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米軍研究

 昭和十八年十二月、前線視察から帰国した堀栄三少佐は米軍戦法研究班の班長となり、本格的な米軍研究に着手しました。班員は五名です。この頃、欧米課は英米課と名を代えており、組織も拡大して総勢七十名の体制になっていました。米国班、英国班、戦況班、地誌班、特殊情報係、庶務係に加えて、米軍戦法研究班がつくられたのです。

 堀少佐は既存文献の調査から始めました。寺本熊市らによってまとめられた「米軍の数字的記録」と渡久雄らによってまとめられた「欧州戦争における米国陸軍」は、どちらも大正末期の文献です。さらに、「米軍野外教令・上陸作戦」という英文の資料が書庫から見つけ出されました。これも大正期の文献です。昭和期の資料としては、杉田一次らによる「マル秘米国要覧」があります。ソ連軍や支那の文献に比べるとアメリカ関係の資料はわずかしかありませんでした。堀少佐は、それらの文献を班員に振り分け、精査を命じました。

 それにしても、この状況はいささか滑稽です。すでに対米戦争が始まって丸二年が経過しようとしているこの時期になって、最前線では将兵が苦戦しており、戦死、餓死、病死が続出しているまさにそのときになって、ようやく陸軍参謀本部は米軍戦法の研究に着手し、書庫から大正期の文献を引っ張りだして、そのホコリをはたいているのです。

(何たる手抜かりか)

 堀少佐は頭の片隅で思いましたが、愚痴っている暇はありません。一刻も早くやるしかないのです。これは堀少佐の責任ではありません。大正期以来、対米戦の研究を怠ってきた陸軍参謀本部の組織的かつ歴史的怠慢の結果なのです。寺本熊市中将のような知米家を中枢から外し、その建言を無視しつづけた歴代陸軍首脳の責任なのです。しかし、責任追及などをやっている場合ではありません。ともかく急げ、です。

 堀少佐は、諸文献からアメリカ軍の基本的な戦法の原理を割り出していきました。そして、実際の戦場におけるアメリカ軍の運用を確認し、その双方を照らし合わせることでアメリカ軍の戦法を把握しようとしました。米軍戦法研究班は、日米両軍が戦ったガダルカナル島、マキン島、タラワ島、ブーゲンビル島などの戦例を収集しました。また、駐日ドイツ武官クレッチメル少将に依頼してシシリー島やマルタ島の戦闘情報を入手しました。

 米軍戦法研究班は、理論と実戦の両面から精力的に研究を進め、昭和十九年二月までにアメリカ軍の運用と戦法をほぼ理解できるまでになりました。

(アメリカ軍はおなじ戦法をくり返している。敵の動きを読めるぞ)

 堀少佐は驚喜しました。戦場におけるアメリカ軍は、基本的な戦法を手順どおり忠実に踏襲して実施していることがわかってきました。つまり、今後のアメリカ軍の動きを予測することが可能です。しかし、これは糠喜びでした。厳然たる現実に気づいたのです。

(米軍の戦力は圧倒的だ。敵の動きを読めるからといってはたして勝てるかどうか)

 米軍戦法研究班が明らかにしたアメリカ軍の実態は、鬼面人を驚かすようなものではありません。むしろ拍子抜けするほどに平凡な戦術です。そこには何の神秘性も特殊性も外連味(けれんみ)もありません。ただひたすら合理的です。それがアメリカ軍の軍隊運用であるようです。

(この平凡さがむしろ恐ろしい。大軍に兵法なし、だな)

 黒縁丸メガネの汗を拭きつつ堀少佐は何度も確認しました。例えば、アメリカ軍は師団単位の交代制を採用しています。アメリカ軍の師団や海兵師団は、概ね一個師団二万名の編制です。師団および海兵師団は、ひとつの戦闘を終えると師団丸ごと後方へひきさがります。そして、四ヶ月間の休養、二ヶ月間の訓練、兵員の補充を実施し、新生師団として新戦場へと再投入されます。師団単位の交代制は、武田信玄も顔負けの大規模かつ戦略的な「車掛りの陣」です。つまり、アメリカ軍将兵はひと仕事すれば半年休めるのです。

 いったん出征したら戦争そのものが終わるまで転戦しつづけ、闘いつづけねばならない状況の日本軍の各師団とは比較になりません。実に恵まれた従軍環境です。こうした贅沢な師団運用を支えているのはアメリカの巨大な国力です。

 驚くべきは補給の充実ぶりです。たとえば被服補給の場合、アメリカ軍では三ヶ月毎に新しい被服が支給されます。戦場の一兵士を考えたとき、その兵士が現に着用しているものが一着、戦場後方の兵站基地に一着、輸送経路上に一着、米国内に一着と、一兵士あたり四着が常に準備されています。

 アメリカ軍では弾薬、兵器、糧食、衛生用薬品なども同様の発想で補給されており、戦場付近の兵站基地には常に出征部隊の四十五日分の物資が蓄積されています。最前線のひとりの兵士をささえるために、後方では十五名以上が勤務しています。

(兵站の規模が違いすぎる)

 一発の弾丸や一個の握り飯さえなかなか補給されない最前線の日本軍部隊とは比較するのも愚かしいほどです。まさに雲泥の差です。しかも、これは第一次大戦時のアメリカ軍の補給体制です。現在ではさらに充実していると考えねばなりません。

(勝てない)

 口には出しませんが、堀少佐はそう思わずにいられませんでした。日米の国力の格差をまざまざと見せつけられたように感じました。「よくも、よくも米国を相手にしたものだ」と寺本中将が口にした慨嘆の意味がようやく理解できました。

(しかし、反撃の手がかりはある)

 最前線の日本軍将兵がもっとも知りたがっているアメリカ軍の戦法については一定の法則性を見出すことができました。法則性というより、手順マニュアルです。アメリカ軍は手順どおりに動いているのです。

(だから付け入る隙もあるだろう)

 アメリカ軍が本格的な上陸作戦を実施するときには、必ず予備作戦が実施されます。それは上陸地点の近辺にある小島を占領することです。ガダルカナル島上陸前のツラギ島占領、ニュージョージア島上陸前のレンドバ島占領、ブーゲンビル島上陸前のモノ島占領などがその例です。「米軍野外教令」には次のように記述されています。

「主力の上陸に先行して、一ないし二の小島を占領するは有利にして、かつ必要なり」

 日本軍の立場から見れば、この予備作戦は本格作戦の予兆であり、敵の動きを予測する手がかりとなります。

 次いで上陸作戦となりますが、アメリカ軍は上陸前に念入りな偵察を実施します。上陸地点に敵軍が存在するのか、しないのか。存在する場合には、その兵力量はどれほどかを丹念に調べます。そして、敵軍が脆弱な場合には師団単位の戦力を奇襲上陸させ、迅速に橋頭堡を確保し、物資をどんどん陸揚げしつつ内陸へと軍を進めていきます。ガダルカナル島への奇襲上陸がまさにこれでした。

 大兵力の敵軍が上陸地を守備している場合、アメリカ軍は上陸前に徹底的な航空爆撃と艦砲射撃を実施します。空爆と砲撃を反復することで敵軍の陸上構造物をことごとく破壊してしまいます。例えばタラワ島の場合、太平洋上に浮かぶ糸くずのような珊瑚礁の小島を空母五隻、巡洋艦三隻、駆逐艦四隻で取り囲み、空襲と艦砲射撃を繰り返しました。空母艦載機による空爆は弾量九十トン、艦砲射撃は弾量三百六十トン、合計四百五十トンです。タラワ島の面積はおよそ百ヘクタールですから、一ヘクタール当り四トン半の弾量です。このためタラワ島の椰子林はすべての枝葉が失われて幹だけとなり、島中が弾痕の大穴だらけになりました。そこへ海兵一個師団およそ二万が上陸用舟艇に分乗して強襲上陸しました。日本軍の守備隊は、柴崎恵次少将の率いる海軍陸戦隊二千七百名でした。柴崎司令官からの最後の電報は次のとおりでした。

「艦砲と爆撃の支援のもと、敵は人員資材を揚陸、桟橋に通ずる南北の線で対戦中」

 おそらく日本軍はひとたまりもなかったに違いありません。アメリカ軍の戦法は、敵に十倍する戦力で津波のように攻め寄せる点にあります。

 「米軍野外教令」には、珊瑚礁に囲まれた島嶼に上陸する場合の手順が書かれています。珊瑚礁島嶼に上陸する際には、島の周囲にある珊瑚礁を事前に爆破しておき、上陸用舟艇の進入水路を確保します。よって、この爆破作業を確認できれば、敵の上陸地点を察知できます。

 アメリカ軍の戦法が明らかになるにつれ、堀少佐の心中にはひとつの確信が生まれてきました。

(アメリカ軍は何十年も前から準備し、訓練してきたのだ)

 そして、その準備してきた戦法をマニュアルどおりに実行している。同時に、戦争に対する認識が日米ではよほど異なっていると感じました。

(日本人は戦争をあたかも国家的な修行、あるいは民族的鍛錬だと考えている。困苦に耐え、寡兵で強敵に立ち向かい、卑怯な振る舞いをせず、飲まず食わずでも文句を言わず、一発一発の弾丸を惜しむように使い、進退窮まれば命をすてるものだと思っている。これに対してアメリカ人は、ベルトコンベア工場で自動車を組み立てるように戦争という業務を組織的に分担し、合理的な手順で坦々と遂行する。勝利の鍵は戦術や努力や精神ではなく、充分な兵力と物量を戦線に送り届けることであるらしく、あたかも公共事業かビジネスのように戦争を推進する)

 堀少佐がかねてから気にしていたブーゲンビル島沖航空戦とギルバート諸島沖航空戦に関する情報も入手できました。サンフランシスコ放送とブリスベーン放送を傍受した結果、アメリカ軍側は「損害なし」と発表していることがわかりました。日米のどちらかが嘘をついていることになります。

(真珠湾の甚大な損害さえ発表したアメリカだ。おそらく損害はないのだ。一方、わが海軍はミッドウェイの損害を隠している。はたして・・・)

 情報参謀というのは因果な任務です。味方の情報さえ疑ってかからねばなりません。堀少佐はこの疑念を心中に秘し、口外はしませんでした。


 米軍戦法研究班の成果は徐々に形になってきました。英米課長の杉田一次中佐は、堀少佐らの努力をねぎらい、激励しました。

「この成果を冊子にして太平洋戦線の陸軍部隊に配布せねばならない。もうひと踏ん張りしてくれ」

 しかしながら戦況は容赦なく深刻化し、冊子の完成を待っていられなくなりました。

「堀少佐は大連に出張せよ」

 杉田中佐からの命令です。大連には第十四師団が集結しています。第十四師団は関東軍から抽出されて太平洋方面に転用されるのです。

「第十四師団は対ソ戦については研究と訓練を重ねてきたが、米軍のことは知らない。南洋の珊瑚礁にも不慣れである。冊子は間に合わないが、ともかく君が行って教えてこい」

 昭和十九年三月、堀栄三少佐は、作戦課の朝枝繁春少佐とともに大連へ飛びました。これまで情報参謀と作戦参謀が行動を共にすることはほとんどありませんでした。その慣例を破ったのは杉田中佐の努力のたまものです。作戦参謀は優先的に輸送機を利用できます。作戦参謀と行動をともにすることで、情報参謀もその恩恵に浴することができるのです。

 大連に飛んだ朝枝少佐と堀少佐は、関東軍官舎の大広間に向かいました。そこに第十四師団の大隊長以上が集合しています。まず朝枝少佐が戦況と島嶼防衛作戦について説明し、次ぎに堀少佐がアメリカ軍の常套戦法を解説しました。堀少佐は、上陸前の空襲と艦砲射撃の激しさを語り、いかにしてこれに耐えるべきかを述べました。

「珊瑚礁の島々は土質がもろい。少しくらい掘ってもダメだ。艦砲射撃に耐えるには厚さ二メートル以上のコンクリート掩蔽が必要になる」

 第十四師団の幹部たちは一語も聞きもらすまいと熱心に聞き、メモをとっています。いずれ身にふりかかる火の粉です。真剣な講習となりました。

「水際での突撃は自滅を招くだけである。水際で敵に損害を強いたら第二線に引き、さらに損害を強いて第三線に引く。可能ならば艦砲射撃の届かない内陸で決戦するべきだ。そして最終的には洞窟陣地で持久する準備も必要になる」

「夜襲は有効ですか」

 質問が出ました。明治以来、夜襲は日本陸軍のお家芸です。

「夜襲はダメだ。むしろ敵は夜襲を待っている。米軍は橋頭堡を確保するとただちに地雷原と鉄条網で陣地を構築する。そして音響探知機と夜間照明でわが方の動きを探知し、むしろ夜襲を待ち構えている。夜襲は敵の思う壺だということを忘れるな。この敵軍の戦法はガダルカナル以来、我が軍を苦しめてきたものである。忘れないでほしい」

 緊迫した質疑応答が続きます。


 三月二十八日、第十四師団は四隻の輸送船に分乗して大連を出港しました。四隻は東松五号船団に組み込まれました。これを護衛するのは駆逐艦一隻と海防艦三隻のみです。実に脆弱な護衛態勢です。関東軍の精鋭師団将兵は狭い船倉に戸惑い、船酔いに悩まされました。そして何よりもボカチンを恐れました。ボカチンとは魚雷や爆弾にやられて沈むことです。輸送船上の陸兵ほど無力なものはないのです。

 船団は、門司、館山、父島を経て、四月二十四日、無事にパラオ島マラカル港へ到着しました。上陸後、第十四師団の各部隊はパラオ、ペリリュー、アンガウルの島々に配備され、直ちに陣地構築を開始しました。各島守備隊には結果的に四ヶ月間の準備期間が与えられました。この間に水際から後方に至る縦深的な洞窟陣地を構築し得たことが日本軍の抵抗力を強めました。とくにペリリュー島では中央高地を中心とする堅固な防御網が完成しました。

 アメリカ軍のパラオ上陸作戦は九月から始まりました。アンガウル島を守備する一千二百名の日本軍は、二万名を超えるアメリカ軍と果敢に戦い、九月中にほぼ全滅しました。中川州男大佐の指揮するペリリュー島守備隊一万名は、三万名のアメリカ軍を相手に十一月まで組織的抵抗を続けました。三日で占領を終える予定だったアメリカ軍の上陸作戦は大幅に遅れ、損害は想定の数倍に達しました。ペリリュー島におけるアメリカ軍の死傷者はおよそ一万名、損耗率は四十パーセントです。

 堀栄三少佐の敵軍戦法講習は、勝利をもたらしはしませんでしたが、日本軍守備隊の勇敢な持久戦闘を支えたといえるでしょう。


 堀少佐と朝枝少佐は大連から青島、北海道、沖縄などへ飛び、太平洋の島々に配備されていく日本軍部隊幹部に米軍戦法と対処法を説いて回りました。

(アレがもっと早くできていれば)

 説明しながら堀少佐は口惜しい思いでした。口頭ではどうしても説明しきれないものがあるのです。冊子が完成していれば図解で一目瞭然のことが、口頭では十分に伝えられないのです。

 昭和十九年五月、堀少佐が出張を終えて東京に戻ると、杉田一次中佐は異動していました。杉田中佐は大佐に昇級し、作戦部作戦課作戦班長に転じていました。この人事は、課長から班長への降格人事でしたが、杉田大佐は意に介さず、情報を作戦に活用するため作戦課のなかへ飛び込んでいきました。そこまで献身的な杉田大佐でしたが、作戦課員はあくまでも杉田大佐を情報参謀として異分子扱いしました。作戦部と情報部の軋轢は明治以来の弊習であり、容易には改まりません。

 作戦参謀は情報参謀を軽視しています。そもそも作戦部から情報部に対して情報を要求することがないのです。作戦に必要な情報は作戦参謀が自ら収集しました。この習慣こそが悪弊でした。作戦参謀は、自分の立案する作戦に都合の良い情報だけを無意識に拾い上げてしまいます。この悪弊は、ガダルカナルやニューギニアの惨憺たる敗北ですでに顕在化していました。作戦参謀は、兵要地誌すらないにもかかわらず、無謀にも作戦を立案し、その実行を実戦部隊に命じたのです。結果は敗北でした。それでも作戦重視の弊風は続いています。この悪弊を是正するために杉田一次大佐は作戦課に飛び込み、周囲の白眼視に耐えながら情報の重要性を説き続けました。


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