第17話
「その方が、痛くなくて済んだのに」
水の勢いで飛んでいったアンを自分でも分かるほど冷えた目で見ている。アンは地べたに倒れたままこちらを恐怖の混ざった驚きの表情で見上げる。
余計な考え事は一度頭の隅に追いやることにした。私の迷いの先がどうであれ、彼女は殺さなければならない相手だ。それに、迷ったまま戦いに臨むと余計な隙を生む。──彼女が体勢を整える前に次の攻撃を放つ!
アンは防御も間に合わず水の束が自分に当たるのを見ているしかない。小さな身体が呆気なく吹き飛ばされ、遊具に跳ね返り地を滑って止まった。それは人形が遊び飽きた子どもに放られるさまに似ている。背中も顔もぶつけて砂まみれだ。痛みにぐすぐすと泣いて震えながら立ち上がる背中に傘を向け、水を集めていく。
「やだ……かえる、かえるの……」
魔法使いの元へ、という意味でないことはすぐ分かった。元いた世界、親の元へ帰りたいのだろう。その切実な声が、そのために私と立ち向かおうとする姿が、私の心を揺すった。
人間を喰うよう指示をする魔法使いなどろくなものではない。もし彼女の立場が私だったとして、きっと帰ることに迷いはないだろう。真火香さんに拾われたのは運が良かった。運が良かったから、こうして自分の居場所に迷っている。──私は一体、どうしたい?
「ぜったいに、かえるんだ!!うああああああああッッ!!!!」
迷いは隙を生むと分かっていたのにこれだ。アンの鱗に覆われた大腕を武器にした突進を避けきれずに倒れる。ばしゃり、と水が地にぶつかる音がした。振り上げられる腕を傘で受け止めようとして、手元から離れていることに気づく。参ったな、これは……。こんな凡ミス、マリアに見られたらお説教だ。ちゃんと休息をとらないからこうなるんだって。クロエちゃんにも心配かけちゃうね。ああ、2人に、会いたいな……。
「マリー!!」
焦った声と凄まじい熱気に目を閉じた。熱がるアンの甲高い悲鳴に目を開けてみれば、こちらに駆け寄る金色が見えた。あれは、マリア?……ううん、違う。あの時、初めて来た森で、初めて見た……。
「ルディ!!」
「よかった!あぁもう、よかった!ここに来てみたらさっきみたいな……、あぁもう……!本当に間に合って良かったわ……!」
ぎゅう、と抱き込まれてルディのふわふわの金髪がくすぐったい。あれよあれよと怪我の具合を診られていると、視界の端でアンが動いた。ルディもそれに気がついたらしく、私を放して箒を構えた。魔法の扱えない水生の種族であるアンにとって火は人が感じるそれよりも熱すぎる。うつ伏せに倒れた身体を震えながら必死に起こして、そのまま仰向けに倒れた。先ほどの不自然な起き上がり方と違って自然でゆるやかな倒れ方だった。
緊張した様子でじっとその様子を見ていると、アンは爆発したように泣き叫び始めた。どこまでもどこまでも聞こえていきそうなくらいの叫び。これには私もルディも驚いてしまった。
家に帰りたい、両親に会いたい、いやだいやだと涙も鼻水も何もかもそのままにして泣いている。そしてその叫びは私によく刺さるものだった。
訳も分からず突然喚ばれた私。魔法使いに喚ばれたアン。ルディと出会えて真火香さんに保護してもらえた私。意志など関係なく契約させられたであろうアン。あまりにも温かくて帰ることに躊躇いを覚える私。何がなんでも帰りたいアン。同じ世界から来た彼女と私は、一体どこで運命が決まったのだろう。
「ルディ。ちょっと、待って」
そう言って携帯電話を取り出す。が、その出番はすぐになくなった。ふわりとどこからともなく風が渦巻いて、目的の人物が現れる。いつもの笑みはどこにもなく、重苦しい雰囲気を纏う彼女は威厳を感じさせる白銀の豪奢なマントをつけていた。それは、彼女が重大な代償を伴う願いを叶える時に必ずつけるというもの。風に揺られて金の留め具が音を立てる。白銀と黒の縞に三日月と星が描かれた盾の上には水晶玉を乗せた横向きの兜が飾られており、それら全体を悪魔の翼のようなものが包む紋章が中央のメダルへ丁寧に彫り込まれている。盾の下のリボンに書かれた言葉、たしかこれは、『未来を語る』だと言っていたような記憶があった。お屋敷のところどころにも見られる、一柳木家の紋章。
「……真火香さん」
「分かっているよ。君が私を呼ぼうとしたことも。君が私に願おうとしていることも。……木槿から話を聞いてね、残念だが目的の魔導書は既に灰だった」
だから私の願いを聞くわけにはいかない、という顔だった。…………いや、違う。彼女の目はもっと"先"を見ている。
私の願いが叶えられない理由は、魔導書が灰だったという言葉でなんとなく理解できた。それがなければ、叶ったところでどうしようもないのだろう。私も元いた世界で組織に所属していた身だ。分からないわけではない。ならどうするか?どうしたら?────ああ、そうか。真火香さんが見ているものはきっとこれだったんだ。
ふとルディと目が合う。彼女はいつになく不安そうな顔をしていた。私は彼女へ笑いかける。心配しなくても大丈夫だよ、と。けれど、彼女はもっと不安そうになってしまった。彼女の微笑みはあんなに安心させてくれるのに、難しいな。
「真火香さん」
「……聞こう」
それでもやめるつもりはなかった。真火香さんと目を合わせると、ふと懐かしい気持ちになる。あれは、私がこちらに来たばかりの頃。白銀とただ呼ぶには相応しくない、様々な色が乗った瞳。全てを見透かすような不思議な色。呑み込むような黒とは違う。包み込むような青とも違う。燃え上がるような赤とも違う。樹木のような私の色とも違う。故郷にも似た優しいルディの色とも違う。それは不浄を許さない、高潔な神秘の色。
「アンを元の世界へ帰してください」
彼女はここで死ぬべきではない。このまま死んでしまうのは、あまりにも報われない。いずれまた人を食べるようなことがあれば殺されるだろうが、見ず知らずの世界に1人で死ぬよりは彼女も受け入れられるだろう。
「自分のためではなく他人のために、重い代償を背負うつもりなのかい」
「はい」
「……そうか。他人を別の世界へ渡す願い、確かに聞いた。……この願いを叶えるために、マリー、君は"二度と元の世界へ帰れない"代償を背負い続けなければならない」
息が止まった気がした。願いを叶えたら、帰れなくなる……?動揺する私を見ても真火香さんの顔は変わらない。
願いを叶えれば、私は帰れなくなる。願いを叶えなければ、アンはここで死ぬ。なんて、残酷な二択。
「……真火香さん、私がマリーを元の世界へ帰す願いをすれば……」
「駄目だ。分かっているよね。代償を破ればアンもマリーもどうなるか分からない」
「それは…………っ」
真火香さんはルディの言葉を冷たく切り落とす。ルディが悔しそうに箒を地面に突き立てた。
「……魔法使いの間では、君の願いのように大きな奇跡を起こす魔法を"呪い"と呼ぶ。けれど……私はこれを"呪い"だと思っている。マリー、もう一度聞こう。君は……他人のために、これからずっと"呪い"をその身に宿し続けるのかい」
呪い。代償を破れば魔法が悪意へと変わる呪い。奇跡を起こす代わりに、試すように残酷な代償を提示する。重くのしかかる選択が私の目の前に現れて、それでも。帰るべきは──
「ルディ、私ね、迷っているの。ここに残る道と、元の世界へ帰る道を。ずっと帰りたいって思ってきたのに、おかしいよね。それでも私は、迷っているの。……だからね……真火香さん、お願いを叶えてください」
「……その願い、叶えよう」
私の横を通り過ぎる真火香さんがどんな顔をしていたのか、私を抱きしめたルディがどんな顔をしていたのか、私には分からない。私は、自分という本から昔の思い出を破りとって捨てていく、そんな顔をしていたと思う。ひとつひとつ思い出しながら破りとって、軽くなっていく本の重さを悪くは思わない。そんな、顔を。
過去を捨てるのはそんなに悪いことではない、と思うのはそう思いたいからかな?そうだとしても、今はあんなに迷っていたのが嘘のように後悔がない。
私とルディが出会ったあの時から、アンが喚ばれたその時から、きっと決まっていたんだと思う。
それは運命と呼ぶには詩的すぎて、宿命と呼ぶには重すぎて。そう、私たちは出会うべくして出会った。




