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氷の河  作者: ガンジス川
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第1話

氷の河の上から。

声を聞いてください。

日本国憲法第二十五条

「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」


※ ※ ※


「おい、ええ加減にせえよ!」


 コールセンターに繋がるや、開口一番の怒号。受電した寒河江太一さがえたいち、四十五歳は左手でヘッドセットをつまんで耳から遠ざけ、右手でマウスを操作して通話ツールの音量を下げた。


「大変申し訳ございません。こちら、梅山電器カスタマーサポートセンターでございます。本日はどのようなご要件でしょうか?」


 ヘッドセットを再装着し、落ち着いた態度で対応する。相手によっては、これで平静さを取り戻してくれることもある。しかし、この男の怒りは収まらない。


「あのな! お前んとこのセラミックヒーターな! 全然動かへんやないか! 不良品売りつけとんのか!? バカタレ!」


(しゃがれた声、声量大、滑舌はマシ。六十代後半から七十代前半ってところか)


 太一がこの業務に就いてそろそろ一年になる。様々なクレーマーを相手にしているうち、相手の声や態度でおおまかなプロフィールを推測できるようになってきた。


「ご迷惑をおかけしまして申し訳ございません。お調べいたしますので、お使いの製品の型番を教えていただけますでしょうか?」


「型番!? そんなん知らんわ!」


「弊社では様々な製品を取り扱っているため、型番がわかりませんとご対応しかねます。お手数ですが、お調べいただいてから……」


「お前んとこの商品やろが! 誰に何を売ったかぐらい、そっちで調べたらわかるやろ!」


「申し訳ございません。私どもは商品を開発しているメーカーで、販売店ではございませんので、お客様への販売履歴は存じ上げません」


 正確に言えば、メーカーからコールセンター業務を委託されている下請け会社である。さらに言えば、その下請けがパートや派遣社員といった非正規雇用の従業員へと業務を投げている。かつて正社員雇用が当たり前だった恵まれし時代を生きた老人には、まるで想像もつかないことだろう。


「はあ!? ほんま融通きかへんなあ! 大体な、お前んとこはな、そうやってな、いっつも客を大事にせえへんのや!」


「申し訳ございません」


「さっきからそればっかりやないか!」


「できる限りの対応をさせていただきますので、大変お手数をおかけしますが、型番をご確認いただけますでしょうか」


「せやから、なんやねん型番て!」


「お手元に商品の説明書はございますでしょうか? 表紙にアルファベットと数字を組み合わせた型番が記載されて……」


「説明書なんか棄てたわ! こんなもんスイッチ押すだけや! 読まんでもわかるやろ! 年寄りや思うてバカにしとるんか!?」


 勝手に論点をずらして勝手に怒り始める。クレーマーにはありがちな反応だ。太一は質問を変えることにした。


「それでは、製品の裏側に銀色のシールが貼ってあるかと思います。そちらに記載されている……」


「裏側!? んあー……おっ、これか! あったあった! えーとなぁ……Sのォ〜2390のFや!」


「Sの2390のFでございますね。今、お調べいたしますので少々お待ちいただけますか?」


「なんやねん! はよせえや!」


「かしこまりました」


 ディスプレイ上の保留ボタンにマウスカーソルを合わせてクリックする。


「……ふぅ」


 一時の静寂。太一はヘッドセットを外して一息つくと、ディスプレイに目をやり、製品マニュアルのPDFファイルを集めたフォルダを開いて「S」の型番を探した。


「……?」


 どこにも見当たらない。いや、そもそも桁数が違う。恐らく、老人が別の番号を読み上げたのだろう。


(指摘したら、また怒るんだろうな)


 太一は予測される心労の分だけ重くなったヘッドセットを再装着した。


「お待たせいたしました。お調べしましたところ、お伝えいただいた番号は製品の型番ではないようです。何か他にそれらしい番号は見当たりませんで……」


「無い! 無い無い他にはなーんにも無い! もうな! そんなんええから、はよ直す方法教え言うとんねん!」


「はい。そのためには製品の特定をしなければなりませんので、大変お手数をおかけして申し訳ございませんが、もう一度型番を……」


「はあ〜! わっからんやっちゃな〜! もうええ! お前ごときじゃ話にならん! 上のモン出せバカタレ!」


 太一はちらりと窓際席のチームリーダーへ目をやった。ヘッドセットを耳にあて、こちらを見ている。腹肉でピチピチに膨らんだスーツ。年々薄くなる頭髪。今年五十五歳の小室真也。気弱で大して頼りにならない男だが、さすがに異常を察してモニタリングしてくれてはいるらしい。


「確認いたします。少々お待ち下さい」


「なんや、また待たせんのか!」


「申し訳ございません」


 即座に保留ボタンを押し、挙手でリーダーを呼ぶ。重い腰を上げ、眉間にシワを寄せた小室が太一の席までやってきた。


「うーん……とりあえず、話だけ聞いてみたら? 症状から型番が推測できるかもしれないし」


「……わかりました」


 "推測"で間違った対応をしたらそれこそ問題になるから尋ねたのだが、やはり小室は目先のクレームを捌くことを優先するようだ。


「お待たせいたしました」


「なんや! さっきのヒラやないか!」


「申し訳ございません。上長はただいま別の入電に対応しておりまして……。お客様、もし私でよければ症状の詳細をお伺いしてもよろしいでしょうか?」


「せやからさっきから言うとるやろ! 動かへんねや!」


「動かないと申されますと、電源スイッチを押しても温風が出ないということでございますか?」


「ちゃうわボケ! ボタン押しても、いっこも風が強ならへんのや!」


「風量の調整ボタンが反応しない、ということでございますね」


「そうや! 壊れとる!」


「かしこまりました。ただいまお調べいたします」


「はよせえや!」


 これ以上保留回数が増えるとさらに怒りを買うと判断し、電話を繋いだままPCを操作する。マウスのクリック音やキーボードを叩く音が電話越しに伝わることで、調べている最中であることを相手に認識させて待ち時間を稼ぐテクニックである。


(これが近そうかな……)


 複数の種類があるセラミックヒーターの中から、売れ線の商品を選んで取説PDFファイルを開く。Q&Aによると、風量ボタンに異常が発生した時はランプが赤く点滅し、再起動で正常動作に戻るらしい。


「お客様。現在、風量ボタンの上にあるランプが赤く点滅しているかと思いますが……」


「はぁ? ランプ? どこにあるねん、そんなもん」


「ございませんか。ボタンの上に」


「無い言うとるやろ、しつこいな! やっぱりお前じゃ埒が明かん! 上のモンだせ!」


「……少々お待ち下さい」


「何回待たすねん! 代わるだけやろ! はよせえや!」


 一人で対応するにはもう限界だ。太一が小室にアイコンタクトを送ると、彼は声を出す代わりにメモ書きを寄越した。


"商品を預かって、クライアントの原因調査チームに回そう"


 どうやら、自分で電話に出るつもりはないらしい。


「お客様。もし故障であれば、お電話だけでは原因の特定が難しいため、一度弊社で製品をお預かりして調査を行いたいのですが……いかがでしょうか?」


「預かる?」


「はい。お手数ですが、着払いにて弊社まで製品をお送りいただけましたら……」


「ハア!? なんでワシがそんな面倒なことせなあかんねん! そっちから新しいの送ってきたら済む話やろが!」


(……ああ、結局それか)


 ゴネて新品を要求する手口。よくあることだ。しかし、残念ながら電話の相手は単なる業務委託先。無償で商品を渡す権限などあろうはずもない。


「申し訳ございま……」


「それはもうええて! はよ上のモン出せて!」


(イヤイヤ期に入ったか……)


 己の要望が通るまで、その他一切の会話をシャットアウトする。一度このモードに入られると、同じ日本語同士にも関わらずまるで会話が成り立たなくなる。


「(どうしますか?)」


 視線で小室リーダーへ指示を仰ぐと、彼は渋々、社用携帯を取り出してクライアントへ繋いだ。


「……あ、ナイスワーキングの小室です。いつもお世話になっております。平山様、お忙しいときに申し訳ございません。ただいま対応中のお客様で……」


 手短に事情を説明し、委託元の判断を仰ぐ。これで客の要求をすんなり呑むなら太一としてはありがたいところだが……。


「……あ、はい。そうですよね。はい、かしこまりました。それでは失礼いたします、はい」


 電話を切った小室が、太一に無言で首を横に振った。


(……だと思った)


 クライアントがクレーマーの言うことをいちいち聞くはずがないし、そもそも、そういう「嫌な応対」を自社でやりたくないからこっちへ投げてきているのだ。


「おい! いつまで待たせんねん!」


「お待たせして大変申し訳ございません。繰り返しのお話になってしまうのですが、弊社といたしましては、やはり商品の型番がわかりませんと……」


「せやから! 型番なんか知らんっちゅうねん! んなもん、そっちで調べや! バカタレ!」


「申し訳ございません。型番の確認についてはお客様皆様にお願いをしておりまして、対応させていただくためにはどうしても……」


「しつこい! ええ加減、上のモン出せ言うとんねん!」


 エンドレスだ。こうなると、どれだけ相手が激昂しようが、受電者は事務的に同じ文言を繰り返すしかない。太一は、自分をまるでRPGのNPCのようだと思った。


(こういう仕事、そのうちAIにとって変わられるんだろうな)


「はい、申し訳ございません」


(最近のAIってすごいよな。あー、でも将棋や囲碁でプロに勝った時からすごかったか……)


「はい、大変申し訳ございません」


(将棋って、銀と金の動きがよくわかんないんだよな。囲碁はもっとわかんないけど……)


「はい。まったく、仰るとおりでございます」


 相手の怒りが収まるまで意識の半分を妄想に移行し、罵詈雑言を上の空で聞き流す。クレーマーにいちいち本気で向き合っていたら、とてもこんな仕事は続けられない。


(……ん?)


 ポンと肩を叩かれ、妄想世界から呼び戻された。見ると、パーテーションで区切られた隣のブースから同僚の中年女性──細木さんがニコニコと一枚のメモを太一に差し出していた。それは、このカスハラ地獄の底から太一を引き上げる蜘蛛の糸だった。


「だいたい、お前の喋り方が気に食わんねん! 客を馬鹿にすんのもええ加減に……」


「お客様」


 本来、この業務において相手の言葉を遮るのはご法度である。しかし、今の太一はそれが許されるほどの強力な武器──細木さんのメモを携えていた。彼はもはやNPCではなく勇者だった。


「先程お伺いした型番──S-2390-Fですが、お調べしましたところ、サニーライト社の製品のようでございます」


「……あ?」


「こちら、弊社の製品ではございません」


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