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米山の商店街をぶらりと歩き、芋と豆腐と秋刀魚を買って、さて下宿に戻ろうとした時のことである。一輪車に生姜を山盛りに乗せた農夫が歩いていた。
すれ違いながら横目で見れば、それはそれはまるまると太ったよい生姜であった。ふと故郷の祖母が作る秋刀魚の生姜煮を思い出したのは、ちょうど右手に秋刀魚を抱えいたからである。どうしようもなく懐かしくなった我載は「すみません」と農夫を呼び止めた。
「どこへ行くのですか?」と問う。
「卸にいくところです」と農夫は言った。
よく見ると日に焼けた肌は浅黒く男らしくはあったが、ひょろりろした体躯はどうも不健康に見えた。栄養が足りていないのかも知れない。
「その生姜、一つ譲ってはもらえないだろうか」
「はあ」と煮え切らない返事が返ってくる。
「いくらでしょう?」
「いくらにしましょう?」
質問に質問で返すのは愚か者と書かれた大きな看板を鼻っ面に引っさげてるのと同じだ、と熱弁していた岡田の顔が浮かぶ。よく見るとこの農夫の目元は岡田に何となく似ているようだ。我載は一人でおかしくなって笑ってしまった。農夫は怪訝な顔を浮かべた。
「一銭でいいでしょうか」
「はあ」
結局一銭を渡すと農夫は生姜を一本差し出して行ってしまった。やはり東京は故郷に比べたら少々割高なきがする。生姜一本で一銭とは中々な値段である。木綿豆腐三丁で二銭三厘だし、秋刀魚は旬だから一本九厘であった。袖元が心なしか寂しくなった。軽くなった袖に土の着いたままの生姜を放り込むと、足早に下宿へと帰った。
下宿である桂木邸は米山と鵬一条の丁度真ん中にある。
二階建ての庭付き一軒家は大家の祖父の代からあるもので、今は今年で三十になるお里が一人で切り盛りしている。旦那は出稼ぎに広島の方まで出ている。たまに帰ってくると牡蠣の乾物をたくさん持ってくるので、遼三は「牡蠣殿」などと呼んでいる。我載は旦那に会う時まで、干し牡蠣を干し柿だと勘違いしていた。後からそのことをお里と遼三、重夫に告げると、三人は腹を抱えて大きく笑ったのだった。
初めてここの旦那に会ったのは我載が東京に出て来て二月ほど経ったころだ。その日も丁度今日のように庭に柔らかな日差しが射す気持ちのいい日だった。
もう一年が過ぎた。時間の経過はあまりにも早すぎて、本当にあの時間はあったのだろうかと疑ってしまうようなことがある。まるで夢のようだ。この調子では生涯などあっという間に終わってしまうのではないだろうかと、良い知れぬ儚さに恐ろしくなる。
引き戸を開けて入る。ふと花の香りがした。一輪挿しにはギザギザの葉のついた小粒の白い花が咲き誇っていた。遼三が持って来た薄黄木犀だ。金木犀のような香りがする。彼が言うにはこの花も元々は舶来品だそうだ。
履物を脱ぐと、東子と耕一郎がドタドタと騒がしく駆け寄って来た。お里は台所で料理を作っているようだ。「おかえりなさい」と奥の方から聞こえてくる。
耕一郎と東子は二人だけの遊びに退屈していたのか、我載を見ると口々に「何買ってきたの?」と聞いてくる。我載は秋刀魚と芋と豆腐を渡し「お里さんに持っていっておくれ」と頼むと、耕一郎が乱暴にひったくり「僕が渡すから東子はあっちいけ」と台所に走っていった。ひどいがに股である。出遅れた東子はつまらなそうに踵を返したが我載は袖に放り込んだ生姜を思い出し東子を引き止めた。
「なあに我載」
「東子はこれを持っていっておくれ」
「生姜だ!」
「生姜煮を作ってくれとお里さんに言ってくれるかい」
「わかった」
東子が台所へ駆け出して行くと、背後でがらがらと戸が開いた。黒い中折れ帽を被り、白いシャツに紋付を引っ掛けた遼三と目が合う。手には秋刀魚が吊られていた。
「帰って来てたのか。いやはや学生は気楽でいいね」
我載を見るといつも同じことを言う。自分だって学生のくせに、あたかも自分が教師であるかのようなものの言い方だ。厭味は無いが、気にも食わない。遼三はいつだってひょうひょうとしているのだ。どこか世間と人間を高い場所から見下ろしているような具合である。いつも舶来品ばかり買い込み、本など読まぬ張りぼての男だ。流行があればそちらに行き、廃ればあちらへ戻りの風である。
靴を脱ぐのに苦戦している様子だ。うんしょうんしょと唸りながら片足立ちで左右に揺れている。手に吊られた秋刀魚も釣られてうんしょうんしょと左右に揺れた。遼三の片足立ちは装いも相まって鹿驚のようだ。
「遼三も来た」といつの間にか耕一郎が戻って来た。
「遼三も秋刀魚!」
「そう、秋刀魚だ。安かったから晩飯にお里さんに頼もうと思って」
一旦二本足で立つと耕一郎に秋刀魚を渡し「持っていってくれ」と言った。
「お前も秋刀魚を買ったのか。これじゃ秋刀魚三昧だな」
「なに? 我載も買って来たのか。秋刀魚」
「ああ。生姜も買って来たから生姜煮にでもしてもらおうと思ってな」
「秋刀魚の生姜煮とは馴染がないな。美味いのかい?」
「もちろん。祖母が秋になるとよく作ってくれた。秋刀魚と生姜の香りがあってとてもいい。辛味もあって米が進む」
「へえ、そりゃ美味そうだな。でも東京は蒲焼きなんだよ。秋刀魚は」
「おれは東京ではないからな」
「どうでもいいのさ。君が東京かどうかなんて。東京は蒲焼きなの。萬大の教授達も秋刀魚が好きらしいね。魚臭い息で田舎からの学生に御口弁をふるっているんだろう」
「そうでもないだろう」
自分の大学を馬鹿にされたので少々むっとなって言い返すと「冗談だよ」とひらりと躱された。本当にこの遼三という男は風のような男だ。身軽なのはその体だけではなく、言動もまるで空気のように軽かった。生真面目を地で行く我載にとって、遼三は別格の男であった。
舶来の黒い革靴を脱ぎ終わるのに一分はかかっただろう。遼三はひょいと板間にあがり二階にあがる階段を登ると、中腹あたりで思い出すようにして我載を呼んだ。
「そうだ。我載に似合いそうな長靴があるから後で僕の部屋に来るといい」
言い終わると再び階段を身軽に登っていく。太い袴がひらひらと靡いているが、上着は体の形にぴたりと合ったシャツなので、彼の全体像は妙な色合いの狐のようであった。
開け放った雨戸からは夕日の光が差している。腹が少し減ったので、遼三の部屋に上がる前に、台所で料理を仕込んでいるお里に「何か手伝うことは無いか」と聞いた。お里は生姜をぶつ切りにしながら「間に合ってます」と言った。
「我載の秋刀魚の方が大きいな」
「遼三の秋刀魚はこれに入るかな」
庭の方から妙な話が聞こえて来たので、廊下に上がり縁側の方に向かう。水を張った桶に秋刀魚を浮かべて、耕一郎と東子が遊んでいる。こう見ると確かに遼三の買って来た秋刀魚はやや小降りのようである。東子の左手には玄関に飾ってある一輪挿しが握られている。そこに挿してあった遼三の美しく芳しい薄黄木犀は地面に放り投げられていた。子供達は魚に一生懸命なので地面に落ちた花に見向きもしない。当然、見るも無惨に踏んづけられていた。その分、芳しい香りは庭中に満ちあふれている。
「あ、入ったよ!」
「本当だ!」
我載は桂木邸の広めの縁側に腰掛け、二人の様子を見ていると、遼三の秋刀魚のうち小さめの一匹がうまく一輪挿しの中に入った。二人とも何かをやり遂げたような顔をしている。
東子が穴からのぞいているが、影になってよく見えないのだろう、しきりに角度を変えていた。ここで視線が赤のように屈折すればよく見えるかも知れないがそうもいかない。
二人は交代に一輪挿しを覗きあっていると、台所からお里が秋刀魚はどこに行ったかと喚いた。その声を聞いた子供二人はあわてて秋刀魚を取りだそうとするが上手くいかない。丁度口元が閉まって徳利のようになっている一輪挿しの口は子供の指も入らなかった。
「出てこない」
「どうしよう」
「振ったら出るかもしれない」
「駄目」
「逆さまにしたらどうだ」
「駄目」
「僕がやる」
「駄目よ。耕一郎は出来ないわ」
「東子だって出来ないさ」
「出来るわ」
「いいからよこせ!」
「いや!」
取り合いを始めた。足下では薄黄木犀がぐしゃぐしゃになっている。台所からお里の声が聞こえてくる。それに焦って二人はさらに激しく取り合う。
これはまずいと思った我載は二人に「やめなさい」と言った。止まらない。もう一度言う。一層激しくなった。水に濡れているので滑り易くなっていた一輪挿しは東子の手からすっぽ抜けてしまう。均衡してた力が突然途切れたので、二人は弾かれたかのように後ろに大きく尻餅をつく。耕一郎も驚いて一輪挿しを手放してしまい、秋刀魚が入った陶器は勢いよく宙を舞う。直線的に飛び石の上に着地してぱりんと破れてしまった。とても乾いた音とは対照的に、中からは新鮮なみずみずしい魚が姿をあらわした。無理矢理押し込んだのだろうか、秋刀魚の尻からは少しばかり内蔵がはみ出していた。顔を歪めていた東子がとうとう泣き出すかというところで、台所から痺れを切らしたお里が勇み足でやって来た。
「あんたたち何やってんだい!」
お里の大きな声についに泣き出したのは東子ではなく耕一郎だった。先に耕一郎が泣いたことで、東子はハッとなり泣くのを踏みとどまった。
水浸しになった庭はとても涼しげに見える。飛び石の上にきらきらと光る秋刀魚は白だったり青だったりと、鮮やかな色に反射している。形容のしようがない生臭い美しさがある。薄黄木犀の雅な香りが庭中を満たしても、やけに生臭いようだった。
晩夏の日差し。初物の秋刀魚。薄黄木犀の香り。幾分小さくなった蝉の声。
桂木邸の庭で目一杯の秋が切り取られていた。それを我載が認識した時、この庭は現実離れした箱になった。こんな奇妙な箱で流れる時間もいつかはその存在すらもわからなくなってしまうほど危うい儚さを帯びている。我載はただこれを忘れまいとしっかりと目に焼き付けたのだった。その幻想的な箱の中で、お里の怒声と耕一郎の泣き声があまりにも不釣り合いに響いていた。
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居間で丸い食卓を囲む。
「なるほど。花のことなら安心しな。皇居東御苑で捥いで取って来たからタダだ」
秋刀魚の生姜煮を咥えながら遼三が言った。続けるようにして「はて、タダよりも高いものはないなどという言葉もあるな」などと難しい顔をして唸りだした。我載も生姜煮を頭から咥えた。たしかに美味いが、祖母の作る生姜煮ほどではなかった。塩気が強くて米ばかり進む。
「お前達もあまりお里さんを困らせるなよ」
ついさっき帰った来た重夫が一連の話を聞いて、耕一郎の頭に手をやる。耕一郎は重夫の棒切れのように細い手を頭から払いのけて「僕のせいじゃない」とたくあんを口に放り込んだ。重夫はふふふと低く笑いながら秋刀魚を尻尾から齧った。
「でも玄関に花が無いと何だか寂しげで嫌ね」とお里がみそ汁を啜る。大根のいい匂いがする。
「ならば我載が買ってくればいい」
遼三が当たり前のことを言うようにして我載を見た。
「おれが?」
「明日は授業があるのか?」
「いや、ないが」
「ならば丁度いいじゃないか。丁度明日は三十日市だ。鵬五条ならよい一輪挿しが売ってるだろうさ」
我載はちらちとお里を見たが、何も言わない。ただ申し訳なさそうな顔をしている。
「遼三が行けばいいだろ」
「僕はあいにく明日は用事があってね」
「なら重夫は?」
「俺も明日は稽古がある」
我載は一度秋刀魚を茶碗の上に置いて二人の同居人を見る。二人とも涼しい顔をして秋刀魚を齧っている。遼三に関しては、やはりこの時期の秋刀魚はどうのこうのと秋刀魚の評論をしてみせた。
こう聞くと、自分だけが用のないようで、東京まで出て来たのに何をしているんだと情けなく感じた。重夫は妙な劇団で一日中ひたすら二三言の台詞を練習しているし、遼三は毎日よく分からない場所に行って、よく分からないことをしている。彼らのやっていることが意義のある事かは我載にはわからないが、ともかく何もすることが無い自分よりは有意義のように思えてしまう。
「わかった。おれが行ってくるが、遼三は何の用事があるんだ?」
「そんなこと聞くなんて野暮だな。だから君は田舎者なんだ」
「どうせ遼三のことさ。また変なもの買ってくるんだ。我載、気をつけろ。押し売りされるぞ」
「重夫。言っとくがね、僕は我載から金を取ったことなんてないぞ」
「まあ確かにいつも何かもらうが、金は払ったことはないな」
「重夫はあまりもらって無いからと嫉妬しているに違いない」
「馬鹿言うな」
食卓が笑いに包まれた。
我載たちの話を聞きながら、耕一郎と東子は楽しそうにしていた。
しめて二十尾もあった秋刀魚は、あっという間に無くなってしまった。