契約と代償について
冷たくピンと張り詰めた空気が家中に満ちている。いつもより早く目が覚めた男は、コーヒーでも淹れようかと寝室を後にして。
「あれ」
シャッシャッ、と一定のリズムの音が聞こえ、何の気なしに窓の外を見やる。そこには、昨晩のうちに地面を埋め尽くしたらしい落ち葉を竹箒で掃くクラリスの姿があった。
数瞬、考える間が空く。
「……クラリス?」
窓を開けて少しだけ顔を出す。朝の清々しい、しかし冷たい風が撫でつけてきた。
「あ、先生!おはようございます」
「何してるの……」
「お掃除ですよ?」
「ああ、うん……えーと。家の外までやってもらうつもりはなかったんだけど……」
「だいじょーぶですー、もうすぐ終わりますから!」
話しながらも箒を動かす手は止まらない。楽しそうにすら見えるその背中を、男はどこか不気味なものでも見るように眺めていた。
「別に文句を言ってるわけじゃないんだけど」
すっかり掃除を終えて家の中に戻ったクラリス。彼女が冷たくなった手を擦り合わせながら靴を脱いでいると、男は待ちかねたように尋ねた。
「掃除は家の中だけでいい、って言ってなかったっけ」
「はい。でも、せっかくなら外の落ち葉も掃除しておきたくて!」
もこもこのスリッパに履き替え、パタパタ足音を立てて部屋の奥の暖炉に向かう。
「……僕がほとんど外に出ないの、知ってるよね?」
「でも先生が外見た時に、綺麗だといいなって」
言われて思い出す。確かにここ最近、窓から見える風景に散乱した落ち葉は無かった。この季節にしては珍しいと思っていたが、まさかこういうことだったとは。
「君が嫌じゃないなら構わないよ。ただ、今までの人達と全然違うから」
「今までのひとたち?」
「昔の契約者」
「……あ!そっか、いたんですよね」
暖炉の前で手を温めていたクラリスが、ふと何か思いついたような顔をした。
「私が来る前の契約者さんって、どんな人達だったんですか?」
男のいるソファに好奇の視線を送るクラリス。二杯目のコーヒーに口をつけながら、男は思い出すように目を伏せた。
「これといって特徴はないよ。少なくとも君ぐらいの特徴は」
「え?私そんなに変わってますか?」
「今までの人達はみんな、掃除も洗濯も食事も頼んだ最低限のことしかしなかった。……買い物に行くと言ってここから逃げ出そうとした人もいたな。まぁ面倒なのは分かるし、だからこそ頼んでるんだけど」
コーヒーの黒い水面に映る顔を見つめる。次第に眼鏡が曇り視界が遮られていく。
「契約して一か月を越えたのは、君が初めてだ」
「へえぇ。そんなに大変ですかね、この生活……契約解消で先生に殺されるよりはいいと思うのに」
「僕もそれなりに工夫したよ。彼女達が生活しやすいように、意見を取り入れたりして……。何が悪かったんだか」
少しの間黙っていたクラリスは、不意に男の方を見て苦笑いを浮かべた。その異変に気付いた男が眼鏡の曇りを取りながら怪訝な顔をする。
「あの自己紹介……というか、初対面の時の感じじゃないですかね」
「……えっ?!」
驚きのあまり男の声が大きくなった。その反応が意外だったのかクラリスもまた目を丸くする。
「いや、だって、あれ、あれは、」
「あれは子供だましですよ」
「ち、違う!あれは!前にここに来た人が、ああいう感じの言い回しの方が本物っぽいって」
「その人、ちょっとセンスが古いのかもしれませんね……。今の人はどっちかっていうと、シンプルに説明してくれた方が信じやすいですよ」
「昔は僕もそうしてたよ!?でもその時はその時で『胡散臭い』とか『変質者っぽい』とか、なんだかよく分からないケチをつけられて!」
珍しく声を荒げる男の姿に、クラリスは心の中で「かわいい」と思いながら。
「でも、さすがにすぐには信じられないですよ。『ヒノハラ森の魔法使い』が本当は死神で、名前はまんま『シガミ』で、しかも契約の代償が『この家での住み込みの家事手伝い』なんて」
《――あなたが、ヒノハラ森の魔法使い……?》
《いかにも。君は、何を望んでここまで来た。》
《恋人が病気で死んでしまうんです。彼を助けたい。》
《代償を、恐れないかね。》
《……はい。》
《その代償が、君の命を死神に預けることに等しくても。》
《はい。》
《契約する名前を。》
《……え?》
《君の名前だ。死神に託す、“偽りの”名前を。》
《……く……クラリス、です。》
《契約は成立した。……僕はシガミ。いずれ君の命を奪う死神だ。よろしく――》
「…………僕だってあれ…………結構、恥ずかしいんだよ…………」
「じゃあ、次はシンプルな奴に戻してみましょうね。……まぁ私は当分、契約解消するつもりもありませんけど」
コーヒーカップを片手に固まっている男――シガミにそう言い放つクラリスの表情は、どこか満足げであった。