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列車の中がさほど混んでいなかったのは、始発駅から二駅しか通過していないからである。
三駅目で宮本我載が乗り込んだ時も、乗客はやはり疎らであった。我載は両手に持った大きな行李を車内に放り込むと、列車の中をきょろきょろと見回した。彼の此れまでの人生に機関車など登場してこなかったものだから、初めて蜻蛉を見て興奮する赤子のように、列車の内装を物珍しそうにまじまじと見るのは仕方が無い事であった。彼の様子は、正に田舎の若者であり、垢抜けない紺色の綿どうぶくと黒い学生帽が、彼の所体をより一層と野暮ったくしている。
窓から外を覗いてみると、線路は何処までも平行に伸びていた。二本の鉄路はどれだけ前に進もうと決して交わる事が無い。それを見ていると、田舎での長閑な暮らしと都会の目紛しく移ろう東京での二極とも言える生活を端的に現してるようでもあり、大いに野心が燃えると同時に大きな不安が身震いを運んでくるのだった。
暫し線路を見ながら自らの世界に入り込んでいた我載であったが、当車両に乗り合わせた旅客からの視線を感じると、心の中心より沸き起こる知的好奇心に蓋をして、おほんと大きな咳払いをしてみせた。
ピイともビイともわからない汽笛がけたたましく鳴る。その音にびくりと肩を上げたのは乗客の中で我載のみであった。列車が走り出したので、我載は長椅子のベンチに腰を掛けて、荷物を脇に下ろす。体が横に引っ張られる様にゆっくりと速さを増す箱の中で、我載の頭は慣性に従って右に傾く。だが我載は自分の首が横に折れている事に気がついていない。それを見た対面に着席する初老の男が、新聞の縁に鼻っ面を埋めて笑う。彼は洋服にその身を包み、中折れ帽の鍔から我載を見ては笑っている。流石に面と向かってこのように笑われると、いくら我載が学生の体をしているからと言え無礼である。我載自身もむっとした。
「どうかしましたか」
しかし、抗議の声を上げる我載を見ながら、初老の男はより深く新聞に顔を埋めた。仕方が無い。この世の中は巨多の人間がいる。自分が過ごした田舎の基準で考えてはならん、と己に言い聞かせると肩に結んだ風呂敷を解いた。笹に包まれた不格好な大きい握り飯が三つ顔を出す。出掛けに祖母が握ってくれたものである。我載は笹の葉を剥がすと、大きな口を開けて齧り付いた。普段は味気の薄い白飯なのに、今日は辛いくらいに塩気が強い。我載は顔を顰めながら難儀してそれを飲み下すと、再び対面の無礼者と目が合った。今度こそこの男は声に出して笑い出した。
「無礼じゃないか。人を目の前で笑うとは」
我載は強く言った。その男は中折れ帽を取ると、よく禿げた額をばちぱちと叩きながら我載に頭を下げた。
「いや、これは申し訳ない」と男は謝る。
「あなたは私が田舎者だから笑っているのか」
「いいや」
我載の詰め寄る様な問答に、その男は手を横に振り否定してみせた。この男が立派な洋服を着ている所を見れば、それ相応の所得と地位を有している事は我載にも想像出来た。だから我載は「この長者は田舎者を馬鹿にしている」と解釈したのだった。
「私は別に田舎者を笑ってるわけじゃないさ」と男が言う。
「なら何故笑うんだ。別段妙な所も無いだろう」と我載は眉を顰める。
「お前さんは、列車が走ってからずうっと首が折れ曲がってるのがわからないのかい」と男は言い、また笑い始めた。
ようやく合点行った。確かに何か違和感があると思ったら、此れであった。走り出してから電車の運動に従って、右に曲がっていた頭がそのままだった。握り飯を嚥下する際にとても苦労したのは、何も塩辛いせいだけではなかった。我載は「失敬」と言いながら頭を戻した。少し離れた所に腰をかけていた二人組の婦人がこちらを見て笑っていた。我載はきまりが悪くなってしまった。
「君は学生かね」
男は背広の懐から平べったいブリキの入れ物を取り出すと、慣れた手つきでそれを開ける。少し覗いたその中には煙草が沢山入っていた。適当に一本取り出すと男は燐寸を擦る。あいにく、窓から吹き込む風で消えてしまったので、男は計四本もの燐寸を擦る事となった。
「君は学生かね」
男の手元に注意が行っていた我載は、二回目の質問で短く「ええ」と答えるのが精一杯だった。煙草の煙が窓の外に吸い込まれてゆく。その煙の様子を見ながら我載は再び塩辛い握り飯を頬張った。
「今年から大学に」
「何という学校だい」
「ええ、萬代大学です」
この返答に男はにやりと笑った。
「萬大か。あそこは大変だって聞いたね」
「何がですか」
まさか自分の学び舎となる大学に何か良からぬ事があるとは知らなかった。しかしその良からぬ事が何なのかよくわからない。男はさっきまで読んでた新聞を丸めて窓の外に放り投げると、濃い色の煙を吐きながら口を開いた。
「何たってあそこは学生運動が一番盛んな大学じゃないか。私だって長い事東京に住んでいるけど、あんなに過激な大学は知らないよ」
「はあ、学生運動ですか」
男の口からはいつまでも煙が上がっていた。我載はよくわからないので曖昧な相槌を打つに留まった。そもそも学生運動とはなんぞやをわかっていない。学生が何かをするというのはわかるが、その運動がわからない。その運動が過激ならば何がどのように過激なのか、田舎育ちの我載にはわからない。学生運動という言葉を今までに聞いたは聞いたが、ついにその内包する意味と内容まではわからないままだった。
「まあ毎日喧嘩みたいなものだよ。報国の時代は終わったってことだろう」
これは一大事である。自分が大変な思いをして入学したのに、毎日喧嘩をしているのではいけない。高等学校の教師から、萬代大学は学業優秀で東京では名の通った教授も多いと聞いていたものだから、立派な大学だと思っていたのに、喧嘩ばかりしているようではそれが大学なのかも怪しい。喧嘩をするのなら別に東京じゃなくても出来る。そんな野蛮で粗暴な行為は、自分の中に思い描いていた文化的な都会と相反するものである。嫌な話を聞いて食欲を無くした我載は、握り飯を笹の葉に包み直すと風呂敷に戻した。
「下宿は何処で?」
「米川町です」
「ほう、そうかそうか」
男との会話はそれきりだった。男はこれ以上話す用事は無いと見られ煙草を吹かすのに陶酔し始めた。我載もこれと言って話をする気も起きなかったので頭をたれて居眠りを始めた。
短い居眠りだったが我載は夢を見た。祖母が蔵の脇で我載を捕まえて「行くな行くな」と言う夢であった。これは実際にあった一幕であるから、きっと列車の揺動が深い記憶の底からくみ上げたに違いなかった。夢の中で父は出ているようだった。目つきの鋭い継母は座敷にいた。時折我載を見ては不機嫌そうな顔を浮かべていた。この顔が父の前では別人のように花咲く事は知っている。夜に父と離れに行く事も知っている。祖母は継母から隠れるようにして皺だれた手で我載の袖を掴んでいた。行くな行くなと繰り返して、ついには行くのなら父を殺すとまで言うのだ。その背後で鈴虫がひっそりと鳴いている。
夢だからことごとく起こりえない事が起こるが、夢に入っている時はそれに気がつけないものである。祖母は懐から柳刃包丁を出すと、これで父か継母を刺すから行くなと言うのだ。だから我載はやめてくれろと言い包丁を取り上げるのだが、取っても取っても祖母の懐からは継ぎ足すように包丁が出てくるのだ。足下に捨てた包丁が山のように重なると、蔵の影から着物を腰までめくり上げ、下半身を露にした継母が出て来た。祖母は振り向いてそら今だと包丁を継母の胸に突き立てたが、継母は動じる事無くけけけと笑い、祖母の目に指を突っ込んでしまった。みずみずしい音がした。鈴虫の声はいつの間にかなくなっていた。
やがて場面が暗転すると、のっぺらぼうが我載の隣りに立っている。反対側には父が立っていた。のっぺらぼうと父に挟まれながら我載は椅子に座っている。杉で作った椅子だ。背もたれは高い。高等学校の美術室に置いてあった椅子に似ている。それにのっぺらぼうと父は手をかけている。父の表情は威張っている。のっぺらぼうは当然にどんな顔をしているかわからない。ただひたすらに慎ましやかであった。すると前方に阿賀野川の鉄橋が見えて、父とのっぺらぼうはそこから川に落ちていった。音はなかった。暫くして水面に登って来たのはおぞましく口の裂けた父だけだった。真っ赤に目を血走らせて笑っていた。のっぺらぼうは緑色の川の深いところに沈んでしまったようだ。
はっとなって目を覚ました時、向かいの男は既にいなかった。手にはべっとりと嫌な汗をかいていた。客は大分多くなっていた。あと少しで東京駅に着くようだ。そこから下宿に行くまでは鵬本町駅行きに乗り換えなくてはならない。我載は行李を膝の前に纏めると、すぐに下車できるように扉の前に立った。
夢に出て来たのっぺらぼうが我載の実母であったことに気がついたのは、じつに東京駅で乗り換えを済ました時であった。すると夢の中の恐ろしい出来事が蘇り、我載は祖母の事を思った。下宿に着いたら真っ先に手紙を書こうと思った。東京でひたすらに切磋琢磨し立派な地位と学位を貰って祖母を守ろうと思った。
まだ下宿にもつかぬうちに国が恋しくなって怖くなった。