其の壱
十五年以上この家に住んでいれば、警備の薄い部分は嫌でもわかるようになる。そして、それゆえにお決まりのルートも決まってくるというものだ。
手馴れた様子で小窓から屋敷の外に出た三枝紫乃は、塀の側の木を利用して塀に飛び乗った。二メートル前後はある塀だが、幼い頃から魔術使として鍛えてきた紫乃にとって、この程度の高さは取るに足らないものだと言ってもいい。だから、本来ならば腕の力で体を引き上げたり、魔力を活性化させる事で数倍に強化される身体能力を使って飛び越えたりすることも容易だ。
しかし、現在紫乃は今日から通う高校の、真新しい制服に身を包んでいる。万が一にもそれを汚すような事は避けるべきであるし、それ以上に中学、高校の制服と言えば女子はスカートだ。あまり激しい運動をするわけにもいかない。
だからこそ、紫乃は普段好まない方法で塀に乗り、周囲の人影を確認してから飛び降りたのだ。ここまでの運動でずれた、腰から提げたレイピアの位置を直す。
ようやく家の敷地から出た事に安堵しつつ、すぐに駆け出す。一刻も早く、そう、世話焼きな使用人や両親が気づく前に、できるだけ離れておきたかった。駅や学校前からメールでもしておけば、大事になる事は無いだろう。あとでこっぴどく叱られはするだろうが。
現在時刻は六時半を回ったところだ。こんな朝でも、気温は既にコートを必要としない程度には上がっている。四月にもなれば、神奈川はこんなものだ。
ブレザーとスカートの裾をはためかせ、一心不乱に走る。
苗字に数字を冠する『数の血族』に連なる『三宮家』の分家である『三枝家』の一人娘として生まれた紫乃は、幼い頃からその肩書きに相応しくあらんと教育を受けてきた。おかげで高校は主席入学、魔術や体術、剣術の腕だって同年代から見れば頭一つ飛びぬけている自信がある。
それゆえに苛立って、現在家出の真似事をしているのだ。
――――――わたしは、一人でも平気なのに
やれ護衛と離れるな、だの、ガーディアンは何故いない、だのと騒ぎ立てる過保護な使用人にうんざりしていたところに、両親から、
――――学校内には護衛が入れないから、同い年のガーディアンをつける。以降は、外出時は常に傍に置くようにしてくれ。
などと言われれば、『よくできた娘』であるところの紫乃も堪忍袋の緒が切れる。これでも十五歳。思春期真っ只中の女子なのだ。そして、自分の腕には自信がある。『同い年のガーディアン』とやらを、はいそうですかと受け入れられるような懐の広さはなかった。
――――――わたしは、一人でも平気。それを、どうして理解しないのよ
こうやって家を抜け出すのは今回が初めてではない。けれど、書き置きを残して、抗議として家を飛び出したのは初めてだった。その静かな興奮に、否が応にも体に力が入る。
腰に提げたレイピアが暴れるのも構わず、全力で春眠に染められた朝の道を駆ける。開放感、興奮、罪悪感、そんなものが入り混じった気分は、紫乃の中で膨らみ、視神経すらも圧迫する。
視界の隅で漂う靄のようなものに気づいたのは、それを発していた三人組が目前に迫った頃だった。そして、既に手遅れだった。
「きゃっ!」
ぎりぎりのところで体を捻り、なんとか衝突は回避する。しかし、そのあおりを受けて紫乃はたたらを踏み、ぶつかりかけた男は不意に現れた紫乃に驚いたのだろう、バランスを崩してよろめいている。
体勢を立て直した紫乃が顔を上げたとき、男たちは状況を把握し終え、いかにもな表情を浮かべて迫っているところだった。
「あぶねぇじゃねぇか。どこ見てやがる」
紫乃の視界の中で、男たちの体からは色とりどり、けれどどれも濁った靄が発生している。それが意味する事はつまり、男たちが魔力を活性化しているという事だ。
この世界に住む人間は、皆例外なく体内に『魔力』と呼ばれるエネルギーを保持している。それは人間の魂を構成し、体力、精神力とも直結するもの。それを活性化させれば、身体能力は数倍に跳ね上がり、魔法をして、炎や水、雷などを作り出す事も可能だ。つまり、男たちは全員、いつでも攻撃できる態勢を整えているという事になる。
「お、結構かわいーじゃん? ナニ、これから学校?」
その事実に、いつでも逃走、または応戦できるよう身構えながら、仕方なく、会話の調子を合わせる。
「……ええ、今日が入学式なの。ぶつかりかけたのはごめんなさい。急いでたので」
「謝れば許される、なんて思ってねぇよな? ごめんで済んだら警察いらねぇっていうだろ? あぁ?」
やはり、と心の中で嘆息する。護身のために武器の携帯は許されているが、正当防衛等一部例外を除く状況での抜刀は法律違反。同様に、公共の場での魔法使用は一部例外を除き禁止だ。法律に則るのであれば、紫乃はここで魔法と武器による危険はない。
けれど、今対峙している相手が遵法精神を持っているなんて幻想を抱くほど、紫乃は馬鹿ではない。できれば相手が先に手を出してからの方が正当防衛として成り立ちやすい、しかし高校の入学初日に問題になるのは避けたい、などと考えているほどだ。
それに、紫乃の目に映り、そして肌で感じる魔力はそれほど強力なものではない。量からくるプレッシャーも、濃度を表す色も、強大だと表現するのはあまりにも誇大表現というものだ。
荒事になったところで勝算はあるが、穏便に済むならそれに越した事は無い。
「けれど、わたしはお金とかそういうのは持っていないので……」
「じゃーよ、ウチらと遊ばねー?」
凄む二人の後ろで、右手首にはめた黒地に金の線が入ったリストバンドを弄っていた男が、唐突に声を上げる。それはそれは、下卑た声を。
「お、いーねぇ、ガッコなんかサボってよ、オレらと遊ぼうぜー」
「いえ、入学式に出ないとならないので、ごめんなさい」
やたらとうるさい使用人のせいか、慣れない状況で動揺していたせいか、九十度腰を折り曲げて礼をしてしまう。それが、運の尽きだった。
がっしりと右手を掴まれ、抵抗の余地無く引き上げられる。せめてもの抵抗に顔を背けるが、酒臭い息が顔にかかるのは避けられない。たまらず眉間に皺を寄せた。
「へへっ、かなりの上玉だ……しばらくは楽しめそうだぞ」
できるだけ意識を別のものに逸らしたくて、周囲に視線を巡らせる。そこで、自分のミスを悟った。
早朝からやけに騒ぎ立てると思えば、紫乃たちがいるのは人通りの少ない道だ。左は線路、右は公園。そういえば、この道は中学のときから、不審者や不良が多く出没するためあまり通らないように呼びかけられていたはず。そんな道を選んでしまったのは、駅までの最短ルートだからだろうか。それとも、早いと言っても良い時間で、そんな危険はないと高を括ったのだろうか。両者とも正解である可能性が最も高そうだ。
こうなれば仕方が無いだろう。多少問題になったとしても、背に腹は変えられない。
そう覚悟を決め、魔力を活性化させようと力を込める。
「……あの、すいません」