1
千代子と鵬五条の大通りを歩いていた。
我載はこんな処で千代子に出会うなど思っていなかったものだから、安物の一輪挿しを品定めしている背後から「宮本さん」と声をかけられたときには大いに狼狽した。さらに先日、千代子に無礼なことを言ったのを思い出して、彼女の隣にいるのはたいへん居心地が悪い。
それでもこんなところで偶然出会い、駅まで送ってほしいと、しきりに頼まれれば断るわけにはいかない。難しい顔を作りながらも、やむを得ず「わかりました」と言ってしまったのだ。
元来、鵬五条は古ぼけた骨董街であるが、今日は月の暮れであるため、道端には多くの市が立ち、行き交う人も平日と比べものにならないくらいに多かった。月の暮れは何処も同じように陽気である。どの町でも三十日市は大抵がこのような様相を見せるのだ。
賑やかな通りを歩く我載と千代子の距離は人ひとり入れそうな程に離れている。はぐれたら見つけられそうにないが、これ以上近づくことは躊躇われた。
今日はどこに行っていたのだろうか、千代子は若葉色のブラウスを着ていた。彼女の凛とした表情と相まって高貴な空気を出している。
対する我載は今日も今日とて土臭いどうぶくを着ている。足元は辛うじて下宿先の友人である遼三から譲り受けた踝まである長靴を履いているが、やはり野暮ったさは抜けてくれない。だから遼三から顔を合わすたびに「君は骨の髄まで田舎者だな」とからかわれるのだろう。舶来品を何か一つでも身につければ格好がつくだろうと思っていたが、その浅はかな考えが恥ずかしくなるほどに千代子の姿は美しく、普段は気にも留めない自分の田舎臭さが嫌になった。
通りをよく見渡せば洋服を着ている者も少なくない。特に女は綿生地のブラウスや短い裙子のようなスカートを穿いている者が多い。彼女達は我載の故郷では見たことも無い新人類のように思えた。日本も着々と西洋の文化を取り入れて、東京を中心に新しい文化の風が吹いていることは身に染みて感じていたが、こうしてぶらりと歩く骨董街でさえ、女性一個人としての文明の変容を目の当たりにすると、どうぶくの自分が時代に取り残されているように思えた。
横に歩く千代子もまた自分と遠い文化の人のである気がした。冴えないどうぶくと緻密な縫製のブラウスの間には人ひとり分以上の距離がある事を我載は感じていた。
日は徐々に落ち始めて、空は黄昏色を薄く帯び始めていた。
この鵬五条の長い通りは半刻も歩けば豊江栄の駅前通りまで出てしまう。それまでに、なんとかこの前の無礼を詫びようと試みるのだが、いざ切り出そうとすると尻込みしてしまい、無言で通りを歩くことになった。千代子も別段なにか話すつもりはないらしく、行き交う人を器用に躱しながら歩いている。だから通りの喧騒が余計に響いて聞こえてくる。
二人の間に横たわる沈黙は我載にとって至極息の詰まるものであった。
「物盗りに用心を」
「はい」
しばらく二人の会話はこれぎりであった。
鵬五条を半分ほど行ったところで、前方にひらけた場所だと言うのに人が避けて通るところがある。混んでてよく見えないが、ゆらゆら動く人の頭が左右に逃げていくのが見える。そこを避けて通る者は、何か汚いものを見る目で地面に目を落とすと、直ぐに各々の方面に歩き直してゆくようだった。
「何か落ちれているようですね」と我載が言った。
「ええ、何でしょうか」
重い沈黙はようやく終わった。これをきっかけにして詫びを言い出せると我載は思った。
ややいくと人の避ける場所に出る。
そこには一匹の猫の死骸があった。
通行人に蹴飛ばされたのか踏まれたのか、白い毛衣は酷く汚れていた。特に取り立てて言う処のないただの汚い猫の死骸である。夜になれば乞食が大喜びで持ち帰り、今夜の晩餐に煮て食うだろう。
「まあ汚い」
千代子は若葉色の洋服の袖で鼻頭を抑えて、死骸に一瞥をくれた。しかし、我載は立ち止まり、猫の前でしゃがみ込む。その奇行に千代子が如何しましたかと尋ねても、我載は何も答えることはなかった。
我載のただならぬ空気に千代子は押し黙ってしまったが、思いのほか我載はすぐに口を開いた。
「死んでもこんなに汚い所に這いつくばるなんて、お前さんの本望ではないだろうに」
我載は誰に向かっての言ったのかわからぬ事を口にする。
半開きなままの猫の瞼を閉じてやると、死骸を抱きかかえ商店街の裏にある小川に向かってずんずんと歩き出してしまった。千代子は我載の行動に合点が行かず、ただその後ろについて行くだけであった。
小川はちろちろと耳に優しい音を奏でながら、夕焼けの空を反射させていた。
我載はどうぶくの袖を捲り、地面の小石を手で払う。そして露出した湿り気のある土を手で掘りだした。千代子はその後ろ姿を何も言わず見つめる。時折額の汗を拭いながら、土を掻き出し続け、少しして十分な大きさの穴が仕上がった。川辺という事もあって、土が柔らかかったので、手でも満足に掘ることが出来たのである。
我載は汚れてない手首の背で鼻を擦ると、小川で泥だらけになった手を洗った。
「今に綺麗にしてやるぞ」
洗いたての手で猫の死骸を抱く。そうすると死後硬直の済んだ死骸は大通りに倒れたままの姿勢で持ち上がった。
猫を水面に優しく浮かべると、汚れた白い毛を濯いでやる。猫が水に入ると、蚤がわらわらと出てきたが、まったく動じる事なく洗い続けた。千代子はその様子を我載の肩越しに見つめている。
猫を清めてやると、先ほど作った穴に入れ、上に土をかけた。猫が入った分だけ盛り上がった土の上に平たい石を立てる。墓石代わりだ。それが終わると再び川辺で手を洗い、濡れた手をどうぶくの腹に拭って千代子を見た。彼女はさっきから我載を見ていたので、目の合う形になる。
「偽善ですがね」
決まりが悪くなって頭を掻く我載。千代子は何も言わなかったが、普段より穏やかな顔で彼を見ていた。
「さて戻りましょう。日が落ちてしまいます」
小川から引き上げ、鵬五条通りに戻ると日は大分傾いていた。太陽は夕日に変わり、市は夕間詰めの賑わいを見せている。我載は先日の無礼を詫びるのは後日にしようかと思った。千代子は夜道を歩くのは気味が悪いと言っていたので、少し早足に豊江栄駅に向かう事にした。その途中、突如千代子が立ち止まる。今に至るまで特に口をきかなかった彼女が赤い空を見て言った。
「どうして青い空は、夕べに赤くなるのでしょう」
「はあ」
突然足を止めてそんな事を言うものだから、我載は呆気に取られ間抜けな声を上げた。
振り返って立ち止まった千代子を見ると、夕空の燈色が彼女の黒髪を赤茶色に染めている。白い肌は光を受けて輝くが、遠くの空を見つめる彼女の表情には幾分濃い陰があった。
「参りましょう。じきに日が落ちます」
そう急かす我載の言葉に返すことなく、彼女は言葉を続ける。
「昼間は綺麗な青に白い雲まで浮かべて陽気でしょう? 夜は紺色に綺麗な星までばら撒きます。ならば何故、夕刻にはこんなに悲しく染まるのでしょうね」
我載は何と答えて良いかわからない。
はて突然どうしたのだろうかと思った。そしたら何故千代子はこのような質問を持ち出したのか考える羽目になった。質問の動機を考えると脳の半分が持って行かれたような心地がする。半分の脳で彼女の質問の意味を考え、半分の脳で質問の答えを考えなくてはならない。
しかし、彼女の問いに答えるには、半分の脳では手持ち無沙汰に思えてならない。先ほどの千代子の顔色を見るに曖昧に答えて濁してはいけない様であった。不器用な我載は二つの事象を同時に思考する事を諦め、仕方なくこの間仕入れたばかりの屈折の話を持ち出した。
「地球は大気層と言う透明な膜に覆われております。日中は大気層に入った光が屈折して青く見せてるのです。夕刻は太陽が傾き、屈折率の高い赤色が我々の目に届くのだそうです」
「まあ、博学なんですね」
千代子は空から我載に目を移していた。そしてにやりと笑って続けて言った。
「だけど、その答えではいけませんわ」
いつの間にか彼女の顔からは寂しそうな表情が消えている。その事に我載はすっかり安心してしまった。今なら先日の事を謝れる気がした。
しかし、踏ん切りが付いたところで、彼女はまた暗い表情を作った。
「人生に浪漫など求めてはいけないのでしょうか」
彼女が悲しそうに呟いた言葉に、我載の心臓は強く跳ねたようであった。
その言葉は誰に向かって言ったのか検討がつかない。故に我載は押し黙るほかなかった。自分自身が浪漫などと言う言葉とは程遠い人間だという自覚はあったが、この問いに答えられないことが大変もどかしく感じた。
日が更に傾いた気がする。
豊江栄駅に着いた頃、周りの街灯はすっかり灯っていた。夕焼けは燃え終わり、空は夜の紺色をこしらえ始めている。駅前は人でごった返していたが、二人の距離はほんの寸分近づいた為か、今度ははぐれそうになかった。
切符売り場には長蛇の列が出来ていた。それを見て我載は、鉄道は儲かるものだななどど心の中で思った。
当然並ぶのかと思い、我載は列に近づいて行くと、後ろからどうぶくの袖口を掴まれた。振り向くと千代子が我載をじっと見つめていた。その視線は一切曲がる事なく、我載の目を捉えていた。もちろん小心者である我載は目を離した。
「どうしました?」と我載は尋ねた。
「いえ、この様子ではすし詰めになりそうですので」と千代子は答えた。
「乗らないのですか?」
「窮屈なのは嫌です」
「では、如何しましょう」
我載の下宿の米山町は線路沿いに半刻も歩けば到着するが、千代子の家は反対方面である。汽車で駅四つほど離れている。歩けばすっかり深夜になってしまうだろう。それではいけない。妙齢の女性であり、さらに良家の令嬢である。そんな人を歩きで返すのは気が引けた。だからこそ我載は質問を投げたが、千代子は押し黙るばかりである。
我載はどうする事も出来ず、千代子も何を言うわけでもなく、二人は時間が止まったように固まってしまった。
二人がこうしている間も、豊江栄駅は出入り口から人間を吐き続けていた。