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第八話

「…なんだよ?」

「別に。こんなところで号泣してる変なのがいるから何かと思って。」

ざわざわと風に騒いでいた公園の木々が凪ぐ。

なんの衒いも無く言われたもんだと、目を細めて彼女を見上げた。

「おまえだって……」

風が吹き、木の葉が揺れて白金のビロードが靡いた。うっすらと見えるその大きな目は真っ赤に染まっていた。目元もだいぶ腫れている。

「…こんな時間に一人で何やってんだよ。」

それよりも気になることがあった。兎のように赤いその目よりも、その眼の奥にあった色が見慣れたもののように感じた。

全部を投げ捨ててもいいと思っている眼。少し前の、鏡を覗いたときの俺の眼と同じ気がした。

雰囲気も今にも消えそうな感じだ。まさに雲を食んで霞に住んでいるようだな、なんて思う。

「ねえ、あんたさぁ。モムマートでバイトしてたことあるでしょ。死にたそうな顔してレジしてなかった?」

くるりと体を回して、彼女は俺の横に座った。自分で変なのと称した男の隣に座るなんて、随分と可笑しなやつだと思った。

「私も死にたくてね。名前も知らないけどさ、むしろちょうどいいから一緒に死なない?」

「はぁ?」

「ほら、自殺志願のオフ会って本名言わないらしいし。ちょうどいいじゃん。」

笑っているつもりなのか、彼女はくしゃりと顔をゆがめた。とてもそうは見えない泣いている様な顔で。

俺、変なヤツを呼び寄せるオーラでも纏ってるんか?絡んでくるのは変態と変人ばっかりだ。

「うざいな、お前。何がちょうどいい、だよ。俺を勝手に死にたがりにすんな。」

「嘘だ。モムマートの前通る度に死にたそうな顔してたの見たし。わかるんだって。だって私も…」

昔からずっと、死にたいって思ってたんだから。

平均より少し小柄な体を更に小さく縮めて、嘯いた。

「お前喧嘩売ってんのか?俺は死にたくなんてねえよ。」

彼女から離れるようにベンチから立ち上がった。「あ…」なんて俺を追いかけるように手を伸ばしかけ、彼女は寂しげにうつむいた。

「人恋しいなら家に帰れ。帰れば家族が居るんだろ?」

「帰れないし。家出しちゃったし。死にたいし。あんな家に……居たくないし。」

「へーそりゃタイヘンダ。じゃあ友達の家にでも行けばいーだろ。」

「家に泊めてくれる様な友達はいないし。」

「じゃあ諦めて帰ればいいだろ。」

「ヤダ。」

「駄々こねてないで帰れよ。」

「無理。」

心底、呆れてため息が出た。

まてよ、なんだよこの状況は。名前も知らない他人と訳のわからない問答なんてオカシイだろ。

なんて頭の後ろの方で言ってる自分がいる。思わず苦笑がもれた。

「お前なんて名前?」

「……熊木くまき 倖音さちねだけど…何?」

「俺は多田治。名前知って、これで一緒に死ぬにはちょうど悪くなっただろ。」

彼女は、うう…と唸ってからずるい、と訳のわからない文句を言った。

「ああ、ずるい。」

「ちょっと、認めないでよー。」

彼女は小さく笑った。普通にしてれば、本当に可愛い顔をしていると思った。

「ほら、笑えたならもう死にたくなんて無いだろ?」

彼女はきょとんとして、三秒。そしてまたずるいと言った。

「もう知り合っちまったから、お前が死ぬと寝覚めが悪い。だから絶対に死ぬな。」

「でも……帰る家無いし。この時間にあんな家に帰ると殺されちゃうし。なら死ぬし。」

家に帰れないから『死ぬ』か。随分敷居が低くなった。もうただの駄駄だ。

「うるせー奴だな。じゃあ……今夜はウチに来るか?」


カンカンと、赤錆びた階段を二つの足音がのぼる。

一体なんでまた、さっき「来るか?」なんて口走ったのか。今となったらそれが自分でも信じられない。別に他意があったわけじゃなくて、口をついて出てしまっただけだった。

階段を上りきった狭い踊り場で振り返る。二段ほど下、後ろでは彼女がこっちを見上げて待っている。

強いて言うなら、ほら、同属憐憫みたいなもんか……?

「行く。」と熊木は返事をし、それで困ったのは俺のほうだった。俺は馬鹿か。

誘った俺の馬鹿さ加減もかなりのものだけど、それにしても見ず知らずの、深夜の公園で号泣する変人についてくる熊木は俺に輪をかけて変態だと思う。

ある意味、無茶と言うか度胸があるのか……?

「なあ、なんでついて来たんだよ。」

「だって、アンタが言ったんじゃん。泊めてくれるって。」

「……だってお前、俺とついさっき会ったばっかだろ。普通はもっとさ、警戒したりするもんじゃねえの?……夜に一人暮らしの家に泊まる、とか。」

声が上ずりそうだなんて気付いて、無駄に低い、脅すような声になってしまった。

熊木はまたきょとんとしてから、おかしそうに肩を揺らした。

「何笑ってんだよ。」

「いや、だって。……オオカミになるつもりの男って、普通わざわざそんな事言わないでしょ。」

「それは…」

別にそのつもりで呼んだ訳じゃないけど、それにしたってだろうが。

月明かりの下じゃなければ顔が赤くなっているかもしれない。くそ、何だ俺は。

「それにさ、別にそういうの、もうどうでもいいし。」

「……ああ、そうかよ。」

鍵を開けて扉を開く。乱暴に靴を脱ぎ捨て、玄関に入った。

電気をつけて声をかけると、なんだかんだ言って、恐る恐る熊木は玄関を覗き込んだ。

「うわ、空き巣に入られてるよ!?」

そして、一言。

「ふざけんな。これが普通だ。」

これ以上無いほどの悪態を天然で吐きやがった。

「なんかさ、廃墟に勝手に住んでるみたい。ものすごく暑いし。」

「じゃあ野宿しろ、野宿。」

「あ、嘘、嘘です!立派で快適な邸宅です!」

扉を閉めにかかる俺に必死に抵抗して、熊木は必死に体を玄関に押し込んだ。

「ほら、マチュピチュ遺跡みたいな感じだし。」

「あれ雨ざらしじゃねーか。」

ひとしきり熊木は失礼なことを言い倒し、けたけたと笑った。唐突にへこんだり、そうかと思えば突然悪ふざけを口にしたり、感情の出目が賽のように慌しい。

とりあえず、居間の方へと案内して予備のタオルケットを準備した。

「このソファー使っていい。空調は無いから扇風機で我慢しろな。勝手に風呂入っていいし……冷蔵庫のものは適当に食っていいから。」

熊木は渡したタオルケットを取り落とし、あわあわとそれを手繰り寄せた。

「う、うん。」

いつものようにシャワーを浴びて着替える。とりあえず予備のタオルも風呂場のほうに用意しておいた。

そして隣の部屋へ引っ込もうとする俺を、奇妙なものでも見る目つきで見上げた。

「なんだ?」

「なんか手慣れてるから…いつもこんなことしてるのかと思って。」

「別に。ただ、俺の知り合いにはお前みたいな変人が多いんだよ。」

熊木は渡したタオルケットで、護るように全身をくまなく覆い、丸まった。

「……本当に、何もしないんだ。」

「そういうのに絡まれんの、めんどくせえんだよ。」

たしん、とまさに拒絶を表したような襖のしまる乾いた音が響いた。

――それにタオルケットを取り落とすくらい震えてたじゃねえか。

ベッドに腰を下ろした。

空気が重い。水浴びしたばかりだってのに全身に汗が浮いてきて、陸に打ち上げられた魚のような気分になる夜だった。開け放った窓から、二軒となりの家の風鈴の音色が幽かに聞こえてくる。

一機しかない扇風機を譲った上に、居間との襖まで締め切っているから尚更だった。寝室の小窓はすぐ隣のアパートの壁のせいであまり風を送ってくれない。

「ねえ、まだ起きてる?」

しばらくして、襖越しに篭った声が聞こえてきた。少しの間返事をするかどうか逡巡し、返事をした。

「ありがとね。」

「別に何も。」

「私の家さ、早くにパパが死んじゃって、小さい頃から母子家庭で…ママには迷惑ばっかかけてて。」

「……それで?」

「それで、私、早く仕事を始めて、ママに楽させてあげようってばっかり考えてた。小さい頃から、お金を稼がなきゃ、早く仕事をしなきゃって。まあ、儲かってもママが悲しむような仕事はするつもりないけど。」

静かな声だった。部屋の静寂が、言葉の余韻で余計に滲み込んでくる様な。

「高校に入ってすぐの頃に、入院するような怪我をしちゃってね。それでその時お世話になった看護婦さんたち…看護師さんか、今は。それに憧れて。それでさ、なりたいと思うようになったの。」

――夢があるなら、捨て鉢になっちゃ駄目だろうに。

俺は黙って、続きを待った。

「退院してそれからしばらくした頃に、ママが再婚したの。それも、公務員のお堅いバツイチオジサンと。そいつには私の二つ上の女の子の連れがいたの。私と違って、もうお嬢様みたいに上品で、品行方正の。……私なんかバイトバイトだったから、部活とか出来なくってさ。そういうところとかが向こうはイヤみたいで、なんだか仲良く出来なくって。」

えへへへ、と言葉を誤魔化すように熊木は笑った。それから、熊木って苗字は前の苗字なんだけど。って前置きを。

「なんかさぁ、ママのためにって今までお金だ、バイトだって思いつめてきたものを全部、オジサンが持って行っちゃって。一番強く繋がってると思ってたママとさえ、なんか距離できちゃったみたいで。」

すんすんと、鼻をすするような音が聞こえた。

「……まだ起きてる?」

「ああ、ちゃんと聞いてる。最後まで聞いてやるから、全部吐き出しちまえよ。」

俺には熊木が思い悩むことを軽々しく、とやかく言うことなんて出来ない。

それでも後腐れのない一晩かぎりの独白の相手には、なってやれるだろうと思った。

「うん…。それで、ママは少しずつ私に、お姉ちゃんのようにしっかりしなさいって言うようになった。きっと、頭の固いオジサンに私が嫌われて、私を育てたママまでオジサンに嫌われちゃうのが怖くて。私が何をしても、私じゃなくてオジサンと、オジサンの娘ばかりを見るようになった。」

熊木の声が、湿っぽい。それでも、襖越しの声はお互いの距離関係にちょうどいい優しさだった。

泣き声交じりに熊木は続けた。

「私は看護師になりたいってママに言ったんだけど…そしたら、お父さんがお金を出してくれるからちゃんとしたいい大学に行きなさいって。……だからさぁ、私必死にバイトして少しでもたくさんお金ためて、それ以外だと一生懸命看護学校に入れるように勉強して、今までやってきたの。」

少し、というかかなり驚いた。

初めて眼を合わせたときに、まるで自分の目を見つめているようだなんて思ったけれど……状況こそ違うが熊木は俺に良く似ていた。

「今日、ママが本気で怒ってね。大喧嘩して……産まなきゃ良かったって言われちゃって…。もう私を助けてくれる最後の気持ちの糸が切れちゃった気がして。歩き回ってあの公園で泣きそうになったら、後からふらっと来たあんたがびっくりするくらい号泣してさぁ。…それも私が泣くのを忘れるくらいの勢いで。」

――泣きそうになったら、か。

見上げた天井は暗く、いつもの様に染みが踊っていた。

「だから、声かけたくなっちゃって。あんたのこと見たことあって覚えてたし、全部どうでもいいやってなった私と一緒に死んでくれるかなあって。」

「そんな……」

馬鹿なこと、とは言えない。ほんの数ヶ月前の俺が今夜のような誘いを受けたなら、きっとそれもいいかって思っていたかもしれない。

俺だって少し思い立って、橋の手すりの向こう側に立ったなら、きっと飛んでいたんじゃないのか。

「……それしかないのかよ。夢を見て生きるよりも、ただ死ぬ方が良いのか?」

今度は熊木がしばらく黙り込む番だった。

「いままで必死に勉強した分も、必死にバイトして貯めた金も、それはお前が自分のために頑張ったものだろ。それも全部信じられないっていうのかよ…。それだけ頑張れる看護師の夢自体、そんなに簡単に諦められるものなのか?」

はああ、なんて長い深呼吸が聞こえた。

「だからさ、あんたが私と死んでいいって言ってくれたら……そうじゃなくてもあんたがこの部屋で私を滅茶苦茶に汚してくれたら、一人でも死ねるんじゃないかって思ったのに。ずるいね、私……。」

しばらく、熊木はしめしめと泣いた。どれくらいの間だったのかわからない。啜り上げる声も聞こえなくなった頃、声をかけた。

「これからどうするんだ?」

返事は無い。眠ってしまったかもしれない、と思ったけれど…。

「もしこれからバイト増やして、一人暮らしのアパート探すんなら……しばらくこの部屋半分貸しても…いい。」

雄一のいつかの言葉か、裕子さんの言葉か、祖父に言葉を貰ったからか。

理由はつけようと思えばいくらでもあるし、無いといえば無い。

あえて言うなら、ふと、熊木が俺と似ていると思ってしまったから。あの一人暮らしのときに、祖父母が手を差し伸べてくれたようにしてやりたいと思ったからか。

「俺にも……バイトでアパート借りて苦労したっていう馬鹿な知り合いが…居るからさ。」

泣きつかれて眠ってしまったのかもしれない。やはり返事は無かった。

静かな部屋の空気に打ちのめされて、また随分突飛なことを言っちまったもんだと反省して体を横たえる。寝苦しかったけれど、横になったとたんに緊張の糸が切れたらしい。すぐに睡魔が襲い掛かってきて、負けた。



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