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痛恨の戦略転換

 驚くべきことですが、マニラの第十四方面軍には何の相談もないままに、東京の参謀本部はフィリピン決戦の戦略転換を決めていました。参謀本部の判断は、台湾沖航空戦でアメリカ軍は大打撃を受けた今こそが攻勢の好機であるというものでした。そんなときにアメリカ軍がレイテ湾に上陸してきたのです。参謀本部は、攻勢に出るべきだと判断し、レイテ湾でアメリカ軍をたたくべきだ考え、フィリピン防衛戦略をルソン決戦からレイテ決戦へと転換したのです。重ねて書きますが、第十四方面軍には何の下相談もありません。

「台湾沖で敵機動部隊は壊滅した。地上決戦ルソンの既定方針に拘泥せず、フィリピン中南部における決戦を徹底する」

 参謀本部が戦略転換を決めたのは十月十八日頃だったようです。翌日、この戦略転換を第十四方面軍司令部に伝達するため、参謀本部作戦班長杉田一次大佐らが東京を発ちました。杉田一次大佐がマッキンレイの司令部に到着したのは十月十九日夜です。杉田大佐は、山下奉文大将に申告すると、直ちにレイテ決戦の命令を伝達しました。

「米機動部隊は台湾沖航空戦で壊滅的な打撃を受けております。いまこそ攻勢に出てレイテで決戦せよとの命令であります。第十四方面軍は大命を奉じて全力を尽くせ、とのことであります」

 悪夢が繰返されようとしています。海軍航空隊の大戦果という誤報、それを無邪気に信じて攻勢に転ずる陸軍、そして敵の反撃に遭い甚大な損害を出して敗退する最前線の陸軍部隊、こうした情勢判断の過誤と敗北の連鎖が、このフィリピンで再びくり返されようとしています。

 その悪夢の連鎖を断ち切るべく抵抗したのは第十四方面軍司令官山下奉文大将です。山下大将は、杉田大佐が伝達した大本営命令を受領しませんでした。すでに敵は眼前に迫っています。このときにいたってコロコロと戦略を変更するのは愚の骨頂です。これまで半年をかけて整備してきたルソン決戦の準備がことごとく水泡に帰してしまいます。それよりなにより、レイテ決戦の前提たる台湾沖航空戦の大戦果は虚報なのです。山下大将は狂おしく命令の受任を拒絶しました。

「杉田大佐、命令の前提たる台湾沖航空戦の戦果は誤報だ。マニラの憲兵隊が米軍捕虜の口から空母十二隻の名称を聞きだしておるのだ。そもそも東京での約束と違うじゃないか。決戦場はルソン島だけのはずである。どうしてレイテで決戦する必要があるのか。第一、レイテ、レイテというが、ここから六百キロも離れておる。輸送をどうする。船があるのか。船を出しても沈められたらどうする。待っておれば敵の方からルソン島へ来てくれるではないか」

 杉田一次大佐は反論ができませんでした。撃墜したアメリカ軍機のパイロットが十二隻の空母の名称を自白したという事実は、杉田大佐を驚愕させました。しかし、今さらどうすることもできません。大命は下っているのです。杉田大佐は内心の動揺を隠せませんでした。ただ、「すでに命令は下されました」と苦しげに言います。杉田大佐の立場では、そう言うしかありません。こんどは山下大将が沈黙しました。命令に納得したわけではありません。山下大将の沈黙は、無用な議論を避けるための沈黙でした。

 方面軍司令官が命令を拒否するなど、帝国陸軍史上かつてなかったことです。これをあえてした山下大将には確信がありました。捕虜となった米軍パイロットの口から米空母十二隻の艦名が語られており、台湾沖航空戦の大戦果は虚報だとわかっているからです。加えて、すでに敵軍が眼前に迫っています。この土壇場で右往左往して戦略を変更したりすれば、これまでの決戦準備がすべて無駄になってしまいます。レイテ島への急な戦力移動は、それだけで戦闘力の低下を招きます。山下大将は頑として命令を拒否し、伝達者たる杉田大佐を傷つけないように議論を避けました。


 捕虜となったアメリカ軍パイロットが十二隻の空母名を証言したという事実は、杉田一次大佐をひどく動揺させました。この事実を知るまで、杉田大佐は台湾沖航空戦の戦果を信じていたからです。ただし、海軍の戦果発表を鵜呑みにしていたわけではありません。発表された戦果の五割程度の戦果はあったろうと考えていました。そう信じるべき事情が杉田大佐にはあったのです。

 それは一ヶ月前の昭和十九年九月の大本営陸海軍首脳会議での出来事です。この会議に出席した杉田大佐は海軍に対して思いきった苦言を投げつけました。

「海軍は大戦果を大本営発表し、その都度、陛下から賀頌を受け、国民に好印象を与えている。しかし、開戦以来の戦果を合計すると米太平洋艦隊は消滅したことになる。これは矛盾である。敵は大打撃を受けているはずなのに進撃を止めない。わが軍は大戦果をあげているはずなのに後退している。何かがおかしい。海軍の戦果発表は陸軍の戦争指導にも極めて重大な影響を及ぼすのであるから、正確な戦果を発表なされるよう、厳に注意をお願いしたい」

 会議室の空気は凍りつきました。杉田大佐にとっては左遷覚悟の直言です。これに対して海軍作戦部長中沢佑少将が返答しました。

「まさにその点、反省しているところで、今後の戦果報告については現地に大本営参謀の専門家を派遣して厳重な検閲調査を行なうから了解されたい」

 そんな経緯があったのです。だからこそ、杉田大佐は台湾沖航空戦の戦果を半ばまで信じていました。それゆえにレイテ決戦にも納得していたのです。それが、まさか、舌の根も乾かぬうちに海軍が大虚報をふたたび発表するとは、さすがの杉田大佐にも想像できませんでした。

 杉田大佐にとって、山下奉文大将の抗命と反論は衝撃でした。その根拠が明確だったからです。米軍捕虜の証言によって米空母十二隻の健在が裏付けられています。

(我、誤てり。海軍はいったい、どういうつもりか)

 ですが、すでに大命は発令されてしまっています。いまさら取り消しようもありません。今はただ、沈黙して山下大将の抗命を見守るしかありません。軍司令官には独断専行の権限があります。ですから抗命がすぐさま罰せられるわけではありません。とはいえ、悪くすれば山下大将は憲兵隊に逮捕され、人事的に処分されるかもしれません。マレー作戦の英雄が、それではあまりにも無残です。杉田大佐は慨嘆しました。

(これは参謀本部の過誤だ。山下大将の責任ではない。山下大将の抗命が問題になった場合には山下大将を弁護しよう)

 杉田大佐は秘かに決意しました。


 この統帥上の正念場にあって、情報参謀堀栄三少佐は、まったく精彩を欠いていました。すっかり自信を失い、判断力を停止させていたのです。本来なら、台湾沖航空戦の大戦果が虚報であることを声高に訴え、戦略転換に反対すべきでした。しかし、杉田一次大佐を向こうに回して正面から議論する度胸がありませんでした。尊敬する先輩と見解を異にしたことが堀少佐を茫然自失にしていたのです。

(杉田大佐ほどの人がなぜだ。なぜレイテ決戦なのだ。俺が新田原飛行場から発信した電報を杉田大佐は読んでいるはずだ。それなのに、なぜだ。杉田大佐がレイテ決戦を支持しているとなれば、それは、俺が間違っていたことになる)

 堀少佐はすっかり動揺してしまい、弱々しく声を絞り出すのが精一杯でした。

「杉田大佐、新田原飛行場から私が送った電報をお読みではありませんか」

「新田原から?いや、知らん」

「そんな」

「何を言いたい。俺は忙しいのだ。要点を言え」

「ああ、いえ、失礼しました」

 堀少佐は黙ってしまいました。信頼する杉田大佐と見解を異にしたことが堀少佐をすっかり弱気にしました。おなじように杉田大佐も激しく動揺しており、自責の念から、議論するような余裕がありません。ふたりの情報参謀は、ふたりながら情報に振り回されて機能を失ってしまったのです。

 この切所にあって不動の山のようにルソン決戦構想を堅持したのは山下奉文大将でした。この一事を以てしても、山下大将は名将だったと言えるでしょう。ところが、大きな不幸が山下大将を襲います。

 山下奉文大将が戦略転換の命令を拒絶していると聞いて激怒したのは、南方軍総司令官寺内寿一元帥です。寺内元帥は大東亜戦争の開戦直前から南方軍総司令官であり続けています。かつて山下大将が第二十五軍司令官としてマレー作戦を遂行したときの上官が寺内元帥でした。

 もともと南方軍総司令部はシンガポールにあって東南アジア方面の作戦全般を指揮していました。その南方軍総司令部が、寺内元帥の意に反してマニラへ推進させられたのは昭和十九年五月です。総理兼陸相兼参謀総長の東條英機大将の命令でした。東條大将の意図は、南方軍総司令部に対する督励でした。この命令に南方軍総司令官の寺内元帥は大いに不満でした。寺内元帥は戦火の及ばぬ後方にとどまりたかったのです。実際問題として、司令部をマニラに押しだしたところで戦力にはなりません。寺内元帥がマニラに来てみると、案の定、アメリカ軍機の空襲に悩まされました。寺内元帥は不平不満をかくしませんでした。元帥の消極姿勢は南方軍総司令部全体に波及し、怠業が日常化しました。

 参謀本部から派遣された杉田一次大佐が南方軍総司令部を訪れたとき、総司令部には大尉参謀が一人いるだけでした。総司令官も参謀長も他の幕僚も宿舎に待機中だといいます。

(南方軍総司令部は真剣に作戦を検討していない)

 杉田大佐は直観しました。その怠慢は明らかでした。憤慨した杉田大佐は、ありのままを参謀本部に打電したほどです。

 そのように消極的な寺内元帥でしたが、レイテ決戦についてだけは実に積極的でした。そもそもレイテ決戦を主張し、参謀本部にこれを意見具申しつづけたのは南方軍総司令部です。ただ、その意図はフィリピン決戦の勝利とは別のところにあったようです。

 ルソン決戦が実施されればマニラは必ず戦場になります。この戦場から寺内元帥は去りたかったのです。去らねば戦火に巻き込まれて死ぬことになります。事実、サイパン島では中部太平洋方面艦隊司令長官南雲忠一中将や第三十一軍参謀長井桁敬治少将が戦死しています。

 戦死を避けたいが、決戦を眼前にして南方軍総司令官が逃げるわけにもいきません。だから、寺内元帥は決戦場をルソン島からレイテ島に変更しようと画策したのです。

 南方軍総司令部からの意見具申を参謀本部は愚かにも採用してしまいます。その根拠は台湾沖航空戦の大戦果でした。海軍の虚報を信じ、南方軍の意見具申を受け容れ、ルソン決戦からレイテ決戦へと戦略を変更したのです。寺内元帥にとっては思惑どおりだったでしょう。

 ときの参謀総長は梅津美治郎大将です。足かけ六年にわたって関東軍総司令官として満洲の静謐を守り通してきた梅津大将ではありましたが、去る七月中旬、サイパン失陥の責任をとって退任した東條英機大将にかわって参謀総長に就任したばかりです。梅津大将は、太平洋方面の戦況には必ずしも精通していなかったのです。これが山下大将にとっての悲運となりました。ルソン決戦を望む山下大将にしてみればレイテ決戦など愚策でしかないのです。

(これでは勝てる戦さも勝てなくなる)

 半年間にわたるルソン決戦準備が無駄になるし、レイテまでの軍隊移動が戦力を弱めてしまいます。山下大将はレイテ決戦を頑として受令しようとしませんでした。

 これに激怒した寺内元帥は、十月二十二日、山下大将を南方軍総司令部に呼びつけて大喝し、厳命しました。

「元帥は命ずる。第十四方面軍は海空軍と協力し、なるべく多くの兵力をもってレイテ島に来攻する敵を撃滅せよ」

 こうなると山下大将は従うしかありません。相手が命令伝達の参謀であれば抗命もやりやすい。しかし、上級司令官から面と向かって命令されてしまうと、抗命できるものではありません。拒絶すれば、逮捕されるかもしれないのです。

 山下奉文大将にしてみれば、南方軍総司令部などはシンガポールあたりにいてくれた方がむしろありがたかったのです。そのほうが、山下大将に独断専行の余地が与えられます。独断専行は軍司令官の当然の権利です。命令が現状にそぐわない場合、軍司令官は独断専行してもよい。むろん、結果が悪ければ処分されますが、勝利すれば不問に付されます。要は勝つことでした。

 とはいえ、上級司令官から顔と顔をつきあわせて直々に命令されてしまえば、抗命もなしがたいものです。山下大将は泥土を呑み込むような思いで命令を受領しました。

 こうしてルソン決戦からレイテ決戦への戦略転換が決まりました。第十四方面軍司令部の参謀たちは急激な戦略変更に伴う性急な作戦変更と軍隊移動に忙殺されることになりました。


 一方、連合艦隊と陸海軍航空隊は、十月二十日に発令された捷一号作戦にしたがって海空から攻撃を敢行していました。レイテ沖海戦です。十月二十三日から二十五日にかけて実施された連合艦隊最後の艦隊決戦は惨敗に終わりました。しかし、またしても大本営海軍部はやらかします。二十七日に大戦果を発表したのです。

「撃沈、空母八隻、巡洋艦三隻、駆逐艦二隻等」

 海軍軍令部はどういうつもりだったのでしょうか。自らの虚報に自らが踊り、大敗し、また幻の大戦果を報じているのです。

 このレイテ沖海戦の大捷報を目にしても堀栄三少佐は躍動しませんでした。心理的動揺が収まらず、知的活動は完全に停滞していました。第十四方面軍の運命を決する関頭にあって、情報参謀堀栄三少佐のアンテナは完全に鈍磨していました。信頼する杉田一次大佐が台湾沖航空戦の戦果を信じ、レイテ決戦への戦略転換を支持していることが自信喪失の理由でした。

(あの杉田大佐の判断が誤っているとは考えにくい。だとすれば台湾沖航空戦も実は大戦果をあげていたのだ。レイテ海戦の戦果もどうやら本当らしい。俺はとりかえしのつかない大失敗をした)

 堀少佐は、自分が判断ミスを冒したと思い込み、完全に自分を見失いました。

(この俺が間違っていたのだ)

 杉田大佐に対する常日頃からの信頼が篤かっただけに、見解を異にした衝撃は大きなものでした。さらにいえば、堀少佐は、新田原飛行場から発信した電報を杉田大佐が読んでいると思い込んでいます。この点が双方の意思疎通を完全に破綻させていたのです。

(第十四方面軍の戦略判断を誤らせたのは自分だ)

 そう考えると、巨大な責任に押し潰されるような感覚にとらわれ、すっかり臆病になってしまいました。十万の日本軍将兵の生命を自分が奪ったように感じました。

 しかしながら、後世の視点から客観的に俯瞰すれば、堀少佐が悩む理由はまったくありません。台湾沖航空戦の戦果が誤報だったことは、捕虜米兵の証言によって証明されています。捕虜となった米軍パイロットが空母十二隻の艦名を吐いたのです。それなのに堀少佐は情報の迷宮で方角を見失い、混沌の泥沼に足をとられて虚実の判断力を喪失していました。情報参謀堀栄三少佐は未熟だったというしかありません。堀少佐は懊悩しました。


 そんな状態の堀少佐に辞令が届きます。参謀本部参謀を免ぜられ、第十四方面軍情報主任参謀に任ぜられたのです。自信喪失状態の堀少佐でしたが、命令が堀少佐の身体を動かしました。

「陸軍少佐堀栄三、今般、第十四方面軍参謀に任ぜられました」

 堀少佐は第十四方面軍司令部で山下奉文大将に申告しました。

「ご苦労」

 答礼した山下大将は椅子に腰をおろしました。その様子には、わずかばかりの動揺もありません。寺内元帥に罵倒され、不本意なレイテ決戦を受任させられた山下大将ではありましたが、堀少佐に接する態度はいつものとおりです。命令を受けた以上、レイテ決戦を実施し、その後はルソン島に決戦場を移して戦おうと腹を決めています。泰然たる山下大将の態度は、情報の混沌に幻惑されていた堀少佐を覚醒させました。統帥の本質とは、こういうことかもしれません。

「堀少佐、さっそくだが」

 山下大将はそう言うと、武藤章参謀長に目で合図しました。これをうけて、武藤参謀長は堀少佐に新任務を与えました。

「レイテはこれから激戦になるだろう。今後の推移を慎重に見守らなければならないが、遅かれ早かれ敵はルソン島に来る。いつ、どこに、どれぐらいの敵が来るか。君は冷静に、どこまでも冷静に考えてもらいたい。これが君への特命だ。口外厳禁」

 理想的なまでの情報要求です。このように具体的な情報要求が与えられてこそ情報参謀は活きるのです。自若とした山下大将の態度と具体的な新任務が堀少佐を動かします。堀少佐は迷妄を振り払い、その情報アンテナを新任務のために旋回させ始めました。


 第十四方面軍司令部情報課は総勢十二名の体制です。堀少佐はさっそく全員に「敵軍戦法早わかり」を講義し、米軍の常套戦法を理解させました。次いで、目標を明示しました。

「レイテ島の戦況把握とアメリカ軍の全般的行動把握が目標である」

 このふたつを明らかにすればアメリカ軍がルソン島に上陸する時期、場所、兵力などを予想できます。そのためには多種多様な情報を収集し、集積し、分析せねばなりません。アメリカ軍が、いつ、どこで、どんな活動をしたか、その情報を片端から収集し、それをデータ化し、統計化し、地図上に記し、何らかの相関を見つけ出し、そこに内在する因果を読み取らねばなりません。

 堀少佐は、米軍機による爆撃の日時と場所、偵察機の出現日時と場所、写真撮影用大型機の出現日時と場所、航空機からの物資投下が行なわれた日時と場所、敵艦隊や輸送船団の動き、親米ゲリラの分布と活動状況など、あらゆる敵軍の行動を部下に把握させました。また、無線電信も重要な情報収集手段として活用しました。味方の電信はもちろん、敵の通信を傍受しました。

 さらに堀少佐は、情報の共有化を図るために情報連絡会議を定例化しました。南方軍、第四航空軍、第十四方面軍、南西方面艦隊司令部、陸軍中央特殊情報部マニラ派遣部隊を一堂に会しての討議を毎日必ず開催することにしました。このうち特情マニラ派遣部隊とは暗号解読を任務にしている組織です。

 このほか太平洋全般の動向は大本営に問い合わせればわかります。マリアナ諸島、パラオ諸島、セレベス海方面におけるアメリカ艦隊や輸送船団の動き、航空部隊の進出状況などが必要です。また、アメリカ軍航空部隊の動きは、海軍の通信諜報によってある程度まで把握できます。敵機のコールサイン(呼出符号)を追跡するのです。

 それにしても、制空権を持たない第十四方面軍は情報戦においても圧倒的に劣勢でした。制空権を持つアメリカ軍は航空機の行動半径内を自由自在に偵察できます。偵察機の飛行半径が千キロとすれば、その圏内を空中から偵察できるのです。それにひきかえ第十四方面軍が偵察できるのは、現に占領している地域と、そこから視認可能な範囲だけです。本来ならば日本軍も偵察機を飛ばすべきでしたが、第四航空軍の偵察機は不足しており、まれに出動させても撃墜されることが多かったのです。海軍航空隊は台湾沖航空戦とレイテ沖海戦ですっかり消耗していました。第十四方面軍の情報収集態勢はアメリカ軍に比べて圧倒的に劣悪です。それでも、やれることをやるしかありません。第十四方面軍情報課の課員は誰も彼も不眠不休で任務を遂行しました。


 レイテ島では激戦が続いています。レイテ島に配備されていた第十六師団は、レイテ島中央の山岳部で何とか持ちこたえています。ですが、アメリカ軍は四個師団という圧倒的戦力であり、しかも後続部隊が陸続と上陸しています。

 日本軍も手をこまねいていたわけではありません。ミンダナオ島所在の第三十五軍はレイテ島へ援軍を送ろうとしました。しかし、海上輸送が成功しませんでした。敵機の空襲が海上輸送を阻んだのです。

 この情勢をみた第十四方面軍司令部は、レイテ島への増援をためらいました。レイテ決戦の命令を受領したとはいえ、山下大将はレイテ島への輸送が不成功に終わることをおそれていました。レイテ決戦は第十六師団に任せ、あくまでもルソン決戦にもっていく方が合理的です。ですが、これを許さないのは上級司令部です。レイテ決戦にこだわる参謀本部と南方軍は「第一師団をルソン島からレイテ島に急派せよ」としつこく第十四方面軍司令部に命令してきます。

 第一師団は、満洲から上海経由でルソン島に到着したばかりであり、まだ四隻の輸送船に分乗したままマニラ湾で停泊しています。これをレイテ島へ送れというのです。

 しかし、現実問題として、制空権のない海上を輸送船で七百キロ以上も航行せねばなりません。敵の航空部隊に好餌を与えるようなものです。山下大将は第一師団を輸送船上に待機させつつも、その輸送実施をためらいつづけました。

 そんな山下大将が翻意したのは十月三十一日です。この日、参謀本部作戦部長服部卓四郎大佐がマッキンレイの第十四方面軍司令部に到着しました。服部大佐は参謀本部の戦略転換を山下大将に伝達しました。さきに杉田大佐の命令伝達を拒否した山下大将は、作戦部長の服部大佐に強く念をおしました。

「大本営では本当にレイテ地上決戦と決まっているのか」

 服部大佐は答えます。

「しかり」

「本当だな」

「本当です」

「よし、わかった。やる」

 ここにおいて山下大将はついに第一師団をマニラ湾からレイテへ送り出しました。マニラ港を出た輸送船四隻、駆逐艦六隻、海防艦四隻は途中、敵機の空襲を受けながらも翌日には無傷でレイテ島オルモックに到着しました。その後、丸一日かけて揚陸作業を続け、十一月二日、ほぼ無傷で上陸を完了することができました。奇跡です。第十四方面軍司令部では、誰もが万に一つの奇跡だと思いました。ところが、参謀本部と南方軍は、これを奇跡とは思いませんでした。

「それ見ろ。レイテ決戦は大丈夫だ。第十四方面軍の腰抜けめ」

 悪態をつくだけでなく、さらに増援しろと命令してきました。

「引き続き第二十六師団と戦車第二師団をレイテに送れ」

 この二個師団をレイテ島に送ってしまうとルソン島の戦力はいよいよ弱体化します。ルソン決戦など夢のまた夢となってしまいます。山下奉文大将にしてみれば、いったい何のためにフィリピンまで来たのか分からなくなってしまいます。それでも上級司令部の命令です。山下大将はやむなく第二十六師団と戦車第二師団の一部をレイテ島に輸送すべく、その準備を下命しました。十一月四日のことです。

 第一師団のレイテ輸送が成功したのちも、第十四方面軍司令部はレイテ島への輸送を継続しました。食糧や弾薬をレイテ島に補給しつづけてやらねばなりません。そうしなければ第一師団と第十六師団は戦えないのです。ルソン決戦のために備蓄してあったルソン島内の糧秣および武器弾薬が次々とレイテ島へ輸送されていきました。しかし、この補給作戦は悲惨な結果となりました。大型輸送船はマニラを出港すると、その九割がアメリカ軍に沈められました。無事に輸送を完了してマニラに生還できたのは一割に過ぎません。中型輸送船の生還割合は二割でした。小型船にいたっては生還率三パーセントでした。激烈な輸送船の消耗とともに、ルソン決戦のために備蓄されていた武器弾薬糧秣がどんどん海没していきました。ルソン決戦戦略を堅持していれば生じなかった損耗です。第十四方面軍司令部の参謀たちは嘆きました。

「こんなバカバカしい戦争、やっていられるか。泣くに泣けない」

 もはやルソン決戦は不可能になりました。このため第十四方面軍司令部はルソン島での決戦戦略をすて、遊撃持久戦略を採用することとしました。山岳部に拠点を構え、遊撃戦つまりゲリラ戦を展開するのです。そのためには予めルソン島内の数カ所に防衛陣地を構築し、食糧、弾薬、人員等を移動させておかねばなりません。傷病兵も後送しておかなければなりません。その作業には、およそ二ヶ月が必要になると見積もられました。山下大将は、遊撃持久態勢の構築を部下に指示しました。


 この間、堀栄三少佐は懸命に考えつづけています。おおげさにいえば第十四方面軍の運命は堀少佐の判断にかかっています。圧倒的な心理的圧迫のもと、堀少佐は情報を整理分析し、敵の動きを読みとろうとしました。

(アメリカ軍の作戦間隔はおおむね一ヶ月半だ。十月二十日にレイテ島上陸が開始されたから、ルソン島上陸は十二月上旬に始まっても不思議ではない。しかし、アメリカ人はクリスマスを大切にする。クリスマス期間中の戦闘を避けるなら、ルソン上陸は来年一月に延期されるだろう)

 堀少佐は、アメリカ軍の立場からルソン島上陸作戦の図上演習を繰り返しました。アメリカ軍の戦法、陣容はほぼわかっています。そのうえでアメリカ軍にとっての最善策は何かを探ります。

(アメリカ軍は、レイテ島で六個師団を実働させている。そして、後方には待機中の予備師団が九個、休養中の師団が三個ある。これだけの予備戦力があればルソン島上陸がただちに始まっても不思議ではない。だが、アメリカ軍は常に圧倒的戦力をそろえてから攻勢にでる。無理をしない。つまりレイテ島の日本軍が頑強に抵抗している限り、ルソン島上陸はないであろう。第十六師団と第一師団がいつまでもちこたえるか、それが鍵だ)

 レイテ島の中央山地では、第十六師団と第一師団が果敢に戦っています。とくに、第一師団が十一月二日に奇跡的なオルモック上陸を成功させたことは、アメリカ軍をかなり慌てさせました。アメリカ軍の平文電報からその狼狽の様子が読みとれました。問題は、日本軍の抵抗がいつまで続くかです。艦砲射撃のとどかない山地戦はアメリカ軍の苦手とするところです。アメリカ軍はレイテ島へ増援部隊を投入します。その分だけルソン島上陸が遅れます。とはいえ、潤沢な戦力を有するアメリカ軍は必ずや遠からずレイテ島を制圧するにちがいありません。その後、ルソン島へ侵攻してきます。

(二月ということはあるまい。一月の可能性が高い。しかし)

 アメリカ軍のルソン島上陸が十二月である可能性も捨てきれません。また、第十四方面軍によるレイテ島への増援や補給が成功するか否かによってもアメリカ軍の行動スケジュールは変化します。

(いったい、どうなる、どうすればよい)

 堀少佐には、さらに難しい課題が与えられています。敵の上陸地点を予想せねばなりません。アメリカ軍はマニラ攻略を目指すはずですから、上陸地点はマニラ周辺の海岸線となります。いきなりマニラ湾に敵前上陸する可能性もあります。そのほか中西部のリンガエン湾、南部のバタンガス湾、同じく南部のバタヤン湾、東南部のラモン湾、やや狭いながらマニラに近いスービック湾もあります。

 これらの各湾に出現する米軍機の航跡頻度から、バタンガス湾、リンガエン湾、ラモン湾の三ヶ所に絞りこむことができました。偵察機や写真撮影機の出現頻度から見るとリンガエン湾の可能性が高く、親米ゲリラの活発さから見るとラモン湾とバタンガス湾の可能性が高いと思われました。

 つぎに兵要地誌はどうかと考えました。アメリカ軍が南部バタンガス湾から北上してマニラを目指す場合、平地における日米両軍の大会戦が予想されます。日本軍はマニラへと後退しながら戦い続け、マニラへと敗走し、マニラでの市街戦になります。マニラは廃墟と化すと予想されました。さらにマニラ陥落後、日本軍は北へ北へと逃げ、北部山岳地帯へ撤退して遊撃持久戦を挑みます。アメリカ軍の戦いは長引きます。

(これはアメリカ軍にとって愚策だ)

 ラモン湾上陸の場合、アメリカ軍はいきなり山岳地帯を縫って西方のマニラを目指すことになります。現にレイテ島の山岳戦で苦労しているアメリカ軍は、山岳戦を避けるにちがいないと堀少佐は考えます。

(ラモン湾の可能性は低い)

 では、リンガエン湾はどうか。リンガエン湾はルソン島西海岸のほぼ中央に位置し、中央平野と北部山岳との境目にあたります。アメリカ軍がリンガエン湾を制圧すれば、日本軍の北部山岳地帯への退避行動を抑止できます。マニラまでの進撃距離はやや長くなるものの、アメリカ軍は平地を南下してマニラを目指すことができます。日本軍がマニラ防衛のために平地決戦を選べば、これを撃退し、南部の海へと日本軍を追い落とすことが可能です。マニラ市街戦が生起する恐れはあるものの、ひとつの利点があります。それは、マニラの北を抑えることによって日本軍の補給線を断ち、台湾や支那からの増援を遮断することができます。また、日本軍がはじめから北部山岳地帯での遊撃持久戦を選ぶなら、アメリカ軍はマニラへ無血入城できるでしょう。

(おそらく敵はリンガエン湾にくる。日本軍がフィリピンを攻略したときもリンガエン湾から上陸した)

 リンガエン湾上陸の可能性が最も高いと思われましたが、それでも前提条件が幾つかあり、論理的思考だけではなかなか結論が出せません。堀少佐は沈黙する時間が長くなりました。あたかも棋士のような沈黙です。脳内では思考がたえまなく旋回しています。頭が充血したようになり、夜も眠れません。頭脳の熱が黒縁丸メガネを曇らせます。いくら考えても論理だけでは結論にたどり着けません。

(どこかで腹を決めねばならない。インテリゲンツは学問ではないのだ。その瞬間に役立たねば意味がない。これは目隠しの剣術だ。不確実性を呑み込め)

 決断が必要だと思いました。どこでどう思い切るか、それはもはや説明不可能な精神的領域での作業でした。


 ほぼ十日間にわたる不眠不休の情報分析作業から導き出した判断を、堀栄三少佐が第十四方面軍司令官に報告したのは十一月五日夜です。山下奉文軍司令官、武藤章参謀長、朝枝繁春作戦参謀に対し、堀少佐は断定的に報告しました。

「アメリカ軍は一月上旬末リンガエン湾に上陸。兵力は当初、五ないし六個師団、その後、三ないし四個師団が後続」

 敵の動きを予想するのが情報参謀の任務であるとはいえ、ほぼ二ヶ月先の敵軍の動きを、ここまで断定的に言い切るには度胸が要りました。しかし、断定的に述べるべきだと堀少佐は思いました。

(ああとも言えるし、こうとも言える、そうとも言えるし、どうとも言える)

 こんな報告は軍司令官をむしろ混乱させてしまいます。誰もが断定できないことを敢えて断定する、それこそが情報参謀の任務だと堀少佐は自分に言い聞かせました。

「一月上旬末とは?」

 質問が出ました。もっと具体的に言えというのです。

「具体的には六日以降十日までのあいだ、特に八日ないし九日です」

「上陸前に空襲と艦砲射撃があるか」

「あります。アメリカ軍は十一月中にミンドロ島に戦闘機用の飛行場を確保するでしょう。それがルソン島上陸の予兆になります」

 質問が相次ぎます。堀少佐はいちいち返答し、その根拠として情報課でまとめた図表を示しました。山下大将は堀少佐の報告を了承し、「明日の合同会議で第十四方面軍代表として報告せよ」と命じました。

 合同会議とは、大本営、南方軍、第四航空軍、第十四方面軍、南西方面艦隊が一堂に会する作戦会議です。山下大将の意図は、合同会議において敵軍のルソン島上陸予想日を明らかにし、ルソン島防備へと戦略を誘導し、第二十六師団のレイテ増援を中止するところにありました。レイテ島への第二十六師団増援を山下大将はなおためらっているのです。これに対して参謀本部と南方軍は強い不満を示しています。

 十一月六日の合同会議において、堀少佐は前日と同じことを報告しました。はたして反論が湧き上がりました。南方軍と航空軍の参謀は激しく堀少佐に反駁しました。堀少佐はいちいち根拠を示して説明します。しかし、説得は困難を極めました。

「そんなはずはない」

「考え方が消極的だ」

「参謀本部の見通しでは米軍のルソン進攻は三月だ」

 やたらと喚き散らします。彼らには論拠がありません。だから議論にならないのです。堀少佐の予想をこきおろす参謀たちの論拠は、参謀本部からの一片の電文にすぎませんでした。

「敵軍は来年三月までルソンに進攻できないものと予想す」

 フィリピンのマニラに身を置きながら、現地軍参謀として独自に判断しようとせず、参謀本部という遠隔地の上級司令部の権威にすがり、それを信念化してしまっているようです。例えていえば、マニラ気象台に勤めていながらマニラの天気を自分で予報しようとせず、東京気象台によるマニラの天気予報を信じるようなものです。情報というものの悪魔性がここにありました。

 堀少佐は情報課で整理した統計数値をあげ、図を示して再反論を試みます。そして、第二十六師団のレイテ増援はすでに手遅れであると結論しました。このとき堀少佐が示した図表のなかに、一個師団の保有する火力の日米比較がありました。比較するとアメリカ軍の火力は日本軍の二倍から三倍です。

「レイテ島の第十六師団と第一師団は善戦していますが、長くは保ちません。食糧弾薬を届けるべき輸送船が次々と撃沈されており、補給が不充分だからです」

「悲観的なことを言うな。キサマには必勝の信念がないのか」

「火力には火力、鉄量には鉄量で応じなければなりません」

「キサマは敗北主義者か。だからこそ第二十六師団を送ればいいではないか」

「ルソン島オルモックへの補給輸送は失敗つづきです。第二十六師団を載せた輸送船が空襲を受けたら戦う前に全滅です。輸送船の生還率はわずか一割前後なのです」

「キサマのようなヤツを消極参謀というのだ」

 これでは説明する気力も失せるというものです。教条的積極主義は陸軍の病弊でした。アメリカ軍のルソン島上陸時期についても、第二十六師団のレイテ島増援についても議論は収束しませんでした。第十四方面軍は輸送船団に対する敵の空襲を懸念しました。しかし、南方軍総司令部は第一師団の輸送が成功したことに自信を得ており、是非やれと言い張ります。

「腰抜け方面軍」

 そう言い捨てて、各司令部から参集してきた参謀連中は帰っていきました。

 その翌日、南方軍総司令部はマニラを去り、インドシナ半島サイゴンへと退避していきました。このことを第十四方面軍司令部参謀はむしろ喜びました。

「卑怯な。しかし、これでようやく、やりたいことができる」

 しかし、甘かったのです。南方軍総司令部は一片の命令を残していきました。それは第二十六師団のレイテ増援です。第十四方面軍司令部の参謀たちは唇を噛みました。

 十一月八日以後、数次に分けて第二十六師団の輸送作戦が実施されました。結果は惨憺たるものとなりました。人員だけはレイテ島に上陸できましたが、武器、弾薬、食糧がことごとく海没してしまいました。第二十六師団は海上移動しただけで実質的な戦力を失ったのです。将兵たちを待っていたのはアメリカ軍ではなく、飢餓でした。船団護衛にあたった南西方面艦隊にも多くの損害が出ました。


 合同会議では散々に罵倒された堀栄三少佐の情勢判断でしたが、第十四方面軍司令部はあくまでも堀少佐の判断を信頼してくれました。堀少佐の情勢判断に立脚して第十四方面軍の作戦参謀はルソン島遊撃持久戦略を具体化させていきます。ルソン島の残存戦力を三分し、ルソン島北部、マニラ北東部、マニラ北西部の山岳部に配置して持久戦を挑むのです。ルソン三大拠点持久戦略です。第十四方面軍はこの持久戦略を参謀本部と南方軍に伝達し、承認を請いました。しかし、上級司令部はこれを喜ばず、なかなか認可しませんでした。

 参謀本部がようやく第十四方面軍の遊撃持久作戦を認可したのは驚くべきことに十二月十九日でした。レイテ島では十二月十五日に日本軍の兵站拠点オルモックがアメリカ軍に制圧されており、レイテ決戦の敗退が決定的になっていました。あまりにおそい参謀本部の判断です。むろん、第十四方面軍は独自の判断でルソン遊撃持久戦の準備を進めてはいます。それにしても参謀本部の作戦指導には冴えがありませんでした。

 皇居に参内し、天皇陛下から親しく第十四方面軍司令官に補されてフィリピンに着任した山下奉文大将は、上級司令部に干渉されつづけ、結局、なにひとつ思いどおりのことができませんでした。参謀本部と南方軍は、山下大将の建言をことごとく否定しました。ルソン決戦を否定してレイテ決戦を強制し、ルソン決戦のための兵力を山下大将から奪いました。さらに長期持久の準備にさえ同意してくれませんでした。それでいて満足な補給も増援も与えないのです。やむを得ぬ諸情勢があったとはいえ、マレー電撃戦の名将はなぶり者にされたといってよいくらいです。


 昭和十九年十二月、参謀本部で人事異動がありました。参謀本部作戦部長は服部卓四郎大佐から宮崎周一中将に代わりました。就任したばかりの宮崎中将は、十二月二十五日、フィリピンの戦況を視察するためにマニラを訪れ、山下奉文大将と懇談しました。山下大将は宮崎中将にありのままを伝えました。宮崎中将は、かつて第十七軍参謀長としてガダルカナル島撤退作戦を指揮した人物です。現地軍の苦労をよく知る宮崎中将には、山下大将の苦衷がよくわかりました。山下大将はようやく軍中央に理解者を得たといえます。しかし、すでに戦機は去っています。このとき山下大将は、梅津美治郎参謀総長への伝言を宮崎中将に託しました。その内容は次のとおりです。


一、レイテ作戦は統帥よろしきを得ないため遂に所期の成果を挙げること能わず、誠に申し訳なし。この点、衷心残念に堪えず。くれぐれもお詫び申し上げる。

二、今後の作戦は、持久作戦により敵戦力を消耗せしめ、最後には北部ルソンの要地を占拠してあくまで抗戦を持続し、皇国今後の作戦に貢献せんことを期す。

三、今後はできる限り長くねばり頑張ることが御国のためと確信する。幸いに頑健であり、参謀長以下、参謀も立派な者を充実してもらって感謝している。


 恨みがましい言い訳をいっさいせず、むしろ感謝の言葉を添え、作戦失敗の責任をすべて自己に帰して詫びています。凡百の将軍にできる言行ではありません。

 


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