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森で拾った魔王を飼うことになりましたが、薬草師のわたしは命令しないことにしました  作者: 明石竜


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第三幕 王国の使者

男が来たのは、穏やかな午後のことだった。

魔王級の魔力反応は、王国の監視網に必ず引っかかる。

その知らせが届くまで、そう時間はかからない。


ユナは調合室で仕事をしていた。レオは裏庭にいた。特に何をするわけでもなく、地面に生えてきた薬草の名前をユナから聞いて、それを覚えようとしていた。覚える必要があるかと言えばない。でも暇だったので。

「フィーバールートはこれか」

「そう。葉の裏が赤いやつ」

「これは」

「それはただの雑草。抜いていい」

「見分けがつかない」

「慣れれば分かる」

そういう会話をしていた。

だから気配に気づいたのは、ユナより先だった。

「来客だ」

ユナが顔を上げた。

「誰か知り合い?」

「知らない。ただし」

レオは立ち上がった。

「いい客ではない」

玄関を回ると、馬が二頭いた。立派な馬だった。村には不釣り合いな、王都で使われるような品種だ。

馬の前に男が立っていた。

三十代か四十代か。長い外套。胸に紋章。整った顔立ちだが、笑っていない。笑う必要を感じていない人間の顔だ。

後ろに護衛が一人。剣を持っている。

「ユナ殿ですか」

「そうですが」

「私はヴァルト。王国の命により参りました」

王国、という言葉が、空気を少し変えた。

ユナは表情を変えなかった。

「何の御用でしょう」

「こちらにいる魔王を引き渡していただきたい」

男——ヴァルトの視線が、レオに向いた。

レオはその視線を受けながら、黙っていた。

「引き渡す」

 ユナは繰り返した。

「どういう意味ですか?」

「字義通りです。この魔王は管理下に置かれるべき存在だ。王国がそう判断した」

「根拠は?」

「根拠?」

 ヴァルトは少し眉を上げた。驚いたというより、想定外の質問を受けた顔だった。

「貴女に説明する義務はありませんが」

「あります。わたしの家の居候ですから」


 しばらく間があった。


ヴァルトはユナを見たのち、レオを見た。

「……話を聞かせてもらえますか。中で」

「どうぞ」


四人が机を囲んだ。

護衛は外に残った。ヴァルトと、ユナと、レオと。

お茶が出た。

ヴァルトはそれを見て、少し目を細めた。状況を読んでいる目だ。

「単刀直入に話します」

「そうしてください」

「この魔王——レオと呼ぶのですか」

「はい」

「彼は、今の飼い魔王制度において、極めて異例の存在です」

「どういう意味ですか」

ヴァルトは外套の内側から、書類を取り出した。羊皮紙に、細かい文字が書かれている。

「百年前の戦争の後、人間は契約魔法を完成させました。魔王を従わせる術です。これにより、現在多くの魔王が各地の貴族や王族のもとで管理されている。これは知っていますか」

「知っています」

「では、その契約魔法の仕組みは?」


 ユナは少し考えた。

「魔王に術をかけて、飼い主の命令を聞かせる、と理解しています」

 ヴァルトは首を振った。

「表向きはそうです。しかし正確ではない」

 レオは黙って聞いていた。

「正確に言えば、一般の飼い魔王は、魔王の力を分割して支配しています」

 ユナが眉をひそめる。

「分割?」

「ええ。力を細かく奪い、反抗できなくする」

ヴァルトはレオを見た。

「ですが彼は違う」

「何が」

「一般的な飼い魔王の術は、彼には通じない。力の分割ができない。なぜかというと、彼の魔力が他の魔王と比べて格が違いすぎるからです。それが、彼が本物の魔王と言われる所以だ」

「知っている」

初めて口を開いた。

ヴァルトがレオを見た。

「貴方はご存知でしたか」

「生まれたときから、そう言われてきた」

「そうでしょう。だから問題なのです。王国にとって、制御できない魔王は脅威だ」

「それは分かる。だから今まで放っておかれなかったのだろう」

「追いかけ続けた、と言ってください」

「同じことだ」

「ここからが本題です」

 書類を、ユナの前に置いた。

「彼女の術を調べました」

ユナは書類を見た。

細かい記述がある。魔法の解析。術式の図。

「……私の、保護術を?」

「村の事件の報告が王国に届いたとき、魔法の痕跡も一緒に調べました。貴女が彼にかけた術は、通常の保護術ではありません」

「怪我を治すために使った、ただの——」

「ただの保護術なら、魔王には効果がない。魔力の差が大きすぎて、弱い術は弾かれます。しかし貴女の術は弾かれなかった」

ユナは沈黙した。

「なぜだと思いますか?」

答えない。

ヴァルトは続けた。

「貴女の師匠について調べました。三年前に亡くなった薬草師。しかし本来の職は違う。その方は、古い契約魔法の研究者でした」

ユナは目を伏せた。

「……知っています」

「では、その方から何を習いましたか」

「薬草の扱いと、基本的な治療術と」

「それだけですか」


「……それだけです」

ヴァルトは微かに首を振った。

「貴女は気づいていないかもしれませんが、貴女は師匠の研究を、

知らないまま継承している。貴女が彼にかけた術は、百年前に完成したとされる、本来の契約魔法です」

部屋が静かになった。

鳥の声が外から聞こえた。

それ以外、何も聞こえなかった。

「本来の契約魔法」

 ユナは繰り返した。

「魔王の力を分割せず、ただ二者を結ぶだけの術です。支配でも拘束でもなく、純粋な契約。百年前の戦争が始まる前に存在した術式で、今は失われたと思われていた」

「……」

「その術が発動した場合、対象の魔王は契約者に完全服従します。命令を断れない。命令を無視できない。命令されたことを、すべて実行する。それが本来の契約魔法の効力だ。ただし術は“命令”にのみ反応します。依頼や会話では発動しません」

レオは、机を見続けていた。

完全服従。

その言葉を聞いて、何かが腑に落ちた気がした。

薪割りを頼まれたとき、断ろうとして、でも断れなかった。あの感覚。命令とも強制とも違う、もっと奥深いところから来る何かに従ってしまった、あの感覚。

「だから」

 ユナの声が少し低くなっていた。

「レオさんは……」

「彼が貴女の命令を聞いていたのは、術の効果です」

 ユナはテーブルの上の自分の手を見た。

「……知らなかった」

「そうでしょう。しかしそれが事実です。だからこそ、王国はこの状況を管理下に置く必要がある」

「管理下」

「本来の契約魔法で繋がれた魔王と人間の組み合わせは、史上例がない。どのような事態が起きるか分からない。安全のために、彼を引き渡していただきたい」

ユナはしばらく、自分の手を見ていた。

それからゆっくり顔を上げた。

「一つ聞いていいですか」

「どうぞ」

「引き渡した後、レオさんはどうなりますか」

 ヴァルトは少し間を置いた。

「管理されます」

「それは」

「王国の監督下に置かれます。自由な行動は制限される。しかし命の危険はない」

「自由が制限される」

「安全上の措置です」

ユナは再び口を閉じた。

レオは、その横顔を見ていた。

ユナは怒っていなかった。取り乱してもいなかった。ただ考えていた。何かを、慎重に、丁寧に考えていた。

それがレオには分かった。

一緒にいる時間が、それなりに経ったから。


「ユナ」


ユナが顔を上げた。


「お前は、本当に命令しないのか」


少し間があった。


「レオさん」

「何だ」

「知ってた?」

「何を」

「わたしの術が、そういうものだったこと」

レオは少し黙った。

「術の種類は最初から分かっていた」

「でも言わなかった」

「言う必要がなかった」

「なんで」

「お前が命令しなかったから」

ユナはその答えを聞いて、また自分の手を見た。


しばらく何も言わなかった。


「だから……関係なかった」

「関係なかった……」

「命令が来なければ、術がどういうものかは問題じゃない」

「でも。わたしがその気になれば、あなたを完全に動かせた、ってこと」

「そうなる」

「それは」

ユナは言葉を切って、少し考えた。

「それは、ズルでしょう」

 レオはそう主張し、顔を上げた。

「ズル」

 レオは繰り返した。

 ヴァルトが眉を動かした。


「完全服従できる術を持ちながら、あなたに薪を割ってもらったり、水を汲んでもらったり、買い物を頼んだり。それってズルじゃないですか」

「貴女は知らなかったんでしょう」

「知らなかったけど、でも今知った。だから今から問題になる」

「問題、とは?」

 ヴァルトが眉を寄せた。

「あなたが言う通り、この術がそういうものなら」

 ユナはレオを見た。

「今までわたしがあなたに頼んでいたことが、全部、あなたの意思じゃなかった可能性がある。それは——」

「違う」

 レオは即答した。

「え」

「薪は自分で割った」

「でも術が——」

「命令されたわけではないと言った。前に」


 ユナは黙った。


「確かにそう言ったな。あの夜。術の効果は、命令に従わせることだ。命令がなければ効果は出ない。私が自分で動いたことは、術とは関係ない」

「……でも」

「術がかかっていなくても、薪を割ったかどうかは分からない。しかしお前が命令しなかった以上、私が動いた理由は私の側にある」


ユナはしばらく何も言わなかった。

窓の外で風が動いた。

「……わたしには。自分が命令しなかった理由しか分からない」

「それで十分だ」

「本当に?」

「私がそう言っている」

ヴァルトは二人のやり取りを、黙って見ていた。

何かを計算している顔だった。この状況から何を読み取るべきか、王国の人間として何を判断すべきか。そういうことを考えている顔だった。

「話を戻してもいいですか」

 ユナは頷いた。

「どうぞ」

「王国の要請をお断りすることは難しい。これは命令に近いものです。貴女が一般の村人である以上、王国に逆らうことは——」

「嫌です」

「は?」

「断ります。権限がない、でしょうか。でも、引き渡しを断る権利はあります。レオさんは今、わたしの家の居候です。わたしが保護しています。それを取り上げることが正当な手続きなら、手続きをとってください。手続きなしに連れていくというなら、お断りします」

ヴァルトは口を閉じた。

「……強引に連れて行くことはしません。今日のところは。王国としても強制連行は望んでいません。村を刺激するからです」

「ありがとうございます」

「しかし話し合いを続ける必要がある。明日、また来ます」

「承知しました」

ヴァルトは立ち上がった。書類を戻し、扉の方へ歩きかけて、止まった。

「一つ聞かせてください」

 振り返って尋ねる。

「何でしょう」

「なぜそこまでするのですか。彼は危険な存在です。王国が管理すれば、貴女の生活は今より安全になる。なぜ手放さないのですか」

ユナは少し考えた。

「飼うなら最後まで責任を持つのが、わたしの信条なので」

 ヴァルトが眉を上げた。

「……魔王を飼うつもりですか」

 ユナは少し考えてから答えた。

「たぶん。わたしの飼い魔王ですから」

「それだけですか」

「今日のところは、それだけです」

ヴァルトは何か言いたそうな顔をしたが、何も言わずに出て行った。

馬の蹄の音が、遠ざかった。


二人になった。

しばらく、誰も口を開かなかった。

ユナはお茶を片付けた。

レオは窓の外を見ていた。

「怒っているか」

「何に」

「私の術が、そういうものだったこと」

レオは少し考えた。

「怒ってはいない」

「本当に?」

「怒るとすれば、命令に使われたときだ。お前はそうしなかった」

「でも。できたんだよ。わたしは、あなたを完全に動かすことができた。それを知らなかったとしても」

「だから?」

「……それが嫌じゃない?」

レオは振り返った。

ユナは本気の顔をしていた。

責任を感じている顔だった。自分が知らずにやったことを、きちんと怖いと思っている顔だ。

「嫌ではない」

「なんで」

「お前が命令しなかったからだ。同じ答えを何度言えばいい」

「何度でも聞きたい」

「……」

レオは少し黙った。

それから言った。

「術を解除しなくていい」

「え」

「今まで通りにしろ。それで問題ない」

ユナは少し驚いた顔をした。

「どうして」

「命令してくる気がないのなら、術があってもなくても同じだ」

「でも万が一、わたしが命令してしまったら」

「したら怒る」

「……そういうもの?」

「そういうものだ」

ユナはしばらく考えた。

「分かった。でも一個だけ約束して」

「何だ」

「わたしが本当に嫌なことを命令してしまいそうになったら、言って。わたしには分からないことがある。あなたが嫌なことが何かを、全部は知らない」

レオは少し目を細めた。

「……言う」

「約束?」

「約束だ」

ユナは頷いた。

それから、少し安堵した顔になった。

「明日また来るって言ってたね、あの人」

「ああ」

「どうしようか」

「どうする気だ」

「引き渡したくない。でも王国を完全に敵に回すのも、村に迷惑がかかる」

「そうだな」

「何かいい方法ある?」

レオは少し考えた。

「私が出て行けば解決する」

「それは嫌」

即答だった。

「なぜ」

「拾ったから」

「それだけか」

ユナは少し間を置いた。

「……今日のところは、それだけ」

さっきヴァルトに言ったのと同じ言葉だった。

今日のところは。

それ以外のことは、今日でなくてもいいと言っている。でも今日のことは、今日言える。

レオはその言葉を、しばらく頭の中に置いた。

「一つ聞いていいか」

「うん」

「お前は、今まで誰かを飼ったことがあるか」

ユナは少し考えた。

「猫を一匹。師匠がいたとき」

「どんな猫だった」

「気難しくて、なでさせてくれなくて、でも寒い夜だけそばに来た」

「……」

「レオさんに少し似てる」

 レオは言葉を失った。

「猫と比べるな」

「似てるものは似てる」

「私は魔王だ」

「猫みたいな魔王」

「……」

ユナは少し笑った。

久しぶりに見た笑い方だった。緊張が解けた笑い方。

レオは視線を外した。

外はもう夕方になっていて、空が橙色をしていた。

明日、ヴァルトが来る。

どうなるかは分からない。

でも今日は、まだここにいる。

それだけは、確かだった。

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