プロローグ
この間までの寒さが嘘のように暖かくなった風が、腰の辺りまで伸びた髪を揺らす。顔にかかる漆黒の髪を片手で押さえた少年は、中性的な顔立ちに笑顔を浮かべながら、身長の二倍はある門扉の横に設置されたインターホンを押した。
『ご用件をお伺いいたします』
「十時から面会予定の神木です」
『承知いたしました。少々お待ちください』
通話が切れ、もう一度風が吹く。
言葉通り、数分かからない時間で、門が開いた。
「ご案内いたします。こちらへ」
慇懃に出迎えた使用人に、先ほどから笑ったままの顔で応え、神木と名乗った少年は使用人の後に続く。
門から玄関まで歩き、そこから廊下を進む。ちょっとした店舗ほどもありそうな家の中に張り巡らされた廊下を進む事、数分ばかり。
「こちらでお待ちです」
「ありがとうございました」
使用人が、扉を指して立ち止まった。
軽い会釈と共に立ち去った使用人から目を逸らし、扉を数回ノックする。すぐに、いらえがあった。
「入りなさい」
「失礼します」
短く断り、扉を開く。丁度扉と対面するように腰掛けていた男性と、少年の視線がぶつかる。一瞬の沈黙の後、男性が相好を崩した。
「久し振りだね。元気そうで何よりだ」
「ええ、藍紫さんもお元気そうで何よりです」
「相変わらず、髪は伸ばしているんだね。願い、だったかな?」
そこで少年は少しだけ笑みを強張らせると、背中から体の前へと長い髪を動かす。そして、ゆっくりと手櫛で梳いた。
「お姉ちゃんの、『願い』ですからね。切るわけにはいきませんよ」
表面上は、先ほどと何も変わらない笑み。しかし、声音に含まれた一抹の寂しさを感じ取り、藍紫と呼ばれた男性は慌てて話題を変えた。
「それで、今日ここに呼び出した理由なんだが」
背筋を伸ばし、少年の目を真っ直ぐに見つめた男性は、慎重に言葉を舌に乗せる。
「まず一つ。紫乃の、娘の、ガーディアンを頼みたい」
告げられた依頼にも、少年は笑みを崩さない。ただ、口元に微笑みを浮かべて、男性を見ている。
「……ガーディアン、ですか。魔術議員とその分家たる『数の血族』が自身や家族を護るために傍に置く、命を賭けて主人を護る人間の事ですよね。幼い頃からそのために教育されてきた分家の子供がなるのが普通だと聞いていますけど」
疑問を声音に乗せた少年に、男性は苦笑する。
「君は、十歳のときから三枝家の孤児院で戦闘訓練を受けてきただろう? 素質としては十分だ。何より、君のその力を使えば、誰か一人を護るくらい、わけないと思えるが?」
またしても少しだけ微笑みを強張らせた少年は、けれど男性が気づく前に戻した。
「……確かに、そうですね」
「もちろん、ただでとは言わない。それ相応の賃金は払うし、もしも君が望むなら、この家に住み込んでもらって、三食に自室もあてがおう」
その提案に、少年はぶんぶんと首を振った。今にも、「滅相も無い」などと言い出しそうな雰囲気だ。
「いえいえ! 高校の学費も甘えてますし……さすがに、そこまで甘えるわけには」
「別に気にする事はないんだがね……私たちは君の後見人なのだから」
それでも納得する様子のない少年に、男性は困惑したように頬を掻くとため息をついた。
「そこまで遠慮するのなら、こうしよう。賃金のうち、高校の学費分は抜かせてもらう。今検討している金額なら、その分を抜いても生活に困る事はないだろうから、問題は無いだろう?」
これ以上は譲歩しない、と有無を言わせない口調で言い切った男性に、少年は渋々、といったように頷いた。もっとも、表情は笑っているのだが。
「契約成立だな。……なら、もう一つの用件に入らせてもらおう」
空気をリセットし、身を乗り出した男性につられて、少年も姿勢を正す。
「これは私としてもはなはだ不本意なのだが、妻の強い意向があってね。提案してみようと言う事になったわけだが……」
その歯切れの悪さは、少しだけ嫌な予感を伴って少年へと届いた。
「……紫乃と、婚約しないかい?」
少年は笑ったままだが、その瞳には大きな驚愕が浮かんでいた。男性もまた、渋い顔でその反応を見ている。
「もちろん、無理にとはいわない。今承諾しなくても、保留にしておく事だって可能だ。断ってくれても問題は無い」
「……ガーディアンと、婚約ですか。他の『数の血族』ではなく、僕である理由はなんですか?」
真意を窺うような視線で尋ねた少年に、男性は苦々しく笑う。
「お見通しと言うわけか……もう、紫乃も高校生だからな。そろそろ婚約の話が出てきてもいい頃だ。しかし、どこかの高慢な息子に嫁がせるのは、親として忌避感が拭えなくてね。もともと、嫁がせるなら君がいいとは思っていたんだ。それと……」
そこで一度言葉を切った男は、言い難そうに顔をしかめ、顔を伏せた。
「君を名実共に三枝家に迎える方法としても、悪くないだろう? それと同時に、三枝家としても、君は喉から手が出るほど欲しいんだ。君と、その力がね」
おそらく、最後の理由が本音だろう。もちろん、男性の表情からして全て本音ではあるだろうが、一番の理由は、最後であると知れた。
その話を黙って聞いていた少年はといえば、相も変わらず微笑んで、男性を見ている。
「どうだろうか? 醜い権力欲だとはわかっている。しかし、受けてもらえないだろうか?」
「……確かに、僕はあなた方に助けられています。その恩に報いたいとも思っている。けれど、婚約は……藍紫さん、僕は、政略結婚はしたくないです。僕ではなく、紫乃さんのために。たとえその裏にあなたが言ったような思惑があったとしても、表面上は幸せなものであった方が、何千倍もマシでしょう。そのためには、僕も彼女も、お互いを知らなすぎる」
そこで一呼吸置いた少年は、大きく頭を下げた。
「身勝手ではありますが、断らせていただきます」
「……君を見込んだ私たちの目に狂いは無かったようだな。ガーディアンとして傍に付くんだ、気持ちが変わったら言ってくれ」
「ええ、それでは」
立ち上がった少年が、漆黒の髪を翻して部屋を出て行く。
それを見送った男性は、少年に送る書類を作るために部屋を出た。