3-3 世界の様相
ホームズは水を喉に流し込むが、三口程度でグラスを口から離して、今度は息を吸い込まねばならなかった。それを終えると、またグラスを口に付ける。水と空気を同時に取り込めないことをもどかしく感じた。
グラスを空にするとホームズは深く深呼吸して、喉の渇きと呼吸の乱れの両方をようやく解消させた。見ると、リパッグと名乗った緑色の肌をした小男が片手を差し出している。その意味を察したホームズは、恐る恐る空になったグラスを手渡した。
「はは、〈たんてい〉の旦那、あっしは別に旦那のことを取って食ったりゃしませんや。安心してくだせぇ」
グラスを受け取ったリパッグは笑った。開いた口の中に鋭い牙が見え隠れした。
「ああ……いや……」ホームズは、ごくりと唾を飲み込むんで、「で、こちら」とクリフを見て、「何りんって言ったかな? のりりん?」
「ゴブリン、ですよ」クリフも笑みを浮かべて、「ゴブリンのリパッグです」
「その反応を見るに、旦那」と片手で空のグラスを玩びながら、リパッグは、「旦那は異界人だそうですが、旦那がいた世界にはゴブリンはいねえんで?」
「いねえよ!」
「するってぇと、あっしが旦那が目にした初めてのゴブリンになるってぇわけだ。はは、七英雄のひとりの後継者が初めて会うゴブリンの栄誉に預かれるたぁ、こいつは縁起がいいってもんでさぁ」リパッグは大きく口を開けてひとしきり笑うと、「おっと、シチューを火に掛けたままでやした。ぼっちゃん、お食事はどちらまで?」
「応接室に頼む」
「へい」
いそいそとリパッグは台所に戻っていった。
「どうしたの、ホームズ」
ワトソンに訊かれると、
「い、いや、水をもらおうとしたら、あの、クリリンが――」
「ゴブリン、ね」
「そ、そうだった」
ワトソンに訂正されて、ホームズは額を拭った。
「お二人とも、とりあえず応接室に戻りましょう」
クリフに促され、三人は再び応接室に集まった。
「ゴブリンっていうのはね、亜人の一種なんだ」
「あじん?」
ソファに腰を下ろし、ホームズはワトソンからレクチャーを受けていた。
「うん。でも『亜人』って、『人に次ぐ』って意味だから、あまりに人間本位の傲慢な呼び方だっていうんで、最近はあんまり使われなくなったけどね。というか、人間以外の知的種族をひとまとめに呼称すること自体が、そもそもおかしいんだけどね。自分たち以外の種族を総称する言葉なんて、人間以外の種族は持ってないからね」
「じゃあ、何て呼べばいいんだ?」
「普通に『他種族』でいいじゃん」
「じゃあ、そのゴブリン以外にも、他種族はまだまだたくさんいるってのか? この世界には」
「いるいる。代表的なところでは、エルフでしょ、ドワーフでしょ、オーク、コボルド、マーマン、ジャイアント……」
「待て待て」ホームズは両手を大きく振って、「そんなに憶えきれん。とりあえず基本的なことだけ教えてくれ。俺は初めて会ったんだが……その他種族ってのは、結構な人数がいるものなのか?」
「ほとんどいないね」
「そうなのか」
「うん。この大陸には」
「大陸?」
「僕たちが立ってる、この大陸ってことだよ。ちなみに『ヴェルトールド大陸』って名前が付いてて、人間の生活圏になってる周辺の諸島も含めて『ヴェルトールド世界圏』って呼んでる。これが、基本的に今、人間が暮らしている世界の全てと言っていいね」
「人間が暮らす、世界……」
「そうなんだ。で、ゴブリンをはじめとした他種族は、ヴェルトールドとは違う別の大陸で生まれたんだ」
「それが、どうしてこの大陸に?」
「人類史上、過去二度に渡って行われた〈人魔大戦〉だよ。その二つの戦争は、人間だけでなくこの世界全ての生き物を巻き込んだ戦いに発展して、それで大陸間でも頻繁に種族の行き来がされるようになったんだ。特に、第一次人魔大戦は、それはもうとんでもない規模の大戦争で、街ひとつ吹き飛ばすほど巨大な火球だとか、隕石を落とす魔法だとかいう、現在は失われている古代魔法があちこちで飛び交うような凄まじいものだったから。山は吹き飛び、湖は涸れ、地図の半分を描き直さなければならない、と後世の研究者が嘆いたくらいなんだ。この戦いが終わったあとに、世界が元の様相を取り戻すのは不可能とまで言われたんだよ」
「な、何だかスケールのでかい話になってきたな……。で、その第一次大戦てのは、何年前に起きたんだ?」
「五百年前」
「おい! 何が『言われたんだ』だ! さも見てきたようなことを……」
「でね、二度に渡る大戦争に懲りて、他種族たちは、もう人間に関わるのは懲り懲りってんで、自分たちの生まれた大陸に帰ってしまったんだ。色々な種族で構成された闇の眷属による攻撃が発端となった一次大戦はともかく、二次大戦は人間が引き起こした戦争が他種族に飛び火したようなものだったからね。とはいえ、色々と個々に事情や思惑もあって、西方大陸――他種族が生まれた大陸の呼び名ね――に帰るよりも、この大陸に残る道を選んだ人たちも大勢いたってわけだよ」
「なるほどな。生まれ故郷に戻らず、よその世界で生きていくことを選択するなんて、余程の事情があったんだろうな」
「二次大戦のほうも、終わってから何十年も経つから、他種族の人の中にはこの大陸で生まれ育った世代も結構いるけどね」
「あの、リパッグ……さんは? そもそも、どういった事情でここで働くことになったのですか?」
ここでホームズは、話しかける相手をクリフに変えた。
「彼は」と、それを受けてクリフは、「私が物心ついたときにはもう、私の身の回りの世話をしてくれたり、遊んでくれたりする相手として、すでに一緒に暮らしていました。リパッグは、私が生まれる前に、すでに私の父の友人だったと聞いています」
「失礼ですが、クリスさんはおいくつですか?」
「十八です」
「ということは、リパッグさんの年齢も最低十八以上。幼なかったクリスさんの世話をしていたとなると、三十には届いていると見ていいですね……無知ゆえの発言とお許しいただきたいのですが、他種族の方の年齢を外見から判断するのは難しいですね」
「はは、それは私たちもそうですよ」クリフは笑って、「でも、彼はよくやってくれていますよ。周囲の目も気にしないで」
「周囲の目、とは?」
「彼がゴブリンであるという、そのものに対してですよ」
「それは……差別的な扱いを受けているということですか?」
「こういったことについては、そちらのワトソン様のほうが詳しいようですが」
クリフは褐色の肌を持つ少年に目をやった。その目は悲しみを湛えているように感じられ、自分の口からは話したくないと言っているように見えた。クリフの思いを汲んだのか、ワトソンは口を開いた。
「さっき言った第一次人魔大戦では、地上を魔界と繋げようとする邪教集団と、人間を中心とした地上軍との戦いが主な抗争軸になっていたんだけど、そこでゴブリンは邪教側についたんだ」
「それはつまり、人間の敵に回ったと」
「そういうこと。まあ、邪教側についたのはゴブリンだけでなく、オークやコボルドといった種族もだったんだけどね。そういった邪教側の勢力を総称して、“闇の眷属”なんて呼び方をしてたね」
「何でまた、そいつらは、そんないかがわしい奴らの味方をしたんだ?」
「闇の眷属に加入した種族には、ある共通点があって、それは、自分たちは元々地上ではなく魔界で生まれた種族だという言い伝えが残っているものばかりだったんだ。邪教の連中は、そこのところを上手く突いて、魔界と地上を繋げれば、本来の故郷に帰ることが出来るって、焚きつけたらしいんだね。そもそもそういった種族って、普段から他の種族からあまり好意を持たれていなくって、日陰者みたいな扱いをされてたっていう鬱憤も溜まってたんだろうね。魔界と地上を繋げて魔界の空気に触れることで、ゴブリンたちは本来の力を取り戻せる。そうすれば、今までお前たちを迫害してきた他種族たちを今度は逆に蹂躙できるぞとか、そんなことも吹き込まれたらしいんだな」
「質の悪い話だな」
「本当にそう思うよ」
ワトソンは忌々しそうに表情を歪め、褐色の肌に皺を作った。
「で、そんな歴史を引きずってるから、ゴブリンも含めて、闇の眷属になった種族は、人間――も含めた他種族に嫌われてると」
「それもあるけど」とワトソンは続けて、「第二次人魔大戦に先駆けて、この世界では“大冒険者時代”ってのが始まったんだ。かつての一次大戦時代に残された財宝、秘宝、あるいは封印された魔法なんかを探し求めて、“冒険者”と呼ばれる人たちがこぞって世界各地の地下迷宮を探索し始めた時代だった。その手はこのヴェルトールド大陸だけに収まらなくて、遙か海の向こうの西方大陸にまで及んだんだ。その地において、ゴブリンなんかの“旧闇の眷属”は冒険者たちと一悶着起こすのが日常茶飯事で、冒険者たちの間では『ゴブリンを始めとした闇の眷属は存在自体が邪悪なので、出会ったら問答無用で殺害しても構わない。むしろ、それが彼らのためにもなる』なんていうめちゃくちゃな理論が横行するようにもなったって」
「……酷い話だな」
「ゴブリンは、ゴブリンであるというそれだけの理由で、人間を中心とした冒険者たちに殺戮されまくって、中には、冒険の邪魔をするからとか無関係に、ただゴブリンを殺戮することだけが目的っていう非道な冒険者もいたらしい」
「聴くに堪えないな……」
「だから今でも、特に先祖に冒険者を持っている家系なんかには、ゴブリンらに対して良い感情を持っていない人が多いそうだよ」
「そんな、大昔の話じゃねえか……」
と言い掛けたホームズは、自分のいた世界のことを思い起こせば、この世界のことはとやかく言えないなと思い口を噤んだ。ワトソンも話を終えたため、生じた沈黙をクリフが破り、
「そういった事情もあるので、うちではリパッグをあまり外に出さないようにしているのです。この工房の人たちは皆さん理解――というか常識のある方ばかりですが、外ではそうはいきませんので……」
「色々と大変なんですね。俺も、さっきはびびって大声上げたりして、申し訳ありません。あとでリパッグさんにも謝っておかないと」
「ホームズ様は致し方ないですよ。なにせ異界人なのですから」
言われてホームズが、ちょこんと頭を下げると、クリフは、
「ああ、それと、あいつ――リパッグのことは呼び捨てにしてやって下さい。そのほうがあいつは喜ぶので」
「それは、どういう?」
「特に理由なんてないでしょう。人間から変によそよそしくされるのを嫌いますからね、あいつは。気を遣われているように思うんでしょう。喋り方も、ざっくばらんに応対してやって下さい。お聞きになったように、あいつ自身もそんな粗野な喋り方しかできない男ですから」
「ははあ、そういうものですか……」ホームズは頭を掻いて、「話が脱線しました。事件のことで伺ったのに、立ち入った真似をしてしまって、すみません」
「そんなこと、構いませんよ。むしろ、ホームズ様にこの世界のことを知っていただく機会になって、私としても嬉しく思っています」
「ええ、私も色々と勉強しないといけないなと思い直しました。この世界でも、肌の色が違うというだけで人間同士で抗争があったと、先日初めて知りましたし」
「『この世界でも』ということは、ホームズ様のいらした異世界でも?」
「ええ、さすがにゴブリンはいませんが」
「はは、人間というものは、生まれた世界は違えど、根本的には何も変わらないのかもしれませんね」
「本当に、そう思います」
そこへ、廊下から、ワゴンを押す車輪の音が聞こえてきた。
「あ、食事の用意が出来たようですよ」
クリフは立ち上がってドアを開けた。




