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3-1 新たな事件

「ここのところ暇だね、ホームズ」


 椅子に深く身を沈めているワトソンは大きく伸びをした。腕を上げた拍子に裾が滑り落ち、細い褐色の腕が露わになる。


「安心しろ」と、斜め前で同じように椅子に腰を下ろしているホームズは、「いくら暇だからといっても、俺は部屋の壁に拳銃を撃ち込むような真似はしないから」

「〈けんじゅう〉って?」


 ワトソンから、この世界にない言葉を訊き返されたホームズは、


「ああ、いや、何でもない」


 と答え、こほんと咳払いをしてから、「そもそも拳銃がないしな」と小声で呟いた。


「この前の『石化王子事件』の報酬がまだ残ってるからいいけど、このまま何の依頼も来ないと、僕たち近いうちに飢え死にしちゃうよ」

「焦んなって」

「少しは宣伝とかしたほうがいいんじゃない? 僕が表で呼び込みでもしようか?」


 椅子から立ち上がりかけたワトソンを、ホームズは「待て」と止めると、


「どこの世界に、事務所前で客の呼び込みをするワトソンがいるんだよ」

「じゃあ、ホームズがやってくれる?」

「余計にないから!」ホームズは、大好きなグラナダテレビ版のドラマでジェレミー・ブレット演じるシャーロック・ホームズが、吹き替えを担当した露口(つゆぐち)(しげる)の声で呼び込みを行う姿を想像し、「イメージが崩れること、はなはだしいだろ」と、げんなりした表情を見せた。


「そういった営業は」ホームズは、情けないジェレミー・ブレットの姿を頭から振り払うと、「あのアルファトラインの爺さんの仕事だろ」

「いや、あの人も忙しい身だから、いつまでもそんなことしてる暇はないと思うよ」

「勝手に俺のことを召喚してきたくせに、無責任な爺さんだな。忙しいって、あの爺さんは普段いったい何の仕事をしてるんだ? ここに俺たちを連れてきて以来、一度も顔を見せてこないし」

「あの人はねえ――」


 とワトソンが口を開こうとしたとき、ノックの音が響き、直後、


「ホームズさん、お客様がおみえですよ」


 部屋(フレックス通り1番地23、“魂の住所”はベーカー街221B)の家主であるリタの声がドア越しに聞こえた。


「ほら来た!」ホームズは勢いよく立ち上がると、「お通し下さい」と告げた。すぐにドアが開き、入室してきた人物を見たホームズは、


「……何だ、お前か」

「何だとは何か」


 リタに通された“お客様”、バトロサ(ホームズたちが居住している都市の名称)衛兵騎士団第一部隊長ミラージュは眉をつり上げた。


「掛けさせてもらうぞ」とホームズが何も言わないうちから、来客用の椅子に腰を据えたミラージュは、「聞いたぞ、イルドライドでは活躍だったそうじゃないか」


「まあな――あ、リタさん」ホームズはドアを閉めようとしたリタを呼び止めて、「何も出さなくて結構ですよ」


 それを聞いたリタは、「おやまあ」と若干曲がり気味の腰を伸ばし、皺の奥で目を丸くして、「新鮮なミルクがありますので……」


「いりませんよ。このお客様は気遣い無用なんですから」

「ですが……」

「本当にお構いなく」

「そのミルクは、こちらのお客様にお持ちいただいたものですから……」


 それを聞くとホームズは黙り、対面するミラージュは、にやりと口角を上げた。


 リタが運んできたミルクを、ワトソンが「うまい、うまい」と喜んで飲む中、


「何の用があって来たんだ」


 ホームズは対面に座るミラージュを見据えた。


「ここに来る理由など、ひとつしかないだろう」

「なに?」

「仕事を持ってきてやった」

「衛兵騎士のお前が、探偵の俺に仕事、つまり事件を?」

「何だ、不服か?」

「いやな、探偵が刑事から事件解決の依頼をされるってのは、ある程度の数の事件を解決して、信頼を得てからってのが定石なものだから、少々面食らってな」

「何だ〈けいじ〉というのは? 私は衛兵騎士だ」

「それはこっちの話だ、気にするな」

「それに、私は別にお前のことを信頼しているわけじゃない」

「そりゃどうも」

「なんだ、その態度は」

「お前こそ、それが人にものを頼む口の利き方か」


 椅子から腰を浮かせた二人の間に、「まあまあ」とワトソンが割って入り、


「大人げないよ、二人とも」

「聞いたか騎士さん、こんな子供に言われてるぞ」

「ワトソンくんは『二人とも』と言ったんだ。自分のことを棚に上げるな」

「まあまあ」


 ワトソンはミラージュの両肩を掴んで椅子に座り直させ、ホームズにも「まあまあ」と言いながら同じことをした。


「ふう」と息をついて、ミルクをひと口飲んでからホームズは、「で、事件って、どんなのだ? 密室で首なし死体でも出たのか?」

「そんなのじゃない」とミラージュもグラスを口に付けて、「横領だ」

「横領?」


 ホームズの持つグラスの中でミルクが白い波を立てた。対するミラージュは冷静な顔のまま、


「事の起こりは――」

「待て、横領って、あの横領か?」

「横領に他にどんな意味があるのか知らないが、その横領だと思ってもらって間違いない」

「あのなぁ……」

「何だ?」

「そういうのは俺の領分じゃないっていうか……」

「どういうことだ?」

「いわゆる『社会派』って、何作か読んでみたことはあるんだが、どうにも俺の肌には合わなくてな。よろよれのコートを着た冴えない中年刑事が、靴底をすり減らして足で情報を稼ぎ、立ち食いそばをすすって地道に捜査するってやつ? で、犯行の動機は会社役員の痴情のもつれ。政界の内幕だの、現代社会のひずみが産んだ悲劇だの、その辺も願い下げだ」

「お前は何を言っているんだ?」


 ミラージュは怪訝な顔でホームズを見つめた。


「ああ、いや、こっちの話だ」我に返ってホームズは、ミルクで喉を潤してから、「ともかくだな、横領とか汚職とか、そういう生々しい事件は俺の管轄外なんだ。悪いが、よそを当たってくれ」


 ホームズはミラージュに右手の平を向けて、きっぱりと言い切った。


「捜査協力ということで、騎士団から謝礼も出すが」

「そういう問題じゃないんだ――」

「ホームズ」


 ワトソンが、じっとりとした目で探偵の名を呼んだ。


「な、何だよ……」


 ワトソンの視線に気圧されたホームズは、彼になされるがままミラージュに向けていた右腕を掴まれ、そのままゆっくりと下ろされた。


「ミラージュさん、お話の続きをどうぞ」


 ホームズに対しての表情とは一転、ワトソンに笑みを向けられたミラージュは、「あ、ああ……」と椅子の上で尻を動かして居住まいを正すと、


「ワトソンくんは知っていると思うが、ここバトロサ郊外に〈アンハイド武具工房〉という工房がある」

「うん、知ってる」


 ワトソンが反応した。


「武具工房って」と覚悟を決め話を聞くことにしたホームズが、「武器なんかを作ってる工場ってことか」

「そう、武具工房としてはバトロサで一番大きいんじゃないかな」

「そのとおり」と、ミラージュは、「我がバトロサ衛兵団の武具も、そのアンハイド工房に発注しているんだ」

「衛兵騎士団御用達、ってわけか」話の受け手はホームズに戻り、「で、その工房で横領があったと……。衛兵騎士団てのは、そんな横領事件の捜査まで担当してるのか」

「それについてはな……。ちょうどいいから説明しておこうか。衛兵騎士団には、大きく分けて第一から第三までの三つの部隊があってな、俺はそのうちの第一部隊の隊長を仰せつかっている。この第一部隊というのは、殺人や強盗などの凶悪事件担当のため、本来は横領なんかの事件を扱う部署じゃないんだ」

「……待て、第一部隊が凶悪事件担当で、全部で三つ部隊があるだと?」

「そう言ったが、それがどうかしたか?」

「もしかして、今回みたいな横領事件は、第二部隊の範疇なんじゃないのか?」

「そうだ。よく分かったな。第二部隊は横領や詐欺などの知能犯を担当しているんだ」

「で、第三部隊は窃盗事件を担当しているんだろ?」

「お前、この世界に来て間もないというのに、よく分かったな。そうか、実は陰で勉強していたというわけなんだな。感心なやつだ」

「……」


 ホームズが各部隊が担当する事件を言い当てることが出来たのは、衛兵騎士団の部隊割りとその受け持ちが、彼がいた世界での警察の捜査課の分担とまったく同じだということを察したためだ。すなわち、殺人、強盗などの凶悪事件を担当する警察の捜査一課が、そのまま衛兵騎士団の第一部隊に相当するというわけだ。以下、知能犯担当の捜査第二課が第二部隊、窃盗犯担当の第三課が第三部隊にあたる。


「ええと、ちなみになんだが……」とホームズは、感心したように腕を組んで頷いているミラージュに、「暴力団――いや、組織的な悪人集団を担当する、また別の部署があるんじゃないか?」


 ホームズは、彼の世界でいう〈組織犯罪対策課〉にあたる部署が衛兵騎士団にもあるのかどうか、確かめてみる気になった。


「そのとおりだ。闇ギルドや魔道士(ウォーロック)の地下組織なんかの摘発、壊滅を目的とした、強攻(きょうこう)騎士団という部隊がまた別にある。まあ、そっちのほうは汚れ仕事も多いので、我が衛兵騎士団ほどの人気はないが、いずれ劣らぬ強者ぞろいだということは間違いない」

「……なるほど、よく分かった」


 今度はホームズが腕を組んで頷く番だった。この世界と自分の世界との妙な共通点を知り、半ば感心し、半ば呆れているホームズの心中をよそに、ミラージュの話は続き、


「そこまで勉強しているのなら話は早い。だから今度の事件は、そもそも第二部隊に持ち込まれたものだったんだ」

「それが、どうして横領とは無関係の第一部隊のお前のところにお鉢が回ってきたんだ?」

「それが頭の痛いところでな――」


 ミラージュがそこまで言ったとき、街に鐘の音が響いた。時計のないこの世界で時刻を人々に知らせるために教会が一時間おきに鳴らしているもので、この鐘は午後四時を示すものだった。


「おっと、もうこんな時間か」


 ミラージュは立ち上がった。


「なんだよ。思いっきり話の途中だろ」

「私は用事があるので、ここで失礼しなければならない。お前が突っかかってきて無駄話に時間を取られたせいだ」

「お前も言い返してきてただろうが」

「明日の朝に馬車をやるから、とりあえずそれに乗ってきてくれ。アンハイド武具工房まで案内する。それでは、またなワトソンくん」


 ミラージュは片手を上げて(きびす)を返した。


「俺には挨拶なしかよ!」


 手を振り返すワトソンの横で、ホームズは眉を釣り上げた。

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