なぜ日本に核攻撃があると考えるか・・・ 2
まえがき:なぜこの物語は「あり得る」のか・・・?
私たちはどこかで信じている。
「日本は、もう二度と核攻撃されることはない」と。
それは、世界で唯一、原爆を落とされた国だから。
一種の“殉教者としての特権”を、自動的に得たような錯覚がある。
だが、その考え方は果たして正しいのだろうか。
アメリカという国家は、第二次世界大戦で日本に対し、核を使用した唯一の国である。
それゆえに彼らは、常に心のどこかで「報復される可能性」を恐れている。
とくに、日本のように技術力があり、潜在的に核開発が可能な国が「核を持つ」という決断をした場合、
その恐れは、戦略上の「敵意」に転化する。
なぜなら、戦後教育とは、単に平和を教えるものではなかった。
あれは「敗者としての倫理」を教える教育だったのかもしれない。
つまり、“戦勝国と敗戦国は、対等ではない”という前提が、国際秩序の静かな根底を支えてきた。
もし日本が、そこから逸脱する――「勝者の論理=核」を手に取るとき、
それは平和的選択ではなく、「裏切り」として記録されるかもしれない。
そしてそのとき、アメリカが恐れるのは、戦略上の均衡ではなく、
かつて自らが植えつけた恐怖が“現実”として戻ってくることだ。
この物語は、そんな仮定に基づくフィクションである。
だが、もしこの物語が単なる空想で終わると思えるなら――それは、幸運な錯覚なのかもしれない。
最後の勝利演説
202X年7月5日、日曜日、午後9時。
大型スクリーンに映し出される開票速報が、赤と青に染まっていく。テレビ各局は一斉にテロップを流した。
「速報です! 自民党、単独過半数を獲得! 国民の選択は、ついに“核保有”に踏み切りました!」
渋谷の交差点には、日の丸と「自立」と書かれたフラッグを振る若者たち。握手。歓声。ハイタッチ。
ニュースキャスターは笑顔で語る。
「歴史的な夜ですね。日本が、戦後体制からついに脱却します」
政権与党・自民党の選挙公約は明快だった。「核による独立」「対米依存からの脱却」「“戦後”の終わりを告げる安全保障改革」。
布袋幸三首相は選挙期間中、繰り返しこう訴えていた。
「我が国は、唯一の被爆国であるがゆえに、世界で最も平和的な核保有国となる資格がある」
この“論理”が、国民の過半数を納得させた。日本は、核兵器を保有することで「主権」を回復すると信じられていた。そして布袋は勝利した。
午後9時15分。首相官邸前に設置された特設演説台で、布袋は満面の笑みを浮かべて語る。
「日本は、核を持つことでようやく“主権”を手にしたのです!」
拍手が鳴り響く。国旗が揺れ、人々の顔には誇らしげな光が浮かんでいた。
だが午後9時30分。アメリカCNNが速報を流す。
「ホワイトハウス、緊急声明を準備中」
午後9時45分、アメリカ国防総省の報道官が声明を読み上げる。
「日本の核保有は、同盟の破綻を意味します。信頼なき核保有国は、潜在的敵国と見なす。
我々は、抑止ではなく、確証を重視する国家である。」
午後9時55分、東京・大阪・名古屋で突如通信障害が発生。SNSが落ち、テレビに一部ノイズ。人々は「またサイバー攻撃か」と苦笑していた。
しかし、東京湾の上空に現れた謎の航空機群に、誰もが異変を感じ始める。政府は「共同軍事演習の一環」と発表するが、官房長官の顔は明らかに蒼ざめていた。
午後10時ちょうど。
全国のテレビ・スマホ・ネット端末の画面が、一斉に切り替わる。
そこにはアメリカ大統領、トランポニウス・J・カーンの姿が映し出されていた。
「過去に教育された国が、再教育を必要としたことが、実に悲劇だ。
Good night, Japan.」
その直後。
夜が、昼になった。
白い閃光が、すべてを包んだ。
広島の空も、東京の空も、真昼のように光り、次の瞬間、世界は無音になった。
街にはまだ、勝利の余韻が残っていた。
人々は、祝杯を上げながら信じていた。
「核を持てば、撃たれない」
それは、最初に撃たれた国が、二度目はないと信じていた、忘却の平和だった。
そして日本は、自らの“勝利”によって滅んだ。
あとがき:誰も「悪」と言えない世界で
本作に登場したトランポニウス大統領は、架空の存在です。
ですが、その発言の背景にあるものは、決して虚構ではありません。
あとがき:誰も「悪」と言えない世界で
本作に登場したトランポニウス大統領は、架空の存在です。
ですが、その発言の背景にあるものは、決して虚構ではありません。
現実のアメリカ――バイデンであれ、トランプであれ、
日本に対する“核使用”の歴史は、正当化されてきました。
それは決して、アメリカ政府の暴走だけではありません。
アメリカ本土で育った多くの人々が、原爆を“戦争を終わらせるための必要な手段”として学び、
疑問すら抱かずに大人になります。
一方、日本では「核は絶対悪」「日本は被害者」と教えられる。
そこには、事実と感情、倫理と政治、記憶と記録が交差し、
どちらか一方の“真実”で説明しきれない深い闇が横たわっています。
誰が本当に「悪」なのか。
日本か、アメリカか。それを裁ける人間は、果たしてこの世界に存在するのでしょうか。
たとえ神や仏のような存在がいたとしても、彼らは口を閉ざすでしょう。
どちらかに加担すれば、それはもはや中立でも救済でもないからです。
宗教は、戦争を止めるための力にはなり得ず、
逆に“信仰”という名のもとで民衆を操る道具となることもありました。
この物語は、そうした「誰も悪を名指しできない世界」に生きる我々自身に向けた鏡かもしれません。
日本が核を持つという選択は、単なる技術や外交ではなく、
“倫理の終わり”を意味するのかもしれない。
そう思えてならないのです。