった。小遣いの大半を費やす上司や同僚との飲み会は、いつやったか思い出せないほど随分前に会社から禁止にされていた。それに、これといって欲しいものがないので、買い物もあまりしない。せいぜい、ずっと読んでる漫画の続きが出た時に、通販で買うくらいだった。


 拓信の在宅勤務の日の昼飯は、冷蔵庫にある残り物や、繁美が作り置きしてある冷たいおかずを温めて、簡単に済ますことが多かった。


 たまには外食したいな、俺のおごりだけど。そう思いながら、拓信はスマホに了解のメッセージを書いた。



♪♪♪♪♪♪



 雫森玲香と村越優也は、湾岸の商業地域にある、スパニッシュバーに来ていた。《プロスペラ》と名付けられたこの店には、室内の他にテラスが設けられていて、そこに二人はいた。


 白い波が確認できるくらいの距離で、海が望めるオープンテラス。


 簡単なつくりのパーテーションを設置したテーブルが、ずらっと並んでいる。それは、その店の設計者が意図した雰囲気を、すっかりだいなしにしていた。


 二人はソーシャルディスタンスの長さよりもさらに距離を取って、客席にそれぞれ座り、海の方に顔を向けている。マスクをつけたまま。


 すらっとした背高い女性が、トレイにアイスレモンティーを二つ乗せて、テラスに入ってきた。もちろんマスクをしている。


 女性は、村越のテーブルにその飲み物を一つ置くと、続いて玲香のテーブルにやって来た。


「いいのに。飲み物とか」

玲香は顔を上げて、女性に話し掛けた。

「だって、お金もらっちゃうとね」

「そのぐらいさせてよ。会議室料のつもりだったんだから」

「たしかに、電話でいきなり呼び出されたわけだから、少しぐらいはもらわなきゃなって、思うけど┄┄」

「取っといて。また使わせてもらうかもしれないし。次はお金出さないかも」

「まあ、ひどい。今度は、もっともらうわ」

 女性はテラスから出て行った。


「あの┄┄」

村越は、か細い声で玲香に話しかけた。

「なに」

「この店はどうしてランチとかデリバリーを、やらないんですかね。流行りそうですけど」

「それをやるには、昼間から働いてくれる腕のいい料理人と切り盛りができる従業員が必要なの。この店には、どっちもいないだけ」

そう言って、玲香はショッキングピンクのマスクを片方だけ耳から外して、紅茶を飲んだ。氷のぶつかる音がした。


 ふと、彼女は強い視線を感じた。村越を見ると、ちょっと驚いたような顔をして玲香を見つめている。思わず彼女は、ひとつ咳ばらいをした。

 村越は、その音に我に返ったように玲香への視線を逸らし、あわててマスクを取って、紅茶を飲んだ。


「い、いい会議室ですよね。人もいないし。これだったら感染の心配はない」

「そんなことどうでもいいから、そろそろ始めるわよ。時間がないんだから」

「はい」


 村越は、マスクを再度つけた。


「総理からあなたの提案を聞いて、わたし直感で思ったんだけど、日常で制限されるのは会話だけで、あとは普通に生活できるのよね。経済活動もフルで再開できる。このお店だって、感染対策のアルコールボトルやパーテーションすら取っぱらって、営業も深夜までできる」

「そうだね。マスクもいらなくなる。誰も喋らなくなるわけだから」


「で。あなたは、この国で四六時中、発せられている声を、どうやって封じ込めるつもりなの。アイディアを聞かせて。だいたい予想はつくけど」


 村越の背筋が伸びて、眼光が鋭いものに変わった。


「特別措置法を改正して、罰金刑を導入する。声を出したら罰金を課すんだ」

「いきなり、憲法学者が聞いたら卒倒しそうな提案ね。基本的人権はどうなるの」

「そもそも外出自粛要請だって、基本的人権の保護に抵触していると僕は思う。行動の自由をある程度束縛しているわけだからね。外出禁止命令とか、もし出したら憲法違反だと云われかねない。でも、もうそこまで強い束縛を人にしないと、感染爆発しかねないところまで来ている」

「そうね。否定はしないわ」

「憲法違反だとか言ってられないんだよ。同じ強い束縛をするなら、外出をやめろよりも声を出すなの方が、僕はいいと思う」


「分かったわ。法律を改正することは可能ということにして、議論を進めましょう。罰金刑は課すとして┄┄そこまではわたしも考えていたけど。問題はどうやって違反者を見つけるかね」


「まず、スマホに二十四時間、声を感知し続けるアプリを入れる」

「なるほど。アプリは開発可能ね。似たようなものが既に有るし。スマホを持っていない人はどうするの?」


「それは、アプリだけ入れたものを子供に至るまで全員に配布するしかないと思う」

「貸し出しだわ。コロナ禍が終わったら返してもらう約束ね。そうしないと、持っている人との不公平が生じてしまう。料金の問題もあるし。実際は貸し出したままになると思うけど」


「アプリは、人間の声にだけ反応するようにプログラムを組む。そしてそれを感知したら、管理局かなんかのサーバーにその声を送り込む。人間の声だけのデータが出来上がるわけだ」


「なるほどね。できそうな気がしてきた。めったに誰も喋らないのが前提だけど。でないと、サーバーがパンクしてしまいそう」


「それから」

「へえ、まだあるんだ」

「監視カメラを持ってる者に協力してもらう」

「どういうこと」

「街なかや建物、屋内、今やあらゆる場所に設置されているカメラを全て使って、誰か喋っている人がいないか監視するんだ」


「協力してくれるかしら」

「義務付けないと難しいだろうね。それも措置法の改正が必要になるかもしれない」

「ふう。監視社会の到来ね」


「そうかもしれないけど。僕は、構築されている既存のシステムを使ったらどうかと言ってるだけだよ。そういう意味では、もう僕たちは監視社会の中にいるんだ。個人情報がひとつのところに集中していないだけで、僕たちの行動はあらゆるところに筒抜けになってる」


 村越の言う通りなのかもしれない、玲香は思った。今こうしている間にも、個人データは、この国のどこかのサーバーに休むことなく蓄積され続けている。


「最後に」

「えっ。まだあるの」

「密告制度を作る。言葉を発している人を見かけたら、密告してもらうんだ。何時何分何秒にどこそこで喋っている人がいましたって感じで」


「それこそ監視社会じゃないの」


「そうだね。でもこの国の人たちには同調圧力という文化がある。今までだって、休業要請に応じない飲食店に嫌がらせしたり、営業し続けるパチンコ店の名前を公表したり、マスクをしていない人の前で大騒ぎする人がいたり、いろいろあっただろ。監視社会の中にいるんだよ、もう。僕は、この同調圧力と云う国民性を利用して制度化した方が、むしろくだらない騒ぎがおさまるとさえ、思っている」


 なんか言いくるめられているみたい、玲香は思う。この違反者を見つけるための三つの提案は、どれも実現できそうな話だ。けれど。ここまでしても、すぐに消えてしまう声を捕捉するのは無理な気がした。


「ねえ。家族とかどうするの。家の中の監視がスマホだけって、心細い気がするんだけど。だいち、スマホだって電源切られたらお終いだわ」

「電源が切れたら、喋ったとみなして即罰金だろうね。でも、そこまで厳しくしなくても、家庭内感染は外からウイルスが持ち込まれない限り、二週間もすれば消え去る」


「一理あるけど。なんか心配。あと、くしゃみや咳とか。出ちゃうときは、出ちゃうし」

「そういう時は、やっぱりマスクをするか手で覆ってもらうしかないね。たしか第四次の宣言で、徹底した新しい生活様式として提示されてた気がするんだけど。くしゃみや咳をした後は、マスクをすぐに捨てるか洗う。手も何かに触る前に、ていねいに洗う。今はコロナ禍なんだ。全てが元通りというわけにはいかない。そして、そういう具合の悪い人は、積極的に家で寝る。それはみんなが守るべき最低限のマナーだと思う」

「そうだったわね。徹底している人は、ごく少数だけど」


「僕は提示した時、携帯用の小さなアルコールボトルを、全員に配布すべきだったと思う。そうすれば、もう少し徹底する人は増えたんじゃないかな」

「┄┄そうね。そうすべきだった。今度はそうさせてもらうわ」

 玲香はそう言ってから、しばらく考えていたが、また口を開いた。


「赤ちゃんとかどうするの。喋っている口をふさぐの? 泣き出したら誰にも止められないわよ」

「あのさ。頭の固い公務員さんは、完璧を求めているみたいだけど、これってゆるゆるでいいと思うんだ」

「頭の固い──」


「言い過ぎたか。まあ、聞いて。肝心なのは、これが感染の抑止になるってことだ。形のない声をつかまえることが目的じゃない。人々を黙らせることが目的なんだ。人々の口の中から唾液が少しでも飛ばなくなれば、感染は確実に減ってゆく」

「┄┄分かったわ。あなたの考えをぜんぶ採用して、素案をつくってみる」


 村越は、ほっとしたように息をついてマスクを外し、アイスティーをゆっくりと飲んだ。さっきまで鋭かった彼のまなざしは、急に穏やかで静かなものに変わった。


「ねえ。どうして学者君──じゃなかった、ええと、村越┄┄助教授は、総理からのアドバイザーの依頼を断ろうとしたの」

「だって、僕は感染症の専門家ではないし、助教授になったばかりだし。政府の人が、僕の話を、こんなに真面目に聞いてくれるなんて思わなかったから」


「自信持った方が、いいんじゃない。今日は、ありがとうございました」

「┄┄どういたしまして」

「ゆっくりしてってね。さっきの店長、なかなか魅力的でしょ。お話ししてみたら」

「僕には、そんなこと┄┄」


 玲香は、足早にテラスを出て、フロアのカウンターの中にいる店長に一礼した。


「またね、なぎさ。とにかく、がんばって」

「ありがと。夕方もたまには来てちょうだい」

「かなり、むずかしいけど。この絵、見たくなったらまた来るわ。おしごと抜け出してもね」


 なぎさの後ろの壁には、大作の絵画が飾られていた。いまだ工事中のはずの高い塔のような建物がすっかり完成しているように感じられ、その建物を中心にして、にぎやかな街並みが描かれている。南国の明るい光が強調された、やわらかいタッチだった。なぎさが海外留学した折りに、描いたものだった。


 玲香は《プロスペラ》をあとにした。いちばん近くにある、湾岸を周回する無人電車の駅に向かって歩いていく。


 歩きながら玲香は、ぼんやりと思う。あの助教授、マスクを外した時、なんか味のある顔してたな。ちょっと唇が大きめだけど、形がきれいだった。まっすぐで、少しも歪んでない。┄┄あっ、ランチどこで食べよう。また庁舎の食堂でいいか。これからパソコンと格闘だ。一変する生活の細かいところまで詰めないと。声を出さないで、コミュニケーションをどうやってするかが問題ね。新新生活様式┄┄名前はまだどうでもいいか。やっぱり徹夜だわ。


 彼女は無人電車に乗り込み、都心にある内閣府の庁舎に向かった。



♪♪♪♪♪♪♪



拓信と繁美は、示し合わせたイタリアンの店にいる。


 彼らのテーブルには、もう料理が置かれていた。ペスカトーレとナポリ風のピザ、それに色の組み合わせが鮮やかな前菜の皿が二つ。それだけでテーブルのスペースはいっぱいになっていた。


 二人は取り皿を持って、テーブルに置かれた料理をシェアしながら食べていた。この店では、コロナ対策としてシェアして食べることは控えるようにアナウンスしてはいるものの、取り皿を所望する客に対して、それを拒むことはなかった。


「ひさびさ来たけど、やっぱりおいしいわね。ここのパスタ」

「もちもちしてるよな。ちょっと太めなのが俺好み」

「なんかやらしい」


 二人の間にパーテーションはない。テーブルがせま過ぎて、置くスペースがないのである。

 この店にカウンター席はなく、小さなテーブルのボックス席しかない。パーテーションを置きたくてもおけない、こういう店もあるのだ。


 拓信は、パスタを食べながら、あたりを見渡した。


 席は全て埋まっている。客はみなマスクを外して、おしゃべりと食事を楽しんでいた。あたかもこの店の中だけは、コロナ禍など関係ないかのように。騒音のような多くの人のしゃべる声を、拓信は久しぶりに聞いているような気がした。


 客が入店する前の検温とアルコール消毒の対策は、店の外にいるウエイトレスの誘導でおこなってはいたが、換気といえば出入口の扉を開けっ放しにしている程度で、拓信は入店した時から不安を覚えていた。


 ──まあ、いいか。だいじょうぶだろう。久しぶりの外めしを楽しまなくては。

 拓信はそう思って、視線をテーブルに戻した。


 その時、拓信が座っている席の近くで、人が激しく咳き込む音がした。


 ざわついていた店内が、一気に静かになった。


 咳き込む音は続いている。拓信は、音のしている方を見た。


 老人がテーブルに突っ伏していて、その背中を、心配そうに老婦人がさすっている様子が目に入った。おそらく二人は夫婦なのだろう。


 ウエイトレスはやって来たものの、どうしたらいいか分からないのか、その場に立ちすくんでしまった。


「コロナなんじゃない」「たぶんコロナ」「あれはコロナだ」どこからともなく、そんな囁き声が次々に拓信の耳に届いた。

 店内にあるいくつもの視線が老夫婦に集中して、まるでへばりついているように、彼は感じた。


 老婦人は、目を閉じて黙って声を聞いていたが、いきなり立ち上がった。


「夫はコロナじゃありません。ぜんそく持ちなだけです。熱だって、熱だって無かったんだから┄┄」


 周りのテーブルの客が少し引きぎみになったように、拓信は感じた。老婦人から飛んでくるつばを避けたのかもしれない。


「こんな時に発作が。コホ。ついてな。コホ。もう帰るよ」

咳がおさまりかけた老人が、座ったままつぶやくように言った。

 老婦人は、その声にうなずいて老人を抱きかかえた。


 二人は、よたよたと歩き、会計を済ませて店を出て行った。


「ぜんそく、なのかな┄┄」

 繁美は、ぽつんとそう言って、自らの取り皿にピザを乗せた。

「本人が言ってるんだから、そうなんだろ」


 みんな気にしていないようで実は気にしているのだろう、と拓信は考える。彼は、仮面劇の登場人物が、いっせいに仮面を取ったシーンを見てしまったような違和感に包まれていた。隠していたものが急に露わになったときのあの違和感。苦痛で顔がゆがみ、今にも叫びそうな人たち。┄┄みんな、心の底に溜まっている黒い粘液のようなものに、ごく薄い布をかぶせて、その粘液を見ないようにして日々を過ごしているのだ。


「あなた、早く食べて。昼休みが終わっちゃうわ」

「そうだった。ペースを上げよう」


 ──さっきの老人のことはしっかり覚えておいた方がいいな。もしコロナに感染したら、過去二週間の行動を詳細に保健所や会社に報告しなければならない。老人を疑うわけではないが、危ないと思った出来事を記憶に留めることは、拓信の習慣になっていたのである。


 重い空気につつまれた店内の雰囲気は、かなりのあいだ続いたが、少しずつもとのランチタイムを楽しむ明るいものに変わっていった。かりそめにコロナ禍を忘れる、かけがえのないひと時に。










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