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行李を抱えて汽車を降り、薄暗い停車場の軒を抜けると、清らかな快晴が目に飛び込んで来た。目の前に立ち並ぶ商店や民家の作りはどれも質素であったが、日光を満遍なく浴びて妙に輝いている。我載のように和服に身を包んだ者もいた。ふと風が吹くとどこからか米を炊く匂いが流れて来た。既に望郷の念に支配されていた我載の心に根拠の無い安堵がようやく顔を出したのは、まさにこの時である。
角のすり減った革の鞄から書簡を取り出すと、我載はそこに標された下宿の住所を指で押さえた。これは父の知人の紹介で事前に決めてあった下宿である。
書簡には『米山三丁目八十番 桂木』とある。その下に『鵬本町にて下車』と書いてある。少し辺りを見回してみるも、住所の記述があるものはない。後方の停車場の看板には鵬本町と書かれているからここまでは間違いなかった。前方には商店街と左右には一直線に伸びる沿線路があった。
ここは誰か捕まえて道を尋ねる他ない。行李を地面に置いて書簡を懐にしまうと適当に誰か見繕って道を聞こうと思うのだが、いざ声をかけようとすると、先ほどまでの望郷の心細さが口を塞いでしまった。人はいくらでもいるが、声のかけやすそうな者はあまり見ないようだった。よく見渡すとシャツを着てふんぞり返っていそうな大男ばかり目についた。こういった男は大抵癇癪持ちに違いないと勝手なるままに心の中で決めつけると、どうも閉口してしまう。では、そこを歩く婦人に声をかけようかなどど思うと、普段から親戚以外の女と関わった事の無い我載は不自然な凝固作用に冒されてブリキのようになってしまう。声をかけて二の句が続かぬとなると、これは変な勘違いをされてはたまったものではない。
ようやく意を決して声をかけたのは自分と同じくらいの若者であった。
「すみませんが、米山三丁目はどちらでしょうか」
いざ声をかけてみると、声は存外上擦ったりせずにすらすらと口から発音された。先刻まで地面に置いた行李を中心におどおどとしていた自分がため息が出るほど馬鹿馬鹿しく思えた。
「米山三丁目?」
男は振り返り我載を見た。我載も男を見た。洋服に上下を包み、胸の口袋には白いハンケチーフが刺さっていた。年格好は自分と同じなのに、服装がやけに成熟して見える。すると自分が妙に小さく見えるのだから不思議であった。洋服と言うものはある種の高圧感を持っているものであると思った。
「三丁目ならこの商店街をずっと言ったところにありますよ」
我載を見る男の目に好奇の色が灯った。
「何番だい?」
我載は今さっき確認したばかりだというのに八十番だか九十番だか怪しくなって「失礼」と言って懐の書簡に手を伸ばした。男は我載を待たずに言った。
「もしかして宮本君かい?」
書簡を広げようとした手がぴたりと止まる。我載は目の前の男を見た。どうしてこの男は自分の事を知っているのか。奇妙である。今しがた、しかもこちらから声をかけたというのに、相手方がどうして自分を知っていようか。もしかしたら遠い昔に面識があった者かと考えてみるが、男の顔を見れば見るほど知らない顔だった。少々不気味でもある。
「失礼ですが、あなたはどちら様でしょう?」
「人違いでしたかな。これは失敬」
「いえ、私は宮本です」
「では君が行こうとしている所は桂木邸だね」
我載は怪訝な顔をして男を見た。みなまで知っているとは異常である。怪しいので「そうですが」と一言入れてみると、男の顔はまるで花が開いたかのように笑顔になった。
「やっぱりそうか。いやはや、今日僕が下宿している主人が新しい同居が来ると言っていたのだよ。僕は今から紫竹町に行く所だったのだけれど、行李を持った人がいるからもしかしたらと思ったんだ。君も上手い事僕に声をかけたね」
我載はようやく合点がいった。つまりこの男は自分の下宿先の同居人という事だろう。しかしこのような形をして同じ下宿の同居人とは、もしかしたら下宿は洋館なのだろうか。我載は今一度自分の格好を見てみる。和服にどうぶくを羽織って学生帽をかぶり下駄を穿いている。この男と比べると酷い格好かも知れない。男はひょいと我載の行李を担ぐと「案内しよう」と言って歩き出した。存外この男は我載の格好など全く気にしていないようである。我載は慌てて男の後ろを追いかけた。小走りすると下駄がころんと鳴った。
「申し遅れたね。僕は七尾遼三という者だ」
「はあ。私は宮本我載です。この度、萬代水大学に入学するにあたって上京して参りました」
我載は丁寧に学生帽を取って挨拶をした。すると遼三と言った男は急に笑い出してしまった。本日笑われるのは実に二度目である。
「いやあ失敬。やけに丁寧だと思ってね」
「はあ」
「君、年はいくつだい?」
「今年二十二になります。七尾殿は?」
「僕もだよ。ということは大学予備門予科に入るのかい?」
「いいえ。国で予科は出ましたので本科です」
男は目を丸くして言った。
「そうかい。それは優秀だったんだね。僕の事は遼三と呼ぶといい」
「しかし、それでは失礼ではないでしょうか」
「なに。同い年に失礼も糞もあったもんかね。僕も君の事は我載と呼ぶ事にするよ」
やけに剽軽な男である。我載は「はあ」と言い終えると、この男との間に呈する話題を探し始める。見たところ、自分とは全く異なった人物のようである。共通点は干支が酉年といった事くらいなので、何を材料に話をしたらいいのかわからない。しかし、その一時の迷いは遼三の前では杞憂に終わった。遼三はすぐに口を開いてあれこれ話し始めた。まず手始めにと言わんばかりに、そこの大福は美味いだとか、そこの蒲焼きが美味いとか、ここ一帯の店の状況をすらすらと述べ始める。話はそこから日本はどうだとかイギリスはどうだと言った国際政治にまで及び、その後は下宿の奥さんは美人だとか、喧しい子供が二人いるだとかいう近辺の話に戻った。我載は遼三の話を聞きながら、よく唾が乾かないものだと感心した。そこでようやく自分の行李を遼三が持ったままだという事に気がついて慌てて行李を受け取った。我載は「気がつかなくて悪かった」と謝ると、遼三は「気にしなさんな」と笑った。格好は威張って見えるが、気のいい男のようだ。
そのまま商店街を曲がってすれ違うのに難儀しそうな細い路地に入る。日の影になっているので空気がひんやりとして大変心地よい。すると前から大柄の細い男が和服に懐手をしながらぶつぶつと念仏を唱えるように独り言をいう男に出くわした。変人かと思った。変人は茶色い縦縞の和服に黒い帯を締めていた。その帯の上に懐に入れた丁本か何かが膨らんでいる。遼三は男に声をかけた。
「これから稽古かい」
変人はあっとなって独り言を切り上げると遼三の方を見た。随分と背が高い。我載よりも高い所にある変人の目が笑った。遼三の口ぶりからすると二人は知り合いのようだ。
「なんだ。とっくに出たかと思えば戻るのか」
「いや、駅で友人に出くわしてね」
大きな変人は「友人」と首を捻って我載を見た。我載の方も「友人」と首を捻って遼三を見た。見知らぬ二人は遼三の言った友人を頭で巡らせるが、それが遼三の軽口であることに気がついたのは変人も我載も同じ時だった。
「ああ、彼がお里さんの言っていた?」
「そうそう。我載だ」
まるで十年も前から知り合いだったかのように紹介するものだから、我載の方は妙な親近感を遼三に覚えた。変人の方は会釈をしながら我載に近づく。
「私は森岡重夫です。同じ下宿の者です」
どうやらこの変人も同居の者であるようだ。しかし、この大きな東京でこうも下宿人にことごとく出会うとは本当に奇妙である。ここに我載は一種の運命ともつかぬ物の存在を感じ取った。
「これから面倒になります宮本我載です」
「よろしくお願いします。それじゃあ挨拶はまた帰った時に。ちょっと稽古がありまして先に失礼します」
「はい。それではさようなら」
簡素な挨拶を済ますと重夫と名乗った男は行ってしまった。
その後、十分もしないうちに下宿先である桂木邸に到着した。二階建ての日本家屋である。外には大きな塀があって、その塀の上から若葉の萌える桜の枝が覗いていた。門を押して潜ると洒落た庭があった。井戸が端にあって水仙や紫陽花が植わっている。国ではなかなか見ない午時葵まで美しく咲いている。塀の際には先ほど塀から覗いていた桜があった。胡桃の木もあった。やけに整った庭である。全てが正しくそこにじっとしていて実に上品であった。その中でも風情をもっている。屋敷は縁側があって、そこに水浸しの手桶が日光を受けて光っていた。動くものはない。ただ静かである。ここが大きな変貌を遂げようとしている日本の中心地の東京であることを忘れてしまうような静かな庭であった。よく見ると開け放った縁側の雨戸の奥で子供が寝ていた。遼三が喧しいと評した子供だろう。その奥の襖は全部綺麗に開け放ってあった。奥に薄暗い土間が見える。そこにも戸が開け放ってあるから裏口になっているように見えた。やけに風が通る家だ。我載の実家ほどではないが、この界隈では群を抜いて大きな屋敷だった。
遼三は飛び石を大股で歩いて玄関の戸を引いた。がらがらと無遠慮の大きな音が立ったが縁側の子供はぴくりともしなかった。
「今帰りました」
我載も遼三に倣って玄関を入った。人の家の匂いというものは不思議と芳しく感じられる。奥の方から和服の女が出て来た。髪を後ろで結った美人であった。
「あら。宮本さんですか? 岡田さんの紹介の」と女が聞いて来た。
「はい。宮本我載です。今日からお世話になります」
我載が学生帽を取って頭を下げると、女は「およしになって」と言って笑った。それから二階の部屋を使うように言って我載を居間に通した。居間は先ほど庭から見えたところだった。桜の葉と胡桃の葉が重なり合って濃淡の違う二つの木陰を作り、それは縁側から座敷の方にまで伸びていた。涼しい木陰のせいか、薄緑の光が優しく部屋を照らしているようだった。円卓があって土間とは障子戸越しに繋がっていた。開け放たれた障子戸は子供がいるというのに穴一つない綺麗な状態である。行李は玄関の上がった所において体だけで居間に上がる。座布団に座って女が出した茶を飲んだ。隣りには遼三が座って同じく茶を飲んでいる。遼三は停車場で出掛ける所だったと言っていたものだから我載は「用事はいいのか」と努めて親しげに聞いてみると「大した用事じゃあないよ」とだけ言って頬杖をついた。
女は羊羹を切って出して「ご苦労様でした」と言ってからあれこれと我載に聞いた。この女主人がやけに美人なものだから我載はあまり居心地が良くなかったが、隣りに遼三がいるおかげで幾分気楽だった。女主人はお里と言うそうだ。我載はお里の質問に手短に答えたが、途中で遼三は色々と横槍を出して話が逸れることがよくあった。しかし、そのためお里ともすぐに打ち解ける事が出来た。遼三の存在はとても心強かった。縁側には風鈴が垂れている。風が吹いて涼しい音が鳴った。短冊は藍の厚紙だった。
随分と話に夢中になっていると縁側で寝ていた子供のうち、女の子が目を擦りながら立ち上がった。すぐに見慣れない我載を見て呆としている。
「お客さん?」
「ほら、東子。挨拶なさい」
「お母さん。この人可哀想だよ」
東子と呼ばれた子が我載を指差して妙な事を口走る。それを聞いて遼三は三杯目のお茶を飲み干した。
「ほう。可哀想なのか?」
「うん。この人汽車に飲み込まれちゃうの」
「なに言ってんの東子。およしなさい」
我載はさして気になど止めなかったが、不躾だろうとお里は叱った。遼三はけらけらと笑って「東子はよく寝起きに妙な事をいうもんだ」と言った。
「この間なんて朝にかすてらと牛乳がよくあって美味いなんていうもんだから、僕も食いたくなって買って来てしまったんだよ」
「すみません」とお里が東子を膝に座らせた。膝の上の東子はそのまま顎を上げてお里の顔を見て羊羹と言った。どうやら我載の目の前の羊羹を見つけたようである。我載は手を着けてなかった皿を東子の前に寄越した。
「お嬢ちゃん。今日私は汽車に乗って来たんだよ」
東子は嬉しそうに受け取ると手でとって頬張った。お里は我載にすみませんと言った。我載はいいえと笑うと遼三はその我載を見ながら、なるほど東子は君が汽車で来たのを夢で見たのかと唸った。そしてにやけて続ける。
「予知だね。これは超能力だ」
「なにを馬鹿な事を言うんですか。東子はいっつも夢と現がわからなくなるんですから困ります」
「それでもいいじゃありませんか。他人と同じようなとこばかり頼むと、じきに個性なんてものはなくなっちゃいますから、東子はこれでいいんですよ」
「我載さん。遼三さんはいつも変な事ばかり言うんですよ」
「これは手痛いな。僕はこれでも真面目なんですからそう揶揄ってはいけない。個性と学問というのは密ですからね」
「東子は女なんですから学問なんていいんですよ」
「おやおやお里さん。それは随分古い考えですぜ」
「古くたって構いません。私はあなたたちより十も古い人間なんですからね」
「そんな事おっしゃらないで。こんなに若くて綺麗なのに」
「まあ。煽てても何も出やしませんよ」
「そうですか。今日は我載の歓迎会なのにいいものは出ませんか」
「もう。本当に遼三さんにはかないません」
そう言うとお里は羊羹を齧っている東子を膝の上から下ろして籠を持って出掛けて行った。玄関を出る前に遼三に向かって我載さんを部屋に通してくださいましと言った。縁側に取り残された我載と遼三と東子は風鈴が再び鳴るのを聴いた。
夜になると食卓には鯛と赤飯が並んだ。これが自分の為に出されたと思うと我載はどうも気恥ずかしい思いに駆られるが、実家にいる時分はあまりこういったものを食べさせてもらえなかったので嬉しくもあった。新たな家族に迎えられたような気持ちで心が暖かくなるのを感じる。お里も終始機嫌が良さそうに見えた。遼三は我載に「言ってみるものだろう」などと耳打ちした。悪巧みを成功させたような彼の様子を見てこいつには敵わないなと思った。東子とその兄(耕一郎という)はやったやったと飛び跳ねてはしゃいでいる。丁度茶碗に赤飯が人数分並んだ時に重夫も帰って来た。居間に入るなり「俺の時は鮭だったのに」と言って皆がどっと笑った。我載にとって、これほどに賑やかな夕食は初めてだった。
縁側の雨戸は開け放っている。暗くなった庭に居間の電気の灯りが四角く刺した。灯りは井戸の方まで伸びて水仙と午時葵の所まで照らしていた。風は止まっている。
五月の初頭の事である。