第8話
太一が普通でない道を歩むことになったきっかけは二十数年前、新卒での就職に失敗したことだった。この年、大卒の就職率は実に七割に満たなかった。十人のうち三人以上は「新卒」という日本の企業だけが過剰に信奉する切符を失い、実質的に正規雇用の権利を奪われたのだ。特に太一の希望していた事務職は倍率が異様に高く、しかもあらゆる企業が女子を中心に採用していたため、とても入り込める隙間などなかった。
太一は安いアルバイトで食いつなぎながら求人誌や求人サイトで就職先を探し、ようやくとある住宅メーカーに契約社員で滑り込んだはいいものの、扱いはあくまでも「中途採用」。一から新人研修を受けさせてもらえるわけでもなく、初めての仕事で即戦力を求められた。しかも悩んだところで相談できる同期もいない。契約は三ヶ月ごとの更新でいつ切られるか不安な毎日を過ごし、孤立し、抱え込み……そして心を病んだ。
太一はそれから一年間引きこもった。他人と仕事をすることが恐ろしくなり、誰とも会えなくなったのだ。世間の目に晒されることに耐えられず、外に出ることすらできない。この国では、労働に従事しない成人男性に「家事手伝い」という逃げ場所は与えられていない。ニート、引きこもり、穀潰し……ネット上では「子供部屋おじさん」などという蔑称まで生まれ、存在自体が罪とされる風潮がいまだ残り続けている。
眠れない夜が続いた。
生活リズムは徐々に乱れ、目覚めると、テレビに映っているのは朝の情報番組ではなく主婦向けのワイドショー。芸能人のくだらないゴシップ、ニュースへの無責任な素人コメント、合間に挟まる口八丁の悪徳通販CM、それが終わると年寄り向けドラマの再放送。狭く偏った、醜く閉じた世界だった。自分はこのまま社会と関わらず、こんな場所で一生を終えるのか。そう思うと、あまりの息苦しさから、太一は架空の世界に逃避せざるを得なかった。
※ ※ ※
夜、人気のない時間を狙って、近所のレンタルビデオショップへと出かけた。深夜の国道沿いに、はぐれたホタルのようにぽつんと明かりを灯すその店に入ると、気だるそうな店員がちらりと太一の方を見て、特に挨拶をするわけでもなく、すぐに手元の漫画雑誌に視線を戻した。他者を気に留めない距離感が、この頃の太一には心地よかった。
ぎっしりと並んだVHSは、手前の棚こそ太一にも見覚えのある作品群だったが、奥へ行くほどに徐々にケースの背は色褪せ、見慣れぬタイトルが並ぶようになった。そのメジャーとマイナーのグラデーションが、深く広い映画の歴史を感じさせた。太一は店を二周し、なんとなく面白そうな作品を直感で選んだ。
※ ※ ※
帰宅し、青いレンタルバッグからテープを取り出して自室のビデオデッキにセットした。タイトルは「ファイトクラブ」。暗く退廃的な雰囲気のパッケージに惹かれた。ヘッドホンを繋ぎ、部屋の明かりを落として再生ボタンを押す。ぼんやりとブラウン管が光を放ち、知らない物語が動き始めた。
「……………………」
視界に映るものも、耳に届く声も、すべては映画が描く別世界。その世界に没頭している間だけ、苦しい今も、後悔だらけの過去も、これから訪れるであろう暗い未来も忘れることができた。
※ ※ ※
「…………なんだよ、これ」
部屋の明かりを点け、太一は呟いた。自分の生き方をガラリと変えて、世の中の常識を精神的にも物理的に破壊する物語。ともすればテロリズム礼賛ともとられかねない危険な思想を孕んだ映画だった。
だが、それは窮屈な世界に閉じ込められていた太一にとって、生きる方向を示す希望の光となった。その日から太一はまた求人情報を調べるようになり、いくつかのアルバイトを経て、そして今の職場へと流れ着いたのだった。
※ ※ ※
「いってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
休日出勤の朝。母はいつもわざわざ玄関まで見送りに来てくれる。太一の顔をじっと見て、心配そうに言った。
「最近、ちょっとしんどそうに見えるけど大丈夫?」
「……まあ、ぼちぼちやってるよ」
「そう? 無理しちゃだめよ。人間、死んだら終わりなんだから」
「うん」
「本当なら今日はお休みだったんだし、帰り、どこかに寄って遊んできたら?」
「……うん。ありがとう」
※ ※ ※
「おはようございます」
「お、梅山チームの寒河江くんだよね? おはよう! こっちに席用意してあるから!」
総務部のある五階でエレベーターを下りると、必要以上に元気な、おそらく寒河江と同年代の筋肉質な男性社員が出迎えた。浅黒い肌にツーブロックの髪型。見るからに苦手なタイプだった。社員証には「マネージャー・中村」と書かれている。
「あの、具体的な業務内容は現場でって聞いてますが、何すればいいですか?」
「うん! とりあえず、ここで質問の電話かかってくるの待っててよ」
案内されたデスクには、デスクトップPCとヘッドセット、あとはメモ用のノートとボールペンが置かれていた。
「どんな種類の質問が来るんですか?」
「まー、ほとんどがフツーのパソコンの使い方についてだよ。たまーに専門的なソフトの話してくる人いるけど、そういうのは内線回してくれたらコッチで巻き取るから」
「わかりました」
具体性を欠いた答えに半分呆れつつ着座すると、さっそく一本目の電話が鳴った。
「はい、総務部ヘルプデスクです」
「あー、おはようございます〜。あの〜、昨日電話したらもう時間外で繋がらなくって〜」
若い女性の声。新入社員だろうか。のんびりした喋り方は、あまり困っているようには聞こえない。
「あの〜、複合機で会議の資料をスキャンしたんですけど、全然ダメで〜」
「ダメと言うと?」
またしても具体性に欠ける表現。伝える努力をしなければ、伝わるものも伝わらない。
「えっと〜、開かないんです〜」
「開かないということは、画像ファイル自体はフォルダ内に生成……えー、そこにあるんですね?」
相手に合わせて説明のレベルを下げる。同僚が相手なので、多少くだけた物言いでも構わないのは気が楽だった。
「はい〜。でもダブルクリックしてもファイルが開かなくって〜」
「ファイルの拡張子──ファイル名の後ろに付いているアルファベットを読み上げてもらえますか?」
「ファイルの後ろ? えっと、後ろ……後ろ……どれだ……後ろ……これかな……どれだろう……ええ……?」
明らかに、相手に聞こえるように独り言を喋っている。
「ファイル名を読み上げてもらってもいいですか?」
つい救いの手を差し伸べてしまい、太一は自己嫌悪した。努力をせずに助けてもらえることを覚えてしまうと、その人間は次からも同じことを繰り返し、自ら成長を止めてしまう。それは太一のためにも相手もためにもならない。
「あ、ファイル名は……『S社議事録コピーかっこ3かっことじ』です」
(バカが付けた名前だ)




