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森で拾った魔王を飼うことになりましたが、薬草師のわたしは命令しないことにしました  作者: 明石竜


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第一幕 森には嘘をつく木がある

森には、嘘をつく木がある。

ユナはそれを知っていた。

枝が右に傾いていても、根は北に向いている。

葉の裏が白くても、雨は来ない。


――だから森を信じるな、と師匠は言った。


その森で、ユナは足を止めた。


何かある。


十年以上、この森に通ってきたユナの体がそう言っていた。


今では目を閉じたまま、解熱薬になるフィーバールートの根を引き抜ける。

踏み込んだだけで、地面の水分を足の裏で読める。

だから今日も、何も起きないはずだった。

薬草籠を背負い、いつもの道を歩いていた。朝露がまだ乾いていない時間。空気が緑の匂いをしていた。鳥が一羽、頭上を横切った。

それだけのはずだった。


茂みの奥。

ユナはそっと近づいた。

倒れていた。

青年が一人。仰向けで、腕を広げて、まるで夜空を見るような格好で地面に横たわっていた。ただし夜空など見ていない。目は閉じられている。服は深紅と黒。

ユナの村では誰も着ないような、仕立てのいい上着だった。

泥と血で台無しになっていたけれど。

顔に傷がある。腕にも。右の手首の包帯は古く、もうひどいことになっていた。

「……死んでないよね」

ユナはしゃがんで、首のそばに二本指を当てた。

脈がある。ゆっくり、確かにある。

息もしている。


「生きてる」


ユナは立ち上がり、腰に手を当てた。

困った。これはどう考えても困った。

見知らぬ青年が森で倒れている。服の質から見て、村の人間ではない。


ふと、くだらない考えが浮かんだ。


――まさか、飼い魔王……だったりして。


王都の貴族がよく連れているという、あの『飼い魔王』。

契約魔法で従わせた魔王を、護衛や権威の象徴として飼うという話は、田舎の村にまで伝わっている。

もちろん目の前の青年は、どう見てもそんなものではない。

ただの怪我人だ。

「……仕方ない」

ユナは籠を脇に置き、腕まくりをした。


村まで引きずった。

大人の男性を一人、森から村まで。

途中で三回休憩した。日が傾いた。

腕が痛くなった。

でも死なせるよりはいい。ユナの中の現実的な部分が計算をした。死体を放置した場合の問題と、生き返って面倒事になる可能性と、今目の前の人間を助けた場合に得られる可能性を。

計算の結果は、助ける、だった。

理由は簡単だ。ユナは薬草師なので。


         ☆


青年はゆっくりと目を開けた。


ユナはその顔を見た。人間の青年と変わらない顔立ちだ。

ただ一つだけ違った。

黒い髪の間から、角が二本伸びていた。


「起きた」


青年はその声の方を見た。

窓際に女がいた。


年は二十代の半ばくらいだろうか。

肩のあたりで切り揃えられていた黒髪に、薬草の葉が一本引っかかっていた。

派手さはないが、目は落ち着いていた。

手にはうっすらと土がついていた。

森で働く人間の手だった。

作業着の上にエプロンを着け、薬草を干している。手際がいい。


青年が身じろぎしただけで、部屋の空気がわずかに重くなった。

「ここはどこだ」

声が出た。想像より低い声だった。

女はこちらを見ずに答えた。

「わたしの家」

「……お前の家」

「うん。村の端の、薬草師の家。分かる?」

「分かるか分からないかで言えば、分かる」

 青年はゆっくりと上体を起こした。

 包帯が巻き直されていた。傷に薬が塗られている。清潔な場所に寝かされている。

「お前が運んだのか」

「そう」

「一人で?」

「一人で」

 女はようやくこちらを見た。褐色の目。真っ直ぐな視線だ。

 嘘をつく目には見えなかった。

「ありがとう」

 と言いかけて、青年は止まった。

 なぜ止まったのか、自分でも分からなかった。

「……私は」

「名前は後でいい。まず水を飲んで。熱があるから」

「熱はない」

「ある」

「ない」

女はため息をついた。

「あなたの額に今、手を当てたら何度あると思う?」

「……普通の体温だ」

「三十九度ある。フィーバールートを飲ませたけど、まだ下がりきってない」

青年は口を閉じた。

確かに体が重い。確かに頭が少しぼんやりする。認めたくはないが事実は事実だ。

「水をもらおう」

「そうして」

女は立ち上がり、竈の方へ歩いた。

青年は天井を見た。節が三つある。

自分が今どこにいるのかは分かった。問題は、なぜここにいるのかだ。

記憶を遡る。

深紅の大地。戦場の跡。人間の兵士と、魔族の残党と。自分は一人で切り込んで、それで……。

「ほら」

木のカップに水が入っていた。

青年は受け取って、飲んだ。

冷たかった。

井戸水だろう。体の中に染み込んでいくような気がした。

「お前は薬草師か」

「そう言った」

「名前は」

「ユナ。あなたは?」


青年は少し考えてから、答えた。

「私は魔王だ」



ユナは表情を変えなかった。眉一つ動かなかった。カップを受け取り、元の位置に置いた。

「はいはい」

「……はいはい、とは何だ」

「じゃあ何て言えばよかった?」

「信じろとは言わない。しかし」

「うん」

「もう少し驚いてもいいだろう」

 ユナは肩をすくめた。

「傷だらけの人が魔王って言い出したとき、どう反応したらいいの。正直に言って」

青年は黙った。

確かに。正直に言えば、難しい問いだ。

「……名前を聞いているんじゃない。私が何者かを」

「分かってる」

「なら」

「でも今は関係ない。熱が下がるまでは、ただの居候。いい?」


青年は、また黙った。

ユナは窓の方に戻り、薬草の仕分けを再開した。

「名前は? 本当の名前」

「レオ」

「レオさんね。じゃあレオさん、今日は安静にしてて。動いたら治るものも治らないから」

レオは返事をしなかった。

天井の節を数えた。三つ。

私は魔王だ、と言った。

はいはい、と返された。

レオは目を閉じた。

人間とは、変な生き物だと思った。


     ☆


三日で熱は下がった。

ユナの見立て通りだった。

「食べられる?」

朝、木の椀に粥が出てきた。シンプルな味だが、ちゃんと体に合わせた配合だとレオには分かった。薬草が少し混じっている。回復を助けるやつだ。

「……薬草師らしい飯だ」

「褒め言葉として受け取る」

ユナは自分の椀を持って、向かいに座った。

「傷はどう?」

「ほぼ問題ない」

「動けそう?」

「今日にでも出て行ける」

ユナは頷いた。出て行けと言う顔ではなかったが、引き止める顔でもなかった。ただ事実を確認している顔だった。

「行く場所はある?」


 レオは少し考えた。

「ない」

「そう」

「なぜそれを聞く?」

「あればどうぞ、ってなるし、なければまあ考えようかな、ってなる」

 ユナは粥をすすった。

「簡単な話」

「なぜ考える必要がある。私の行き場は私が考えることだ」

「あなたの行き場をどうするかは、あなたが決めること。そうじゃなくて」

 ユナは少し考えてから続けた。

「あなたが帰る場所のない怪我人として今ここにいる、っていう話。それはわたしが考える側の話」

レオは粥を見た。

「面倒な考え方をする」

「師匠にもよく言われてた」

「師匠がいるのか?」

「いた。三年前に亡くなった」

短い答えだった。

悼む色はなかった。しかし消えてもいなかった。きちんと過去に置いてある、そういう声だった。

レオは粥を食べた。

体に染み込んだ。確かに悪くない。

「私が魔王だとは、まだ信じないか」

「信じるとか信じないとか、今は関係ない」

「なぜ」

「あなたが危険かどうかの方が重要」

レオは顔を上げた。

ユナは真っ直ぐな顔をしていた。

「危険かどうか」

「うん。魔王でも、普通の人でも、わたしの村の人を傷つけるなら追い出す。そうじゃないなら今は関係ない」

「……随分と合理的だ」

「現実的、って言って」

「同じことだ」

「ちょっと違う」

レオは少し、黙った。

今まで多くの人間と話してきた。ほとんどは恐れるか、媚びるか、命令しようとするかだった。

目の前の女は、どれでもなかった。

「現実的に考えて、あなたが本当に危ない存在なら、わたしが今ここで何言っても無駄だから。でもそうじゃないなら、傷が治るまでいてもいい」

「そういうことか」

「そういうこと」

粥の椀が空になった。

ユナは立ち上がり、洗い物をするためにまた竈の方へ歩いた。

レオはしばらく、その背中を見ていた。


その日の昼のことだった。

「魔物だ! 魔物が来た!」

外で声がした。

ユナが窓を開ける。レオも立ち上がる。

村の入り口の方から、叫び声が上がっていた。人が走って逃げてくる。子どもが泣いている。

「何が出た?」

 レオが問いかける。

「分からない。でも——」


 声は消えた。

 ユナが振り返ったとき、レオはもう扉を開けていた。

「待って、まだ怪我が」

「治った」

「三日しか経ってない」

「問題ない」

そう言い切って、レオは外に出た。


ユナは追いかけた。

村の入り口に、それはいた。

大きな影。四つ足。岩のような皮膚に、赤い目が二つ。村人が束になっても歯が立たない類の、上位魔物だった。

「ロックゴーレム……」

ユナは息をのんだ。

こんなものがなぜ。森の奥にいるはずのものが、なぜ村の入り口に。

魔王の魔力に引き寄せられたのかもしれない。


魔物が吠えた。

地面が揺れた。

民家の壁にひびが入った。

「逃げろっ!」

 村の男が叫んでいる。

「逃げろ、子どもを——」

「やかましい」

低い声だった。

それだけで、周囲が静かになった。

レオが一歩前に出た。ロックゴーレムの動きが、わずかに鈍った。

村人でもない、逃げ惑う誰かでもない。ただ前に出た。真っ直ぐに、岩の魔物に向かって。

「レオさん!」

ユナが叫んだ。

レオは振り返らなかった。

右手を上げた。

それだけだった。

何かが、動いた。

空気ではない。光でもない。もっと根本的な何かが、動いた。レオの右手から、魔物に向かって。

魔物が止まった。

動けなくなったのではない。

存在そのものを拒まれたみたいに。ひびが入った。岩の皮膚に。

崩れた。

上位魔物が、ただの石くれになって、地面に散らばった。

静寂が落ちた。

村人が口を開けていた。

レオは手を下ろした。

「……」

ユナは、その背中を見ていた。

深紅の上着。一つになって折り目のついた背中。体はまだ怪我の後が残っているはずなのに、全く揺らぐことのない立ち方。

「あの」

 ユナが声をかけると、レオが振り返った。

「魔王さん」

 一瞬、レオの目が止まった。

「……今更信じるのか」

「さっきので信じた」

「遅い」

「でも信じた」

 ユナはため息をついて、少し困った顔をした。

「ということは、うちに本物の魔王さんが居候してるってこと?」

「そうなる」

「うーん」

「出て行けというなら出て行く」

「いや、そうじゃなくて」

ユナは頬に手を当てた。

「飼うなら最後まで責任を持たないといけないなあ、と思って」

レオはしばらく黙った。

「……私は魔王だ」

「知ってる」

「飼う対象ではない」

「でも今、わたしの家に住んでるよね」

「それは」

「薬草師としては、まあ」

 ユナは村人たちを見た。みんなまだ呆けたように立っている。

「あなたを拾ったのはわたしだから」

拾った。

レオはその言葉を、しばらく頭の中で繰り返した。

魔王を。拾った。

「……随分と大きなものを拾ったと思わないか」

「思う。だからこそちゃんとしないといけない」

そう言って、ユナは歩き出した。

村人たちに声をかけに行くのだろう。怪我はないか、家は大丈夫か、そういうことを確認しに。

レオはその背中を、また見ていた。

今日で二度目だ。

この女は、変わっている。

と、思った。

それだけだった。

それだけの、はずだった。

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