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第五話

それから一ヶ月くらいたった。

あれ以来雄一とは会っていない。朝起きたらいつの間にか上がりこんでいるって事もなかった。養成学校が厳しいのか、或いは。

どっちにしてもこっちからは連絡を取らないもんで、雄一の近況は分からなかった。

俺は、というと週一度モムマートに入る以外ほぼすべて、毎日のように越野家のバイトに入るようになった。高校を出たって事で深夜にシフトを移行してもらった。このころから金銭的に若干の余裕が出てきた。

店長にはよくしてもらった。事情を知っているわけじゃないのにどこか配慮してくれているようだったし、それに「もしその気があるなら正社員として推薦しようか?」とも言ってくれた。

ただ、いまひとつそれはピンと来ない。きっと、甘えだろうと思うけれど、それでもこんな気持ちのままその好意に甘えるのは、後ろめたい気がした。

モムマートの方はというと、正直なところ辞めようか迷っていたところだった。長く、高校三年間ずっとお世話になってきて、三年になってからはこっちの都合を聞かずに掛け持ちをすること許可してくれたオーナー店長と奥さんに義理を感じていたけれど、深夜営業のないモムマートの半端な時間帯は身体のリズムを作るのに大変だった。

しばらく考えてから、それを裕子さんに相談した。

思ったとおり彼女はありとあらゆる論調を使って俺を引き止める方向でアドバイスをくれた。それをひとしきり黙って聞いたら、冷静になったのか一つ声のトーンを落とした。

「なんてねー。私が辞めて欲しくないってだけなんだけどね。」

俺と違って、別に後から入ってくる新人アルバイト達と仲良く出来ないわけじゃないっていうのに、折れて消えそうな寂しい愛想笑いに、曖昧に言葉を濁すことしか出来なかった。

「まあ、また家に遊びに行くから同じかなあ。」

今度はそんな俺のことを見て、あっけらかんと笑い飛ばす。

「またさ、原嶋君連れてカラオケでもいこっか。治のモム卒記念で。」

「雄一は…」

「ノリが悪いよ?お姉さん涙が出ちゃうなあー。癒し系の称号、剥奪しちゃう。」

「剥奪してください。でも………そうですね。声かけときますよ。」

「やたー。」

大きく万歳のポーズを取ろうとして、裕子さんはふわりとした白い長袖のずり落ちるのを気にしてた。素肌を晒さない何かのルールなんだろうか?

まあ、奇行やら突飛な言動が多いのが裕子さんだったから、覚えた違和感はすぐに引いていった。


越野家のほうは、月を前後半でシフト分けだった。月末と十五日にシフト表が新しく出される関係で、約束から二週間もたったころやっと、俺から雄一を誘ってカラオケの日取りが決まった。

正直な話、俺の方はこの間のことを引きずってるんじゃないかって、雄一に電話するのを散々ためらったんだけど、いざ電話したらあいつ。

「おー。行く行く。」

なんて軽い返事だけ。電話越しの声はこれでもかってくらい軽薄だった。

引きずってたのは俺で……俺が気にしすぎなのか?

酷く癪に障るからぶっきらぼうに時間と場所だけ教えておいた。

それで当日。

前日の養成学校の打ち上げだか何かで最終電車に乗り遅れた雄一はたっぷり遅刻するって連絡してきた。日付を間違えて覚えてたとか。ああ、あれだけ軽かったなら覚えてないだろうさアホ雄一め。

このままだと時間単位で待つことになるって言うんで、先にはいってることになった。

俺はアイスミルクティーで、裕子さんはたしかクリームメロンソーダを頼んでた。

一曲ずつ歌っては何か取り留めのないことを話して、そして思い出したようにまた曲を送信して歌う。そんな感じだ。

「あのさー、クリームソーダシリーズはこっちのテクニックをリサーチしてるんだとアイスィンク。」

また、何を突飛な…という話題の転換。そもそも、ソニンやら東京事変の鬱ものを歌った直後に脈絡なく。

一般人の俺と違って、やたら歌が巧い裕子さんや雄一がしんみりした歌を歌うと空気が変わるってのに。

それぞれが数曲歌ったころ、二杯目のクリームコーラが届いた。

裕子さんは獲物を前にそう言って、スプーンを一度口に銜え、腕まくり。戦闘体勢になって腕を回す。

「はしたないですよ、裕子さん。」

「そうだけどー。治が許してくれるなら問題ないでしょ?ハシタナイのはやだ?」

「もう慣れました。」

そう、じゃ良かった。なんてけらけら笑う。

「それでこれって炭酸ジュースにアイス沈めちゃうと泡になっちゃうでしょー?でも適度に下のジュースを絡めたいじゃん。このアイスについてジュースが凍ったみたいなの美味しいしー。」

「あー……」

俺は、ピントのあってない返事を返した。そういえばクリームソーダって食った事がなかった。少なくとも覚えている間には。

「それでさー、このアイスの下の氷の浮力をいかに活用するかが腕の見せ所だと思うの。こう、アイスをスプーンで掬う時にこうやって……ほらこんな感じ。」

クリームソーダ類の食べ方の失敗がどんなのかがわからないけれど、裕子さんは満足の行く掬い方を出来たようで、やたらうれしそうだった。

「あー……なるほどー」

水をさすつもりはなかったけれど、なんていっていいのかわからなくてまた気のない返事をしていた。

「よーし、もはや私が教えることはない。治は今からクリームソーダ免許皆伝じゃ。」

「それは、辞退します。」

「そんなこと言うなよー。ほらこのアイスクリームあげるから。」

「ちょっと…待ってくだ…裕子さん」

口元にスプーンを突き出して、裕子さんは悪戯っぽく笑い始めた。さっき裕子さんスプーン舐めてたし、こっちが慌てるのを分かっているんだろう。

「あはははははは…」

何故か不意に、追いかけてきた笑い声が寂しげに聞こえて後頭部が冷たくなった気がした。俺は裕子さんの手首を握り、やっと止まったスプーンに一度深呼吸。

「そういうことは……。」

何度も聞いて覚えてる。裕子さんの彼は、決まって十時過ぎごろにモムマートに来る、柔和そうな人だ。背はやや低めで、商品を受け取るときに人懐っこい笑顔で礼を言っていく。裕子さんが、と言うのではなくても一言二言話しかけて来ることもあったくらいだ。名前は松沢まつざわ 正義まさよしさん。

裕子さんが言うところの、癒し系。思うに、彼女が言う俺と違って生粋の。

それを思い出した。

「…松沢さんにしてあげてください。」

笑い声が止まって、握っていた手がびくりと震えた。裕子さんはそれから一度、ごめん。とつぶやいた。

「少し、はしゃぎ過ぎちゃった。」

裕子さんは、すい、と逃げるように視線を泳がせた。いくら俺が鈍くたって、分かる。

「裕子さん……。」

溶けかけたアイスクリームがスプーンからたれた。

思い出し、握っていた手を緩める。白く、細い手首があらわになり―――そこに刻まれている何本もの線に気がついた。

伽藍と頭が白くなり、ソニンの曲が、東京事変の入水願いの歌詞が蘇った。

「ッ痛っ!」

俺が思わず強く握った痛みで、テーブルにスプーンが落ちた。きんからから、なんて。

「裕子さん!なんで…」

ボックスの扉が勢い良く開いた。間延びした、全く悪びれた様子なんてない雄一の挨拶とも、謝罪とも雄叫びともつかない声が響く。

「あれ?なんだこの空気?俺失敗したか?」

「いや…」

ああ失敗だ。と思う反面、おかげで混乱する頭に怒りが満ちなくてよかったなんて矛盾したことを考えていて―――その自分に嫌気がさした。

「原嶋君遅いぞー。あはははははは、ふざけて治にアイスをあーんしたら怒られちゃったー。」

裕子さんはこともなしという体で、俺が雄一に気を取られている隙に、するりと手をひっこめる。腕まくりを戻しふわりと袖で手首を隠してテーブルのアイスを拭いた。

「なにぃ!?裕子さん俺にもお願いしますよー。」

「ダメー。さてやっとオールスター勢揃いだね。仕切り直しで私からいくよー。」

そして入ったのは大塚愛のHAPPY DAYSだった。すぐさまリズミカルな音楽が始まる。

それから底抜けに明るい歌だけを、裕子さんは続けて歌った。

終わりの時間まで、ずっと。


蛇口を目一杯捻って水を流した。ざあざあと飛沫が飛び散ってかすかに服を濡らす。

料金が安い代わりにお世辞にも立派とはいえない設備のせいで、他所の部屋からここまで歌声が漏れ聞こえてくる。音程が無い絶叫と演歌。うるさい。

時間をかけて手を洗う。

あれから何度目になるのかも分からないトイレだった。

裕子さんの歌はまるで、大声を上げて泣きたいから一際声高にアップテンポの曲を歌っているようにしか聞こえなかった。

雄一が得意の恋愛バラードを聴いて、拍手と歓声を上げているときは、こっちは悲鳴を聞いているようだった。

視線を上げると、目の前の鏡に自分の顔が映る。

酷い面をしてるな、と心底思う。

水を掬い、顔を洗う。まったく変わらない自分の顔がむかついた。

拭いて、頭を振った。トイレを出ると会計を前に俺を待っている二人がいる。

「遅いぞ。待ちくたびれて延長したくなったくらいだ。」

「いいねー。また延長しちゃう?」

「いや、今日は。」

雄一は俺のやや低いトーンに気付かず、残念そうに文句をもらした。

「しょうがないねー。じゃ、また来よーね?」

「もちろんっすよ。」

「またメールする。……裕子さん、送っていきます。」

裕子さんは一瞬困ったように苦笑してから、悪いよー。と言った。

「裕子さん、最近物騒ですから治に送ってもらった方がいいっすよ。なんなら俺もついてきますし。」

「いや、お前原チャリだろ?裕子さんも俺も歩きだから平気だ。」

「そか。わかった。」

「うーん……治?迷惑じゃない?早く帰りたいんじゃない?」

わかってる。アカルイウタしか歌わなくなったのも、蒸し返したくなんてないからだってことくらい。

ただ、一曲一曲裕子さんがアカルイウタを歌うたびに、こっちは言わなきゃ我慢できなくなったんだ。ってか、そういうつもりの選曲かとさえ思う。俺はまんまと頭にきていた。

はたと、視線を雄一に向けた。そんな俺に気付いてからきょとんとして。

「なんだ?俺の歌が巧かったからって惚れちゃいかんぞ?」

「とりあえずお前は死ね。」

雄一はあの時、こんな感情と折り合いをつけたのか…。

小さく細い深呼吸を一度した。

「ぜんぜん迷惑なんかじゃないっすよ。俺夜型ですし。」

「……じゃ、お願いしちゃおっかなー。」

裕子さんは屈託なく笑って、そう言った。

女の子が喋るバイクと旅をする小説の、そのバイクに似ていると選んだらしいYB−1にまたがり、雄一はひらひらと手を振った。すぐに影が見えなくなる薄曇りの夜に、軽いチャンバーの唸りを残して帰っていく。

「俺らも帰りますか。」

「うん。」

しばらく、黙って並んで歩く。情けないことに、アレだけたくさん用意したはずの言葉がどっかに消えてしまっている。

裕子さんは可笑しな人で、底抜けに明るくて、思い返せばいつでも笑っている人だった。マシンガンのようにしゃべり続けて、でもなんだかんだで聞き上手でもあって、少なくとも裕子さんは…。

「ごめんね、治。」

「 、」

先に口を開いたのは裕子さんだった。


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