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 午後になると、遼三はどこかに出掛けて行った。重夫は部屋にこもってぶつぶつと台詞の練習をやり始めた。我載は岡田が来るころだというので、この間遼三に頼んで拵えたシャツに着替えて居間でジャン=ジャック・ルソーを読む。全く頭に入らないものだから、読む振りである。それでも子供の目には大変偉い勉強に映ったようで、東子と耕一郎も静かにジャン=ジャック・ルソーを横から眺めていた。

 門の方から御免くださいと男の声が聞こえて来た。岡田である。奥で針仕事をしていたお里が立ち上がって玄関の方に歩いて行った。我載は論文を畳むと机の下に置いた。東子と耕一郎は物足りなそうにしていた。我載はシャツの襟を指で摘んで直した。どうやら緊張してきたようであった。ここに遼三がいないのが心細く思える。玄関で二三言お里と岡田の声がすると、襖が開いて岡田が入って来た。我載は体を向けて「お世話になっています。宮本の所の我載です」と頭を下げた。見ると随分と日に焼けた浅黒い肌をしていた。まるで農夫のようであった。この体で独語の教師を勤めているのだから、人間見た目で判断出来ぬものだ。我載は記憶の中からこの男の事を掬い上げようとするが、全く出てこない。しかし、父の知人という事は面識はあるのは確かである。自分の方で忘れてしまっている面識というものは少々厄介で、懐かしむ話も切り口が全く掴めないようである。しかし、岡田は我載を見ると嬉しそうに笑った。

「おめさん我載らか。あんげ小さかったってがんに、こんげいっちょめえになて。元気したったかね」

 岡田は満面の笑みで蒲原方言を使った。我載は久しぶりに国の言葉を聞いた。たちどころに今まで意識もした事の無かった同郷の持つ安心感というものを感じた。それで岡田の言葉の中に国を思い浮かべて我載も至極自然に笑顔になる。

「正直あまり小さかったもんでよう覚えて無いんですが、この度はお世話になりました」

 我載の方でも訛りを添えて丁寧に返した。東子と耕一郎が「すごいすごい」と言い出した。我載は縁側を背に座り、岡田に場所を空けた。お里は今の隙に茶の用意に土間に行った。我載は東子と耕一郎を膝に座らせると岡田はそれを見て言った。

「なあんだ随分馴染んだみてらね。東子も耕一郎も我載の取り合いっこだこってさ」

「なに言ってるの!」

「おじさん言葉変!」

「変かあ。おじさんな嬉しいんだよ。ひさしぶりに友達の息子見たらこんなに立派になってるからなあ」

「僕立派だよ!」

「あたしも!」

「ああ、そうな。東子も耕一郎も立派だな」

 岡田は我載を見るとまたしても笑顔とため息を漏らした。

「大学の方はなじらね?」

「ええ、大方順調です」

「そういんか。親父は元気らか?」

 父親の話が出て一瞬固まってしまったが、これも遼三の時と同じ心理作用にて「ええ」と曖昧な返事を返すに留まった。そこへお里が茶を持って来た。それを「どうもすみません」と岡田は受け取った。我載はこの岡田という男は随分と器用に方言と標準語を使い分けるものだと思った。


 しばらく居間にて話していると門が開いて遼三が入って来たのが縁側から見える。その後ろに大柄の男がいた。大五郎だ。東子と耕一郎が立ち上がって「お父さん」と叫びながら表に走っていた。お里の方を見ると、顔が普段よりも和やかである。子供のあとについて玄関に向かった。岡田は「来たか来たか」と立ち上がって玄関口まで行った。我載だけはそのままし座ったままぼんやり庭を見た。すぐにまるでわが家に招き入れるような遼三の声と大五郎の声がして、子供と岡田の声に相乗して声が大きくなる。ここで我載も玄関に歓迎の顔出しをするのが下宿の書生の一般礼儀として正しいのかもしれないと思って立ち上がると、行李を持った遼三が先に入って来た。我載は体を逸らして道をあけた。続いて子供が入って来て岡田、大五郎と続く。お里はそのまま土間に向かった。大五郎は髭を無精に蓄えた熊のような男であった。美しいお里からは想像が出来ないような風貌である。山賊のようにも見えた。我載は早速挨拶をすると、大五郎は岡田と子供に手一杯なようで「うんうん」と適当に相づちを返された。各人が居間に腰を下ろすとようやく落ち着きが戻ってきたようであった。すぐに大五郎と岡田が話し始めた。

「どうだ広島のほうは?」

「こっちはどうだった?」

「こっちは色々変わる所が多いな。元気にしてたか?」

「そっちは元気にしてたか?」

「見ての通り皆元気でやっている。いつまでいるんだ?」

「今日は泊まっていくのだろう?」

「お前はどうして質問に質問で返すんだ。それは愚か者と書かれた大きな看板を鼻っ面に引っさげてるのと同じだぞ」

 我載はこの説法に一種の斬新な響きを感じ取った。岡田と大五郎を中心に暫し談笑が続き、日暮れ近くになってお里が土間に夕飯の支度をしに行く頃、ようやく重夫が下りてこないのに気がついた。我載は遼三にそのことを言うと「居眠りでもしているんだろう」と言う。主人が帰って来たのにそれではいくらなんでも無作法だろうと遼三だけに小さい声で言うと、丁度後ろから重夫が入って来た。いつもののっぺりとした顔ではなくどこかに緊張の成分が含まれているように我載は感じた。少々表情のあり方がディエゴ・ベラスケスの描いた教皇インノケンティウス十世の肖像画に通じる所があると思った。どこか不健全な感情が顔に滲んでいる気がする。重夫は大五郎に「お疲れさまでした」と挨拶をした。我載は自分の感じた重夫の不自然に好奇の心が起き、その不自然の糸口を捕えるため大五郎の返す言葉に注目したが「ああ、森岡君。お世話になってるな」と、いたって普通の返事があるのみだった。重夫は我載と遼三の間に腰を下ろした。腰を下ろすなり遼三に「どこに行っていたんだ」と通常の声色で聞いていたので、我載は先ほどの影とも言える表情の怪しさ追求をする気がなくなった。


 夕飯は牡蠣が出た。食い終わると岡田も酒は飲まないというので切り上げて行った。大五郎はしぶしぶ納得して岡田の帰った後に自分だけ晩酌を始めた。我載たちも少々疲れていたので付き合わずに各々の部屋に退散して行った。

 月灯りは時として街灯よりも明るく光ることがある。今日は満月という事も相まって窓から射す月灯りはとても明るいものだった。庭では鈴虫が透明な音を立てている。我載は月光とランプの元で本を読んでいた。目が字に疲れて一旦本から目の前の夜空に目を移した。星が燦然と煌めいている。それをぼんやり見ているととうとう眠気から欠伸が出たので、床を敷くことにした。布団を敷いてランプを消すと、突然背後の襖が少しばかり開く音がする。振り返ると闇の中に重夫の声がした。

「我載、寝たか」

「今から寝るところだ。どうした」

 重夫は一旦は「いや」と襖を閉めたが、襖の縁が閉じきらない所でもう一度開開けた。

「今日ここで寝かせてもらっても構わないか?」

「どうしてだ?」

「いや、お前が嫌なら別にいい」

 我載はこの時の重夫のただならぬ様子に「とりあえず入れ」と言う。しかし重夫はなかなか入らずに「泊まってもいいのか」と聞くので「布団をもってこい」と言った。我載は自分の布団を壁側にずらして少しばかり空間を取った。重夫が布団を抱えて入って来て我載が拵えた空間に布団を敷いた。

「一体どうしたんだ?」

「いや、別になんでもないんだが、あの部屋で寝たくなくなってな」

「どうして?」

「なんとなくだ。すまない。今晩だけだから我慢してくれ」

「別に構わないが」と言って我載は蚊帳を張った。いつもよりも広く貼る。重夫の方は繰り返しすまないと言って床に着くとそのまま動かなくなる。目が暗がりに慣れてくると重夫は目を閉じているようだ。ぴくりとも動かないので寝てしまったのか判別がつかない。少しして我載が重夫に「起きているか」と聞いてみたが返事はなかった。

 先ほどまで眠気が瞼のすぐ裏まであった我載だが、隣に重夫が来たことによって寝付けなくなってしまった。しばらくどうして重夫は今晩に限りやって来たのかを考えた。やはり昼間に垣間見たあの不自然なインノケンティウス十世が関係してると見えるが、それに確証はなかった。今晩に限った事を考えれば大吾郎の帰省と岡田の訪問があるが、それが彼の心理にどのように関係しているのかを推測するには素材が足りない。重夫は何か隠しているのは違いなかったが、寝てしまった者を叩き起こして問い詰めるのはいささか酷である。加えてあの時に見せた重夫の表情は、護謨風船を画鋲で撫でるような危うさがあったように思える。ついに我載は考えるのをやめて布団を被った。やめたはやめたが脳裏では重夫に関連する事がぐるぐると巡っている。そのせいでどうも上手く寝付けない。寝苦しい暑さもあって寝返りばかり打っていた。煙草でも吹かそうかと考えたが、やがて本当に参ってもう一度重夫に「起きてるか」と聞いた。やはり返事は無い。上半身だけ起き上がって水差しを手に取るが中身は空であった。仕方ないので水差しを持って部屋を出た。土間に向かおうとしたが、階段の前で我載は思わず足を止めた。土間は階段を下りて奥に折れた所にある。丁度重夫の部屋の真下である。その方角から殺しきれない声が少し聞こえるのだ。呼吸に重なるようにして擦れ乾いたような声もあった。息は荒く、二人分あった。一つは細く、一つは太い。時々鼻にかかったような艶かしい吐息も聞こえた。我載は土間で何があるのかすぐに想像がついた。そして、重夫のインノケンティウス十世はわからぬものの、どうして我載の部屋に入って来たのかがわかった。我載はそのまま階段を下りる事無く、物音を立てずに部屋に帰った。布団に潜り込むと、寝ているとばかり思っていた重夫が「起きてるか」と聞いて来た。

「今しがた布団に潜り込んだんだから起きてるに決まってるだろう」

「そうか」

「お前こそ寝てなかったのか?」

「いや」

 我載はあの音の事を話そうとしたが、やはり何も話せぬまま、今度は自分が返事をする事なしに黙ってしまった。重夫の方も何も言わずにいた。開け放った窓からは蚊帳越しに燦然な星空が覗いている。鈴虫の音も聞こえる。時折吹く風が気持ちがよかった。静かな夜であった。


 翌朝、月曜日という事もあって全員揃って朝飯の卓についた。その席で滑舌なのは大五郎と遼三だけで、他の人は静かに飯を食っていた。特に重夫とお里はとうとう一言も話さないうちに食事を終えた。

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