3-2 遭遇
その翌朝。午前六時課の鐘が鳴ると同時に、〈ベーカー街221B〉前に二頭立ての馬車がついた。客車には衛兵騎士団の紋章が描かれている。御者を務める衛兵がドアをノックすると、「はーい、今行きまーす」とワトソンの声が屋内から帰ってきた。ワトソンと、未だ寝ぼけ眼のホームズがリタに見送られて馬車に乗り込んだのは、それからすぐのことだった。
「どうも俺は、まだこの世界の朝の早さに慣れない……」
客車の中でホームズは両腕を伸ばして大きくあくびをした。馬車は御者の他には誰も乗っておらず、四人乗りの客車を二人で使えていたので、ホームズはゆったりと腕を伸ばした。
「ミラージュさんは?」
ワトソンが御者に訊くと、
「隊長は仕事があるので、あとから向かうそうです。恐らく午前中のうちには工房に到着できるのではないでしょうか」
手綱を操りながら御者が答えた。この御者は騎士ではなく一般の衛兵だった。さらにワトソンが尋ねたところによると、目的地であるアンハイド武具工房までは一時間程度で着くという。それを聞くとホームズは、
「一時間か。二度寝するのには中途半端な時間だな」
もういちどあくびをしながら、朝もやに包まれたバトロサの街並みを見やった。
御者の言葉どおり、約一時間かけて馬車は目的地に到着した。
「着いたよ、ホームズ、起きて」
結局寝てしまったホームズをワトソンが揺り起こす。
「ああ……」
ホームズがまぶたをこすって目を覚ましたとき、午前七時課の鐘声が響いた。
「……鐘の音が小さいな。ということは、結構街から離れた場所にあるんだな。そのなんとか武具工房ってのは」
ワトソンに手を引かれるようにして馬車から降りたホームズは、周囲を見回した。朝もやはすっかり晴れ、数メートル先に、〈アンハイド武具工房〉と刻まれた鉄製の看板が掲げられている大きな門が立っているのが見えた。
「そうだね」とワトソンも門を見上げて、「アンハイドほどの規模の工房ともなれば、郊外じゃないと仕事量をこなせるだけの敷地をまかなえないんだろうね。街の小さな鍛冶屋とはわけが違うよ」
「それでは、私はこれで」
御者は二人に敬礼をして、馬に鞭をふるった。
「あっ――ちょっと!」
ホームズの声に御者は片手を上げ答えただけで、蹄が地面を叩く音と車輪の回転音を遠ざけていった。
「何だよ。いきなりこんなところに連れてこられて、どうしろってんだ……」
ため息をついたホームズの袖を引っ張ってワトソンは、
「とりあえず、入ってみようよ」
門を指さした。
近づくにつれ、門の向こうから聞こえてくる音が大きくなっていく。鉄を叩く音、人の足音、物を運ぶ台車の走行音などが反響し混然となった、まさに「工房の作業音」と称するに相応しい音の波だった。
門自体は縦横三メートル以上はある両開きの巨大なものだが、その横に人間が通るための通用口のような小さな扉も併設されている。二人がそちらに向かうと、先にその通用口が反対側から開かれ、中からひとりの男性が顔を見せた。
「ああ、あなたがたが〈たんてい〉のお二方ですか」
男性と言っても、まだ少年と形容してもよい若い外見だった。その男性は笑みを浮かべながら近づいてきて、
「ようこそいらっしゃいました。僕はこの工房の人間で、クリフといいます」
にこりと微笑んで握手を求めてきた。
「どうも、ホームズです」
「ワトソンです」
二人も差し出された手を順に握り返す。
「話はミラージュさんから伺っています。どうぞ」
クリフは自分が出てきた通用口を示し、先に歩き出した。そこへ、
「ああ、ちょっと」
ホームズが呼び止めた。足を止めて振り向いたクリフに、ホームズは、
「探偵というのは私のことです。こっちのワトソンは助手ですから、そこのところをお間違えのないよう」
「ああ、そうでしたか」
クリフは返事をして、ワトソンは、
「何だよ、そんなことくらいで」
「重要なことだろうが」
口を尖らせてホームズに頭を小突かれた。
「〈たんてい〉のホームズさん、ですよね」
クリフの視線は、ホームズの右手中指にはまる指輪〈真実か死か〉に向けられていた。
通用口、すなわち門を抜けた先に広がっていたのは、まさに「工房」と呼ぶに相応しい光景だった。複数の建物が建ち並び、屋根には煙を吐く煙突が立てられている。その間を、厚い前掛けを提げた男たちが、材料となる鉄や、出来上がった製品――剣や盾といった武具――を載せた台車を押して歩き回っている。門で遮られることがなくなったため、工房全体が発する雑多な作業音もその大きさを増していた。
「いやー、さすがアンハイド武具工房だね。僕が知ってる街の鍛冶屋とは、もう全然規模が違うよ」
その様子を興味深げにワトソンが見回す。
「ありがとうございます」とクリフは笑みを見せて、「うちの工房をご贔屓にしてくれているお客様がたのおかげですよ」
工房の敷地内を歩きながら、クリフは時折すれ違う職人たちから、「おう、ぼっちゃん」などと声を掛けられていた。そのたびにクリフは、その職人の名前を呼び、「おはようございます」と挨拶の言葉を返している。
「どうぞ、こちらへ」
クリフは敷地内の一角に立つ建物の出入り口を示した。それは明らかに工房の設備ではなく、居住用の二階建て建築物だった。
三人が中に入り扉が閉められると、作業場から聞こえる音はかなり抑えられた。防音がしっかりされていることのほか、内装も手間と金をかけた作りであることがホームズの素人目にも窺えた。玄関入ってすぐは広いホールになっており、細かいレリーフが施された額に入れられた風景画や人物画が壁を飾っている。他にも、花瓶に生けられた美しい花や、見るからに高そうな壺などが配置されホール内を彩っていた。床には、土足で踏みつけるのをためらってしまうような、金色の刺繍で縁取られた豪奢な赤い絨毯が敷かれている。絨毯はホールだけでなく、そこから伸びる廊下にも敷かれていた。ホームズたちが応接室と思しき部屋に通されると、クリフが、
「お二人とも朝食はまだですよね。今用意させていますから」
「それは助かります」
ホームズとワトソンはそろって笑顔を見せた。ホームズが寝坊したせいで、二人とも朝食を食べそびれていたのだった。
「食べながら、事件の話を聞いていただきたいのですが、構いませんか?」
「それはもう。そのために来たのですから」
クリフの頼みをホームズは快諾した。
「ありがとうございます」クリフは一礼して、「今、資料を持ってきますので」
と部屋を出ていった。
クリフの足音が遠ざかっていくと、ホームズも、
「馬車の中でひと眠りして喉が渇いたな……。俺、水でももらってくるわ」
と立ち上がった。
応接室を出るとホームズは廊下の奥に向かった。廊下を進むにつれ、食欲をそそるかぐわしい匂いが漂ってくる。台所が近い証拠だろう。廊下を一度折れた先にあったのは、果たせるかな台所だった。
「すみませーん」
声をかけると、
「へい」
という男性のものと思われる低い声が返ってきた。台所が薄暗いため姿は見えないが、調理人の声だろうか。
「水を一杯いただきたいのですが」
「よござんすとも」
同じ声が答え、ペタペタという足音に続き、ひしゃくで瓶から水を掬う音が聞こえた。足音が近づいてくる。相変わらず室内が薄暗いことに加えて、声の主の歩いてくる位置がちょうど暗がりに重なっているため姿は見えないが、水を汲んだグラスを持ってきてくれているらしい。近づくにつれ、次第にシルエットがはっきりしてくる。……子供? ホームズがそう思ったのは、近づいてくるシルエットから、相手の身長がかなり低いことが判明したためだ。頭のてっぺんがホームズの胸あたりまでしかない。百十から百二十センチ程度ではなかろうか。だが、先ほど耳にした声、あれは低音で、間違いなく大人の男性のものと思われるのだが……。
「へい、どうぞ」
「ありが……と……」
差し出されたグラスを受け取ろうとしたホームズは、だが伸ばした手を途中で止めてしまった。その視線はグラスから相手の手、腕、肩へと移動していき、顔を見据えた位置で停止した。相手は今や、台所の暗がりから、窓からの日が差し込む廊下に出てきているため、その全身が完全に視認可能となっていた。
「……」
ホームズは無言で“彼”と視線を合わせたまま、未だグラスを受け取ろうとしない。喉の渇きが癒えたわけではない。渇きはむしろ増大していた。“彼”の姿を見たことによって。
「うっ……うわあぁっ!」
バックステップするように飛び退いたホームズは、しかし脚をもつれさせ廊下に尻餅をついてしまった。先ほどまで見下ろしていた“彼”を、今度は見上げる格好となった。背後の廊下から走る足音が近づいてきて、
「ホームズ?」
ワトソンが駆けつけてきた。それから僅かに遅れ、もうひとつの足音とともに、
「どうされました?」顔を見せたクリフは、ホームズと対している“彼”を見て、「……リパッグ、お前、何かしたのか?」
「ぼっちゃん。いえ、あっしは何も……」
「リパッグ」と呼ばれた“彼”は、緑色の節くれ立った指で、タオルを巻いた頭を掻いた。指だけではなかった。「リパッグ」と呼ばれた男の手も、袖から伸びた腕も、顔も、そこに配された鉤鼻から、先端が僅かに尖った耳まで、露出している肌という肌は余すところなく緑色をしていた。
「ああ……」事情を察したらしいワトソンが、クリフに、「ほら、ホームズは、異界人だから」
それを聞くとクリフも、納得したように頷いて、
「リパッグ、こちら、事件の調査をして下さる〈たんてい〉のホームズ様だ。ご挨拶して」
「へえ」と返事をするとリパッグは、未だ尻餅をついたままのホームズを見下ろして、「リパッグっていう名前のケチなゴブリンでさあ」
「ごぶ……りん……?」
「へえ。こちらのお屋敷で働かせていただいとりやす。よろしく、〈たんてい〉の旦那」リパッグは、へへ、と笑うと、「ところで旦那、水は飲まねえんですかい?」
ずい、と差し出されたグラスを、ホームズは震える手で受け取った。




