第3話
「ただいま」
自宅の戸を開け、少し大きめに声をかける。午後七時半。この時間、母は奥の台所に立っていることが多く、耳に届きにくいからだ。
太一は今、築四十年の賃貸マンションの三階に母と同居していた。以前は一人暮らしをしていた太一だったが、十年前に父が病死したのをきっかけに実家へ戻ってきたのだ。母を一人で置いておくわけにはいかないという対外的な理由の他に、わずかな収入で生活が苦しく、老後のための貯金をするには実家に戻らざるを得ないという事情もあった。
台所に買い物袋を置き、明かりを点けた。……誰もいない。リビングに目をやると、テレビを点けっぱなしにしたまま、座椅子でうたた寝をする母の白い後頭部が見えた。
(随分老けたな……)
人は年とともに緩やかに老けるように思われがちだが、そうではない。生きる意味を見失い、ただ命を繋ぐためだけの日々を送り始めた時、自身の見てくれにまで気を回さなくなり、急激に老けたように見えるのだ。そして母の場合、きっかけは父の死で、彼女はそれ以来、白髪を染めるのをやめた。その姿を見て、太一は近いうちに訪れるであろう親の介護という現実を直視せざるを得なくなった。
冷蔵庫を開け、買ってきた牛肉を賞味期限の近いものと入れ替え、一緒に焼肉だれのボトルを取り出した。
(簡単に牛丼でも作るか……)
ネットに入れて吊るしてあった玉ねぎを一つ掴み、フライパンとまな板を用意したところで、物音に気付いた母が目を覚ました。
「あー、おかえり。もう晩御飯の準備しないとね……」
寝ぼけ眼で立ち上がろうとする母を、太一は「いいから座ってて」と制止した。
「ありがとうね」
「うん」
玉ねぎ、牛肉、それに刻みネギを焼肉だれに浸けて炒める。あとはそれを炊きたての白米に乗せるだけの時短料理だ。
「お味噌汁でいい?」
母が隣のコンロで湯を沸かしながら、二人分のお椀を並べた。
「俺がやるからいいのに」
「ボケ防止になるのよ」
点けたテレビをBGMに、二人で夕飯の支度を進めた。ニュースは迫る地方選について触れていた。
"私! 竹下平太が当選した暁には! 私と同じ氷河期世代の皆様だけを特別に優遇した政策を実施いたします! 我々の貧困はすべて政府の失策と、自分たちだけがバブルを謳歌し、その後の日本を滅ぼした老人たちによる人災であります! 今こそ真っ当な生活を取り戻すべく、我ら一丸となって立ち上がろうではありませんか! 老人排除! 老人排除! 老人排除!"
(こりゃ飛沫候補だな……)
太一はため息をついた。政策が極端すぎることもあるが、現状、一番の票田である高齢者を敵に回して当選できるとは思えなかった。
「これはちょっとねえ……」
母も苦笑いしていた。
「まあ、もし氷河期世代の投票率が倍になったら当選できるかもしれないけど、俺らの世代は色々諦めてるから、そう簡単に足は動かないよ」
"続いてのニュースです。政府は今後、国民番号カードのデジタル化をさらに推し進める方針で……"
「銀行口座に保険証、なんでもかんでもデジタルにされたら、私ら年寄りは困るわあ」
「そうかな。母さんはそう言うけど、公的な手続きがなんでもカード一枚で済むようになって、俺は便利に使ってるよ。こないだの給付金だって、何もしなくても口座に入ってたろ?」
「それはそうかもしれないけど……やっぱり、なんか怖いわあ」
カード一元化のリスクはさておき、未知のものを恐ろしく感じるのは自然なことである。それはわかる。わかるが、では、自ら知る努力をしない者に罪はないのか。不勉強な人間のために、勤勉な人間がコストを払うことは許されるのか。太一は昼間のクレーマー老人を思い出し、腹の底に黒く重い苛立ちが芽生えるのを感じた。
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