其の拾肆
壁にかけられたシンプルな時計が時を刻む音だけが響く部屋の中で、
「……軟禁三日目」
芝居がかったように呟いてみる。檻に入れられた玄以外でこの部屋に生物は存在しない。その呟きに対しての返答も、当然の如くなかった。
今日は午前中、地下一階丸ごと使った無駄に広い研究室でデータの採取をされ、午後は鉄格子を挟んで翡翠の話し相手。そして現在午後七時三十分、その翡翠もどこかへ消え、暇を持て余している。
一般に住めば都と言うが、三日も経てば檻の中でも居心地のいい場所を見つけられる。自分の家のソファを懐かしみながら、壁に面した鉄格子に体を預けてぼんやりと時を過ごす事しばし。
「玄様、ご飯」
翡翠が、赤い尻尾を揺らしながら、お盆を持って入ってきた。
「その呼び方はやめてと何度も……」
「やめないから。ほら、ご飯」
玄の苦情は強い口調で遮り、翡翠が檻のドアを開ける。わざわざ自分が入って鍵を閉めるくらいなら檻に食事の出し入れ口を作ればよかったのではないかと思うが、そこまで徹底してもいないらしい。
「……ここに来て三日、食事を運んでもらうたびに思うんだけど。この状況で、僕が君を襲って人質にとったり殺したりする可能性は考えてないの?」
檻の中に置かれた座卓の上に夕食の盆を置いてから、翡翠は三白眼故の鋭い目つきで玄を見る。その目は、笑っているようにも見えた。
「……玄様はウチを襲わないから」
「なんでそう言い切れるのさ」
「だって、玄様はまだ、ウチたちを敵だと割り切れてないし」
自分自身おぼろげにしか見えていなかったものを言い当てられ、思わず言葉に詰まる。してやったりと笑った翡翠は、座卓を回り込んで、鉄格子に背を預けて座ったままの玄、その正面で座った。
「ずっと疑問だったから。あの女といる時も、ウチと初めて会った時も、あんなに優しくて柔らかくて穏やかな玄様が、何十人もテロリストを殺して平気な顔をしてられるとか」
下手に墓穴を掘らないよう黙り込んだまま、翡翠の三白眼を見据える。
「玄様の過去も聞いて、最近ずっと一緒にいて、わかった。玄様の中には、スイッチがある。憎み続ける仇と同じ『敵』と、一人も失いたくない『味方』に分けるための。相対した相手が『敵』だとスイッチが入れば、容赦なく切り捨てるけど、少しでも『味方』に入ればその手は鈍るわけ。違う?」
奥歯を噛み締め、込み上げる罵声を呑みこむ。暴発の境界線付近をうろうろしながら、辛うじて頷いた。
それは、玄の歪み。六年前、琥珀のせいで精神汚染を起こした友人たちを切り捨てるために生まれた、精神の盾。仇を追い続ける生き方を受け入れるために育てた、自己肯定の理由。人道も道徳も、そのスイッチの前では意味を成さなくなるほどに歪んだ、玄の本性。
敵ならば、仇ならば、殺して当然。味方は失いたくないから殺さない、殺させない。一度戦闘状態に突入してしまえば、玄に残るのはその思考だけだ。だが。
「……当たってる。けど惜しいね」
勝ち誇っている翡翠の自慢げな顔を見ると微笑ましくて否定できなくなりそうだが、そうもいかない。
「確かに、僕の中にはそのスイッチがある。一度敵とみなせば殺して当然という考え方も。けど、今は、それじゃダメな事も知ってるんだ。彼女が、先生が、教えてくれたから。君たちの話も聞いて、それは一層強くなってる」
敵だからと言って問答無用に殺していいわけじゃない。敵も人間だから。家族がいるかもしれない。恋人がいるかもしれない。それぞれに理由があって、信念があって、理屈があって、決意がある。それら全てを無感動に薙ぎ払っていいわけじゃない。いかに死神を宿す者とはいえ、玄もまた同じ人間なのだから。
――――戦闘ってのは、相手を屈服させる行為だけじゃない。互いの剣を介して、互いの意思をぶつけ合う行為だ。自分が負けられない思いを、理由を、剣に載せるように、相手もまたそれを乗せている。だから、それを受け取る行為でもあるんだ。
宏緑が、総合戦闘術の授業を始める前、最初に前置きとして話していた事だ。それ以降、何かにつけて同じ事を言っていた。
「……だから、敵だから殺して当然、とは、今は言えないかな」
「……ふーん。そう。それで、それはあの女のおかげなんだ」
玄の言葉をどう解釈したのか、翡翠の三白眼が吊り上がる。『あの女』と憎らしげに吐き捨てたその対象が誰なのかいまいちよくわからないが、どうやらあまり友好的な関係ではなさそうだ。
正面で向かい合うように座っていた翡翠が、一歩近づく。二歩、三歩。玄との距離が縮まっていく。一メートルが三十センチに、三十センチが十センチに。赤い尻尾を揺らして、迫ってくる。生憎逃げ出そうにも後ろは壁、しかも檻の中だ。精一杯上体を逸らして抵抗を試みるが、その差異は十センチにも満たない。哀しいかな、誤差のようなものだ。
「……この三日間黙って聞いてれば、紫乃紫乃紫乃ってあの女の事ばかりとか、ウチなんて目に入らないってわけ? お前があの女と仲良くなる前に、ウチとキスしたのに? あの女もあの女だ、ウチが唾つけたのに、まんまと奪い取って。玄様はウチのものだ。三枝紫乃なんかには渡さないから。どうせもうあの女の下には戻らないんだし、ウチのものにしても関係ないよね」
止まる気配を見せずに近づいていた顔が、鼻先数センチで静かに喚き散らす。その言葉の予想だにしていなかった内容に、反論も忘れてその顔を凝視した。
「玄様がウチのものになる。ずっと一緒、ずっとウチの傍にいる。朝から夜まで一日たりとも手放さないから。その可愛い顔も綺麗な髪も華奢に見えて逞しい体も、強い心も歪な精神も脆い弱さも、髪の毛一本細胞の一欠片から魔力の一滴までウチのもの。ウチから離れないでずっとずっと二人で戦う。だってウチのものだから。あの女になんて渡さないから」
小さな掌が、そっと頬に添えられる。炯々と光る瞳は熱に浮かされたように虚ろで、顔を包む掌が、伝わる体温が、まるでおぞましいもののように、背筋を這い回る。
「ずっと一緒。未来永劫、神にだって時間にだってウチたちを離させない。だってウチたちは似たもの同士だから。過去の傷も、今の自分も、精神のあり方だって」
頬を滑り、目元を撫で、前髪を掻き上げられる。紫乃も知らない、額の右側にある刀傷。普段前髪で隠しているそれは、琥珀にやられたもの。
その傷を、翡翠のひんやりとした手が愛おしそうに撫でる。何度も、何度も。
その目はもう、どこも見ていない。悦楽と歓喜と達成感に酔いしれ、自分に都合のいいもの以外を排除する瞳。
「……僕は、君のものにはなれないよ」
玄はただ淡々と、真正面からしなだれかかっていた翡翠の体を引き剥がす。
「僕は三枝紫乃のガーディアンで、婚約者だ。それを裏切る事はできないし、そのつもりもない。君たちの仲間になるつもりも、今のところない。だから、君のものになる事はできないよ」
傷を撫でていたその手を離され、翡翠の瞳に色が戻る。相変わらず焦点の合わないその瞳には、もう悦楽も達成感もなく、ただ激情だけがあった。
「……どうして? どうして!? ウチはそんなに魅力がないの? 『八坂』の苗字がなきゃそんなに役立たずなの!? なんで、なんでなんでなんでなんで! ウチはウチはウチはウチはウチは……!」
言葉が出ないのだろう。言葉が見つからないのだろう。自らの中で唸りを上げる感情に名前をつけられないのだろう。
それは正しい激情の形。漫画のように思いの全てを言葉にして喚き散らす余裕もなく、ただただ、自分の中の怪物を処理できないままに吐き出す行為。それで、いい。
「ウチは友達だと思ってたのに! 好きなのに、傍にいたいだけなのに! 気持ちが向かないのも知ってて他に婚約者がいる事も知ってて偉そうに聞こえるのも知ってて認められてないのも知ってて! でもでもウチはそれでもよくてもしかしたら振り向いてもらえるかもって信じててわかってくれてるって信じてて!」
一度は引き剥がした翡翠の細く小柄な体をそっと抱き寄せる。泣きじゃくる子供をあやすように、背中を優しく撫でる。
既に翡翠は玄を見てはいない。玄に向けた激情はいつしか、自分を裏切ったかつての友人たちへと向けられていた。
「全部知っててそれでもよくて! 話しかける奴らくらいの人数はウチの事認めてるってわかってくれてるって信じてたのに! ウチは結局『八坂の一人娘』で! それ以外の価値なんてなくて意味もなくてただ道具でしかなくて!」
玄の耳から侵入し脳を犯していく翡翠の慟哭が、痛いほどに全身を蝕んでいく。それは、玄の知らない絶望の形。周囲の全てが裏切る最悪の世界。
まるで細い糸一本に全体重を掛けて釣り下がる蜘蛛のように、復讐によって、戦う事によって、玄への想いによって、ぎりぎりの均衡を保っていた翡翠が、玄の拒絶によって崩れる。それでいい。どうしようもないほど壊れたものを不完全に修復して後生大事に抱え続けるよりも、一度全て壊してしまえばいい。一度跡形もなくばらばらに破壊して、その上に、もう一度新しく、綺麗なものを作り上げればいい。
「……もういいんだ」
幻影の中にいた自分を罰し続ける必要なんてどこにもない。
「よくない!」
「いいんだよ」
騙された方が悪いなんて、そんな論理は間違っているのだから。
「もう、自分を卑下しなくていいんだ。君は安東翡翠。『八坂の一人娘』じゃない」
さあ、絶望で破壊して、虚言と演技で繕ったその心を、今跡形もなく消し飛ばしたその上に、新しく。
その小さな頭を優しく撫でる。安心させるように、言い聞かせるように。
「……君は正しい。間違ってたのは騙された君じゃない。騙してたそいつらの方だ。君は何のためにここにいるのか、君がやるべき事は何なのか、見失っちゃいけない」
それはもしかしたら、紫乃の、玄の、国の敵を作る行為なのかもしれない。今後の利益を考えれば、ここで彼女を壊しておいた方がいいのかもしれない。
だが、そんなのは嫌だ。
「……君のものになる事はできないけど、せめて、友達にならなれる」
「……ん」
それが重大な裏切りだとしても、今は、幼子のように頷いた少女を、ただ救いたかった。




