紺碧
「紺碧の空を見に行くの」
そう言って彼女は姿を消した。
色褪せたジーンズとTシャツ姿で、何も持っていない手をひらひらとこちらに振って見せていた。見飽きた彼女の笑顔は、私に何の感慨も抱かせることはなく、瞼に灼きつくこともなかった。
ただぼんやりと、彼女が笑っていたことだけを覚えている。
そもそも彼女との出逢いさえ、はっきりとは憶えてはいない。やたら明るく照らされた教室で、私達は同じ制服を着て、同じように座っていた。そして、退屈な教師の話がをBGMに、無個性な四角い窓に切り取られた空を眺めていたのだろうと思う。おそらくは。
彼女について、唯一はっきりと思い出せるのは、笑顔だ。
彼女はいつも笑っていた。決して声を立てることは無く、格別楽しそうでもなく、ただ笑っていた。
彼女はごく平凡なひとだ。何につけても目立つことのないその平凡さが、却って私の眼を引きつけた。すべてにおいて「普通」であることが、私の眼には酷く「奇妙」に映ったのだ。
私は割と目立つ方で、何かにつけてリーダーになることが多く、常に教師の覚えもよかった。社会に融け込む術だけに長けた私は、特にそれを苦にすることはなかったが、誇りにする気もなかった。
初めから、彼女と私は違いすぎた。
彼女は単なるクラスメイトの一人だった。それ以下でも以上でもない。今でもそう、思っている。
休み時間にお喋りをして、昼休みにはお弁当を食べ、放課後には寄り道をする。そんな風に時間を共に過ごすことに、特別な意味などなかった。
けれど、いつからか私と一緒に過ごしている時だけ、彼女が淋しげに笑うことに、私は気が付いた。いつでも笑っている彼女が、私といる時だけは上手く笑えない。その事は私に奇妙な安堵と冥い優越を覚えさせた。
一年後、私と彼女は当たり前のようにクラスが分かれた。クラスメイトでなくなるということは、共に過ごすこともなくなるということだ。私にはクラスを隔ててまで繋げたい関係などなかった。彼女だけでなく、他の誰とも。
太陽に透ける新緑が目立ち始めた頃だったろうか。終業のチャイムが聞こえると同時に、真っ白い夏服を着た彼女が息を切らしてやってきた。
「お昼、一緒に食べよ?」
屈託もなくそう笑う、いや笑ったつもりだったらしい彼女の歪んだ瞳に、私は知らず微笑を浮かべていた。
それは、嬉しいというにはあまりも暗澹とした恍惚だった。私の胸の奥で蛇のようにとぐろを巻き、打ち震えている。心の奥底の淀んだ水溜りに巣食った悦びが、私の心に白い牙を打ち立てることなど、この時の私は想像もしていなかった。
彼女は、いつでもどこでも私を追ってきた。彼女は、私より遅く学校に来たことがなかった。彼女は、私が学校へ来ると必ず駆け寄ってきて、ホームルームまでの僅かな時間を私と共に過ごした。ほんの10分間の休み時間でさえ、彼女は欠かさず姿を現した。昼休みも、放課後も、必ず。
正直、鬱陶しいとは思っていた。
いつの間にか彼女は、私の新たなクラスメイト達とも仲良く話すようになっていた。決して社交的な方ではなかったが、ただ独り浮いてしまうというわけでもなかった彼女にとって、それはごく自然なことだ。
時折、彼女達の話が弾んでいる時に、私はわざと席を外した。すると彼女は相手に失礼なほどあからさまに、私の後を追ってくる。そんな彼女に私は苛立ちに似た愉悦を感じ始めていた。
光と影。月と太陽。いつの間にか私と彼女は、そう揶揄されていた。もちろん光や太陽が私のことだが、私はそれを聞くたびに仄暗い温室に佇んでいるような安堵を覚えた――まるで影や月のように。
果たしてこれは、友人関係なのだろうか。
そんな疑問が頭を掠めたことは何度かあった。
けれど私には、彼女を友人と呼ぶ以外、なんと呼べばよいのか見当もつかなかった。なんと愚かで、無知だったのだろう。
ある日突然、彼女が言った。
「まるで天使みたい」
突然の言葉に私が顔を上げると、彼女は相変わらず下手くそな笑みを浮かべていた。放課後の教室、彼女の頬には西日が射していて、まるで薄い、初潮の血のようだった。
「何が?」と私が素っ気なく問うと、彼女はくすりと笑った。嘲笑にさえ見える、歪に吊り上げた唇がゆっくりと蠢いた。
「貴女が、よ」
彼女はさも可笑しそうに笑った。
「天使みたい。凄く、キレイ」
彼女はくつくつと喉の奥で笑っていた。彼女の笑顔は美しくなどなかった。笑いながら一瞬だけ、彼女は私を見詰めた。
「いつか貴女が純白の百合を抱いたら……とても似合うと思うわ」
静かにそう、呟く。彼女の顔に笑みはなかった。
私の鼓動は疾まり、高まり、破れてしまいそうだった。これは警鐘に違いない。これ以上、彼女のこんな瞳を見てはいけない。獣じみた防衛本能で、私は悟った。
それから何事もなく、ただ漠然と時だけが過ぎていった。平穏な時は零れていく砂時計の砂のように、何も残ざない。繰り返し繰り返し、美しい硝子の中で巡り続けていく。高校という硝子を抜け出した彼女と私は、大学という別々の硝子の中へ潜り込んでいた。
彼女とは、卒業してから一度も逢っていなかった。そのことは私に何の感慨も抱いてはいなかったけれど。
只、時折月の翳る夜に、私は彼女の瞳を思い出した。思い出すのは決まって、あの、表情の失せた瞳だった。
――いつか貴方が純白の百合を抱いたら……
あの時の彼女の瞳は、美しかった。私が彼女を美しいと思ったのは、後にも先にも、その瞬間だけだ。
たった一度見ただけのその瞳を、私は何度も何度も鮮明に思い返した。けれどもう一度見たいとは、決して思わなかった。
あの時、私の心臓が鳴らした警鐘は、彼女の瞳を思い出すたびに鳴り響いていたから。
耳が壊れてしまうほど、高らかに。まるで天使が鳴らすファンファーレのように。
再会は信じがたいほど素っ気なく、日常の一端、息継ぎの狭間に滑りこむように訪れた。
私の大学のキャンパスで、彼女は校門に凭れ、所在なげに空を見上げていた。彼女を見た瞬間、私は不思議と驚かなかった。足を止めた私に彼女はすぐに気付いて、笑いかける。
「久しぶり!」
彼女の屈託のない笑顔はなぜだか歪に見えなくて、私は妙な違和感を覚えた。
「どうしたの?」
驚いた素振りで私はそう言った。彼女はにっこりと微笑んだ。
「別に。ただ近くに来たから」
一瞬だけ細められた瞳は何処か三日月に似ていた。雲が翳ったように朧ろなその輪郭は、昔の彼女を思い起こさせた。
ほっと安堵の息をついた、私に気付いたのだろうか。彼女は私の唇を見詰め、やんわりと微笑んだ。
「もう、行くね」
たったそれだけを言い捨てて、彼女は踵を返した。私が思わず慌てて、声をかけた。
「え?どうして?お茶でも飲もうよ」
妙に場にそぐわない言葉を――そんなはずはないのに――言ってしまってから、私は唇を噤んだ。いつのまに振り返ったのか、彼女がじっと私を見詰めていた。表情の亡い、瞳で。
私達の間に流れた沈黙は、もしかしたら数秒もなかったかもしれない。けれど私には永遠のように思えた。
沈黙を破ったのは、彼女の歪んだ笑顔だった。
「紺碧の空を、見に行くの」
はっきりと彼女はそう言った。そして私が何かを言うよりも早く、彼女は軽く手を振って去っていってしまった。思えば、いつでも私の後を追ってきた彼女の背中を見たのは、これが初めてだったかもしれない。
次に、私が彼女の表情のない顔を見ることになったのは、彼女が四角い白い箱に納められてからだった。
彼女の両親に見守られながら、私は小さな四角い窓に切り取られた、彼女を覗き見た。彼女の肌によく映える白い着物は、まるであの頃の制服を思わせた。
ちょうど今くらいの季節。新緑を透かした太陽が照らしていた、真新しい夏服の頃を。
彼女の最期を送る儀式はごく平凡なものだった。私は彼女の両親が何を言っていたかすら覚えてはいない。そこに存在する退屈なだけの言葉は総て、あの頃の教師の話と同じ、只のBGMに過ぎなかった。
催事場の無個性な窓から、四角い空が覗いていた。
――紺碧の空を、見に行くの
そう言って笑った彼女の笑顔を、私はもう思い出せない。
只、私は知っている。
"紺碧"は生きているものが決して見ることの叶わない空の色。生物のいる世界では映せない鮮やかで美しい空。それが遺書も残さずに逝った彼女の、私にだけ宛てた遺書であることを。
彼女がいった意味など、私は知らない。
純白の百合は、純潔の花嫁の抱くブーケ。
――まるで天使みたい。
彼女の声音も、私は覚えてはいない。
覚えているのは、あの瞳。表情を亡くした、刹那の色味。
夏服から透けて見えていた、彼女の肢体。
何もかもが白かった、穢れない彼女。
彼女は自分の想いが穢れていると、いったのだろうか。そして私が穢れていないとでも?
白い薄布越しの彼女の肩。時々露わになる鎖骨。その下の……柔らかさ。
「馬鹿みたい」
その夜、私はゆっくりと手首にナイフを当ててみた。
力を込めても、流れ落ちる血潮はどす黒くて。
私に、紺碧の空は見れない。