半袖と長袖について
数日続いた雨が上がり、久しぶりに姿を見せた太陽が空気を温めきった昼ごろ。
小さな編み籠いっぱいの洗濯物を抱え、一人の女性が木造の家から出てきた。ちょうど今洗濯が終わったのか、籠の中からは柔らかい匂いがしている。
「んんー……いい天気!」
すっかり真上に昇った太陽を見上げ、籠を持ったままひとつ伸びをする。竹で作られた物干し竿に向かうと、足元に置いた籠から洗濯物を手際よく干していく。
「クラリス」
女性の出てきた家から、彼女を呼ぶ男の声がした。
呼ばれた女性は――クラリスという呼び名にはそぐわない、日本人らしい長い黒髪の女性は――えらく嬉しそうに振り返った。
「何ですか、先生!」
「粉。替えは?」
ドアから顔だけ出した、「先生」と呼ばれた男が空の瓶を振って見せる。クラリスはそれを聞くと、きょとんと音のしそうな表情を浮かべた。
「あれ……いつもの場所にありませんか?」
「無かった」
慌てた様子で最後の一枚を干し終えると。クラリスは籠を片手に家へ戻り、にこりともしない男から瓶を受け取った。
「えっと……昨日買い足しておいたはず……」
とてとてと部屋の奥へ向かう。台所の棚を開け、「こな…こな…」と呟きながら数少ない物の合間を手探った。
「買い忘れた?」
「いえ……確かに昨日はスーパーにも寄りましたから……、あっ!」
ぱたりと動きを止めるクラリス。慌ただしくロフトの梯子を上る姿を、男は無表情のまま見送る。
「あっ、た!」
慌ただしく下りてきたクラリスが抱えたリュックを床に下ろす。ごそごそと中をまさぐれば、目的の物はすぐに姿を現した。
「すいません、お待たせしました」
手渡された小袋。かすかにコーヒーの香りのするそれを受け取り、パッケージを見て、男は小さく眉をひそめた。
「これ、いつものと違うね」
「あ、はい!いつものスーパーで、前の奴より安かったんです。先生、ブランドにはこだわらないから安いのでいい、って言ってたので……」
「ふぅん……そう」
「それ、と!これも先生に」
再びリュックの中身を探るクラリス、その中から次々と出てくる冬物の衣服。少しの間ぼんやりと様子を見ていた男は不意に何かに気づき。
「……今、僕にって言った?」
「え?はい、言いました」
「…………それ?買ったの?僕に?」
臙脂色の長袖を顔の前で広げていたクラリスが、途端にハッとした表情になる。
「わ、忘れてたんじゃないですよ!昨日、買い物から戻った時、先生まだパソコンに向かってたから、忙しいと思って……!それでひと段落したら渡そうと思って、それで……いつの間にか今日に……」
「それって、忘れてたって言うと思うけど」
「すいません」
「いや。そこじゃなくてね。僕の服なんて買ってこいって頼んだ覚えないよ」
長袖の服を握り締めたままクシュンとしていたクラリスは、その言葉を聞くなり「だって!」と抗議の声を上げた。
「先生、いつまで経っても半袖のままじゃないですか!これからもっと寒くなるんですよ?」
「別に一年中半袖でも大丈夫だから」
「なんでですか!風邪引いちゃいます!」
「引かないよ。引いたことないし」
「今は大丈夫でも、年取ったらそのうちダメになるんですよ!」
「僕の年知ってるの?」
「だいたい三十代ですよね?ってことは、もうすぐアラフォーです!」
「……僕は永遠の三十五歳だから」
「いまどき流行りませんよ、その誤魔化し方!」
とにかく!と声を荒げたクラリスが、男の前に長袖を突き出し。
「先生の持ってる服、白か黒か紺しかないんですから!たまにはこういうお洒落な色も着てみてほしいです」
「…………そういえば。こんな服買うお金、渡したっけ?」
渋々といった様子で受け取った男は、つまらなさそうにそれを眺めながら尋ねた。
「この間、私が冬服が欲しいって話をした時にもらいました」
「……じゃあ君の分の服は?」
「買いましたよ。ほら!」
リュックの一番奥から一回りサイズの小さい服たちが出てくる。どれも地味な色合いの同じような型。「地味だね」と呟いた男に「いいんです!」と満足げな顔で返すクラリス。
「ヴニクロのあったかいやつです。冬の山は寒いって話ですから」
「オシャレはしないの?君ぐらいの年頃の子なら」
「えへへ……遊びに行く友達とか、いま全然いないので」
「彼氏はいるのに友達はいないのか……」
――そう言ってから。男は心の中で「しまった」と声を上げた。
「……ええ。私は彼氏だと、思ってたんですけどね……」
クラリスの声のトーンが一気に低くなった。先程まで熱心に男を見ていた視線は、今や地へと逸らされている。
「……やっぱり他の子みたいなお洒落しなきゃいけなかったんですかね……でも病院ってあんまり派手な格好しちゃダメだって思ったし……それに派手な色の服とか全然着たことなかったし……でも……」
こうなると彼女にかける言葉が見つからない。男は気まずそうに黙ったまま、永遠に感じるこの時間をどうにかやり過ごそうと臙脂の服に目を落とした。
「……でも、これで良かったんです。今は先生がいますから」
すっかり落ち込んでいたクラリスが、ようやっと現実世界に戻ってくる。その台詞には慣れ始めていたが、男にとって未だ理解の出来ない言葉でもあった。
「そんなに好かれる覚えはないんだけど」
「そんなことないです……あっ!」
顔を上げたクラリスがパッと表情を明るくする。男の持つ服を嬉しそうに指さし、「ほら!」と笑った。
「似合ってますよ!そうやって当てるだけでもわかるくらい……!先生、赤系が似合うと思ったから!ほら、初めて会った時の……あの着物も、綺麗な赤だったし」
「あー。……あれは僕のセンスじゃない」
男はそう言いつつ、持っていた服をクラリスに返そうと差し出した。
「とにかく。これはいいよ、君が着るなり返してくるなりして」
「えー……先生、本当に寒くないんですか?」
「君ら人間と違って、そんなにヤワに出来てないから」
男の顔と服を交互に見て。クラリスはしょんぼりとした顔で静かにそれを受け取り。
「ッ、クシュン」
「……あーっ!ほら先生!やっぱり寒いんですよ!」
そのくしゃみに一転して目を輝かせ、青くなっている男へと臙脂の服を押し付けたのであった。