モノローグ〜優しい憎悪、甘い涙〜最終話
ゆっくりと、今残っているすべての思い出を引き出した。
そしてさっきの、自分への説教を反芻する。
人間の根っこは善から来るのか。悪から来るのか。そんなこと知らない。
少なくとも昔から、俺の根幹を作っていたのは憎しみと意地だった。
思い出せない過去という脆い足場に恐怖し、他人を羨望し、必要以上に挫折し、しまいには妄執に駆られ、すべてを嫌悪し、自分に憎悪を抱き、悲壮に塗れて逃げたくて。でも、意地を張っていた。
確かに、俺にはそれっきりだったと思う。
ゆっくりと、思考を回す。
思い出のスタートは大半が中学からだ。それは今でも変わらない。
でもそれから数年間のことはすべて鮮明に覚えている。
あの臍を噛む思いの日々。
自分の情けなさ。
一人暮らしへの期待と不安。
親友の言葉。
自分の不甲斐無さ。
真珠の涙。
人生の師の励まし。
熊木との出会い。
やりがいのある仕事。
家族への想い。
一人きりだと思い込んでいた俺の回りでも、一本ずつ糸は伸びて、周囲と結びついていた。
今は信頼できる親友がいると、胸を張れる。
仕事に目標を掲げることが出来る。
それに…
タイミング悪く、ピイピイと薬缶がわめき散らした。
「わかったわかった。」
火を止めて、紅茶を入れる。引き戸を開いて居間に入るなり。
「遅いよー。出会いのシーン終わっちゃったし。」
薬缶より騒がしく、ぶうぶうと熊木はわめき散らした。
「悪かった悪かった。」
紅茶をならべて熊木の隣、指定席の猫の刺繍入り座布団に腰を下ろした。
熊木は熱心にアメリを見ている。
その横顔を見て、胸にじわりと湧く想いが確かにある。
「ん?どうかしたの?」
熊木は俺の視線に気付いて、子猫みたいに目を丸くした。
「なあ、熊木の実家ってどこなんだ?」
「……え?なんで……そんなこと急に?」
満月のようだった目が、不安そうに垂れ下がる。
「いつまでもこのまま帰らないって訳にいかないだろ。よかったら…」
俺の言葉が終わりきるよりも先に、熊木の見開かれた瞳にどろりとした昏い色が満ち、それと同時に俺の肩辺りを、熊木の拳が打った。
「う…」
「なんで!」
ぱしん、と二度、びしり、と三度。
「お、おい、熊木。」
「なんで今になってそんなこと言うの?」
ばしり、と五度、ずん、と七度。
「ちょっと待てって。」
「じゃあなんで今まで玄関を閉めなかったの!?」
熊木はもう数え切れないほどめちゃくちゃに腕を振り回す。予想外なことに、それは有理の蹴りよりも重たかった。
「それならなんで…私が帰ってこれるように鍵を開けていたのよ……!」
握っていた拳がするりと解ける。そして熊木は顔を覆って小さく丸まり、泣き崩れた。
「話を最後まで聞けって、熊木…」
肩に置いた手が、横薙ぎに払われた。更にトーンを上げて、うぅぅぅ、と熊木は体を真珠貝のようにこわばらせる。
――言葉選びを間違ったな。畜生。昔から口下手なんだよ。
「倖音、たのむから話を聞いてくれ。」
嗚咽が止まった。倖音は手で半分以上隠しながら、涙でぼろぼろの顔を幽かに上げる。その真っ赤な眼は、光の一切燈っていない黒目は、警戒しながら様子を伺う猫科の動物のようだった。
初めて出会った夜のことを、思い出した。二人とも眼を真っ赤にしていた公園の夜を。
どんな表情になっているかわからない。でも、今夜の俺は努めて優しく微笑んでみせた。
「倖音、よかったら俺とちゃんと付き合って欲しい。」
ゆっくりと手を伸ばした。顔を頑なに護っていた倖音の手をどけ、その頬に触れる。
「倖音のご両親に挨拶しに、実家に一緒に帰ろう。」
一番初めはおかしな奴だと思った。そして俺とよく似ていると。だから、助けたいと思った。
一緒に暮らすうちに、いつの間にか吸っては吐く、無色透明な空気のようにさり気無く、無くてはならない女性になっていた。偏屈で凝り固まり尖った、不恰好の刀を包む鞘のように。
緊張しきりで、口元が引き攣ってるのが自分でわかる。掌から伝わってくる柔らかい感触と温かさが、一秒ごとに俺から冷静さを奪い取っていく。
「う、うぅぅぅぅぅ…」
倖音の搾り出すような泣き声と共に、ぼろりと一際大きな滴が流れた。
「俺じゃ駄目か?倖音……?」
満月のような涙をぼろぼろと零しながら、倖音は小さく首を振った。
「ずるいよ治ちゃん……そんな顔して。」
すい、と顔が近付く。
私のほうが、ずっとずっと待っていたんだから。
吐息の声が終わるのと同時に、柔らかい唇が重なった。
頭の芯がゆるゆると溶けていく気がする中で一つ。
ああ、甘い涙というのも、あるんだなぁと、思った。
終幕
最後まで付き合っていただき、誠にありがとうございます。
空想の物語。
これを、夢物語だと、今尚苦しんでいる人がどこかにいるかもしれない。
そう、これは盥の空想の物語。
でもきっと、治たちは生きていた。
もし、あなたが、自分に負けそうだったなら。
もし、あなたが、治のようにすべてを諦めそうだったなら。
『負けないで欲しい』
その一念で、書いたのです。
未熟で、拙いけれど。
これは、そんな貴方達への応援歌のつもりです。
がんばれ。
みんながんばれ。
改めて、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました。




