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情報参謀の誕生

 昭和十九年十二月二十六日、山下奉文大将はマニラ北東三十五キロの山間地イポに第十四方面軍司令部を移動させました。およそ半数の司令部要員だけを従えての移動でした。

 合同会議においてマニラ解放を主張した山下大将は、率先してマニラを離れたのです。第十四方面軍の各部隊もマニラを離れ、持久遊撃戦に備えるために山間地に移動しました。しかし、第四航空軍や海軍陸戦隊はマニラ死守を叫び、マニラにとどまりました。各司令部間の意思疎通は悪く、もはや統率はバラバラに分解していました。まさに敗軍の様相です。フィリピン防衛が第十四方面軍の任務ではあったものの、第四航空軍や南西方面艦隊などは第十四方面軍の指揮下にはないのです。こうした指揮系統そのものが戦略破綻の遠因だったといえるでしょう。

 そのような状況下にあっても山下大将は最善を尽くしました。山下大将は第十四方面軍をマニラから退避させ、参謀たちを持久拠点に派遣して持久準備の指導に当たらせました。

 情報参謀堀栄三少佐は、山下大将とともにイポへ移動しました。イポでの山下大将は、すべてを達観したかのように穏やかです。ある夜、堀少佐は山下大将とふたりきりで話す機会を得ました。

「米軍のことを聞く」

 山下大将が質問しました。堀少佐は、これまでに調べてきた米軍知識を洗いざらい話しました。制空権の推進を基礎とした海洋島嶼戦術、充実した兵站、驚嘆すべき師団単位の交替制、日本軍に数倍する火力、艦砲射撃の破壊力、機甲化の進歩、土木工事の機械化など、アメリカ軍の優越性を安心して話せる相手は山下大将だけでした。相手を選ばず口にすれば「腰抜け」と罵倒されてしまいます。実際、すでに堀少佐は、心ない人々から「マッカーサー参謀」という陰口で呼ばれています。

 堀少佐は、アメリカ軍が大正期から連綿として対日戦と太平洋戦略を練り続けてきたことを付言して、日本陸軍が太平洋方面の防備を閑却した事実を述べました。

「確かにそうかも知れんな」

 山下大将は遠い目をし、往事に思いを馳せるかのように沈黙しました。やがて表情をあらためて語気強く言いました。

「堀少佐、それでは米軍には弱点がないのか」

「いや、あります。それは山岳です」

 堀少佐はレイテ島の戦いを例にして説明しました。山間部ではアメリカ軍も機械化兵器を思うように使うことができません。劣勢の日本軍が善戦できた理由はここにありました。もし、第十六師団と第一師団に十分な補給さえあれば、数倍の敵を押し返した可能性さえありました。堀少佐の意見を敷延すれば、ルソン島決戦には勝算があったことになります。山下大将はしみじみと語ります。

「われわれはフィリピンでやろうとしたことを何ひとつやらせてもらえなかった。そして、とうとう竹槍になってしまった。戦略はいったん失敗すると戦術でとりかえせない。だが、いまは天子様のご命令だ。できるだけ損失を少なくして、敵に多くの損失を与えて、最後まで働かなければならない」


挿絵(By みてみん)


 イポにおける堀少佐の新任務は、ルソン島北部の拠点バギオへ司令部を移動すべき日程を決定することでした。バギオはリンガエン湾の北方四十キロに位置し、ルソン島北部山岳地帯にある避暑地です。別名「松の都」ともいわれています。

 山下大将は、時間の許す限りイポに滞在して第十四方面軍を指揮します。その後、アメリカ軍のリンガエン湾上陸が開始される直前にバギオへ移動し、遊撃持久戦の指揮に当たるのです。司令部移動の時期は早すぎても遅すぎてもいけません。そのタイミングを誤れば、上陸してきたアメリカ軍と鉢合わせし、悪くすれば捕虜にされてしまいます。

 堀少佐はアメリカ軍の動きを注視しました。アメリカ軍の常套戦法は上陸前の執拗な空襲と艦砲射撃です。きたるべきリンガエン湾上陸でも同じことをするにちがいありません。その場合、空襲の目標はマニラとリンガエンを結ぶ交通施設になるはずです。道路や鉄道や橋梁を破壊して、日本軍の迅速な移動を阻止し、リンガエン湾への援兵を不可能にするのです。リンガエン湾からマニラまでは直線距離で百七十キロもあります。この地域の交通施設をしらみつぶしに潰すとなれば、アメリカ軍といえども五日ほどは要すると考えられます。堀少佐は諸事勘案の上、結論だけを具申しました。

「遅くとも一月三日にはイポを出発してください」


 レイテ島の日本軍が抵抗を終息させたのは昭和十九年の年末です。

(いよいよ米軍はルソン島リンガエン湾に攻めて来るだろう)

 そんなことを考えていた大晦日の夜、堀栄三少佐は、将帥たる者の心根に触れるような体験をします。

 イポの戦闘指揮所は壕内にありました。当然ですが、壕内では物音がよく響きます。そんな指揮所内の一室で応召兵らしい年配の兵士たちが雑談をしていました。話題は恩給と退職金です。金が入ったらどうするこうする、除隊したらどうのこうのという、たわいない話柄です。やがて興が乗り、話に花が咲いて騒々しいまでになりました。自室で情報整理をしていた堀少佐は、この雑談に思考を邪魔され、我慢ならなくなり、ついに怒鳴りつけました。

「おい!ここは戦場だぞ、不謹慎だろう」

 参謀飾緒の威光が効いて壕内は静かになりました。それから三時間ほどした頃です。堀少佐は山下大将に呼びだされました。

(何事か)

 と思った堀少佐は小走りで軍司令官室に向かいます。

「堀栄三少佐、まいりました」

 堀少佐が敬礼すると、山下大将は椅子から起ち上がって答礼しました。山下大将は、そのまま堀少佐に近づくと肩に腕を回して抱え込むようにし、堀少佐の耳元に小さな声でつぶやきました。

「堀よ、お前はまだ若いから、ああいった話は気に食わんのだろう。だがなあ、あの人たちの身になってみろ。無理もないのだ。あんな年配になって徴兵されてきているのだ。怒ってはいけない。いまにお前にもわかる時が来る。年をとったら人間は心細いものだ。恩給がどれほどありがたいか。あの人たちの中には赤紙一枚で何年間も戦場に身を置いている人もいる。赤紙一枚で何万人もの兵隊さんが死んでいったのだ。わかるだろう。いいな、心せよ、堀」

 山下大将は堀少佐の肩をゆさぶり、言い聞かせるような目をしました。

(この将軍は兵卒ひとりひとりの人生にまで心を配っているのだ)

 堀少佐は驚き、自分の短慮を恥じるとともに、おおいに感動し、この将軍のためにこそ死にたいと思いました。

 

 山下奉文大将は、堀少佐の進言どおり一月三日の朝にイポを出発し、各地の遊撃拠点を視察し、夕方、バギオに入りました。アメリカ軍の猛烈な空襲が始まったのは翌四日早朝です。堀少佐の読みは正確でした。

 マニラからリンガエン湾にいたる間の橋梁という橋梁が破壊されました。一月六日からは敵戦艦群による艦砲射撃が始まり、リンガエン湾付近の地上構造物がことごとく破壊されました。日本軍の被害は大きいものでしたが、それ以上に甚大だったのはフィリピンの一般市民の被害です。空襲も艦砲射撃も無差別攻撃だったからです。そして、いよいよアメリカ軍のリンガエン湾上陸がはじまったのは一月九日です。

 ほぼ二ヶ月前に堀栄三少佐が断定的に上申した予想は見事に的中しました。上陸地点も上陸日時もきわめて正確です。驚嘆すべきことといってよいでしょう。これ以後、陸軍内で情報参謀堀栄三少佐の名が高まります。

 アメリカ軍がリンガエン湾への上陸を開始すると、第十四方面軍司令部内に動揺が広がりました。激烈な砲声と炸裂音がバギオにまで間断なく響いてくるのです。動揺した一部の参謀は、長期持久遊撃戦略を忘却し、攻撃開始を進言しました。

「明日から大攻勢をかけるべきです」

 第十四方面軍に着任して間もない小沼治夫参謀副長は、たまりかねた様子で意見具申しました。小沼治夫少将は、かつて第十七軍の高級参謀としてガダルカナルの撤退戦を陣頭指揮した人物です。戦場での駆け引きには熟達しているはずでした。そのような人物さえ、眼前の戦況には動揺するものです。しかし、山下大将は冷静にこれを抑えました。

「いや、従来の方針どおり、永久抗戦の持久遊撃に徹する」

 その持久遊撃戦略とは、ルソン島北部の穀倉地帯カガヤン河谷を確保して食糧持久態勢を整えつつ、バギオに最前線基地を置くという構想です。すでに日本軍は、カガヤン河谷への中継地バヨンボンに三千五百トン、バギオに三千五百トンの物資を運び入れています。持久戦略を今さら変えて右往左往すればレイテの失敗をくりかえすことになります。

 とはいえ、リンガエンに殺到した敵軍を放置したわけではありません。山下大将は戦車第二師団に敵軍の迎撃を命じていました。リンガエン湾周辺は平坦な地形であり、戦車の機動に適しています。そして、山間地での遊撃戦に移行したのちには戦車師団の用途は少ないのです。山下大将は、虎の子の機甲師団を出し惜しみせず、リンガエンに投入しました。

 翌日、堀少佐は部下とともにトラックに乗り、バギオから三十キロほど南下し、リンガエン湾を見渡せるロザリオの高地に立ちました。偵察です。眺めると湾内はアメリカ軍の艦艇で埋めつくされています。五百隻もあるかと思われました。上陸用舟艇がひっきりなしに行き来しています。三十キロほどもあるリンガエンの海岸線には物資集積所が何十ヶ所も置かれ、物資が小山をなしています。戦車や装甲車が内陸部に向けて進撃していきます。歩兵部隊が幾筋もの蟻の行列のように行軍しています。日本軍の反撃は散発的に見え、上陸作業にはなんらの遅滞もなさそうです。

 そのとき、リンガエン湾の上空にたった一機の日本軍機が飛来しました。特攻機のようです。アメリカ艦隊の対空砲火が火を噴き、次の瞬間、空が暗くなりました。

(これか)

 堀少佐は、はじめて得心しました。ウエワクの寺本中将や鹿屋飛行場の陸軍飛行少佐が話していた「空が暗くなるほどの防空弾幕」とはこれだったのです。何億何兆という防空砲弾がたった一機の日本軍機を撃ち落とすために発射されています。すさまじい爆音とともに砲弾が炸裂し、その爆煙は空の暗幕となりました。日本軍機は爆煙の向こう側に隠れて見えなくなり、文字どおり木っ端微塵になりました。

(これが現実か。やはり海軍航空隊の大戦果は虚報だったのだ)

 堀少佐は確信しました。空高くひかれる銃砲弾の弾幕に、あらゆる航空機は捕まってしまいます。


 戦車第二師団の攻撃は、決して緩慢なものではありませんでした。戦車第二師団は日本陸軍最強の機甲師団であり、その戦力は戦車二百両、重砲三十三門、自動車一千両です。戦車第二師団は勇戦しました。しかし、制空権を握られているうえ、戦車の性能と物量において圧倒的に劣勢でした。

「隊長、命中しても貫通しません」

 戦車の砲手は悲痛な叫びをあげました。一方、アメリカ軍戦車の砲弾は、いとも簡単に日本軍戦車の装甲を貫通しました。それでも戦車第二師団は、およそ一ヶ月のあいだ抵抗を続けます。そのおかげで第十四方面軍の各部隊は遊撃持久態勢を整える時間を稼ぐことができました。


 堀少佐に対して帰任命令が出たのは、リンガエンの戦闘がたけなわの昭和二十年一月二十二日です。

「ここに置いてください」

 堀少佐は山下大将に願い出ました。このとき山下大将が堀少佐に贈った言葉は、部下に対する最大の賛辞でした。

「堀よ、おまえは本当によくやってくれた。おまえのような専門家がこんな所にいてはいけない。戦争はまだ続く。日本へ帰って本土決戦のために働いてくれ。山下個人の欲でおまえをここに置くことはできないのだ」

 堀少佐は同日中に小型機でバギオを出発し、カガヤン河谷の町エチャゲで朝枝参謀と合流し、機首を北に向けました。小型機は、ルソン海峡から台湾を目指して飛びました。


 フィリピンから帰国した堀栄三少佐は参謀本部に戻り、情報部第六課米国班に所属して対米諜報任務につきました。

 すでに日本軍は防戦一方となっています。太平洋方面から来襲するアメリカ軍の戦略爆撃機を監視することが米国班の最重要課題となっていました。日本列島は太平洋に横腹を曝しており、縦深に欠け、しかも主要都市は太平洋岸に集まっています。攻めやすく守りにくいのです。

 日本軍の本土防衛情報網は、電波警戒機レーダー、目視監視哨、監視艇、特殊無線隊(通信諜報)からなっており、なかでも電波警戒機に大きな期待がかけられました。しかし、レーダーには性能に欠陥があり、充分に機能しませんでした。むしろ有効だったのは特殊無線隊による通信諜報でした。

 米国班は、通信諜報を使ってアメリカ軍の戦略爆撃機部隊を監視しました。その情報を基礎としてアメリカ軍の空襲を予測しようと堀少佐は悪戦苦闘します。

 アメリカ軍戦略爆撃機の基地はサイパン、テニアン、グアムの各島に所在しています。その戦略爆撃機が発信するコールサイン(呼出符号)を精密に追跡することによって敵爆撃機部隊の動向を監視し、その行動パターンをつかむことができました。堀少佐らの努力によって正確な空襲警報を発令させることができました。しかしながら、日本軍には敵機を撃墜する能力がありませんでした。高度一万メートルという高高度から侵入するアメリカ軍の戦略爆撃機を撃墜できる戦闘機と高射砲を日本軍は備えていないのです。日本軍の防空能力を見切ったアメリカ軍は、意表を突いて低空爆撃を実施したりもしました。このため日本中の都市という都市が焼け野原にされました。


「アメリカ軍の本土上陸作戦を予想せよ」

 堀少佐に困難な任務が与えられました。その実施時期、上陸地点、動員兵力を予測せねばなりません。情報参謀堀栄三少佐は、懸命の情報分析作業を続け、第一次上陸地点を志布志湾、第二次上陸地点を九十九里浜および相模湾と予想しました。戦後、堀少佐の予想の正確さにアメリカ軍は驚嘆しました。


「この動きは奇妙だなあ」

 米国班は、アメリカ軍の戦略爆撃機の奇妙な行動に気づいていました。単機で広島上空に飛来して何もせずに帰って行くのです。敵機の不思議な行動の意図を明らかにしようと堀少佐はさまざまに思索をめぐらせました。

(何かの準備行動か。それとも写真撮影か)

 米国班は情報収集に努めましたが、結局、敵の意図をつかむことはできませんでした。その意図とは広島への原爆投下だったのです。


 昭和二十年八月十五日正午、陸軍航空本部長の寺本熊市中将は玉音放送を聴き終えると、腹を十文字に斬り、頸動脈を断ち、さらに拳銃で脊髄を撃って自決しました。

 日本は敗北したのです。情報参謀堀栄三少佐の奮闘もむなしくなりました。とはいえ、その活躍は陸軍内で注目され、人々の記憶に残りました。昭和十八年十月に参謀本部情報部に配属されて以来、二年にも満たぬあいだの瞠目すべき成長と活躍でした。

 堀少佐が中心となって作成した「敵軍戦法早わかり」の真価は、フィリピン決戦では発揮されませんでした。しかし、硫黄島と沖縄では効果を現しました。日本軍守備隊は地下壕に潜んで敵の空襲と艦砲射撃をしのぎ、上陸するアメリカ軍を水際陣地から攻撃して損害を強い、そののちは内陸の縦深陣地を利用しつつ粘り強く戦い続けました。勝利は得られなかったものの、日本軍守備隊の全滅と引きかえに、アメリカ軍に多大な損害を与えました。その損害の大きさにアメリカ政府は驚きました。損害が膨らめばアメリカ世論は反戦に傾きます。

(これ以上の損害をだすわけにはいかない)

 アメリカ政府の危惧が、連合国のポツダム宣言となりました。昭和二十年七月二十六日のことです。

 ポツダム宣言は日本政府に対する条件付きの降伏勧告です。日本軍守備隊の頑強な抵抗がなければ、この降伏勧告はなかったでしょう。もし日本軍が無力であったなら、アメリカ軍は軽微な損害をものともせず、無人の荒野を征くように日本本土へ殺到したに違いないのです。ポツダム宣言を好機として鈴木貫太郎内閣は困難な終戦工作を成し遂げました。この意味において「敵軍戦法早わかり」は終戦に貢献したといえます。


 昭和二十年十月、堀栄三は郷里の奈良県西吉野村に戻りました。敗軍の将校を郷里の有志は歓迎してくれ、慰労の宴会を開いてくれました。ひととおり酒が回ると、どうしても戦争の話題になります。聞きたくてたまらないという顔をした村長が栄三に尋ねます。

「栄三さん、戦争に負けることは早くからわかっていたんでしょう。それなのにどうして今まで戦争を続けたんですか」

 すべての日本人の疑問です。なぜ、あれほどの苦難に耐えねばならなかったのか。徴兵、徴用、勤労動員、供出、重税、空襲、そして敗戦、支那事変以来の長く苦しい戦争でした。いったい何が起こっていたのか、日本人の誰もが知りたがっているのです。

「それは、開戦の詔勅に書いてあるとおりです。米英両国は、東亜の禍乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋制覇の非望をたくましうせんとす。与国を誘ひ、帝国の周辺において武備を増強して我に挑戦し、さらに帝国の平和的通商にあらゆる妨害を与へ、遂に経済断交をあえてし、帝国の生存に重大なる脅威を加ふ。隠忍久しきにわたりたるも、彼に交譲の精神なく、いたずらに時局の解決を遷延せしめて、此の間ますます経済上、軍事上の脅威を増大し、以て我を屈従せしめんとす」

 栄三は答えました。しかし、村長はそんな回答では納得しません。

「そんなこと言ったって、栄三さん」

 開戦の詔勅を聞かされたくらいでは納得のいくはずがありません。日本人の生活実感からは遠く離れた話しであり、実感が湧きません。しかし、栄三には、これ以外に答えようがありませんでした。そこを助けてくれたのは義父の丈夫です。

「村長、その質問は筋違いです。コレは軍人だったんだ。軍人は死ぬとわかっていても突撃せよと命令されれば突撃しなければならない。コレはただ命令に従っていただけです」

 それ以上の追求を村長はしませんでした。しかし、納得していない顔色でした。「なぜ」と問われても、佐官級将校に過ぎなかった栄三にはわからないのです。開戦や終戦の決断は、栄三などの与り知らぬ政府中枢の仕事だったからです。

 ただ、栄三には情報任務を通じて体得した実感があります。情報参謀としてアメリカ軍の戦法を調べ、アメリカ軍の用意周到さに驚嘆した経験からすれば、明らかにアメリカが準備万端を整えたうえで仕掛けてきた戦争です。それにひきかえ参謀本部には対米戦の用意が全くなかったのです。だからこそ栄三は情報参謀として苦心惨憺せねばなりませんでした。

(これはアメリカが日本にしかけた戦争だ)

 そう思いましたが、口にはしませんでした。敗軍の将は兵を語らず。これが日本軍人の価値観だったからです。


 占領軍は盛んに戦争の原因を日本国民に広報しました。敗戦国民に対するプロパガンダです。

(いったいなぜ戦争になったのか)

 連合国は、日本人の知的欲求を巧妙に占領政策に活用しました。占領軍は検閲、焚書、情報操作、戦争犯罪人の裁判、公職追放などを通じて日本人を洗脳していきました。真相を知らせるというかたちをとりながら、その実、真相を隠蔽しました。すべての責任を旧日本軍に背負わせ、大航海時代以来の西洋列強による帝国主義的罪悪、有色人種に対する虐殺と奴隷化、アジアやアフリカ諸国への侵略と植民地化などを免罪しようとしました。

 日本人は変わりました。変わらざるを得ませんでした。人間は環境に適応して生きています。権力者が変われば、それに合わせて生き方を変えねばなりません。源平の争乱、戦国時代の興亡、戊辰戦争など、権力移動のたびに日本人は態度を変えて生き延びてきました。そして、新しい主人はアメリカという外国権力です。


 マニラ軍事裁判が始まったのは昭和二十年十月です。終戦までルソン島北部で戦い続けた山下奉文大将は、日本の終戦とともに降伏していました。山下大将は法廷で起訴され、シンガポール華僑虐殺事件やマニラ大虐殺などの責任を問われました。いずれも捏造の罪状です。判決が出たのは昭和二十年十二月七日でした。死刑判決でした。翌年二月二十三日に刑が執行されました。

 かつて山下大将に親しく接し、その度量と識見に心服していた栄三は歯噛みする思いです。あの名将に大軍を与え、自由に駈け引きさせていたら、よほど大きな絵を描いたに違いないのです。それが、ありもせぬ罪状で死刑にされてしまいました。もとより敗軍の将ですから死は免れないかもしれません。ならば、ただ殺せばよいのです。栄三が嗅ぎ取ったのは、連合軍の巧妙な印象操作の仕掛けです。連合国は裁判を装い、正義の看板を掲げ、死者に汚名を着せ、いやらしくも自己を正当化しようとしているのです。

(日本海軍の虚報もひどかったが、連合軍の嘘はひどいうえに狡猾だ)

 情報参謀だった堀栄三の感覚は鋭敏に感応し、連合国の意図を察知しました。そもそも山下大将は、いち早くマニラ解放を宣言し、第十四方面軍をマニラから退去させていたのです。マニラ大虐殺など甚だしい謬見です。

(マニラを空爆したのはアメリカ軍だろうに)

 義憤を感じた栄三は文章を書きはじめました。売れるあてなどはありませんでしたが、「悲劇の山下兵団」と題して第十四方面軍と山下奉文大将の真実を書き記そうとしました。ところが、これを見とがめた義父の丈夫に一喝されてしまいます。

「負けた戦さを得意になって書いて銭をもらうな!」

 この時代の父親は偉いものでした。栄三は三十二才になっていましたが、否も応もなく筆を折りました。


 民主化という看板を掲げながら、その実、占領軍のやったことは日本の弱体化と共産化でした。昭和二十一年十一月、連合国の占領下で日本国民の総意とは関わりなく日本国憲法が発布されました。

「憲法よりコメだ」

 この時期、日本国民は誰もが生きるのに精一杯です。この空腹をどうするか、明日の食べ物はあるのかないのか、それが日本国民の関心事でした。生きるために女は身体を売り、男は魂を売り、子供は物乞いになりました。そんな日本人に憲法を考える余裕などありはしませんでした。

 堀栄三も例外ではありません。明日の糧を得るために義父とともに故郷で農作業にいそしみました。


「元大本営参謀堀栄三は連合軍最高司令部に出頭すべし。至急」

 西吉野村の役場に連合軍から電話がかかってきたのは昭和二十四年六月です。敗戦後、静かな山間の田舎に引っ込み、義父とともに果樹園を拓いて柿や梅を育ててきた堀栄三は正直なところギクリとしました。敗戦から四年が経とうとするこの時期、なお戦犯裁判は国内外で続いており、公職追放も続いています。出頭命令はただ事ではないと思われました。栄三にやましいところはありません。しかし、山下大将の例からわかるとおり、軍事裁判などは名ばかりであり、戦犯指定の証拠調べは実にいいかげんなものです。元陸軍少佐堀栄三が冤罪の法廷に引き出されても不思議ではないのです。役場の職員も心配顔です。

「今、農事多忙、七月にされたし」

 とっさの機智で栄三は電報を打ってみました。

「七月にのばす、委細文」

 こうして栄三は時間を稼ぎ、情報を集めました。


 昭和二十四年七月、堀栄三は久しぶりに上京しました。東京駅は大混雑しています。いまなお復員兵が続々と帰国しているのです。駅のホームは復員列車を待つ家族であふれかえっていました。

 堀栄三は連合軍最高司令部で尋問を受けました。

「アメリカ軍のルソン島上陸作戦や日本本土上陸作戦をなぜ正確に予想できたのか」

 尋問官はしつこく質問しました。アメリカ軍の暗号を解読していたか否か、重要機密書類を盗んでいたか否か、それを何度も訊かれました。

「暗号解読あるいは機密書類の入手がなかったら、あれほど正確な予想ができるはずがない。どうだ」

 高圧的な尋問です。その尊大な態度に栄三は気分を害し、憤然と言い返しました。

「そんなことができていたら戦争はこちらが勝っている」

 堀栄三は情報分析の作業手順を説明しました。過去のアメリカ軍の行動から一定の法則性を読みとり、最終的には敵軍司令官の立場から考究し、最善の戦術を選択した結果である、そう説明しました。しかし、尋問官は納得しません。なんど説明しても納得しない。知性的ではあっても傲慢な尋問官は確率論が好きなようでした。

「ルソン島上陸の日別確率をどのように考えていたか。六日、七日、八日、九日、十日のそれぞれに割り振ってみよ」

 栄三はあきれました。こちらがせっかく本当のことを話しているのに、聞く耳を持たないのです。この尋問官は、あらかじめ決めてある結論に合致する証言だけをしゃべらせたいらしい。

(こうなればヤケクソだ)

「九日が七十%、八日と十日が十%、残りがそれぞれ五%」

 栄三はデタラメに答えました。意外にも、このインチキ回答に尋問官は大きくうなずき、喜色を表して栄三を解放してくれました。人は聞きたいことだけを聞く、それがよくわかりました。このアメリカ軍の尋問官は、旧陸軍の頑迷な参謀たちとよく似ていました。

(米軍もたいしたことはない)

 栄三は西吉野村に帰りました。西吉野村は紀ノ川の南側、峨々たる紀伊山地の北端に位置します。険しい山地の村ですが、近畿の大消費地に近いため大正期から換金作物として柿の栽培が盛んです。

 敗戦国の旧軍人となった堀丈夫、栄三の父子は、平家の落人伝説よろしく紀伊山地の故郷に引っ込み、果樹栽培という第二の人生を歩み始めていました。ものを言わぬ果樹は、元軍人にやさしい。これが人間だと、そうはいきません。旧軍人に対する嫌味や中傷が世にあふれています。反論しても虚しく、黙って耐えるしかありませんでした。世は挙げて占領軍になびき、共産革命が明日にも起こりそうな世相であり、旧軍人の言葉に耳を傾ける人は居ませんでした。もの言わぬ果樹にこそ心を打ち明けられました。加えて農業には生産の喜びがあります。肉体を動かして汗をかくことは大好きであるし、植え付けた柿の苗が育ち、花が咲き、小さいながらも実をつけるのを見守るのは楽しものでした。命を育て食物を生産する仕事には充実感もあり、やり甲斐もあります。

 しかし、まだ三十代半ばの栄三には農村の平和な生活を何か物足りないと感じていました。陸軍幼年学校から職業軍人としての教育訓練を受け始め、陸軍士官学校から陸軍大学校まで過酷な訓練と課業に明け暮れ、満州や支那では騎兵として銃弾の下をくぐり、情報参謀となってからは情報戦の最前線で懊悩し、智略の限りを尽くしてきました。そんな栄三にとって、平穏な農村生活が退屈に感じられても仕方がありません。

 気になる連絡が届いたのは昭和二十五年の春です。

「至急上京されたし」

 服部機関からでした。服部機関とは、連合軍が日本再軍備の研究機関として設立したもので、その中心人物が服部卓四郎元大佐であることから服部機関と呼ばれていました。栄三は、在京の友人に依頼して状況を調べてもらいました。

「君を情報の専門家として欲しがっている」

 情報参謀堀栄三少佐の目覚ましい活躍は旧陸軍関係者に強い印象を残していたのです。しかし、栄三は迷いました。情報参謀としての能力が買われたことは正直にうれしい。とはいえ服部卓四郎といえば、いわゆる「奥の院」を住処としていた作戦参謀の大物です。フィリピンのルソン決戦構想を棄て、レイテ決戦を山下大将に強要したのも服部大佐です。栄三は丈夫に相談してみました。

「やめておけ。大失敗した連中が今からまた何をしようとしているのだ。服部はノモンハンでもガダルカナルでもサイパンでも失敗した男だ。性懲りもない。日本を敗戦に導いた人間たちは戦争指導に携わった連中だ。この人たちが責任を感じないでどうする」

 丈夫は明快です。丈夫は、旧軍人を戦闘軍人と戦争指導軍人とに峻別し、戦闘軍人の勇気を讃えてその死を悼む一方、戦争指導に関与した軍人たちを決して許そうとはしませんでした。栄三は丈夫に従いました。


 戦前も戦後も一貫して武士道的徳目を守って生きた堀丈夫は、昭和二十七年四月四日に死にました。

 同月二十八日、日本はようやく国権を回復しました。サンフランシスコ講和条約と日米安全保障条約が発効したのです。日米の戦闘は三年九ヶ月つづきましたが、アメリカの日本占領は六年七ヶ月の長きに及びました。この占領期にこそアメリカは真の戦争目的を果たしました。

 アメリカは日本を保護国化しました。アメリカの日本占領があと百年早かったら、アメリカは日本を容赦なく植民地化し、日本人を虐殺し、奴隷化し、日本列島の支配者として君臨し、白色人種の人種的優越を何百年も誇示したでしょう。しかし、極東軍事裁判で正義の看板をさんざんひけらかした手前、アメリカはかつてのように残酷な植民地政策を採用することができません。しかしながら、巧妙かつ慢性病的な仕掛けを日本社会に施しました。米国依存の安全保障体制と経済的搾取体制を日本に押し付け、そのことに日本人が疑問を抱かないよう歴史を捏造し、洗脳したのです。日本侵略による太平洋支配というアメリカの意図は巧妙に隠蔽され、すべては日本の軍国主義に責任があったとされました。日本人はいわれなき罪悪感にさいなまれ続けるよう動機づけられてしまったのです。

 奈良県の山奥にいても情報感度の鋭い堀栄三にはその様子がわかります。情報に対する耐性をもたない日本人があまりにも無防備に思えました。

(もうひと働きしたい)

 退役後の堀栄三は果樹栽培に人生を賭けてきました。そのことに悔いはないものの、何か割り切れぬものがありました。堀栄三少佐がやっと一人前の情報参謀になった頃、すでに日本軍は必敗の戦況下にありました。必死の情報分析は勝利に結びつきませんでしたし、活躍した期間もごく短かったのです。やり残した、という思いがくすぶっています。

 そんな堀栄三に声がかかったのは昭和二十九年です。ちょうど防衛庁設置法が成立し、保安庁が防衛庁に、保安隊が陸上自衛隊に、警備隊が海上自衛隊に改組され、新たに航空自衛隊が設立されていました。

 辰巳栄一元中将からの勧奨を受けた堀栄三は、自衛隊への入隊を決意しました。八年を越える丹精によってようやく豊富な実りを与えてくれるようになった富有柿の木々に別れを告げ、栄三は上京しました。すでに四十才になっていました。



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