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鵬五条と鹿芽田のちょうど境にあたる大通りには、今では珍しく無くなった路面電車が走っている。真っ赤な車体は少なくない人を乗せ、鐘をカンカンと打ち鳴らしながら大通りを往来する。その向かい側、つまり鹿芽田側には洋館造りの喫茶店がある。ここ界隈で珈琲など飲ませる店はここくらいしかない。店主は洋画の収集家であり、三ツ沢商会と縁があって開業した次第だ。窓辺で路面電車の行く音を聞きながら遼三は珈琲を啜る。ほろ苦くも滑らかな香りが立ち上る。物憂げな午後が始まるところである。
遼三は口元の珈琲カップを受け皿に置いた。少し銀匙に触れて透明な音が鳴る。音があまりにも綺麗だったものだから、もう一度カップを持ち上げて皿に落とした。あいにくちょうど店の前の停車場に泊まった路面電車からわらわらと人が出てきて、音は濁ってしまう。遼三は三たびカップを持ち上げて落とした。喧騒を増した通りのせいで先ほどより細く優美にはならなかった。正しくは音は鳴ったのだが、やはり静寂というものが大切であるようだ。三十日の表は賑やかで、もう二度とカップはうまく鳴ることはないように思える。遼三はため息を吐いて猪口に入った角砂糖を一つ摘んで珈琲に溶かした。
「あら、遼三さん。砂糖をいれなさるの?」
目の前で若草色のシャツを綺麗に着こなした千代子が目を開いた。開いたと言っても、もとより閉じていたわけではない。
「三ツ沢さんの珈琲が不味いわけじゃない。どうも僕はこの苦さがいけない」と言ってカップを口に運ぶ。澄ましながら「香りはいいんだか」と続けるが、千代子は既に窓の外に目を向けていて、遼三の話は聞いていないと思われた。何か考えてるようでもあり、何も考えていないようにも見える。美人はただ何処か呆けていても美人に変わりなかった。
「君はまだ怒ってるのかい?」
遼三が匙でカップをかき回しながら千代子の方を見た。千代子はゆっくりと遼三の方を向く。目は合わない。そのまま自分のカップを両の手で包むと「いいえ」と言う。
「宮本さんの言うことも確かです」
「争いというのは押し問答になると起きるんだ。君も怒っていたが、我載も怒っていたぞ」
「私、正直見下してました」
「あれは酷かったよ。君も言い過ぎだったね」
「ええ、だから謝りたいと思って貴方に取り合ってもらおうと思ったんじゃないですか」
「少し遅くはないかい? 我載は田舎者だけど僕の友人でね。僕だって友人が罵倒されれば頭にも来るさ」
微笑をたたえたままの言葉であったが、内容にはそれなりの棘があった。それもあえて刺そうとするかの如く棘の鋒は千代子を捕えていた。
「それは……すみません」
「謝るのは僕にではなく我載にだね」
ひょうひょうと顔色一つ変えずに遼三は千代子に言い放った。多くの者から丁寧な待遇を受ける大商家の千代子にこうも直接に言葉を投げる者はいない。もっとも、遼三にとって良家などというものなど、何かの付加価値になり得るものではなかった。特に帝国議会議員で副議長を務める父をもつ遼三にとっては。彼の父は英国王室とも個人的な繋がりのある七尾遼心である。その遼心と千代子の父、三ツ沢繁信も繋がりがある。そのため遼三と千代子は幼少から知り合いであるので、無遠慮なのである。
彼らの話題は二週間も前の話である。
その日は残暑の厳しい日であった。朝から外出し、湾岸の荷揚げ作業に従事していた遼三は日当を手にして家に帰った。何を買ってやろうかと一人にんまりとしながら歩いていると、前方からスカートにフランス綿のシャツを着た三ツ沢千代子が歩いてくるではないか。先日三ツ沢商会の者と会ったばかりだというのに、社長令嬢とこんなところでばったりと出くわすとは奇妙である。さては桂木邸の三件先にある香辛料店に集金に行っていたのかもしれない。しかし帳簿は抱えているが、集金袋がないようである。
その後ろを我載がどたどたと走って追いかけている。下駄をだらしなく引っ掛けながら小走りする姿はどうもだらし無く見えた。今度我載に格好のつく長靴でも見繕ってやろうなどと思った。
しかし、こんなところで我載がこうも慌てて飛び出してきたという事は、何かただならぬ事があったに違いないと遼三は見当をつけた。はて、これは面白いものが見れそうだと立ち止まる。うまい具合に千代子も後ろの我載も遼三には気づいていないようである。通りの隅の方に立つと見物を決め込むことにした。
「待ってください」
「なんでしょう? 足りませんか?」
「どういう意味ですか?」
やはりただならぬ雰囲気である。遼三は大福屋の軒先に立ちながら眺めている。大福屋の店番の男もぼんやり遼三と同じ方を見ている。我載は千代子の腕を掴んだ。よく見ると我載の手元には集金袋があった。おかしな話である。我載が三ツ沢商会の集金袋を持っているなど、まるで三ツ沢商会に就職したようではないか。
遼三は眉を寄せながらも草大福を一つ注文した。店番の男は「へえ」と言いながら草大福を紙に包んで寄越した。紙越しの感触は思っていたより柔らかいようである。懐に仕舞ったばかりの日当から店番に金を払うと、通りに向き直って見物を再開する事にした。すると、店番の男が奥から腰掛けを出してきて「どうぞ」と勧めてきた。遼三は覗き見をいい趣味とは思っていないが、好奇心に蓋をするのはどうも自分の性に合わぬようである。覗き見は自分の悪習だと思っているが、椅子を勧めてきた店の者も自分に負けず劣らずの悪習持ちに違いないと思った。遼三は自分の好奇心に従い椅子に座ると草大福を大口に頬張った。
「お金がないのでしょう。なら素直にお受け取りなさいな」
「何故こんな仕打ちをするのです?」
千代子は素早く身を翻し我載に向き合う。
「仕打ち? それは宮本さんが言えた事ですか」
「何がです?」
「貧乏人なら貧乏人らしく受け取りなさいな」
千代子は大きめな声で怒鳴ったので、今度ばかりは通行人がみな視線を集めた。少し辺りを気にすればいいものの、当の本人たちは至極集中しているのだから、通りの注目を持ってしても全く意に介さぬ様子である。周りが見えていないとみえる。二人だけが別の世界にいると論じてしまっても一向に構わないほどである。
我載は酷く顔を歪めて集金袋をくしゃりと握った。
「いい加減にしてください!」
遼三が我載の怒声をはじめて聞いたのは、まさにこの時であった。
我載はすぐさまに集金袋を千代子の胸元に押しつけると、さっと踵を返して帰っていった。カラコロとなる我載の下駄の音が遠くなる。するとそこには当然千代子が取り残されるのだが、その時は既に二人だけの世界から帰還を果たしたので、非常に居心地が悪そうである。
大福屋の店番は「ぐふ」とだらしのない吹き出し方をした。遼三はもう一口大福を頬張った。口の中がぱさぱさしてどうも飲み込みずらい。胸元をどんどん叩きながら「お茶を貰えますか」と店番に言うと「へえ」と奥の方に引っ込んでいった。
その隙に遼三は大福を一つくすねると、通りで往生する千代子の元に向かった。
「やあ、三ツ沢さん」と挨拶をすると千代子は眉を寄せて遼三を見た。
「あらやだ、遼三さん。見てらしたの」
「ほら。美味い大福があるから一緒に食べようか」
千代子はつんと尖った声で「結構です」と言った。
「なに、別に何か話せと言ってるんじゃあない。三ツ沢商会に伝言があるからと父に頼まれてるのだから」
遼三は父と一年も会っていないので、これは真っ赤な嘘である。むしろ絶縁に近い状態なのだ。つまるところは口実である。しかし、遼三にこんな口実があれば千代子の方は乗らぬわけにはいかなかった。
すぐに大福屋の軒先に戻ると腰掛けに千代子を座らせた。千代子は遼三から受け取った大福に目を落としてじっとしている。奥からお茶を持ってきた店番は、さっきまで大立ち回りを演じていた千代子が店にいるものだから「おわ」と驚いてしまった。
「もう一杯頼みます」と遼三が言うと店番は奥にまた引っ込んで行った。なんともどこか嬉しそうな足取りであった。
「伝言というのは」と腰掛けの上でじっとしていた千代子が言うので、遼三は「まあまあ。そんなことよりさっきのあれはどうしたというんだい?」と世間話をするかのように努めて明るく言った。大分言いづらそうであったが、少し話したそうでもあった。その際がどうも分別が着きづらい。しかし、言い辛そうでも今は店番もいないのでここぞとばかりに催促してみるのも悪くない。などと思っていると、千代子の方から話しだした。
「我載さんは本当に意気地のない人です」
「それはどうしてだい?」
「あの人、自分に少しもお金を使わないんですね」
「ああ、自分のことによほど関心がないと見える」
「私だって暇ではありませんのに、散歩に行きましょうって小汚いどうぶくを着て魚目坂に連れて行くんですもの。ハイカラな場所なのに、私ったら本当に恥ずかしかったんです。それに表に出たら出たで何も話なんてしないんですから。あれでは一人で歩いてるのと一緒です。一人で歩いていればいいけれど、横に並んで歩くものだから質が悪いんです」
捲し立てるように千代子は言う。よく一息に言えたものだなと遼三は感心してしまった。感心はしたものの、決して彼女の言動に同調したわけではない。
「しかし、君は酷かったね。君も我載の立場も考えてあげればよかったのに」
「なんの立場でしょう」
「おや、聞いていないのかい?」
遼三は草大福を大口の元に放り込んだ。手についた粉まで舐めてしまうと顎を一生懸命に動かしてから茶を啜った。そこで店番が戻って来て千代子に茶を差し出した。千代子は「どうも」と会釈をして受け取った。大福にはなかなか手を出さないようである。
「彼は越後の出なんだけれども、家からほとんど追い出されるようにして東京に出て来たんだよ。まあ僕とは正反対というやつだね。我載の親父はどうも女好きが酷いらしくて、三人も奥さんを娶ったそうなんだからそれは酷いだろう。あいつは一人目の妻の子で、その妻も他所に男を作ってしまって勘当されたって言うんだから、小さい頃から我載は家の中では嫌われ者だったそうだよ。あいつはあれでも祖母だけは大事にしていたみたいだから、きっと東京でうまくやって祖母の為に帰りたかったんだろうね」
人の事情に大いに踏み込んだ話だが、風のような遼三はすらすらと話してしまった。常人の了見があれば話すのに慎重になるであろう。この七尾遼三という男は全く遠慮がない。
遼三の話を聞いて千代子は少し黙ってしまった。それは聞いては不味いような話を耳にしてしまったからでもあり、我載が不憫だと思ってしまったからでもあった。勿論、遼三はわざと我載が不憫に聞こえるように話したわけではない。
「なんで遼三さんはそんな事知っているのですか」と言った千代子の言い様はうわ言のように弱い声だったが、遼三の耳にはしっかりと届いている。
「下宿で一緒に酒を飲んだときに、あいつが一人でべらべらと喋ったのさ。ばあちゃんに孝行するんだって宣誓も添えてね」
それを聞いた千代子は、ささっと席を立つと一口も手を付けないお茶と大福を腰掛けの上に置いた。遼三は眉を細めて千代子を見たが、どうも何か言う気配はない。「どうしたんだい」と聞くと「失礼します」と足早に店を去ってしまった。通りに紛れていった千代子の背中を見ながら、手つかずだった千代子の大福をつまみ上げて八重歯で噛むように頬張った。その大福をあっという間に腹にしまったのは、千代子に対して少々の憤りを覚えたからであった。自分の主張ばかり一息に捲し立てて、我載の実情を聞くとそこには何も言わずに逃げてしまったと思った。それは卑怯である。まるで資産家とか政治家の常套である。大商家の家の者だからこうなのかも知れないと遼三は頭の端で勘ぐってみたが、父の事を思い出したので、この事は茶と一緒に流してしまった。結局、大福を二つ食いながら二つの目の勘定はせずに出て行っていった。
以上が二週間前の話である。
停車場から人が抜けると、表は不断の音量を取り戻した。
遼三は窓の外から十字路の先に乱立する鵬五条の三十日市を眺めた。千代子は自分の前にある静かな珈琲を眺めた。二人の視界は交わらないながらも、話はまだ継続してあった。
「では、お詫びに行って参ります」
先刻の遼三の言葉は千代子にとって手痛いものだったので、声は平素よりも幾分萎縮していた。
「それがいい。僕もこうして我載に隠れて君と会っていて変な勘繰りをされてはたまらないからね」
遼三の言葉にさきほどの辛辣な言葉を中和しようとする愛嬌は全く含まれていない。詫びるという結論に落ち着いたと見て遼三はさっさと席を立った。
「我載は丁度その先の通りのどこかにいるだろう。捕まえて一言謝ったらよかろう」
自分の勘定を卓の上に置くと「お先に」と出て行ってしまった。一人取り残された千代子は少し考えてから、珈琲に一口だけ口をつけて立ち上がった。勘定を済まそうとすると店員が「三ツ沢さんから代金なんてとてもじゃないが貰えない」と言うが「ではここに置いておくので」と金を卓に乗せたまま店を出た。
表を見渡すと鵬五条の方は活気があったが鹿芽田の方角はずいぶんしんとしている。
遼三の後ろ姿は既に小さくなって鹿芽田の方にあったが、それを認めるとすぐに角に折れて見えなくなった。千代子はしばらくその場を動かずにいた。いざ動こうと思うと足が重かった。元より他人に謝ることが苦手である千代子は我載という自分とは全く別の世界にいる者に、どのようにして謝辞を切り出してよいのか見当がつかなかった。ならば一層このまま我載とは縁を切ってしまえば楽である。
しかしそうもいかない。千代子は元々物珍しさで我載を見ているところがあった。千代子の中で我載を見る目は、観察物を見つめるそれから、いつの間にか全く別の何かに切り替わっていた。その事を自分の中に認めると、決して縁は切ってはならないように思えてならない。
一体それがどのような感情を持って切り替わったのかは己でも皆目見当もつかなかったが、かつて屋敷に時折訪れていたリチャード伯を見る時の気持ちに似ているような気もした。まさかそんな馬鹿なと自分に驚いたが、妙に腑に落ちるところがあって、千代子に足は一層重さを増した。同時にその足を動かしたい衝動も相当なものであった。どうにか動いてしまいたかったが足は地面に根を張ったように動かない。
ついにその足を動かせたのは、このままでは我載が帰ってしまうかも知れないという閃きがあったからである。
一度足を動かしてしまえば後は軽かった。自然と体を鵬五条の晦日の喧噪に潜らせた。それから豊江栄駅の方面に早足で歩いて我載の紺のどうぶくを探した。これが中々見つからない。もしかしたら帰ってしまったのではないかと思った。そう思いながら歩いていると結局豊江栄駅前まで出てしまった。見落としたのではと思い、再び五条通りに入り来た道を戻った。戻る途中に仲の良い男女が何組も往来したいた。子供が軒先で遊んでいるのも見えた。通りの真ん中に猫の死骸があった。煙草を吹かして歩く老人があった。我載の姿だけがなかった。努めて紺のどうぶくを探したが、我載と同じものは見えなかった。
そもそも紺どうぶくなど着ている者はたくさんいるのに、どうしてこうも瞬時に我載ではないと判断出来るのであろうかと、ふと思った。すると自分でも無意識のうちに彼の事を細かく覚えているものだと思い、急にきまりが悪くなった。
日もさっきとはずいぶん低いところに落ちたようだ。こんなに歩いたのは実に久しぶりだ。千代子は結局一往復してしまった。元の場所に戻って来た格好である。これでもう一度豊栄江まで歩いて見つからなかったら帰ろうと思い、多少重くなった足を動かしだした。
すると、すぐ左の軒先で紺色のどうぶくが目に入った。背中を丸めながら地面に並んだ一輪挿しを品定めしている男がいる。足下には長靴を穿いている。髪は短く刈り込んである。丸めたところで背中は広い。これには木犀は入るかなどと聞いている。店主は迷惑そうにしていた。こんなに安いんだからさっさと選んでしまいなといったような事を言っている。紺どうぶくは遠眼鏡を覗くように一輪挿しを目に当てている。その姿を見て、千代子は喜悦とも安心とも取れない妙な感情に包まれた。人はそれを恋と呼ぶが、今まで恋などした事がない千代子はそれを形容する術を知らなかった。
「宮本さん」
千代子は我載の背後から声をかけた。しかしその後なんて言ったらいいのかわからない。その時の千代子は殆ど衝動に支配されていた。だから二の句を考えていなかったのをすっかり忘れていて、我載が振り向いた時にはしごろもどろになった。我載の方もとても驚いていたようで、突然顔を真っ赤にすると「三ツ沢のお嬢さん」と他人行儀に千代子を呼んだ。先日の無礼が我載を遠くに突き放したようである。自分の思っているよりも我載はずっと鋭敏な人だったようだ。いつもは千代子さんと呼んでいるものだから、それが千代子当人には凄まじい距離を感じた。だからなのか千代子の口から出た言葉は、謝辞ではなく妙な依頼であった。
「駅まで送ってもらえませんか?」




