ウルトラC理論 ー人生と四次元多面体の構造および解像度の関係ー
初回掲載から13年ってマジ?
前回の更新から5年近く経過し、いい加減もう死んだな、こいつ。
って思ったら更新してきたやつ、というか忘れられてたやつ。どうも、電式です。
どんな風にヒント集書いてたかなーって見返すために前回の更新を見ていたんですが。
すみません。5年後の自分として感想言わせてください。
サンプル面白すぎでしょ。なに食ったらそんなの出るん?
自画自賛で申し訳ないんですが、たぶん当時の私もなんで出来たのか分かっていないと思います。
たぶん、なんとなーく書いてて、サンプル書き始めたあたりで天啓が降ってきて仕上げたんだと思いますけど。
なぜベストを尽くしてしまったのか。
5年後の私がめっちゃ書きづらいんだけど、どうしてくれるんですか。
それにしても。第1回の掲載から約13年。このエッセイの更新が途絶えて5年。
もういい加減インターネットの海底に沈んで過去のものとなり、廃墟となって安らかに朽ち果てていると思っていたものですが、今でも結構な方が読んでくださっているんですね。
よく考えれば時代を超えた不変のテーマだから、というのもあるでしょうね。
ナントカGPTに語ったら、なんか「デジタル遺物」とか「インターネット遺産認定」とか言われました。ひどくない?
まあ紫式部や、あの清少納言でさえも、創作には悩んだと言われていますから(適当)
いかでか数年程度で解決できようか。
というか今回タイトルやばない? 大丈夫? 頭打った?
――や、あの、なんか、小賢しいタイトルにしてみたかったんですよ。
まあまあ、せっかくなので、5年というブランクを活かした、少し面白い話をしましょう。
今回は、パターンを破って、落ち着いた感じで、しんみりとヒントを書き綴っていこうと思います。
次元と視点の話です。
2019年(執筆当時から見て5年前)というと、私が執筆に限界を感じていた時期でもあります。
何に限界を感じていたのか。
これは物書きをする学生の人、特に中高生の人は一度は思うはずのアレです。
今回の内容を端的にまとめましょう。
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Q:物語が薄っぺらく感じちゃって、人生経験も足りてない気がします。どうしたらいいですか!?
A:しゃーないん違う?
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あ、終わったわ。
超要約したら身も蓋もなくなってしまいましたね。そういうことです。
――そんなわけで、今回はこの問題について少し掘り下げてみましょう(以下駄文)
一点目。なんか物語がペラい。
他の方の作品は重厚で面白いのに、自分が書くとどうしても薄っぺらくなってしまう。
地の文とか、何を食べたらそんな表現を短く簡潔に、でも的確に描けるようになるのか分からない。
まるで「次元が違う」作品というのものがあるんですよね。
語彙力とか言葉選びに関してはある程度、努力でなんとかできそうなんですけどね。
私も連載小説、昔は100文字1時間とか、とんでもない執筆ペースの場面があったのを思い出します。
今でもそうかもしれませんけど。
文章の順番を入れ替えて、類語を調べて、適切な表現は何かを当てはめながら「うーん、このテイストは違う」って作業を繰り返す。
であれば、100文字1時間でも十分早いんじゃないか、とか思ったりするんですよね。でも1文字36秒って思うと狂気。
で、脳が焼ける感覚になりながら狂ったように作品を作っていれば、そのへんある程度なんとかなるところもあるんですが。
二点目。人生経験が足りない。
これは私が学生の間に感じていたことのひとつです。
まるで次元が違う作品や文章を自分からひり出せないんです。
「人生経験が足りないってなんだよ?」って思うと思います。多分そうだと思います。
飽きるほどに長い学生生活を過ごしてきて、人生経験が足りないってなんなんだよ、と。
これについては、たとえば人生経験を「多様な立場、視点から、ある物事を見たときの解像度」と言い換えることができます。
上の二点の関係について話をしましょう。
ただ、中高生の方。ごめんなさい。ここから難しい話をします。
何を言っているか難しいな、と思ったら、要所に要約をつけているので、そこで概要を確認してみてください。
それでも難しいなと思ったら、ナントカGPTとかに、解説をお願いしてみてください。γ-GTPは違います。
では、メタファーから話を始めます。
何もない3D空間をイメージしてみてください。
私たちは、現実世界を生きる上で多様な情報を見聞きしています。こうして入力されるものを「カメラから見えた情報」とします。
いま、イメージしている3D空間は、あなたが用意した視点からの映像です。
3D空間上に、立方体を1つ追加します。その立方体は、自分の視点に1面だけ見える状態で置かれています。
この立方体は「なにかのお題」を立方体に例えたものです。立方体の面はそれぞれ、そのお題の物事のある側面を表現します。
その面はキャンバスになっていて、お絵かきができます。
現実の出来事でお題を考えてみましょう。
たとえば、顧客が商品(工業製品)を購入したが、実は不良品で壊れていたという状況。これを立方体としましょう。
いま、あなたの視点から見える立方体の側面は「顧客の側面」です。
状況によりますが、多くの場合、顧客はサポートセンターなどに電話をして、状況を説明して「取り替えてほしい」などと話をするものです。
この「顧客の側面」にその状況のイメージを描くとすると、その解像度というのは、みなさん結構高いんじゃないでしょうか。
なぜなら現実で、そういった場面に、顧客あるいはそれに近いの立場として経験をしたから、それをベースに描くことができるためです。
では、別の側面のイメージを想像してみましょう。カメラを移動させて、「サポートセンターの人の側面」を描いてみましょう。
そうとすると、急に解像度が落ちるケースが出てきます。それは、サポートセンターで電話を受けたことがある経験を持っているかどうか、で変わってくるのです。
幸い、私はそういうバイトを一時期していたので1ケースとして書くんですけど。
実は、電話を受ける立場の人というのは、電話の相手が穏やかで物分かりの良い人であってほしいと思っていますし、電話なんか鳴らないで時間だけが過ぎてほしい、とビクビクしていたりします。
あとはもう、感情は自宅に置いてきた、みたいな人がいたりとか。
激高して何を言っているか分からない人の相手を何時間もするのは、仕事とはいえ、かなりメンタルに来るんですよ。落ち度が自分になくても。感情の力というのはかなりエグいのです。
一方で稀に、受け手の事情を考えて話してくれる神みたいな人がいて、この人の困りごとならなんとかしないとな、とか思ってしまったりとかするものです。
そう言われたらちょっと想像できるかも……? ってなれますかね。やっぱり解像度は低くても。
ここまでで不良品のサポート、という出来事に対して、ナチュラルに2つの側面から物事を見ました。
また見ていない側面があります。製造担当の視点、責任者の視点、製品の設計者の視点etc...
これらの視点って、現実で自分がその立場になって(=カメラを持って移動して)その出来事や似た状況を経験しないと、解像度を高く描けないってこと、分かりますか?
小説って、自分が現実から仕入れた情報を物語に変換するプロセスを通すので、作り込みやリアル感ってのがそこで変わってくるみたいです。
動画だったら、経験あるとこ4K画質、経験ないとこ240p。
でも自分が見えていない側面は予測して描くしかないのは、もはや仕方ないことです。
要約すると、ここまでの話は
「ひとつの物事に対して、AさんSide、BさんSideという異なる視点でどれだけリアルに描けるか」
「リアルに描くためには人生経験が必要だね、経験なかったら想像するしかないね」というお話でした。
つまり「人生経験足りなくても、想像で補える範囲でやるしかないんと違う?」ってことです。
◆なぜ大人は勉強しろと口を揃えて言うのか?
いま、3D空間上に出来事を立方体に例えて想像しましたが、立方体の面数は、サイコロで分かる通り6つあります。
現実のある出来事を立体で見たとき、必ずしも立方体の面数でピッタリ満足するわけもなく。実際は立体は多面体だったりしそうです。
不良品とクレーム対応の話は、視点がいくつあるか想像つきやすかったと思います。
ところで、作者がカメラを移動させた経験がない(移動できない)ことによって、その出来事にどれだけ側面があるかさえも分からないことが、あったりします。
例えば「なぜ、大人は口を揃えて『勉強しろ』と言うのか?」という命題を立体にしてみましょう。
学生の間は、その立場でカメラが固定されてて、絶対動かせない。あー、ってなりません?
学生の視点で「勉強しろ、後悔するぞ」と言われる面は嫌というほど見えるけど、その他の側面はカメラにまったく映らない。映せない。
どんな立体の形をしているかも分からない。
大人になってする後悔とは一体何なのかとか、実際にその立場でないと分かんないんですよね。
学生がかろうじて得られる視点というと「学生時代勉強しなかった大人が、揃いも揃って勉強しろって言ってくるヤバさ。再現率の高さ」ということに気付けるかどうかくらいです。
ついでなので。
大人になったらどう影響するのか、の視点をリポートしてみます。
一応、勉強しなくても生きていけます。でも、勉強した方が良いなぁ、と思うことはありました。
勉強することで得られる本質は、知識という課金アイテムです。
例えばですね。理科・化学の授業なんて、実生活で何に使うんだよ、とか思ってた時期。私にもありました。
大人になって、インチキ浄水器を40万で売りに来る悪徳訪問販売の方がいらっしゃってですね。
セールストークにおかしいって気づくには理科・化学の授業の知識が必要だったとか、想像つかないじゃないですか。
pHの酸と酸素と結合する酸化をぐちゃぐちゃにして語るエセ科学の内容で、そのファンタジー面白いなーって聞いてたんですけど。
なんか、電気を発生させる石が入ってて水道水を電気分解してマイナスイオン水が出るとか。酸素が出る石なら知ってるんですけどね、観賞魚用のやつ。
マイナスイオン水てなんだ……陽イオンどこいったんや。
結局そのセールストークで凸ってくるということは、そのレベルの話でも信じ込んで買っちゃう人がいるってことなんですよね。
あー、こうして不勉強だった人は騙されちゃうのかなぁ、って思いました。課金アイテムで私は40万円を失わずに済んだのです。
文科省に足向けて寝れないですよね。文科省どっちにあるか知らんけど。
話を戻して。こういう物事の側面や解像度は、自分が立場を変えるなどで見聞きした経験の有無が要となります。
他の簡単な例えだと。
「ひらがな覚えた幼稚園児が、累計100万部突破の大ベストセラー小説を執筆できないのはなぜなのか?」
とか。いや、できない要因ありすぎますけど。要因の塊しかないですけど。
こんなタイトルの書籍が出た暁には、帯には「なぜできると思った?」とかデカデカと書かれててほしいものです。
ここでの着目点は、「幼稚園児って、幼稚園児として生活できる世界の視点でしかモノが見れないよね」ということ。
幼稚園児の世界からは大人の世界が見えないので、そらそうよって話。
これと同じ構図、相似形で、作者の立場や視点によっては、どうにもならない限界があって、これって仕方ないところあるよね、という話です。
あの、難しい内容を読んでくださっている聡明な皆さんなので、自明で不要と思いつつ一応念押ししておくんですけど……皆さんが幼稚園児レベルって言っているわけじゃないです。
要約すると、「経験の有無によって、物事をAさんSideからは描けるけど、BさんSideは描くどころか想像すらできないことがあるよね」という話でした。
つまり「人生経験足りなくて見えてないものは、どうしようもないし、しゃーないん違う?」ということです。
◆なぜ人を殺してはいけないのか?
ここからは、小説に話を寄せていきますね。
作者自身の成長や経験で得られる知見に応じて、小説のクオリティや深みがどう変化するのか、で見てみましょう。
たとえば「なぜ人を殺してはいけないのか」に対して、どう答えるか?
わりと創作していると当たりそうな命題ですが、私が中高生だった当時は結構回答に窮した問題です。
今の私がザッと出した回答は以下3つ。
A:ルールでそう決められているから
B:自分や仲間の身の安全を保証するために、相手を殺さない。そういう形で自然と形成された一種の暗黙の了解による契約だから
C:社会機能を維持するには一定以上の規模の人口が必要であり、無秩序な殺人の許可は社会機能を破壊し、社会に所属する全員が不利益を被る恐れがあるから
私が中高生の時の視点では「なぜ殺人はいけないのか」に対して、この3つの回答をすべてスラスラと言えることはなかったでしょう。
ちょっと悩んで「分からない、Aしか思い浮かばない」というのが当時の私のリアルな限界です。ワンチャン、Bに届くかどうかです。
ここで、A/B/Cそれぞれの回答について、A理論、B理論、C理論と命名します。
A:ルールでそう決められているから
A理論。
私が最初に中高生でも「Aを思い浮かべることができた」のは、人生のどこかでそういう風に教わった、見聞きしたからだと思います。
幼少時代の一人称視点から与えられる最初の視点で、単純なルールベースの理論です。
作者がAの回答しか知らない場合は、「ダメなものはダメなんだよ!!」という展開になることは想像できますね。
悪くはないのです。これはこれでキャラクターの若々しさが表現されていてよいです。
しかし物語の重厚感や深み、精緻さという点でやはりもっと欲しいなぁ、と思ったりします。当時の私がそうでした。
これは、物事という立体の1側面のみが見えている状態です。
B:自分や仲間の身の安全を保証するために、相手を殺さない。そういう形で自然と形成された一種の暗黙の了解による契約だから
ではB理論はどうでしょうか。
自分自身の立場に加えて、相手の立場を考慮に入れた理論が展開されています。
これは、自分以外の他人の視点を取りこんで自分の意見に統合することで得られる視点からの理屈です。
複雑になった分、純粋さは失われます。
作者がBの回答を知っている場合、登場人物の行動原理の作り込みが可能です。
たとえば「自分から相手を攻撃することはしない。ただし、これは相手がこの契約に従わない場合は、殺してよい」という行動原理のキャラクターも作れるようになります。
自分からは殺しはしないが、相手がやる気ならこちらもやる、というキャラが作れるわけです。
C:社会機能を維持するには一定以上の規模の人口が必要であり、無秩序な殺人の許可は社会機能を破壊し、社会に所属する全員が不利益を被る恐れがあるから
最後に、C理論。
これは自分や周囲の人という身の回りの視点から離れ、社会的なシステムとしてどのように作用して影響するかについての視点からの理屈です。
この場合、裏を返せば、たとえば無秩序ではない、秩序だった殺人に関しては許可されるロジックを作れます。
さらに、社会に所属する全員に不利益を被らず、むしろ社会秩序の維持に益すると考える場合は、無秩序な殺人について肯定される状況を作れます。
その視点の大きさから社会運動としての差別や排斥運動について、ロジックを立てて、社会の混乱や狂気というものを創作で表現する土台を得られるんですね。
あるいはちょっと応用して、自警団による私刑を肯定する理論といった、実際には社会通念上許容はされないが、なんか筋が通ってそうな理論を展開できるのです。
ダークでシリアスな、社会派の重厚なストーリーのようなところに応用が利きそうです。
これを小説に落とし込むのは難しい。というのもこの視点って、個人的なものではなくて、この例では社会的なものだ、というところが難しい点です。
・社会的な合意(世論が要求した)
・外部からの圧力(社会的な課題や脅威)
・社会が経験した歴史的な出来事による制約・トラウマ
とか。そこに有力者の覇権争いとか政治的な駆け引きがあって、互いに綱引きした結果、社会全体の方向性として状況・制度・思想・倫理観に収斂する、みたいな。
ここで、強調しておきたいのは、A,B,Cすべての回答に正誤は存在しないということです。
どれも、ある視点から見れば合っているし、別の視点から見れば間違っているかもしれない。そういうものなのです。
◆一般化してみる
せっかくなので、A/B/C理論を一般化してみましょう。
この分類はあくまで傾向なので、状況によっては理論間の中間、両方の性質がある、という状態が普通にあって、綺麗に分類できるとは思わないことがミソです。
時間経過や成長によって、徐々に移行する、ということもあり得るのです。
A理論。
これは自己中心的、ルール依存というと悪く聞こえますが、シンプルで分かりやすく、純粋さを表現できる理論です。
ちょっとわがままが通そうとする感じの理論になりますかね。
勧善懲悪型のストーリーとかは基本的にA理論かな。
B理論。
これは自己中心的な視点から抜け出して、他人の視点まで広げて考えることができるようになった理論。
「敵にも敵の事情があるから、手加減して手打ちにしてやる」みたいなこともB理論でできると思います。で、見逃した敵が強大化して復讐しに来て「あのとき片付けておくべきだった」みたいな展開になったりとかする。
横道に逸れますが、AやBの要素を小説に落とし込むとき、あるキャラクターがAやBの考え方をどう獲得するか、という課題もあります。
これについては、生い立ちというストーリーとか、あるいは本編のストーリーの中で削り出されて確立されていく、とすると、説得力や重厚感が出るのかなぁ、と思います。
ここでの削り出し、というのは、例えばキャラクターが過去の強烈な経験から学んで「こうあるべきだ」と考えを持ったが、考えはかなり偏っていた。
そのキャラは、偏った考えでは対応できない出来事に遭遇して、そういった状況にも適応できるように、徐々にその偏った考えが修正されて、安定したポリシーへ収まる、とか。
具体例挙げると。
「なぜだ……なぜお前はそうしてまでも、足手まといにしかならないやつのために、そこまで戦う? これは淘汰にすぎない。自然の摂理ではないか」
とか。だいたいそういう偏った考えって敵キャラにいたりとかして。
「……あいつは俺の帰る場所だからだ。お前には理解らねえだろうがな」
みたいに応えるのがだいたい主人公だったりするんですよね。
表面的に描くのと、掘り下げてシミュレーションした上で描くのでは、やはりそこにある重厚感、説得力、共感ってのが変わるな、と思います。
で、衝突して敵キャラは主人公にボコボコにされちゃうんだけど、「足手まとい」と自分が罵ったキャラに介抱されちゃったりして、考えが変わったりするんですよね。そういう感じです。
C理論。
C理論は社会的とかシステム的な視点から語ることになるので、表現としては以下のような感じかな……
「過去の歴史的な経緯から、このような社会構造となって今に至るが、この社会構造において下流階級に存在する歪みは長年放置されてきた。
彼らはその歪みの中でも適応して生活していた――抜け道、いわゆる『聖域』を使ってな。
しかし今回の事変によって、その逃げ道が塞がれることとなった。聖域を失った人々の不満が爆発するのは当然だろう」
「なるほど――為政者ってのは、よほど信頼されてないとクサい物見せてもらえねぇからなぁ……聖人君子ほど大変だぜ」
みたいな感じで描かれる。多分。
頑張ってそれっぽく書いてみたんですが、だいぶシブいですね、このレベル。いぶし銀。
前話で宇宙船に便座コックピットを据えてLIFT OFFするサンプル書いてた人と同一人物とは思えないサンプルですね。
理論がA、B、Cと進むにつれて、俯瞰的になっていくこと。それから対象年齢が上がっていくことは読み取れるかと思います。
その理論を当てはめることができるキャラクターの対象年齢も変わってくるし、作者自身の経験や理解が影響してくるというのが、見えてくるかなと思います。
一見シブすぎて使いにくそうなC理論ではあるんですが。
ご長寿ロリとか描きたければ、上のサンプルのようなC理論を語らせれば、逆説的に長く生きる中で経験や視点の深さを多く持っていることを暗に表現できたりしそうですよね。
普通の幼稚園児がC理論を語りだしたら異常事態ですので悪魔払いを依頼しましょう。
D理論。
お前誰だ!?
「なぜ人を殺してはいけないのか」では出てこなかった、まさかのD理論。
A/B/C理論に進むにつれ俯瞰的になってきたんですが、さらに俯瞰、今度は複数の社会、あるいは時間軸で俯瞰していくと、時代を超えた普遍的な理に落ち着く可能性があります。
つまりA、B、Cときたら、次は? っていうみんな大好き単純な線形予測の理論です。
スーパーご長寿キャラの場合とか特に。
このD理論では、例えば社会の興亡は何度も見てきた、という経験を集めていくと、どの社会でも変わらなかった共通の要素が炙り出されて、残ったものが見えてくる、があると思います。
ここまでくると予想しかできませんが「なぜ人を殺してはいけないのか」と質問されたときの答えは「お前が望んだかは知らないが、人々がそう望んだからだろう?」になるかもしれないですね。
身も蓋もないというか、逆にあっさりしすぎていて深みを感じられないような気もしますけどね。
「別に殺し合いをしたとて、世界はそれを咎めることはない。単に人々が殺さないことを選択したにすぎぬ」
回答が汎用的すぎて、何に対してもそう答えそうな勢いではあるけど。
権力者が教えを請いに来たりとかして、富を差し出されても無関心そうに「それはもう飽いたわ」って言ったり、「お主の好きなようにすればよい」とか「物事を注意深くみてみよ」とか抽象的なことしか言わなかったり。
そういう質問をされるのに飽きてて「さあな?」とか軽くあしらってたり、遠くから文明滅亡の光を眺めながら「まぁそうなるわな」みたいに飄々としてたりしそう。
このレベルまで来ると、寿命的に人生経験に頼ることは難しそうなので、これは作者が歴史などで調べて追体験して咀嚼して腹落ちさせる、というプロセスを踏む必要がありそうです。
むしろD理論は作りやすいかもしれないですね。作品の世界観さえしっかりしていれば。
私がそこまで到達していないから、簡単に見えるだけなのかもしれないですが。
要約すると、人生経験で得た視点やその多彩さが、小説の深みにどう影響するか、という話でした。
つまり「人生経験あるとこういう深みを得やすいから、経験できることは色々やった方がいいかもね」ということです。
◆応用……
Dはともかく。Cは「次元が違う」ってことに気づきませんか?
何がどう次元が違うかというと、Cだけ、物語に適用するにはCの理論単体では成立しにくいんです。
つまり他の物事や状況、つまり「他の立体」も同時に、多面的に見て組み合わせた状況でCの理論は活きるわけです。
厳密に言えば、Bも相手の行動に依存するので、若干その要素はあるんですが、Cは別格です。
というのも、C理論は「2つの物事を表す立体の、ある面とある面を組み合わせる」ではないんですよ。
「2つの物事を表す立体の、すべての側面が自然に組み合わされる」ところが異次元の難しさなのです。
言い換えると「これをこうすると、すべてのパズルのピースがうまく繋がって完成する。キレイに説明がつく」をやってしまう技なんです。
なんかそういうことをやっている作品ってありますよね。
たぶん、企画とかプロットの土台、骨格レベルの初期から、テーマレベルで据え置かないと、Cの理論は動かせないと思います。
規模と影響が大きすぎて、思いつきで途中からポン付けできるものじゃなさそうです。
それに、人生経験に加えて社会制度や歴史の知識を要求されますからね。
あるいは物流とか物価とか、そういった物語独自の制約要素を統合すると、現実の歴史通りにはいかないので、もはや社会シミュレーションになってくるわけです。
私も頑張ってはいますが、ここは本当にウルトラCだと思います。
ところで。物語には、詩や短い短編でもない限り、時間の流れが存在します。
時間経過によってキャラクターが成長していく中で、こういったポリシーや理論が変化していく要素もあるわけですね。
A理論、B理論は、まだ個人的であって比較的シンプルなのでなんとか制御できる気がします。
で、キャラクター同士の理論とかポリシーが影響しあう、と。
ところがC理論の場合。
時間とともに社会集団が尖鋭化、過激になるようなシチュエーションを考えると。
Cを含んだ立体の組み合わせは3次元空間ではなく、時間軸を加えた4次元の立体変化を作者は捉える必要がある。
4次元空間では、立体の多くの面が見えていて、互いに影響し合いながら刻々と状況が変化していくことになります。
これを物語に綺麗に落とし込んで表現できる作者ってどう思いますか?
私は、C理論を物語に組み込むのはキツいなぁ、手に負えないなぁ、とか思ってます。
それに、刻々と時間が進むと変化するシミュレーションまでついたら。
しかも薄々感づいていると思いますけど、A/B/C/D理論は物語に1つではなく、同種/異種混合で同時に物語中に複数存在できます。
作者が視点を学ぶのと同様に、キャラごとに視点の学びがあって、作者同様キャラがどこまで咀嚼してポリシーに反映できているか、とかあったりとかしてね。
それが時間が進むと変化していく様子を処理しないといけないわけです。というか、それがデフォで要求される。
これはC理論を描かず、A、B理論だけに専念したとしても、描くことの難易度の高さは変わりません。
そこが作者に人生経験が必要だという理由、コアだと思うんですが、言葉にすると異次元です。バケモノだと思いませんか。真面目に考えるとできる気がしない。
~美的センスの彩りを添えて~なんてトッピングまで付いた暁には、何を食ったらそんなレベルになれるのか、という話になります。
5年後の私が人生経験を振り返って、立体と側面に喩えることでやっと言語化して状況を整理できたんですが。
Cの理論を動かすには、作者のスペックに、その物事への一定以上の解像度を、経験や予測から導き出せる力を要求するのです。
これ作れている人、どうやってるんでしょうね。謎です。
◆結局どうなの
A:しゃーないん違う?
これ。
人生諦めが肝心。
私はまだ作れる気しませんが、ペラくない重厚な物語の高みに到達するに必要なものは見えてきた気がします。
複数の物事の側面の理解、そしてその組み合わせをいかに表現していくか。
時間変化による関係の変化を、どう物語に落としこんでいくか。
要求される経験とか考察、さらに物語の構成にも相応のレベルを要求されることがなんとなく予想できたので、一朝一夕ではいかないってことですね。
即効性の薬を見つけられない以上、筆をいったん置いて、人生経験の蓄積を待って、再度チャレンジするのもまたありかな、とか。
気合いと情報収集を極めて、高度な予測をどうにかしていくのもまたひとつありかな、とかも思います。
ただ、予測ってめっちゃカロリーを浪費して燃費悪いのと、燃え尽きやすいので注意してください(n敗)
人生経験って、死ぬまでに必要なだけ蓄積するとも限らないので。
見切りをつけて割り切ってしまって、創作を楽しむ方向にスイッチして、あとで改稿ってのもまあありかな、とかも思います。
言えること、というと。
どれだけ精巧な大作を作っても、所詮はミニチュア模型でしかないということ。
突っ込まれる不自然さは必ず存在する。割り切って、自分のできる範囲内で作り込むしかない、ということ。
当時、作って、ちゃんと寝かせて見返して、これは上出来だと思った小説でさえ、数年後に見るとちゃちな気がするものです。
もう、どうしようもないです。避けられない運命です。
一番いいのは。作者自身が今どのレベルにいるのか、地図を作って現在位置を求めること。
作者が、どういう自身の制約の中で物語を作ろうとしているのか、状況を把握すること。
次のレベルの目的地を決めたら、そのルートを求める。そして路銀や課金アイテムを活かしながら、気長に楽しみながらその道を辿ることではないでしょうか。
今回は、難しい問題について考えました。
なんか軽く面白くヒント教えてくれるのかなーみたいなノリで読み進めてたら、急にIQ3000みたいな文章出てきて卒倒してしまった方。すみません。
執筆にあたってのなにかしらのヒントになればと思います。
読んでいる作者の方も、まったく分からないわけではなくて、自作の小説を重ね合わせて把握できるところは多少あったんじゃないでしょうか。
ありきたりな結論の再確認になっちゃったかな、という感想なんですが、書いている本人は思考が整理できて、見返したときの自身のヒントになれそうだなと思いました。
このヒント集って、作者メモの要素もありますから。ぼんやりしていたモノを言語化したって感じがします。
あ。そうそう、せっかくなので。
もし、あなたが創作のスキルや経験が足りないことで、他人にバカにされるようなことがあったとしても、気にしなくて良いと思います。
というのも、バカにする人はこれからの人生で多くを学んでいくことになる人だと思います。
創作の視点や苦労について経験がなく、学ぶチャンスに恵まれなかった、チャンスを掴み損ねた、持っているカメラが対応する波長が合わなくて見えなかった、そういう方かもしれません。
あのときは視点足りなくて間違ったなぁとか思いながら生きている人って、私含めて多いと思います。
とはいえ。バカにする方の中には、才能に恵まれた方もいるでしょう。
そういう人達は、むしろ才能が災いして、私たちの視点までカメラを持っていくことが難しいみたいです。
それはそれで、「どうしてこんな簡単なことも理解ってくれないんだ」といったその人独自の視点での苦悩もあるようです。
バカにする人というのは、そういう行動が出来る程度のレベルなんですが、これは学校で画一的に学べるものではないので、個人差大きいです。
なので作者としては建設的な話は受け入れて良いと思いますが、無理に付き合わなくて良いと思います。
創作で真剣に悩む人ほど、他者の作品をバカに出来なくなっていくと思うので。
さーせん。なぜベストを尽くしてしまったのか。本気出したら脳が焼けました。しばらく筆を置こうと思います。それでは、また5年後に会いましょう(・・*(殴