第10話
「お疲れ様です」
「おお、こっちだ。見てくれ、これ。全然ダメだ」
ひとつ上のフロアにある経営管理部へと出向くと、一番奥のデスクから力久が太一を手招きした。五十代後半、やや太めで、目は眼鏡をかけていてもまだ細い。髪は寂しく、まるで五線譜のようなバーコードを描いている。
「失礼します」
近くの椅子を引っ張ってきて、力久の代わりにPCに向かう。
(うわ、ひどい作り方……)
開いてあった件のファイルを見て太一は呆れた。印刷範囲を無視してベタベタと貼られたトリミング無しの画像。場当たり的に結合されたセル。書式設定を文字列に変えられた数値。折り返さずにセルを貫通しているテキスト。この人は、EXCELを自由帳か何かと勘違いしているのだろうか。これでは印刷できたとしてもまともな書類にはなるまい。
「どうだ、いけそうか?」
力久に声をかけられ、太一は我に返った。そうだ、今の自分の任務は「印刷すること」だったと思い出し、無様なファイルのことは気に留めないことにした。
「あ、はい。ここのメニューから印刷が選べま……」
ふと、選択されている複合機の名前に違和感を覚えた。よくよく見ると型番が古い。
「あの……これ、前に印刷したのいつですか?」
「前? さあ、いつだったかな。今日はいつも印刷してくれる山本さんが休みだからな。久しぶりに自分でやってるんだ」
「ここの複合機、最近新しいのに替わりましたか?」
「あー、三ヶ月くらい前、リースが終わるタイミングで入れ替えたな」
「……なるほど。おそらく、入っているドライバが古いのが原因だと思います」
「ドライバー? 車が何か関係あるのか?」
呆気にとられた。どうして業務でPCを使っている──しかも部下に指示を出す立場の側の人間がこの知識レベルなのかと。
「ドライバは公式サイトからダウンロードできますが、このフロアのPCはクローズドなので、複合機の管理者にメディアを借りてくる必要がありますね」
「…………………………」
その沈黙で、場の空気が澱んだのを感じた。
「……で、結局なに?」
力久が露骨に不機嫌な表情を見せた。一度に知らない言葉を並べ立てられたことを、理解が追いつかない自身のスキルの無さを指摘されたかのように思い違いをし、太一に敵意を向けてきたのだ。
(器ちっさ……)
「一度、総務部に戻ってドライバCDを調達してきます。すみませんが、もうしばらくお待ち下さい」
「急いでるから、チャッチャとしろよ」
「はい」
経営管理部を出たところで太一は立ち止まり、思った。
(あの人、あれで俺の何倍も給料もらってるんだよな)
たまたまバブル時代に正社員採用され、たまたま年功序列に乗っかり、結果、まともなスキルが無いのに今の椅子に座れている。もし自分が同じ時代に生まれていたら、もっと人生は簡単だったんじゃないのか──。
……理不尽だな。
そう思った時。
糸が。
切れた。
「もう、いいや」
辞めよう。次の仕事のアテがなかろうが、これ以上ここで仕事は続けられない。自分より能力に劣る人間が何倍も稼いでいる──そんな思いを抱きながら働くのは惨めすぎる。そうだ、ついでに偽装請負も労基に報告しよう。こんな時のために密かに音声ログは集めてあるんだ。……そこまで考えて太一は苦笑した。いずれ「こんな時」が来ることがわかっていたからこそ、証拠を集めていたのだと自覚したからだ。
※ ※ ※
"今、仕事終わったよ"
会社を出たところで、母にLINEを打つ。退職のことは書かなかった。直接話さないと余計に心配をかけると思ったからだ。
"お疲れさま!"
"今日、映画でも観て帰ろうかな"
すぐに帰る気分にはならなかったから、朝の母の言葉を思い出し、甘えることにした。母からはすぐに「いいね!」のスタンプが返ってきた。
※ ※ ※
繁華街の駅で途中下車すると、入れ代わりに多くの客が乗り込んでいった。一日中たっぷりと遊んで帰路につく親子連れやカップルたちは、これからわずかな休暇を始める太一とは対称的だった。とは言っても休日の夜である。駅ビルに直結したシネコンに入ると、ロビーにはまだまだ多くの客がいた。券売機で今から上映の始まる作品を確認する。大作洋画、アニメ映画、テレビドラマの劇場版──どれも残席少。
(困ったな……)
おひとりさまなのだから、一つでも座席が空いていれば観ることはできる。しかし、引きこもり中に長く孤独に映画と付き合ってきた太一は、できるだけ他人を感じない場所で、作品と直に向き合いたかった。
(……これにするか)
選んだのは残席二重丸の地味な邦画。チケットを購入し、ガラガラの劇場でど真ん中に陣取った。その後は、照明が落とされる頃にトボトボと数名が入場してきただけの静かな上映となった。
「…………………………」
舞台は昭和から平成へと変わる時代。田舎に住む子どもたちの日常と、ほんの少しの冒険を描いた……例えるなら『スタンド・バイ・ミー』のような懐かしい空気の作品だった。倫理観が薄く、粗雑で、暴力的で、理不尽で、不便で、しかし、狭いはずの世界がどこまでも広く見えたあの時代。くだらないことで喧嘩をしたまま卒業してしまった大切な友人。片思いのまま告白できなかった同級生。二人乗りの自転車で感じた父の背中の温かさ。太一はもう会えない人たちのことを思い出して胸が苦しくなった。
(あの頃は…………)
昔はよかった。大抵の場合、それは思い出補正による錯覚だ。時を重ね、世の中は確実に便利になり、大人になってどこへでも行ける自由を得たはずだ。だが、もはや今の日本はそうとは言えない場所になった。少なくとも物質的な豊かさはこの数十年で確実に失われた。太一ら氷河期世代や、安くこき使われる若者たちワープア層はそれを敏感に肌で感じとる一方、まだ蓄えのある老人たちはいまだにそれを他人事として捉えている。その温度差を太一は許せなかった。
(明日のことを心配しないで眠れたのは、いつが最後だろうか。毎日、満員電車に揺られながら、気が付けばいつも金のことを考えている。あとどれだけ働けば平穏に暮らせるのだろう。もし働くのをやめたら、あと何年で生きられなくなるのだろう。もし病気で倒れたら。もし介護が必要になったら。もし……)
「…………………………」
エンドロールが終わって明るくなった場内で、ひとり残った太一はしばらく席に座ったまま動けなかった。現実に戻ることを拒絶するかのように、その瞳は焦点が定まっていなかった。だが、昔の映画館と違ってシネコンは入れ替え制である。次のレイトショーのためにスタッフが清掃に入ってきたことで、太一はようやく立ち上がった。
よろよろとおぼつかない足取りで劇場を出たところで、やっとスマホの電源を入れることを思い出した。
(明日から、どうしようかな……)
不安な気持ちで夜空を見上げた。宇宙の広さに比べれば人間の悩みなんてちっぽけなもの……そう言う人は多いが、太一にとっては、そのちっぽけな悩みこそが人生のすべてだった。スマホが震えた。母から一時間前にLINEの通知が届いていた。
"ありがとう"
太一の心臓の鼓動が急激に早まった。フリックする指が震え、たった六文字の返信を三度も書き損じた。
"どうしたの?"
一分待っても既読が付かない。単にスマホを見ていないだけということもあり得る。なのに、どうしてこんなに不安に襲われ、吐きそうになっているのか。太一は信じてもいない何かに祈りながら帰路を急いだ。
スマホが鳴った。知らない番号。いつもなら出ない。しかし。
「……もしもし」
「あ、寒河江太一さん? 豊藤警察署の者ですが」
瞬間、心臓が止まった。そう感じた。
「…………はい」
「あのね。お母さん、先ほど交通事故に遭われましてね」
※ ※ ※




