第2話
「…………………………」
これでこの話は終わりだ。それは間違いない。しかし。
「ほんま、ええ加減にせえよ! 似たようなモン作りおって! 紛らわしいねん! ちゃんとわかるようにしとけや!」
世の中には謝罪ができる人間とできない人間がいる。そして後者は、そもそもこんな電話はかけてこないのだ。
「大変申し訳ございません。貴重なご意見として承り、開発部門へ上申させていただきます」
「もうええ! 気分悪いわ!」
ガチャンと強く受話器を叩きつける音が太一の鼓膜を震わせた。
「…………はぁぁ」
重く暗い感情を溜め込んだ溜息を吐き出し、次の電話に備えた。
※ ※ ※
「寒河江くん、大変だったねぇ〜」
共用スペースで弁当を食べていた太一に声をかけてきたのは、先ほど救いの手を差し伸べてくれた細木さんだった。太一と同期で入ってきた彼女だが、年は彼より十ほど上だった。派手すぎないワンピースに、軽くウエーブがかったロングヘア。嫌味にならない程度の化粧と香水。上品さの漂う出で立ちは、「オバさん」よりも「奥様」や「マダム」と呼ぶのが似合っていた。
「……あ、さっきはありがとうございます。おかげで助かりました」
「いいのいいの! お互い、この仕事の大変さをわかってる者同士なんだからぁ」
太一がぺこりと頭を下げると、細木さんは彼の弁当を覗き込んだ。卵焼き、肉団子、ブロッコリー、惣菜の詰め合わせに、おかかのふりかけをまぶした白米。極めてオーソドックスで地味な中身だ。
「それ、いつも自分で作ってるのぉ?」
「……ええ、まあ。でも、自分で調理してるのは卵焼きだけで、あとはスーパーの惣菜ですよ」
「ええ〜、充分すごいわよぉ。私なんて作るの面倒すぎて、お昼はいつも外で食べちゃうもの。ほんとにえらいわぁ。それだけ作れたら、奥さんになる人は楽でいいわねぇ〜」
「はは……」
太一は乾いた笑いを返した。
(結婚ね……)
彼の人生からは、そんな選択肢はとっくに除外されていた。収入の不安定な非正規雇用の身で、自身の人生すら支えられるかどうか分からないのだから、他人の生活など背負えるはずがなかった。
「明日はお休みだし、お昼からもホドホドに頑張りますかぁ〜。それじゃあ、またねぇ」
「ええ」
手を振って去っていく細木さんを見送り、太一は残りの弁当を食べた。
(そうか、細木さん金曜休みだっけ……)
二人は同期ではあるが雇用形態は異なっていた。週五フルタイムで働く太一に対し、細木さんは給与が夫の扶養内に収まるよう、労働時間を抑えた週三勤務である。
「そういう生き方が許されてるんだな……」
小さく呟き、残りの白米をかきこんだ。
※ ※ ※
定時と同時にデスクを片付け、太一は職場を出た。決められた時間に応対するコールセンター業務の特性上、残業はほぼ無い。
(寒いな……)
冷たい風に頬を叩かれ、明日はもう少し厚い上着を羽織ろうと思った。立ち並ぶ街灯には既に灯りが点いていた。つい先日までこの時間はまだ明るかったのに、今は沈みゆく太陽すら見えない。いよいよ本格的な冬が訪れていた。体を震わせながら最寄りの地下鉄駅に逃げ込むと、構内は同じく仕事を終えたサラリーマンたちでごった返していた。複数の路線が交わる乗換駅のため、改札からプラットホームまでは少し距離がある。とぼとぼと歩く太一の横を、数人の男女が慌ただしく駆け抜けていった。おそらく、乗り換え時間がギリギリなのだろう。その中の若い男が、後ろから太一の肩に激突した。
「っ……」
男はバランスを崩した体勢をどうにか立て直すと、振り返って太一を睨みつけ、わざと大きな舌打ちをして走り去っていった。太一は考えた。電車一本乗り遅れたところで、彼の何が変わるのかは知らない。しかし、それは大きなリスクを背負ってまで怒りをぶつけるべきことなのだろうかと。
リスク。
太一は「人を不快にすること」をリスクだと考えていた。敵意を向けるということは、同時に敵意を向けられることだからだ。
「死にたいのかよ」
太一は男の背中に呟き、生気の無いサラリーマンたちと一緒に帰りの電車に詰め込まれた。狭い車内で押し合いへし合い。屈強な男性ふたりに挟まれ、小柄な太一の体は床から浮いてしまった。カーブに差しかかって車体が傾くと、自分の意志とは関係なく、太一の体も宙に浮いたまま傾いた。
(もし今、急ブレーキがかかって将棋倒しになったら……)
ゾッとした。自分の命が今、自分の手の中に無いということに。手提げ鞄を落とさないようにしっかり掴んで耐えていると、幸いなことに目の前の座席がポツンと空いた。すかさず滑り込み、腰を下ろしてフウと一息つく。
(……ひとまず安全圏)
と同時に、無意識に胸ポケットからスマホを取り出していた。仕事で疲れているのだから、本当は目を瞑って休んでいた方がいい。頭ではわかっているのだが、少しでも空き時間があればついスマホを見てしまう。スキマ時間を有効に使いたいという思いが行き過ぎた結果、本当に必要な時間を削りとってしまっている。現代人の悪癖だ。
(若者がバイト中にいたずら。国会議員が失言。芸能人のスキャンダル……)
SNSに流れてくるニュースは毎日どれも似たようなものだ。そして、どの記事にも無関係な人間による無責任なコメントが大量にぶら下がり、事件の火は記事を読まない人間にまで広く延焼していく。公に認定された悪を追求することで、自分こそが正しい人間だと錯覚できる──お手軽に快感を得られる庶民の娯楽だった。
(刺されたら死ぬくせに──)
先程の体当たり男と、昼間の老人のことを思い出しながら太一は思った。
自分が正しいと思った意見は必ず通る──人はいつからそんな勘違いをするようになったのだろう。正しい意見が通ることは当たり前ではない。どれだけ正しくとも、会話を打ち切られてナイフで刺されたら、少なくとも自分の命はそこで終わりだ。話している相手の性格や武装を知らぬまま争いを起こせば、当然殺される危険も増える。そりゃあ、中には本当に命を危険にさらしてまで通さねばならない大事な意見もあるだろう。しかし、世の中の大半の問題はそうではない。お互いに譲り合い、争いを避けるのが賢明だ。しかし、自身の想像上だけの万能感を現実世界に持ち込み、結果、多くの人間が無意識に死のリスクを背負っているのが今の時代なのだ。
虚しさを感じてスマホを胸ポケットに戻す。一眠りしようかと背もたれに体を預けると、前に立っていた老婆と目が合った。
(七十代後半から八十代前半……)
ただでさえ曲がっている背中が、大きな手提げ鞄によってさらに折れそうになっている。
「……よかったら、どうぞ」
太一は手に入れたばかりの安寧の地を老婆に譲り、再び男たちに圧迫された。
※ ※ ※
太一は自宅最寄りの一つ手前で電車を降り、駅前のショッピングモールへと立ち寄った。夕刻ということもあり、多くの客が買い物カゴに食料品を山積みにしている。これだけを見ればいかにも盛況だが、その賑わいはあくまでもこの店だけのものだ。今から十年前にオープンしたこのモールは瞬く間に周囲の地元商店を駆逐し、供給の一極集中を完成させた。利用する太一からしても、品揃えもよく、ポイントカードの一本化もでき、専門店エリアのおかげで遠出をする必要もなくなり、生活は随分と便利になった。しかし、安売りの牛肉をカゴに入れながらふと思う。もし、このモールが無くなったら果たして暮らしていけるのだろうかと。たかがモールにまで生殺与奪を握られているのではないだろうかと。
(……そんな考えに至った時点で、もう終わっているのかもしれない)
モールと自宅と会社だけですべてが完結する一日。いつの間にか、限りなく狭まっていた自分の世界にため息をつき、さりとてどうすることもできず、気力を失い、ただ絶望する。それが太一のくすぶった日常だった。
※ ※ ※




