敵軍戦法早わかり
昭和十九年五月二日、杉田一次大佐は、参謀次長秦彦三郎中将に帯同して南方視察に向かいました。ビルマの首都ラングーンではビルマ方面軍司令部に立ち寄りました。ビルマ方面軍はインパール作戦を遂行中です。一ヶ月ほどで完了するはずだったインパール作戦は長引いており、終結の見込みのないまま戦線は膠着しています。しかし、ビルマ方面軍司令官河辺正三中将は楽観的な見通しを秦参謀次長に語りました。そのため秦中将も杉田大佐もひとまず安心しました。
その翌日のことです。ビルマ方面軍参謀の後勝少佐がインパール戦線の視察からラングーンに戻りました。後少佐の報告は最前線の惨状をあますところなく伝えるものでした。
「第十五軍は戦力、補給力ともに欠乏し、気候をあわせ考えると、作戦は雨期に入る直前の五月下旬までに打ち切るべきである」
この報告に接した杉田一次大佐は直ちに報告電文を起案し、秦参謀次長の決裁を得て参謀本部に打電しました。
「インパール攻略は至難」
これをみて、作戦継続を望んでいたビルマ方面軍司令部はあわてます。ただちに別の参謀を選抜してインパール戦線に派遣し、その報告に基づくかたちで作戦続行の意思を参謀本部に打電しました。
「インパール攻略近し」
五月二十日、帰国した秦彦三郎参謀次長は東條英機参謀総長に呼び出され、きつく叱責されました。総理、陸相、参謀総長などを兼任している東條英機大将はインパール作戦の成功に多大な期待を寄せていたのです。インパールの最前線では日本軍とともにインド国民軍が戦っています。この事実がインド国内に伝われば、インド全土に反英運動が巻き起こるであろうという期待がありました。その政略的効果が発揮されれば、大英帝国はインドを失うことになります。これがインパール作戦の真の狙いだったのです。だから、インド国内に反英運動のうねりが生じるまでインパール作戦を継続する必要がありました。東條大将が秦参謀次長を叱責した理由はここにありました。
杉田一次大佐もやはり激しく叱責されました。帰任した杉田大佐が参謀本部作戦課に入室すると、いきなり怒鳴りつけられました。
「この馬鹿野郎!なんちゅうことをするんだ」
罵声の主は瀬島龍三少佐です。瀬島少佐は杉田大佐に矢立を投げつけさえしました。出世する男とは瀬島のような男です。東條英機参謀総長が杉田大佐起案の電文を見て激怒した。その怒りを代弁したのです。少佐が大佐を叱責するなど軍隊では通常ありえないことですが、瀬島少佐の背後には東條大将がいます。この不毛な叱責はしばらく続きました。そこには理知的な論理もなければ、現実的な戦況の検証もありません。ただ「畏れ入れ」と疾呼するだけです。
「東條閣下がお怒りだ、どうしてくれる」
それにしても、参謀本部作戦課という最高統帥組織における意思疎通の拙劣さこそは、歴史の反省材料です。まるで江戸時代のお代官様と民草のやりとりです。近代国家日本の陸軍中枢たる参謀本部作戦課内における会話がこれでした。杉田大佐は屈辱に耐えました。心中、不愉快に決まっています。ですが、これが一種の儀礼に過ぎないことも杉田大佐は承知しています。要するに御白州の芝居なのです。過ぎてしまえば何でもない。とはいえ、瀬島少佐の罵声は、ただでさえ緊張している参謀本部の空気をさらに堅くしました。瀬島少佐の罵声は情報部の方にまで響きます。
(杉田大佐ほどの人が)
事情を知らぬ堀栄三少佐は情報部から作戦課の様子をうかがい、杉田大佐を気の毒に思いました。ソ連課で失敗した堀少佐を温かく迎え、ここまで指導してくれたのは杉田大佐です。堀少佐は恩義を感じており、何とかしたいと思いました。しかし、他部門のことでもあり、口の出しようがありません。
情報参謀たちは作戦課のことを「奥の院」と呼んでいます。作戦参謀たちの横暴、傲慢、傍若無人、そして他者を寄せつけぬ排他性に対する隠語です。作戦課にはヨソ者を寄せつけぬ異様な雰囲気がありました。事実、堀栄三少佐は作戦課に一度も立ち入ったことがありません。立ち入り禁止の規則があるわけでもなく、貼り紙や立て札があるわけでもないのに、入室を躊躇させる何ものかがあり、参謀総長でさえ入室をためらうほどでした。
この「奥の院」は、平時にはまったく権勢と無縁の存在でした。平和な時代、作戦参謀たちは飽きもせず、だれにも注目されない作戦研究に熱中していました。起こりもしない戦争について、あれこれと作戦を練っていたのが作戦課です。重要かつ機密性の高い任務であるにせよ、一種の神学論争のようなものです。だから平時には、むしろ予算編成権を持つ参謀本部総務部や陸軍省軍務局が権勢を振るいました。
この事情を一変させたのは戦争です。戦争が始まれば、予算などは青天井になります。重要なのは作戦です。敵を屈服させるための作戦が起点となり、編成や予算や人事が決められていきます。作戦参謀の権威は高まりました。しかも支那事変勃発から戦争が長引いたため作戦参謀の高慢が常態化し、情報軽視が甚だしくなっています。その渦中に飛び込んだ杉田一次大佐が苦労するのは当然だったといえるでしょう。
堀栄三少佐ひきいる米軍戦法研究班の研究は概ね完成していました。この研究成果を全陸軍部隊に普及させるために冊子を作成して配布することはすでに決定しています。ですが、英米課の新課長たる江湖要一大佐は印刷に待ったをかけました。米軍戦法研究班の成果が原稿として完成したのと時を同じくして、マリアナ諸島方面の戦況が緊迫化しています。江湖大佐は決断し、印刷を延期させました。
「画竜点睛を欠かぬよう、サイパン、テニアン、グアムの戦訓を採り入れよう」
正確さを期すか、迅速さをとるか、難しい判断でした。堀少佐は江湖大佐の判断に従いました。ちなみに、印刷されるべき冊子の表紙には「米軍戦法早わかり」という題名がついていましたが、江湖大佐は「敵軍戦法早わかり」の方が良いとしました。
「敵軍戦法早わかり」に最新の戦訓を採り入れるべく、堀少佐をはじめとする米軍戦法研究班の班員は中部太平洋の戦況に注目しました。
きたるべきマリアナ決戦について、陸軍参謀本部も海軍軍令部も概して楽観的です。海軍軍令部は自信満々です。基地航空部隊と空母機動部隊による重層的な航空攻撃によってアメリカ艦隊を粉砕できると考えていました。陸軍参謀本部作戦課も勝って当然という雰囲気でした。
「マリアナには絶対の確信がある」
そう豪語したのは作戦課長服部卓四郎大佐です。
「サイパンには戦略単位の戦力を展開できる。だから勝つ」
そんな意見を吐いた作戦参謀もいます。アッツ、マキン、タラワ、ペリリュー、アンガウルなど、これまでは小規模の守備隊が全滅させられてきましたが、サイパン島には第四十三師団が配備されています。戦略単位の戦闘ならば決して負けない、という根拠不明な論拠でした。
「作戦正面一キロあたり三門が普通のところ、第四十三師団には五門の砲を与えてある。大丈夫だ」
という意見もありました。火力を敵軍との比較で検討せず、自軍の基準を上回っているから大丈夫だという独善的な意見です。さらに、こんな意見さえありました。
「そもそもサイパンにまで米軍は来るのだろうか?」
連合軍は欧州戦線でノルマンディ上陸作戦を敢行した直後です。はたして太平洋方面で大規模な上陸作戦を発起する余力があるのだろうか、否、ないはずだという見解です。この意見を仄聞した堀少佐は、内心、作戦参謀たちの想像力の欠如を罵りました。
(第一次世界大戦時、アメリカは欧州戦線に二百万もの陸軍部隊を派遣した。その事実を忘れたか)
堀栄三少佐は、これまでに調べ上げた研究成果に基づいてアメリカ軍の行動を予想し、実際のアメリカ軍の動きと見くらべています。
(アメリカ軍は戦法どおりに動いている)
堀少佐は秘かに喜びました。敵の動きをほぼ予想できるからです。そして、サイパン島の失陥を予測し、憂慮しました。サイパン島は広いといえば広いのですが、それでも東西五キロ、南北二十キロに過ぎません。全島が敵戦艦の艦砲射撃の射程圏内に入ってしまいます。
(第四十三師団の砲兵部隊は空襲と艦砲射撃でほとんど沈黙させられてしまう)
堀少佐の予想は正確でしたが、この正確さは日本軍にとっての悲劇です。大正期以来、太平洋での戦法を研究してきたアメリカ軍は、サイパンはおろか日本本土にまで侵攻するにちがいないと堀少佐は考えています。それほどにアメリカ軍の兵力展開能力はすさまじいのです。第一次大戦時、アメリカは宣戦布告から一年あまりで百万の兵力を欧州戦線に展開させ、その半年後には二百万を動員しました。
(作戦課の対米認識は根本から誤っている)
堀少佐は叫びたい衝動にかられましたが、沈黙を守りました。作戦課と議論したところで押し問答になるだけでしたし、今さら作戦の立て直しなどできないからです。さらには、驕りたかぶった「奥の院」の作戦参謀にはそもそも聞く耳がありません。聞く耳があれば、杉田大佐の意見が通っているはずでした。堀少佐は、日本軍の勝利を願いながらも作戦参謀の作戦指導に疑念を向け、敗北を予想しました。なんとも複雑な心境です。
サイパン島守備隊の主力たる第四十三師団がサイパン島に上陸したのは昭和十九年五月十九日でした。輸送船団が敵機の攻撃を受け、その一部が沈没したため、兵力は一万六千名から一万三千名に減じていました。師団長の斎藤善次中将はただちに陣地構築を命じましたが、アメリカ軍によるサイパン島空襲が始まったのは六月十一日でした。結果的に準備期間は二十日ほどしかなく、第四十三師団は充分な陣地構築ができませんでした。
アメリカ軍機の波状的空襲は三日間続きました。空をおおうような爆撃機の大編隊が爆弾を雨あられと投下し、戦闘機が低空に飛来して機銃弾を浴びせました。六月十三日からは艦砲射撃も加わりました。その戦力は戦艦八隻、巡洋艦二隻、駆逐艦二十二隻です。米軍戦法研究班では、戦艦一隻の艦砲射撃能力を五個師団分の火力に相当すると計算していました。つまり、サイパン島は四十個師団分の砲兵に包囲攻撃されたのも同然です。
アメリカ軍の上陸は六月十五日に始まりました。海兵二個師団と陸軍一個師団、およそ六万名の兵力です。日本軍守備隊は水際決戦を企図しましたが、すでに空襲と艦砲射撃で大損害をこうむっていたため、上陸するアメリカ軍を押し返すことができません。アメリカ軍は、上陸初日に幅十キロ、奥行き一キロの橋頭堡を確保しました。
この日、参謀本部作戦課内には第四十三師団長斎藤義次中将を罵倒する声が満ちました。
「軟弱者め」
堀栄三少佐は、現場指揮官を後方で罵る作戦参謀たちの卑怯な態度を横目に見ながら、あらゆる情報に注意を払い、アメリカ軍の動きを注視し続けました。アメリカ軍の戦法に特筆すべき様子はありません。常套戦法を忠実に守っているようです。堀少佐にはアメリカ軍の動きが面白いように読めるのです。
(よし、いけるぞ。米軍戦法研究は成功だ)
堀少佐は自信を得ました。
サイパン島が玉砕したのは七月六日です。第四十三師団には陣地構築の時間的余裕がありませんでした。やむなく水際決戦を企図したものの、空襲と艦砲射撃で大打撃を受けてしまい、最後は白兵突撃を敢行して全滅を早めました。
「暗号書類その他の機密書類、遺憾なく処理せり、将来の作戦に制空権なきところ勝利なし、航空機の増産活躍を望みてやまず」
玉砕の前日、第三十一軍参謀長井桁敬治中将から参謀本部に届いた決別電報です。「制空権なきところ勝利なし」とは、まさにそのとおりでした。日本軍とてわかっていたのです。
だからこそ連合艦隊は、制空権を回復しようと六月十九日から二十日にかけて海上決戦を挑みました。連合艦隊の戦力は、空母九隻、戦艦五隻、巡洋艦十一隻という大戦力です。しかし、アメリカ太平洋艦隊の主力は空母十五隻、戦艦七隻、巡洋艦八隻という圧倒的戦力でした。史上最大の艦隊決戦となったマリアナ沖海戦でしたが、アメリカ海軍の圧倒的勝利となりました。その様子は参謀本部でも把握できました。戦場の軍艦から発信される無線を陸軍は傍受していたからです。連合艦隊は空母三隻、航空機四百機を失いました。これに対し、アメリカ側には一隻の損害もないようでした。
かねてより海軍の戦果発表に疑念を抱いていた堀少佐は、大本営海軍部の発表に注目しました。六月二十三日の発表は次のとおりです。
「敵航空母艦五隻、戦艦一隻以上を撃沈破、敵機百機以上を撃墜せるも決定的打撃を与ふるに至らず」
海軍の発表が信用に価しないことがハッキリしました。もっとも陸軍の発表も似たようなものです。全滅を玉砕と言い換え、必要以上にその勇壮さをたたえています。
この後、テニアン島は八月一日、グアム島は八月十日に相次いで陥落しました。テニアンは一週間、グアムは二十日間しか抵抗できませんでした。
(陣地構築の時間的余裕を確保し、戦法を工夫すればもっと耐えられるはずだ)
最新の戦訓を採り入れた「敵軍戦法早わかり」を一刻も早く完成させるため堀少佐は黒縁丸メガネの汗を拭きつつ作業に没頭しました。
念願の「敵軍戦法早わかり」が完成したのは昭和十九年九月です。できあがった冊子は全八十一頁、九章からなり、写真、図表、地図を挿入して誰にでも分かりやすいよう工夫がほどこされています。米軍の戦法を解説するとともに、実戦例から得た米軍の数量的諸元を図表にまとめてあります。この諸元があれば、それぞれの戦場において司令部参謀は敵の戦力や戦法を予測できるのです。
(開戦前にこれがあったら、いや、あるべきだった)
できあがった冊子を手にとり、頁をめくりながら堀栄三少佐はしばし感慨にひたりました。対米戦研究を怠ってきた参謀本部は、開戦から二年以上経過してようやくアメリカ軍の基礎知識を前線将兵へ周知しようとしています。この遅滞ぶりこそが島嶼守備隊の相次ぐ全滅の理由です。とはいえ、とにもかくにも米軍戦法研究班の成果はまとまりました。今後、敵に対する日本軍の抵抗力が向上するに違いありません。