捷報と敗退
日本陸軍にとって大東亜戦争初期の課題は、支那事変の貫徹、南方資源地帯の確保、極東ソ連軍への防備、この三つでした。
このうち南方作戦について陸軍が本格的な研究に着手したのは、アメリカによる対日経済封鎖が強化された昭和十五年でした。目的は蘭領インドにある石油資源の獲得です。このためにはマレー半島のイギリス軍、フィリピンのアメリカ軍、蘭領インドのオランダ軍をたたかねばなりませんでした。陸軍は、ほぼ一年をかけて南方の兵要地誌を調べ、南方作戦を完整し、昭和十六年十二月の開戦と同時に作戦を発起し、およそ六ヶ月で南方資源地帯を制圧しました。見事な成功です。
南方作戦を終えた陸軍は、南方に展開させた部隊の一部を支那と満洲へもどしました。支那事変の貫徹と対ソ戦備のためです。
(あとは海軍に任せておけばよい)
というのが陸軍の思惑でした。アメリカとの戦争は海軍の担当です。戦場が太平洋である以上、そして艦隊決戦が日米対決の形態である限り、それでよいはずでした。わが連合艦隊がアメリカ太平洋艦隊を撃滅してしまえば日本列島は安全です。だから陸軍は、アメリカ本土上陸作戦など考えもしませんでしたし、実施する能力を持とうともしませんでした。さらに、アメリカ軍といえども日本本土上陸作戦は実施できないだろうと楽観しました。
「アメリカ合衆国は今日、世界第一の海軍力を持っているが、この大海軍力をもってしても、あの広い太平洋を横断して日本を攻撃することは、甚だ困難であるというのが世界の定論である」
これは大東亜戦争開戦直前における石原莞爾将軍の見解です。この当時の陸軍最高の頭脳でさえアメリカ軍による対日渡洋侵略を脳裏に描くことは不可能だったのです。
こうした諸々の経緯と理由があったからこそ、陸軍参謀本部情報部欧米課の陣容はソ連課や支那課に比べてきわめて手薄だったのです。そもそも欧米課が設置されたのは開戦後の昭和十七年四月でした。
その欧米課の課長は杉田一次中佐です。杉田中佐は陸軍大学校を卒業した後、参謀本部課員となり、アメリカとイギリスに相次いで駐在した経験を有しています。滞米中にはアメリカ陸軍第二十六連隊の隊付になりました。参謀本部内では数少ない知米家です。
実際の戦場も知っています。大東亜戦争が始まると杉田中佐は第二十五軍参謀となり、山下奉文中将とともにマレー半島を進撃し、シンガポールを陥落させました。その後、参謀本部に戻りましたが、ガダルカナル島の戦況が悪化した昭和十七年十月にはラバウルの第八方面軍へ派遣されました。杉田中佐はガダルカナル島に進出してガ島の惨状を目の当たりにします。ラバウルに戻った杉田一次中佐は、参謀本部に対して思いきった意見具申電報を発しています。
「ガダルカナル島の維持は不可能。撤退すべし」
参謀本部の参謀として最初にガ島撤退を主張したのは杉田中佐でした。とかく積極論をヨシとする風潮の陸軍にあっては出世をあきらめるような意見具申でした。案の定、参謀本部内は杉田批判の声で満ちました。「消極参謀」と決めつけられ、杉田中佐は散々に罵倒されます。しかし、十二月末日の大本営政府連絡会議においてガダルカナル島からの撤退が正式決定され、結果として杉田中佐の意見具申の正当性が証明されました。
そんな経歴の持ち主である杉田中佐は、現場を見ることを何よりも重要視していました。ソ連課をしくじって欧米課にやってきた堀栄三少佐を、杉田中佐は温かく迎え、しかし、厳しく命じました。
「堀君には米国班に所属して米軍の戦法を研究してもらう。そのためにはまず戦場を見てきてもらいたい。現場を知っている者は強いからね」
昭和十八年十一月二十八日、堀栄三少佐の乗る二式大艇は横須賀を飛び立ちました。上昇するにつれ機内は寒くなりました。支那大陸しか知らない堀少佐は機上から見おろす太平洋の広大さに感嘆しました。眼下には平和な大洋がキラキラ輝いています。しかし、いまこの瞬間にもソロモン諸島やニューギニアでは激しい戦闘が繰り広げられています。
機中の堀少佐は、ここ数ヶ月の戦況を反芻していました。昭和十八年二月、日本軍はガダルカナル島から撤退しました。以後、時間の経過とともにアメリカ軍は強勢となり、十月中旬以降、アメリカ軍は勢力圏をソロモン諸島北部へと延伸してきています。事実、ソロモン方面の日本軍根拠地ラバウルでさえ頻繁な空襲にさらされています。そして十月二十七日、アメリカ軍はモノ島に上陸しました。モノ島はブーゲンビル島の南端から五十キロほど南にある小島です。その五日後、アメリカ海兵隊はブーゲンビル島中部にあるタロキナ岬に上陸を開始しました。そして、現在も戦闘が続いています。
ブーゲンビル島は、ラバウルのあるニューブリテン島の南隣の島です。ブーゲンビル島を失えば次はニューブリテン島が危うくなり、日本軍はソロモン方面の戦略要地ラバウルを失うことになります。
(日本軍は圧される一方だ。わが軍は勇敢に戦い、多大な戦果をあげているはずなのだが、敵の勢いは止まらない。なぜだ)
堀少佐は首をひねります。ラバウル所在の海軍航空隊は、ブーゲンビル島に上陸したアメリカ軍に攻撃を加えました。十一月五日から反復した航空攻撃によって日本中を湧かせる大戦果をあげていました。ブーゲンビル島沖航空戦です。大本営海軍部の発表によれば敵の戦艦四隻、空母二隻、巡洋艦七隻を撃沈しています。大戦果です。
(しかし、おかしい)
堀少佐には納得がいきません。これほどの大損害を受けたにもかかわらず、アメリカ軍のブーゲンビル島上陸作戦がまったく停滞していないのです。
(あれほどの大戦果をあげたにもかかわらず、なぜ日本軍の航空部隊は制空権を回復できないのか。なぜアメリカ軍は大損害を受けているはずなのに進撃を続けていられるのか)
情報参謀となって二ヶ月、堀少佐の情報アンテナはようやく旋回しはじめ、インフォマツィオネンからインテリゲンツを導き出すべく感度を上げつつありました。
夕刻、二式大艇はトラック島に到着しました。トラック島は海軍の兵站根拠地です。トラック環礁の夏島では内地とおなじ料理を食べることができました。翌日、午前八時発の海軍機でラバウルに向かおうとしましたが、急遽、海軍将官が搭乗することになり、堀少佐は次便に回されました。搭乗順序は階級で決まりますからどうしようもありません。二十分後の陸軍機で堀少佐はラバウルに向かいました。
三時間ほどでラバウル上空に達しました。機上から見ると爆撃を受けて沈没した輸送船の残骸がラバウル港内に見えます。飛行場にも破壊された航空機が数多く確認できます。
着陸後、ただちに第八方面軍司令部に出頭しました。第八方面軍の参謀は堀栄三少佐の姿を見ると、しばし眼を見張りました。
「よくぞ、ご無事で」
いきなり言われたので、堀少佐はキョトンとしました。
「はあ、何かありましたか」
「ええ、実は」
聞けば、堀少佐が乗るはずだった先発の海軍機が敵機に撃墜されたといいます。
「だから心配していたのです」
「そうでしたか」
生死は紙一重です。戦場に来た、という緊張感が堀少佐を胴震いさせました。
「戦況を教えて下さい」
アメリカ軍は十一月一日にブーゲンビル島西岸中部のタロキナ岬に上陸しましたが、その兵力は第三海兵師団およそ二万です。ブーゲンビル島の日本軍守備隊は、第六師団を基幹とする第十七軍です。タロキナ岬を守備していたのは堀之内正義中尉率いる二百二十名でしたが、戦闘開始からわずか二時間で通信が途絶しました。翌二日、第六師団司令部は浜之上俊秋大佐の第二十三連隊に敵の撃退を命じました。その兵力は歩兵三個中隊、砲兵一個中隊、速射砲四門、総勢千二百名に過ぎませんでした。第二十三連隊はタロキナ岬を目指して行軍を開始しました。四十キロを踏破して会敵したのは十一月八日です。浜之上大佐は攻撃を二日間つづけましたが、敵の圧倒的な砲撃のため動くに動けず、夜襲も成功しませんでした。このため、やむなく退却しました。一方、海軍航空隊はブーゲンビル島沖航空戦で大戦果をあげています。海軍の捷報に接した第八方面軍司令官今村均中将は、好機到来と判断し、第十七軍に反撃を命じました。ブーゲンビル島最南端のブインに司令部を置く第十七軍は、第六師団に総攻撃を命じました。第六師団は総攻撃を開始しましたが、圧倒的な敵の火力に阻まれて苦戦中です。
堀栄三少佐はノートをとりつつ戦況を聞き、時にテーブル上の地図に見入りました。その地図には敵味方両軍の位置と進路が手書きで記入されています。が、それ以外は海岸線だけの白地図です。
(地誌がないんだな)
堀少佐は驚かざるを得ません。戦場の兵要地誌は作戦立案に必須の情報ですが、それがないのです。等高線も河川も街も道路も植生も記入されていません。
(そういえば大本営陸軍部の地図もまっ白だった)
陸軍は、その成立以来、兵要地誌を編纂し続けてきました。その主な対象は日本、朝鮮半島、満洲、支那です。開戦直前には南方作戦に必要な兵要地誌が収集されました。例えばマレー作戦を遂行した第二十五軍司令部には縮尺二十万分ノ一地図が用意されていました。また、第二十五軍がクアラルンプールを占領した際、遺棄された鉄道車両内から縮尺五万分の一のシンガポール地図十点を押収することができました。第二十五軍司令部は大いに喜びました。この地図はシンガポール攻略作戦に役立ったのです。
地図は、それほどに軍事行動に不可欠な基本情報です。ですが、はるか遠方のソロモン諸島の兵要地誌にまでは陸軍の注意は払われていませんでした。昭和十七年八月に参謀本部情報部長に着任した有末精三少将は、ガダルカナル島という地名を知りませんでした。参謀本部が所有していたソロモン諸島の地図情報は、縮尺六百万分ノ一の世界地図だけでした。その地図には米粒のようにガダルカナル島がかろうじて表記されていたに過ぎません。
それほどにソロモン諸島での地上戦は参謀本部にとって想定外の作戦だったのです。それでも戦いは海軍主導で始まっており、やるしかない状況でした。情報皆無ではあったものの、参謀本部第一部作戦課はガダルカナル島奪還作戦を立案し、これを第十七軍に実施させました。その結果は敗北であり、撤退という結末になっていました。そして、今、ブーゲンビル島でまったく同じことが繰り返されようとしています。
その日の夕食はタロイモの雑炊でした。食堂はニッパヤシの葉で葺かれたニッパハウスです。
(トラック基地とは大違いだ)
堀少佐は、タロイモの食感にとまどいましたが、和風の味付けには満足しました。最前線で戦っている将兵のことを思えば贅沢は言えません。彼らは食糧や弾薬さえ満足に与えられておらず、しかも死につつあるのです。食べ終えると、食器を下げにきた従兵がニコニコしています。
「どうした。何か良いことがあったのか」
「はい。そうであります」
中部太平洋で海軍がまたやったという。堀少佐は第八方面軍司令部で話を聞きました。それによると十一月二十一日以降、中部太平洋でギルバート諸島沖航空戦が生起し、海軍航空隊が大戦果をあげたのです。海軍によれば数次の航空攻撃によって敵空母八隻他を撃沈したといいます。巨大な戦果です。
ところが、堀少佐には腑に落ちない事実がありました。この航空戦の最中、十一月二十五日にマキン島とタラワ島の日本軍守備隊が玉砕しているのです。
「これほどの大損害を受けているのにアメリカ軍はなぜ両島を奪取できたのでしょう」
堀少佐は質問してみました。
「さあ、それは」
戦況を説明してくれた第八方面軍参謀は、複雑な表情で応じるのみでした。合理的な説明ができないのです。
(おかしい。海軍が大戦果をあげているのに、なぜ陸軍の守備隊が全滅するのか。ブーゲンビル島沖航空戦の戦果を加えれば十隻の米空母が沈んだことになる。太平洋の米機動部隊は全滅しているはずではないか)
堀少佐の疑問は深まりました。
翌日、堀栄三少佐は第八方面軍司令官今村均中将に申告しました。
「陸軍少佐堀栄三、今般、前線視察を命ぜられ、昨日到着いたしました」
「まあ、よく見ていってくれ」
今村中将の表情は苦悩に満ちています。ひと一倍責任感の強い今村将軍は、海軍航空隊の大戦果と陸軍航空隊の不振とを比べて嘆きます。
「海軍航空はよくやっておるのになあ」
今村中将は、海軍の戦果発表を頭から信じている様子でした。味方の戦果発表を信じるというのは、当り前の態度です。とはいえ、堀少佐はすでに海軍の戦果発表を疑い始めています。なにしろミッドウェイ海戦の真相をドイツ武官から教えられたという経験があります。
(何かがおかしい)
海軍航空隊の大戦果、それと同時進行する陸軍部隊の苦戦と玉砕、大損害にもかかわらず進撃するアメリカ軍、これらは矛盾です。どうにも腑に落ちませんが、戦場の真実は知りようもありませんでした。
堀少佐は第八方面軍司令部の電報綴りを見せてもらいました。ブーゲンビル島で戦っている第六師団からの電報がたくさんあります。そのほとんどは戦況報告です。いずれも型どおりの無味乾燥な報告電文です。しかし、読んでいるうちに不覚にも堀少佐の眼に涙がにじんできました。この電文の向こう側では今も将兵が死につつあるのです。
(これは第六師団の遺書だ)
十二月一日未明、堀栄三少佐は連絡便に搭乗してラバウルを発ちました。空が暗いうちに北へ離脱しておかないとアメリカ軍機に撃墜されかねないからです。連絡便は北東に進路をとり、アドミラルティ諸島ロスネグロス島の飛行場で給油し、ニューギニアのウエワクに向かいます。機上から眺めるニューギニアは一面の熱帯雨林におおわれていました。その彼方には脊梁山脈がそびえています。その山脈に源を発する自然河川が原始のままに密林の中を激しく蛇行しています。連絡便はウエワクの飛行場に着陸しました。そこには陸軍第四航空軍司令部があります。
元来、陸軍航空隊はユーラシア大陸方面での対ソ戦を念頭に編制されてきました。だから、陸軍機は海上飛行も対艦攻撃もできませんでした。しかし、対米戦争が熾烈になると海軍は陸軍航空隊の南方転用を要請しました。陸軍はこれを受け入れました。陸軍航空隊は、海空戦に応じ得るよう再訓練され、南洋の戦場に進出してきたのです。
第四航空軍は、第六および第七飛行師団を主力とする大規模な航空軍であって、ニューギニアの戦勢を挽回すべく七月に編制されたばかりです。しかし、八月には敵の大規模な空襲を受けてしまい、一夜にして百機を喪失するなど、苦戦しています。
堀栄三少佐の乗る輸送機がウエワク飛行場に着陸したのは午前八時でした。さっそく第四航空軍司令部に出頭し、司令官寺本熊市中将に申告しました。その後、司令部参謀から戦況を聞きました。その最中、空襲警報が鳴りました。
「敵の中型爆撃機およそ五十機、敵戦闘機およそ四十機、わが上空に接近しつつあり」
寺本中将は直ちに防空戦闘の指揮をとりはじめ、堀少佐は防空壕内に避難しました。防空壕内で爆弾の炸裂音を聞きながら堀少佐はニューギニアの地理を思い浮かべます。
(敵はおそらくポートモレスビーの空軍基地から来たのだろう)
ポートモレスビーにはアメリカ軍の航空基地があります。日本軍は開戦以来、この敵の要衝を攻略しようと懸命の攻撃をつづけてきましたが、ついに成功しませんでした。そして、今では劣勢に陥っています。
生まれて初めて体験する空襲は、堀少佐に強烈な敗北感を抱かせました。防空壕内に居ると手も足も出せません。ひたすら空襲がやむのを待つしかないのです。爆弾によって起こる激しい振動と爆音は恐怖でした。空爆されることからくる心理的負担を実感することができました。
第四航空軍司令官の寺本熊市中将は陸軍内に数少ない知米家で、大正後期から昭和初期にかけてアメリカ軍を研究した経歴を持っています。もともと歩兵科でしたが、航空科に転科して陸軍航空の育成に任ずるうち、堀丈夫中将の知遇を得ました。それが縁で堀家と寺本家は家族ぐるみの付き合いをするようになりました。だから寺本中将と堀少佐は親しい間柄です。堀少佐は、空襲の洗礼を受けながら、半年ほど前に寺本中将から聞いた言葉を思い出していました。堀少佐が参謀本部付になる直前の夏でした。堀家を訪れた寺本中将は自身のアメリカ観を述べていたのです。
「よくも、よくも米国を相手にしたものだ。あの国は自動車で種をばらまいておけば穀物が実る国だ。石油もある。資源もある。第一次大戦以来、連合国数ヶ国の台所をまかなってきたのは米国だ。あの国力を侮ってはいけない」
はっきりとは言いいませんでしたが、勝ち目がないと言っているように聞こえました。堀少佐には異論がありましたが、反論はしませんでした。そして、寺本中将の次の言葉に賛同しました。
「決まった以上は仕方がない。天子様にお仕えするだけだ」
ウエワク基地の高射砲は敵機二機を撃墜し、陸軍航空隊は空中戦闘で敵機四機を撃墜しました。しかし、わが方は小型輸送船一隻、味方機十一機のほか、燃料庫と弾薬庫を爆撃されて多くの弾薬糧秣を失いました。補給がほとんど受けられない最前線部隊にとっては手痛い損害です。
空襲が止むと、堀少佐は被害のあとを視察し、さらにウエワク周辺を徒渉してみました。ニューギニアの原生林は、堀少佐の想像をはるかに越えるものでした。未開の熱帯原生林というものがいかに行軍を阻むものであるか、堀少佐は実見し、実地に歩いてみてはじめて理解できました。
(これは陸地ではない)
満州や支那は陸地です。歩兵は歩行し、騎兵は騎行し、車輌部隊は走行します。ところが、ニューギニアの密林は軍隊の行軍を阻みます。なにしろ道路らしい道路がありません。戦車やトラックなどは動けません。馬でさえ難しい。歩兵の行軍も容易ではない。道なき密林の徒渉は激しい疲労を生みます。これでは大軍の移動や展開は困難であり、少人数のゲリラ戦しかできません。ところが大本営の机上には白地図しかありません。だから、作戦参謀たちは作戦要務令どおりに行軍速度を一日二十四キロとして作戦を立案しているようです。
(作戦参謀の連中は、兵要地誌もないのに、どういう神経で作戦を立てたのか)
堀少佐は、威風堂々たる作戦参謀たちの風姿を思い起こし、むしろ疑問を抱きました。
夜には寺本中将の熱っぽい訓話を聞くことができました。堀少佐の知っていた寺本中将は、どちらかといえば言葉数の少ない哲人風の人物でしたが、この夜ばかりは驚くほどに雄弁に語ってくれました。その内容は、卓越した航空戦略論であり、辛辣な陸軍批判であり、後輩へのあたたかい説諭であり、また遺言のようでもありました。
「制空権とは、地上戦における制高点の延長と考えればよい」
寺本中将はいいます。地上戦では高地を奪った側が有利に戦闘を展開できます。だから、高地の奪い合いが激戦に発展します。「天王山」という言葉のとおり、制高点の占領こそが地上戦勝利の要諦なのです。
「航空機とは、人工的に制高点をつくりだす機械だと思えばよい。飛行機で山をつくるのだ」
航空隊が制空権を奪取すれば、陸上部隊が制高点を奪取したのと同義になります。地形に左右されない海上では、より顕著に制空権の奪取が重要になります。歩兵科から航空科に進んだ寺本中将は、兵科を越えた戦術の原理を説明してくれました。今まさにソロモンやニューギニアで日本軍が苦戦している理由は、この制空権の喪失にありました。日本軍は制空権を失ったのです。だからウエワクにも補給がめったに来ない。では、なぜ制空権を失ったのか。
「軍の中枢は権力の椅子を欲しがって政治に熱中した。本来の軍事研究を怠ってきたのだ」
寺本中将は陸軍批判を始めます。陸軍では昔から「軍の主兵は歩兵なり」と言われてきました。これを「軍の主兵は航空なり」に変えておく必要があったのだ、と寺本中将は悔しそうに言います。それができないまま戦争になってしまった。
「参謀本部作戦課や陸軍省軍務課が軍事研究を閑却し、政治いじりをしていたからだ」
寺本中将は憤懣を表情にあらわしつつ言います。
「次の問題は戦場だ」
大正十年以来、アメリカ軍は太平洋での戦争を研究し続けてきました。日本が南洋諸島を委任統治するようになると、その委任統治領の島々について研究し、太平洋における日本との決戦を想定し、勝利の鍵となる制空権の確保を研究していたのです。
「オレは駐米武官補佐官時代にこの目で見てきたから間違いはない。米軍は対日戦を盛んに研究していた。オレは何度も何度もこの点を指摘し、対米戦を研究せよと進言したのだ。ところが陸軍中枢は大陸方面にしか関心を向けなかった」
大正以来の参謀本部の怠慢のツケを、いま血と命を以って陸軍は支払わされているのです。
「海軍航空は実によくやっておる」
寺本中将は海軍航空隊の健闘を讃えました。実際、海軍が制空権を握っている間は陸軍も行くところ敵なしでした。
「しかし、制空権を維持するためには次から次に新式飛行機を製造し、優秀な操縦士を養成し続けなければならない。こちらが高度七千メートルを制すれば、敵は高度八千メートルを制しようとする。九千メートル、一万メートルと、この競争には際限がない。結局、航空機の開発競争になる。海軍の零戦は無敵だったが、それも今は昔の話だ。もはや米軍の戦闘機は性能面で完全に優越している。要するに国力がものをいってくるのだ。こればかりは最前線の将兵がいかに勇戦奮闘しても挽回できない」
寺本中将は、今年九月末に大本営が決定した絶対国防圏を批判します。絶対国防圏などといって地図上に線を引いてみたところで制空権がなければ意味がないというのです。
「今このウエワクに米軍が来襲したとして、どこの部隊が応援に来られるか。一兵どころか握り飯一個の救援もできないのだ。制空権を失っている以上、ウエワクは孤島と同じだ。アッツ島が玉砕した時、キスカ島守備隊は何の応援もできなかった。マキン、タラワ、ガダルカナル、すべて同じだ。制空権のあるうちは天国でも、失った途端に戦場は地獄と化す」
まず制空権を確保して、その後に陸上部隊を推進させるアメリカ軍の作戦を寺本中将は「点化作戦」と呼びます。航空撃滅戦によって敵の航空部隊を無力化させ、制空権を奪います。そして、日本軍の陸上部隊を点として孤立させるのです。点化作戦の前では、各島の日本軍守備隊は孤立した点でしかなく、いっさいの補給も援軍も得られぬまま各個撃破されるしかありません。
「広大なニューギニア島といえども同じことである」
寺本中将は言います。陸軍はニューギニア島のグンビ、マダン、ウエワク、アイタベ、ホランジャ、サルミに総勢二十万名もの陸軍部隊を分散配置させています。しかし、各部隊は密林によって隔離されており、協同作戦を展開できるような地勢ではありません。分進合撃どころか、師団の展開もできないのです。
「南方作戦の戦場には道路があった。飛行場も港湾もあった。米英蘭が整備したものだ。我が軍はそれを利用して進軍することができた。しかし、ここはちがう。ニューギニアには道路も何もないのだ。二十万の兵力はそれぞれに孤立していて往来もできないし、集中もできない。これではせっかくの大軍も活用できない。熱帯未開のジャングルは海と同じだ。戦場の選定は作戦課の仕事だが、いったい何を考えていたのかなあ。現場のことを何も知らないに違いない」
次いで話題は海空戦に移りました。寺本中将が指揮する第四航空軍は、何度も航空部隊を発進させ、アメリカ艦隊を攻撃してきました。しかし、戦果はほとんどあがりませんでした。敵艦隊の防空弾幕の凄まじさを寺本中将は「空が真っ黒になる面の弾幕」と表現しました。
(そんな弾幕があり得るのか?)
堀少佐には実感が湧きません。熱帯のまぶしいほどの空を黒くするためには天文学的な数量の砲弾が必要になります。
「陸軍航空隊の不甲斐なさに比べれば、海軍航空隊は実によくやった。あの弾幕をよくぞくぐりぬけたものだ」
寺本中将は心底から感嘆する様子で海軍航空隊を誉めました。ブーゲンビル島沖とギルバート諸島沖での大戦果を寺本中将は信じている様子でした。
「陸軍航空隊は何をしている、と中央は叱責してくる。中央から送ってくるのは激励と訓示と戦陣訓と勅諭だが、第一線の我々が欲しいものは弾丸と飛行機と操縦士と燃料と食糧だ」
寺本中将は怒りを込めて心情を吐露し、また、軍司令官としての苦悩を訴えます。
「欲しい情報はこない。不完全な情報だけがくる。これでは作戦の立てようも、指揮のしようもない。まるで目隠しの剣術だよ」
寺本中将の訓話は深更に及びました。そして、最後にこうつけ加えました。
「君だからこそ、こんなことを話したのだよ。しゃべるときは場所と相手をよく考えて話すことだ。誤解されると陸軍では何をされるかわからないからね」
堀栄三少佐は、今まさに戦っている戦争の全体像がおぼろげながら見えてきたような気がしました。そして、日本軍がなぜ劣勢に立たされているのかを知りました。
十二月三日早暁、堀栄三少佐は第四航空軍司令部を訪れ、寺本熊市中将に別れの申告をしました。
「昨夜の話はオレの本音だ。日本の将来を君に託すよ。父上によろしく。それからあとでこれを読んでくれ」
そういって寺本中将は一通の手紙を堀少佐に渡しました。
堀少佐の搭乗した爆撃機には弾痕が生々しく残っており、その穴からは地面が見えます。それでも寺本中将が堀少佐のために準備してくれた専用機です。爆撃機は離陸してアンボンを目指しました。機内にはバナナの皮で包んだ握り飯が用意されていました。堀少佐は寺本中将の手紙を開封しました。書面には、対米戦研究の必読書として二冊の書名が記されていました。
「欧州戦争における米国陸軍」
「米軍の数字的記録」
この二冊こそ、若き日の寺本熊市中将が精魂を注いで書き上げた米軍研究の成果でした。不幸にして、これらの研究書は陸軍中枢から顧みられず、書庫に眠っているのです。堀少佐は重大な使命感とともに帰国しました。