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入居してから二月が経とうとしていた。大学の入学はとうに終えて、本格的に講義も聞き、いよいよ大学生らしく試験を控えた七月の暮れの事である。
岡田が下宿に挨拶に来るという手紙を受け取った。父から聞いた話では、岡田は鳥屋野大学で独語を教えているそうだ。幼い頃に会ったことがあるそうだが我載は覚えていない。どうしてこの時期に訪ねて来るのかというと、今日はお里の主人である大五郎が帰ってくるというのだ。元々、この岡田という男は大五郎とは仲の良い間柄であったので、我載の父に頼まれて直接大五郎に話を通した訳である。
今日は日曜日だが岡田が来るので我載はいつも通りに起床した。雀が庭先で鳴く時分である。床を引き払うと窓向きの机の上に散らかっているジャン=ジャック・ルソーの論文を端に畳んでおいた。元より開いてあったが特に読んだ形跡はない。あるのは涎の跡くらいなものだ。米山の下宿のロマン主義は涎で波打っていた。
桂木邸の二階の造りは現代の日本としてはとても特徴的だった。夫が出稼ぎに行くくらいだから、下宿屋を営んで俸給の足しにした方が良いという事で、書生用に部屋を細かく分けてある。二階は部屋と部屋の間は襖ではなく、土壁に珪藻土を塗りたぐった塩梅になっていた。隣りで寝ている遼三の鼾も聞こえない。住むには大変良いのだ。お里の方でも、旦那が出稼ぎに行ったので女子供だけではどうも気味が悪いようだ。特に隣近所で泥棒が押し入ったなんて話を聞いたものなら恐ろしくてたまらないのだそうだ。こうして書生に下宿を間貸しすれば幾分安心であるから、それはお互いに良いのである。
我載は閉まっていた雨戸を開けると隅に畳んである和服に袖を通して下に下りた。土間ではお里が炊飯をしていた。隣りにひょろりと長い重夫の姿もあった。彼は大根の葉を切っていた。我載が下りると「おはよう」と目を向ける。その声に釣られたお里も我載を見て「おはようございます」と言った。我載は何か手伝おうかと思い土間に入ろうとするとお里が笑った。
「台所に男の人が二人も立って炊飯しようかなんて、この国も妙な事になってきましたね」
それを聞いて我載は確かに料理は女の仕事だと思った。しかし、下宿代は払っていると言っても、この家は下女を取っていないのでどうもお里が大変そうに思えるのだ。だから手の空いた時は手伝おうかなどと思うのである。実際に学校にも通わない重夫は閑人なのでよく家事を手伝っている。その為か、面と向かって聞いた事は無いが、重夫の家賃は自分たちよりも安いように思われた。
縁側の雨戸は開け放たれていた。日差しが桜の若葉を透かして縁側に届いている。土間の汲上げで顔を洗おうにも、お里が野菜を洗っているので、我載は庭の井戸に出て顔を漱いだ。鼻から垂れる水は井戸の中に落ちて、中で泳いでいる金魚がその水滴を目がけてぱくぱくとやっている。袖の裏で顔を拭いて風を浴びる爽快感は、新たな一日の始まりを確かに告げていた。
塀の方まで動いて二階を見上げると遼三の部屋の雨戸は閉まっている。まだ寝ているのかもわからない。我載は袖から煙草を取り出して屋根の上に広がった青空を見た。ブラシで伸ばしたような薄い雲が千切れながらゆっくりと流れている。気温は朝なので涼しいが日中は熱くなりそうな予感があった。既に七月である。燐寸を擦って煙草に火をつけると、煙は空に登っていって丁度桜の梢の辺りで透明に溶けた。その様子を観察していると遼三の部屋の雨戸が開いた。立て付けが上手くないのかがたがたと軋みながら開き切る。髪の毛がぼさぼさになった遼三が顔を出したと思うと、下の我載を見て笑った。
「おや。今日は日曜日っていうのに早いじゃないか」
「今日はお客が来るんだ」
遼三の顔は返事をせずに引っ込むと家の中から階段を下りる音が聞こえて来た。よれた日本服姿の遼三が玄関から我載の下駄を穿いて懐手で出て来る。寝起きの目はよく腫れていた。そのまま我載の前を通って井戸水で顔を洗って濡れた手で頭を撫でると、いつも通りの七三分けがすぐに仕上る。そのまま我載の隣りに立って、それもまた我載の袖元から煙草を引っ張りだすと火をつけて吹かし始めた。元より遼三がくれた煙草なので「全部持って行け」というと遼三は「君が持っていろ」と言った。そしてそのまま空に登って行く煙を目で追いながら深いため息を吐いた。
「今日も天気はいいね」
「ああ。こうして見ていると国の空と何ら変わらんようだ」
「今日は良い日だ。牡蠣殿も帰って来るしなあ」
我載は「牡蠣殿?」と言いながら遼三を見ると、遼三はそのまま煙草を吹かしながら「そうさ」と言った。
「きっと今回もたんまり干し牡蠣を持ってくるに違いない」
「干し柿か。しかし何で干し柿なんだ?」
「なに。牡蠣殿は広島に出稼ぎに行っているじゃあないか。広島と言えば牡蠣だろう」
「初耳だ。広島は柿なのか? 新潟にも柿は腐るほどあるぞ」
「そうなのかい? そりゃあ豪勢だね」
「そうでもないだろう。柿なんて秋になれば取れきれんほどあるんだからそんなもので豪勢なんて言ったら笑われてしまうぞ」
遼三は驚いた顔をした。
「そんなに取れるのかい? そりゃあいい。是非とも今度君の家に遊びに行こう」
「それはちょっと不味い」
「どうしてだい?」
ここで父との不和について言及しようと思ったが、あまり人に話しても聞こえの良い話題ではないので「不味いものは不味いのだ」と濁してしまった。遼三の方は少しも残念そうな顔をせずに「そりゃあ残念だ」と言った。
煙草を吸い終わると丁度良く居間の方から重夫が二人を呼んだ。卓の上には朝飯が並んである。我載と遼三は立ち話を切り上げて家の中に入った。いつの間にか耕一郎と東子も起きていて卓についていた。眠そうに目を擦りながら味噌汁を飲んでいる。
「お里さん。今日も旦那さんは干し牡蠣をたくさん持って来るんだろうね」
無作法に遼三がお里に問い合わせたので重夫は「こら」とまるで父親のように宥めた。お里は気にする事無く笑っている。
「ええ。あの人牡蠣しか持ってきませんから。乾物ばかり申し訳ないですが」
「何をおっしゃる。乾物だって牡蠣には変わらんでしょうに。今晩は煮て食いましょう」
そこで我載はぎょっとした。
「まてまて。干し柿を煮るのか?」
「なんだい急に。じゃあどうやって食うんだい?」
「干し柿はそのまま齧るものだろう」
これに我載を除く一同がぎょっとした。
「乾物をそのまま齧るのかい? 随分野性的だね」
「かなり堅いと思うが、食えるのか?」
「もしかして新潟の方ではそうやって食べるのですか?」
遼三も重夫もお里も目を見開いて我載を見た。それに不意を突かれた形で味噌汁をすする我載は止まった。
「干し柿なんて煮たら甘ったるくて食えたものじゃあないだろう。第一果物を煮るなど聞いた事も無い」
重夫と遼三も箸を空中にて一旦止めて「果物」と反芻した。先に吹き出したのはお里だった。あははと見た事もないほど愉快に笑うので我載は呆然としてしまう。ひとしきり笑ってからお里が言った。
「我載さん。うちの人が持って来るのは貝の方の牡蠣でござんす」
そこで全てが合点のいった全員が吹き出した。これには勘違いをしていた我載も耐えきれないようである。