境界線
――あの時の雪はこんなもんじゃなかったんだよ――
軽自動車の中から、父が外の景色をあごで示した。
僕たちは父の生まれ育った雪国にいた。
今年は久しぶりに雪が多く、僕と父は祖父母の家の雪掻きにかり出されていたのだが、今は午後の作業にとりあえずの区切りをつけ、夕食の買出しに車を出したところだった。
祖父母を長年支えてきた小さなオンボロが、巨大な除雪車の後ろを不規則にゆれながら進んでゆく。
雪は確かに多かった。
降りしきる様子もそうだが、道の両脇にそびえ立つ高い雪の壁がその風景を一変させていて、僕はただ驚いていた。
しかし父の言う「あの時」は、今年以上だったという。
――どこかに写真があったはずなんだけど――
父は写真の背景、その豪雪について語り始める。
その話を何度も聞いたことのあった僕は聞いているふりをしながら外の景色を見ていた。
汚れた雪を積み上げた壁の上に電線があり、その向こうを灰色がのしかかっている。
その灰は黒に近付きつつあり、まだ時間があるはずの日没が寸前まで迫っているように見えていた。
その少し内側に、熱心に語る父の姿が映る。
彼が語るのは思い出の中の出来事で、いまだにその写真を見たことのない僕はその実態がどういうものであったのかをまったく知らなかった。
それでも、思い描ける風景がある。
小さな男の子がいる。
彼は着ぶくれてもこもことしている手足を窮屈そうに動かしながら、一人で進んでゆく。
彼は純白の風景の中にいた。
雲を通して届くやわらいだ光のせいでありとあらゆる境界が曖昧にぼやけ、夢を見ているかのような感覚があった。
すでに彼の住む世界は雪の中に飲み込まれ、目を凝らしてもどこにも見つからなかった。
彼が見ているのは白い山の連なりと、通り過ぎていく白い粒だけだった。
少年はふと、立ち止まる。
視界の中に道はなく、何の目印も見つからなかった。
どこに向かっているのだろうか。
振り返る。
白い平原の上の頼りない足跡が、ほんの少し戻ったあたりから消えかけており、その向こうは雪のカーテンに隠されて見えなかった。
どうやって帰るのだろうか。
そういえば、どれだけ歩いたのかも覚えていない。
どこにいるのだろうか、と考える。
とはいえ。
彼の目に動揺は映らなかった。
彼の目は静かに、忘れられてゆく記憶のような足跡を見つめた。
外側から入り込む静寂が、彼の心にまで届こうとしていた。
薄暗い灰色の天から、決められた航路をたどるようにして白い結晶たちが舞い降りてくる。
それは少年の黒々とした瞳の前を通り過ぎ、そっと置くように地面に吸い込まれ、重なってゆく。
世界は変わりつつあった。
しかし、同じ場所を巡っているようにも見えた。
積み上げられた雪たちが音を吸い込み、少年にも静けさを強いていた。
彼はまばたきすら忘れ、そのままでたたずんでいた。
きっかけが何であったのか、それは分からない。
目の前を通った一際大きなひとひらだったかもしれず、遠くからとどいたかすかな振動であったかもしれない。
またはいわゆる「虫の知らせ」であったかもしれない。
ともかく、彼は振り向いた。
理由もなく目指していた方へ。
いわれはないにしても、前へ。
その時、「前」では降る雪の勢いが弱まっており、少しだけ離れた場所にぼんやりとかすかに明るい場所があった。
少年は心が引き付けられるのを感じた。
ただし、そうなったのは明るさのせいではない。
彼を引き付けたのは、一本の線だ。
白い山と山の間をするりと、まるで鉛筆で書いた落書きのように、地面近くを横切るかぼそい線があった。
正体は分からないが、あらゆるものがぼやけて薄れてゆく中で、それだけが唯一残ろうとしていた。
風が揺らいでも、光がためらっても、線だけはそのままでいた。
そこに境目があった。
世界は分かたれていた。
少年が進み出した。
――前へ。
越えなくてはならない。
そう思った。
走る。
雪を蹴飛ばす。
細かな欠片が宙に舞う。
意識が先走る。
身体は後ろに残される。
近いというほど近くもなく、遠く思うほど遠くもなく、境界線はみるみる迫ってゆく。
彼が荒い息を吐き出す音が辺りの空気を震わせた。
激しい鼓動の音が内側から響きわたる。
彼の中はそれだけになる。
滑り込むように足が止まり、境界は目の前にあった。
黒々と細く、確かな線が。
しばらくして少年は大きく息を吐き出してからピタリと止め、そして身を起こした。
鼓動を感じる。
波立っているのが地面なのか自分なのか、分からなくなる。
彼は待っていた。
それが何なのか、彼には分からない。
彼は自分の中の、一番奥の、一番深くの静かな場所に耳をすましていた。
少年ののどが「ごくり」と鳴る。
静かに肺に空気が入り込む。
少しずつ何かが満ちていく。
そして、その時が訪れた。
彼はさらに一歩足を踏み出すと、それ以上ためらうことはなく、もう片方の足を振り上げた。
世界の向こう側に、少年の足が着地する。
純白に包まれた夢の中で、見知らぬ風景の中で、死に絶えたような静寂の中で、永遠を繰り返す景色の中で、やわらかくぼやけた光の中で、境界線は彼の足の間におさまった。
ふわり、とすべてが溶けてゆく。
さぁ、と思った。
さぁ、越えたぞ。
来るなら来い。
何が?
知らない。
行くぞ。
どこへ?
分からない。
そうか、帰り道。
あれ。
周囲を見渡そうとした目が、線から動かせない。
吸い込まれるように、飲み込まれるように境目を凝視しながら、少年は考えた。
右か、左か。
今、どっちから――?
パシャッと、何かが弾ける音がして、少年は我に返る。
顔を上げると、真正面にカメラを構えた男。
笑顔。
手が振られる。
もう一度構える。
パシャリ。
硬直して動けない少年に、もう一度笑いかけ、男は去ってゆく。
少年は目をしばたいた後、呆然と境界線を見つめ直した。
やはり、揺らがない。
一体――?
はたとその正体に気づく。
目が覚めたような感覚だった。
突然、世界が戻ってくる。
ありとあらゆるもの、彼がいつも過ごしている日常は、彼の足元で春を待っていた。
そこは現実だった。
夢ではなく。
もし彼が目を上げたなら、白色の夢から顔をのぞかせる破れ目に気づいただろう。
そこには物憂げに雪を掻く大人たちがいる。
ひたすら目を輝かせている仲間たちがいる。
しかし、彼はそうしなかった。
彼はただ、境界線を見つめ続けた。
それはかぼそかった。
幻のようだった。
するりと宙に浮いていた。
それは電線だった。
いつもは見上げるだけの、ただ空にあり、ただ電車を導いているだけの、ほとんど人の乗っていない小さな一両を繋ぎとめているだけの、かぼそい電線だった。
そして、それ以上の何かだった。
少年は帰り道を思い出す。
彼はじきに足を上げ、もと来た道を戻ってゆく。
さもなくば、僕はここにいなかったかもしれない。
父はまだ、語り続けていた。
「三八」「とてつもない」「銀世界」という単語を僕の耳が拾い上げる。
――こんなもんじゃなかったんだよ――
きっとそうだったのだろう。
彼の目ははっきりと輝いていた。
父は僕が外の電線を見上げていると思ったらしく、「ここじゃないぞ」と笑って指摘した。
知ってるよ、と思う。
そう、僕はその場面が恐らく、父の実家の近く、ほとんど途絶えかけたかぼそいレールの上で起きたことだと知っている。
恐らく、五十年ほど前に記録された豪雪の時の話で、当時幼かった父の記憶も写真に作られたところが多そうではあった。
というのも、父が話すのは写っている情景であって、写された日の心ではなかったからだ。
父は何を思っていたのだろうか。
僕がもしその場所に立ったなら、少しは何かを感じることが出来るだろうか。
その時、僕はおもちゃのように小さな一両を見送り、あってないような柵を乗り越えるだろう。
そして少しだけ盛り上がった石の山を登り、錆び切ったレールと腐りかけた枕木の上に足を踏み入れ、その場所にたどり着く。
空はやはり灰色だろう。
今と同じように。
境界線もやはり、頭上はるかに見えるだろう。
今と、同じように。
僕は、父が踏み越えた場所を見上げ続ける。
降りしきる雪を、低く映る雲を、見えもしない青空を、にらむ振りをしながら。
完
別の作品を読んでくださっていた方、お久しぶりです。
初めて読んでくださった方、初めまして。
随分間があいてしまいましたが、生きています。
書いてもいます。
頑張ってる、とは言い難いかもしれません笑。
後ろを向けば足跡があるので一応歩んできたらしく、ただどこへ辿り着くのかはわからない。
と、まぁこんな感じの毎日です。
田中 遼
2013年12月3日
大幅に修正しました。
自分でページを覗いてみて読みにくさに愕然としたのと、改行していく内にどうしても直してゆきたくなってしまったがゆえです。
この作業を、公開前に出来るようにならなければ、と思ってはいます。←