正統なる姫君
偉い詩人は、冷たい義務の子より情熱の子が素晴らしいなんて意味のことを言っていたけれども。
(嫡子のなにが悪いのよ!)
16歳のシスレナ姫は、はしたなくも思いきり、裏庭の目隠し柳を蹴飛ばした。金の巻き毛が背中で弾む。蹴飛ばされた幹はびくともしない。高い城壁よりなお高く、城を隠す柳である。だがこの柳にはもうひとつ、名前の由来があった。
(どうせ目隠しの相手もいないわよ!)
グリンウィ建国の英雄王ウィロウがこの柳を訪れた時、柳の陰から現れた不思議な乙女に目隠しをされた。2人は運命の恋人だった。乙女の勧めでこの地に築城し、ウィロウは常勝の英雄に。国は大きくなった。
この柳の下で恋人から目隠しをされたら、男は栄華を女は夢を手に入れると言われている。
「うぇ!何やってんだよ、姫の癖に」
胴着をだらしなく着崩して、無精髭を生やした男が近づく。男は暗い赤毛を短めに刈り、薄ら笑いを浮かべている。シスレナは菫色の吊り目をますます吊り上げる。男の瞳は、夏の森に生い茂る青葉のごとく煌めいた。
「あーもう、可愛いなあ」
「無礼者!」
「シス、抱きしめていい?」
「不敬よ!」
シスレナは声を尖らせながらも、どこか笑いを含んでいる。
「何だよ、俺だって元は王子だぜ?」
「亡国の王子だなんてコッソリ名乗るより、ご自分のお国を再興してから、堂々と国王を名乗ったらよろしくてよ」
「そんときゃ、ちゃんとプロポーズするさ」
「もう、いい加減なことばっかり!」
「酷ぇな、俺は真剣なのに」
この男の名はスパイク。シスレナ姫の腹心である。表向きは、貧民上がりの衛兵に過ぎないが、姫の信頼厚い懐刀である。スパイクはあからさまなアプローチを繰り返しているが、そこはいつも躱される。
シスレナ姫は冗談だとしか思っていない。シスレナにとってスパイクは、3つ歳上の兄貴分だ。知り合ってからの日は浅いが、信頼のおける相談役である。現在の身分は違えど、軽口を叩くほどの間柄だ。また命の恩人であり、迷った時の道標とも思っている。
1年前、姫は困窮地区の視察に出かけた。町外れの荒地を通り過ぎたずっと先にある、見捨てられた人々の住処。地べたに座り睨みつけてくる、頬のこけた貧民たち。非難と敵意を剥き出しにして、窓や扉を音を立てて閉める女たち。骨と皮ばかりで道に横たわる子供たち。
「町を清潔にしなくては。家を建てる仕事を提供して、報酬に食事もつけたらいいかしらね」
護衛は5名、補佐官が3名、旗持ち1名。姫の視察にしてはかなり不用心な小集団である。王家の旗を掲げて露払いまでした小さな視察団だ。狙ってくださいと言わんばかりの有様である。
「補佐官、メモしないの?」
高級なビロードのマントを肩に掛けた補佐官は、聞こえないふりをする。シスレナ姫がギッと睨みつけると、護衛が剣を抜いた。
「危ねぇ!」
建物とも言えないような傾いた掘建小屋の陰から、がっしりした男が飛び出した。男は堅そうな赤毛を靡かせて、シスレナを抱えて走り出す。
補佐官達は護衛を3名つけて乗って来た馬車に戻り、何食わぬ顔で困窮地区を後にした。旗持ちは先触れの馬に乗り、来た道同様馬車を先導して帰る。姫君の紋章付きの豪華な馬車は空のまま城へと戻る。
残る2名の護衛は白刃を閃かせてシスレナを追う。道すがら目撃者の困窮地区住民を切り捨てて行く。
男はシスレナを抱えたまま困窮地区を抜け、荒地を過ぎて町外れに駆け込む。荷運び人夫や洗濯女たちが驚いて仕事の手を止める。石畳の路地に並ぶ、木組を見せた黄色い壁の家々は、鱗のような板屋根を戴く。
大きく跳んだ赤毛の男は、鱗屋根の上にひらりと乗った。若葉色の瞳には闘志が燃える。
「下ろしなさい!わたくしも屋根くらい走れます」
シスレナの力強い言葉に、男は目を見開く。
「礼を言う!そなたには関わりのないこと、これを持って国を出なさい」
男が巻き込まれて殺されるのを案じて、姫は亡命を勧めたのだ。シスレナ姫は指環をひとつ指から外す。しかし男は姫を下ろそうとせず、不敵に笑って屋根を走る。
眼下の敵は青筋を立てて追跡する。赤毛男は勢いよく屋根から屋根へと飛び移る。道路からでは追いつけない。シスレナと赤毛男を甘く見て追跡者を2人しか残さなかったのが、姫の側には幸いしたようだ。
しばらく逃げてから鱗屋根を降りると、今度は路地を走って水路に出る。
「ちょっと!」
「姫さん、俺に考えがある」
男はシスレナ姫を小舟に座らせ、小舟の脇にあった荷物用の粗布を被せる。
「じっとしとけ」
シスレナは無言で頷くと、粗布の下で蹲る。赤毛男は、小舟のもやい綱を解いて水路の縁を蹴る。男が巧みに操る櫂に導かれ、小舟は水路を遡る。
水路から本流の川に出て、小舟の揺れが大きくなった。それでも姫はじっと粗布の下に隠れている。真昼の太陽が暗い赤毛に照りつける。
「フッ」
男が思わず漏らす短い笑いは、夏の川風に紛れて消える。
川は草原を蛇行して、川幅を細めながら森の泉へと戻る。男は遡れる所まで小舟を進めると、岸に寄せて粗布を剥いだ。シスレナ姫は身を起こして伸びをする。随分と呑気な姫君だ。
「大した姫さんだな」
「あんなの、わたくしでも切り抜けられましたのよ。でも、ありがとうございます」
「ヘッ、川船に隠れて身じろぎもしねぇたあ、暗殺者を捌くってのも、まんざら嘘じゃあ無さそうだなぁ」
男は赤毛をかきあげて、感心したように姫を見る。よく鍛えられた男の腕は日に焼けて傷もある。手には剣ダコがあり、指は節くれだっていた。
男は姫の指に眼を止めた。姫の爪先は薬草のシミで黒ずんだ緑に染まっている。指にはペンダコがある。意志の強い菫色の瞳を覗けば、男の心は、姫と共に栄光の道を走り出したい気持ちに駆られた。
「俺はスパイク。ウルブズピークの生き残りだよ」
男は懐から宝石で飾られた短剣を取り出す。柄頭には岩山と狼の組合せ紋が刻まれていた。紋章の下には異国の文字が彫られている。
「あなた、王家の」
かつて、遠い荒野に岩城を構える小国があった。荒地に自生する貴重な薬草が狙われて、戦の絶えない国であった。幾つもの国から攻められて、ついに滅んだその国こそが、ウルブズピークだ。スパイクが見せた宝剣は、直系王族だけが持っている。
「その通りだぜ。臣下が命に変えて逃してくれた、最後の王子だ」
「この文字は?」
シスレナは柄頭に刻まれた文字に興味を示す。
「俺の名前さ。スパイクって彫ってある」
「お家再興の準備をしているの?」
「さっきまでは、そんな気無かったんだがなあ」
スパイクは困ったように赤い眉を下げる。
「姫さん見てたら気が変わった。俺も姫さんみたいに誇りを持たなきゃいけねぇな」
スパイクの声には、信念の響きが生まれた。
「そうでなきゃ、俺を生かす為に死んでった連中に顔向けできねぇ」
「そうね」
シスレナは勢いよく頷く。
「血筋に希望を繋いだ者達の忠義を裏切ってはならないわ」
「ああ、そうだな。姫さん、ありがとう」
「あら、何が?」
「あんたに会えて、生きる意味が分かったよ。あんたいい女だな」
「いやだ、大袈裟ですこと」
シスレナはおかしそうに笑う。スパイクの鼓動が速くなる。
「さて、せっかく逃して貰ったけれど、お城に帰らなくちゃね」
「私兵団作ってからの方が良いんじゃないか?」
「すぐに戻らないと、死んだことにされて戻れなくなるわ」
例え生きて城に戻っても、詐欺師として門前払いにされてしまう。それ程までにシスレナの立場は危うかった。
「なら、せめて俺が付いてくよ。視察団に丸ごと裏切られるなんざ、普通じゃねぇだろ」
「そうね」
「なあ、城に味方はいんのかよ?」
スパイクは心配そうにシスレナを見る。
「さあね」
シスレナは不貞腐れて、手近な木から葉っぱを千切る。
「わたくしに体術を教えて下さった老騎士は、ある日姿を見せなくなり」
葉っぱを擦って唇に当てると、ビーッと大きな音が出た。スパイクは目を丸くする。
「薬草の手解きをして下さった庭師は、王妃毒殺の廉で、淋しい岸辺で縛り首」
「おい、毒殺たぁ穏やかじゃねぇな」
「あら、ご存知ないの?困窮地区では今日を生きながらえることにすら興味がないと聞くけれど、本当でしたのね」
姫は澄んだ声に悔しさを滲ませる。母が毒殺されたことにも、生きる気力が無い国民のことにも、自分の力が及ばないことが口惜しい。
「いつの事だい」
「母上が殺されて2年になるわ」
年若い姫は毅然と答える。スパイクはその凛々しい姿に惚れ惚れとする。
「父上は病に倒れ、城は愛妾ココ・マリ=グラン侯爵夫人に掌握されてるわ」
姫には、諦めの色がない。
「愛妾とその息子が贅沢に暮らし、サロンを開いて身分の高い男も女も異国の民までも動かしている」
金色のたおやかな眉を寄せつつも、怒りを抑えて淡々と語る。
愛妾のサロンは珍しいもので満ちている。宝石のように煌めく氷菓子、柔らかな絹、虹色の貝で異国の花を描く手箱。
山を越えてもたらされた黄色い果実を薄く切り、大海原の向こうから届いた艶やかな塩を振る。最高級の牛脂を塗った焼きたてのパンにそれを乗せて、香り高い紅茶とともに供する。
時には遠国の楽器を楽しみ、或いは旅の語り部を呼ぶ。五感を楽しませる催しを、愛妾は計算され尽くした仕草で取り仕切るのだ。
「世継ぎであるわたくしを表面上は立て、愛妾ココ・マリ=グラン侯爵夫人は言葉巧みに大臣たちを味方につけておりますの。大臣を操って上手に減らした公費で、わたくしを動きづらくしてくるのよ」
姫はまた一枚、葉っぱを千切る。そして、古い古い滅びた国を歌う哀歌を一節吹いた。それはウルブズピークのことではない。だがスパイクは、今や瓦礫と化した故郷の城に思いを馳せる。
「愛妾グラン侯爵夫人の口出しで無駄に増やされた手続きを待つ間、ドレスは身体に合わなくなるし、行政改革は既に不要となった頃に認可される」
無能の世継ぎ、次期女王としての威厳も保てず服装には気を遣わない怠惰で傲慢な女。それがシスレナの評判である。
「愛妾ココは、困窮地区を放置して、人足にさえ身分の奢りを与えてるのよ。踏みつけるものを用意することで自尊心を与えているなんて、卑劣だわ」
スパイクは、健気に踏み締めるシスレナ姫の小さな靴をじっと見る。抱きしめたい衝動をぐっと堪えているのだ。
「俺がこの国に流れ着いたのは半月前だ。すまねぇ、お国のことはまだ知らなくてな。言葉を覚えんので精一杯だ」
「ええっ、随分と流暢な下町言葉だけれど」
「旅暮らしだからな、言葉を覚えんのは得意だぜ」
「凄いわね」
姫は感心して溜息をつく。
「そんなやべぇ城で独りきりで闘ってる姫様のほうが、よっぽど凄ぇよ」
スパイクは励ますような笑顔を作る。シスレナはその笑顔が頼もしいものに見えた。
「自分の命だって危ねぇのに、貧民のことまで守ろうとしてさ」
スパイクの瞳に尊敬と愛しさが宿る。姫はなんだか居心地が悪くなる。その眼差しの意味は知らない。愛を誓うまっすぐな男女を見たことが無かったからだ。打算や欲望の視線を交わすものたちは、嫌というほど目にして来た。だが、本物の気持ちの篭った眼差しは知らないままで育ったのだ。
城町を囲む城壁内まで小舟で戻った2人は、夕刻になり王城に戻る。
「止まれ、王城であるぞ」
シスレナは紋章付きの指環を見せる。王家の柳を表す緑地に、白い雫と紫色のアザミ文様が描かれた「涙薊」と名付けられた紋である。
「怪しいやつ!どこでそれを」
王家の姫が徒歩でゴロツキのような風体の男と帰城するとは、門衛には想像が出来ないことだった。常日頃、姫の顔をまじまじと見ることもなく、顔を見たとて本人とは思わない。
紋章付きの馬車や、馬の腹に垂らす紋入りの布、それからお供の背負う紋章が見えなくなれば、姫の顔を見ていたとしても気づかなくなる。
シスレナが口を開きかけた時、門衛は急に下がって脇に控えた。
「お通り下さい!」
門を通って、姫は広大な敷地を歩き出す。
「遠いな。借りるぜ」
「はっ!どうぞお使い下さい!」
スパイクは門衛の詰所から伝令用の馬を容易く借りた。二人乗りで進む馬の背で、シスレナが不思議そうに小声で問う。
「スパイク、これは一体どういうことなの」
スパイクはニヤリと笑って囁き返す。
「邪心の無いものだけを助ける魔法さ」
「ほんとかしら?」
「いざって時しか使えねぇ奥の手なんだぜ」
「まあ」
シスレナは愉快そうに忍び笑いを漏らす。スパイクは、新緑の瞳に弾む心を滲ませる。
「ねえ、スパイクは顔を見られているけど」
城の中に留まっては、裏切った護衛に命を狙われるに違いない。
「今更何言ってやがんだよ。我が身が可愛いけりゃあ城まで来るか」
こそこそと言葉を交わすうち、2人はようやく城の入り口に着く。城では、姫が暴漢に襲われて行方不明だとされていた。スパイクは姫を暴漢から救った功績で、衛兵として採用された。出自を隠した流浪の貧民である。連れてきたのは失脚寸前の姫君だ。城勤めになるだけでも大金星であった。
そして今、1年が立ち、伝説の柳の下で不満を爆発させるシスレナだった。陰から支えるスパイクは、姫の地盤を固めつつ、滅びた自国の生き残りを探す。戦の火種となった貴重な薬草は、戦火のせいで結局絶えたと言われている。その薬草は現在幻の妙薬となっている。
「これ、なんだか解るか?」
「え、どうして?これ、イワヤマオオカミソウ」
シスレナは思わずその名を口にして、はっと口を手で覆う。スパイクはその仕草に胸を高鳴らせ、姫の薬草知識には尊敬の念を深める。
「流石だぜ。こんな稀少な植物を一目で見分けるたぁな」
スパイクが取り出したのは、蝋紙に包まれた枯れ草である。
「ウルブズピークの様子を知らせてくれる奴がいんのさ」
1年間必死に情報網を作り、スパイクは故郷にこの薬草が残っていることを突き止めた。
「これさえありゃあ、陛下の病気も快癒するだろうぜ」
「でも」
シスレナは顔を曇らせる。
「治ったところで、愛妾ココ・マリ=グラン侯爵夫人の権力を削ぐことは出来ないわ」
「シスが提出した書類、無駄な手続きの決まりごと、全部写しは取ってあるだろ?」
「ええ。それを見た良識ある貴族は、陰で助けてはくれるけども」
「外国の力を引き込むのは、グラン侯爵夫人一派だけじゃないんだぜ?」
スパイクは悪戯を企む少年のように笑う。シスレナの心がさざめいた。
「ウルブズピーク再興の道は、グリンウィの悪政を正す道でもあるのさ」
スパイクが旅の途中で知り合った人々の中には、豪商になった者やお忍びの大貴族もいた。そうした諸国の有力者に状況を知らせ、幻の妙薬を切り札として味方につけた。
海をも越える大商団を取り込んだスパイクの勢力は、グラン侯爵夫人一派の資金源をジワジワと潰して行く。まだその時ではないが、時が来れば一気に仕掛けるつもりである。
「その草なあ、修行を積んだウルブズピークの嫡流以外が扱ったって、ただの珍しい草なんだぜ?」
スパイクは得意そうに歯を剥き出す。
「嫡流が自分の宝剣を使って正しい手順で準備してこそ、万能の霊薬になるのさ」
愛妾と手を結んだ国々へと挑む手札は、抜かりなく揃いつつあるようだ。シスレナの国政への意気込みも、順調に諸外国へ広められている。
「本当に切り札ね」
「使わねえのか?」
「父上はわたくしの味方ではないわよ」
苦々しい表情のシスレナを抱きしめることも出来ず、スパイクもまた苦い顔をした。
「今日も薬草園か?」
「ええ、これから行くわ」
シスレナの奮闘で、困窮地区は次第に町の体裁を整えた。1年前の訪問で目撃者が大量に消されたため、人口は半分くらいに減ってしまったが。その後の襲撃は返り討ちにして、住民への被害はなんとか防いでいる。
困窮地区を開墾して、シスレナは自分の名を冠した薬草園を作った。貧民を中心に根気のあるスタッフを育て、掃除や運搬などの単純作業員も募集した。
勿論、毎日のように妨害が行われた。愛妾ココ・マリ=グラン侯爵夫人のやり口は定番なだけに尻尾を掴みにくい。サロンで何気ない一言を溢すだけだ。
先ずは崇拝者からの噂を待つ。
「困窮地区に貧民が集まって何かしているのですって。恐ろしいですわねえ」
誰かが口にしたらば、あとはさりげなく同調するだけだ。
「まあ、噂はいけませんよ?あの町はシスレナ王太女様が自ら心を注いでらっしゃいますのよ」
つまり、シスレナがごろつきを集めている、という印象操作なのである。言葉だけならシスレナ派と思われる言い方なのだ。発言のタイミングと、発言の場さえ間違えなければ、あとは崇拝者が勝手に過激な行動を取る。
しかし、シスレナはシスレナで、迫害されているのをいいことに毎日のように困窮地区へと出かけてゆく。スパイクが厳選した衛兵や、町に埋もれていた才能ある剣士たちが、既に強力なシスレナ直属部隊になって付き従った。
目隠し柳を蹴飛ばした日の午後、シスレナが薬草園で皆と一緒に作業をしている時のこと。突然あちこちから草の蔓が伸び出した。あれよあれよと言う間に膨らんだ蕾のようなものが蔓を覆う。
「口を覆って走れ!出来るだけ遠く!」
蕾に似た緑色の膨らみが次々と弾けると、真っ白な煙が噴き出した。シスレナの叫びで、作業員は薬草園から離れてゆく。足の遅い者はシスレナの護衛が抱えて走る。シスレナは首にかけていた虫除けの布で口を覆って、蔓を引きちぎりながら薬草園を駆け回る。
「スタッフにスパイがいるんすね!」
「解らない。薬草園には囲いもないし、夜なら誰でも入れます」
逃げずに手伝う助手が短絡的な意見を言えば、シスレナは直ちに嗜める。
「それより早く逃げなさいっ。私は対処法を知っていますから気にせず逃げるのよ!」
「しかしっ」
「あなた、対処法ご存知?」
「あ、いえ、この草は何ですか」
「ほら!早く逃げて」
後ろ髪を引かれながらも、助手はなんとか走り去る。視界がどんどん悪くなる。護衛たちには、転んだり遅れたりしたスタッフを助けることを優先させる。この植物を取り除くには蔓だけを断ち切る必要がある。説明をする時間がなくて、足手まといは総て逃した。
これは、魔法植物なのだ。煙を吸い込めば幻覚症状が出る。力任せに蔓を引っ張れば、根やら、煙を吐き出す「煙袋」と呼ばれる部分やらを傷つける。すると今度は、煙ではなく灼熱の鉄球が飛び出してくるのだ。
そうなれば辺りは火の海となる。その火に焼かれた蔓草自身は更に増殖を繰り返してしまう。そこから上がる煙もまた、幻覚症状を引き起こす。
「しゃらくさい!」
シスレナは、腰に下げた汗拭き布を素早く外して振り回す。煙の中から飛んでくるナイフを布で的確に捌いてゆく。幻覚ではない。これは本物の鋭いナイフだ。その攻撃を無駄にはせずに、弾いたナイフで魔法植物の蔓を断つ。
「ハッ!」
背後から羽交締めを試みる暴漢は、飛び退きざまに布で打つ。両側から飛び出す細身の刺突剣は、素早く絡めてはたき落とす。布は多少切り込みが入るだけ。掴みかかる腕を躱して作業路にあるロープを手に取ると、飛び蹴りで襲いかかってくるならず者の脚を縛る。残りのロープと汗拭き布で、合計10人ほどの襲撃者を撃退した。
シスレナは蔓を断ち、暴漢を縛りながら煙の中から逃れ出た。目がまだ慣れない。何かが突進してくる。咄嗟に振り下ろす汗拭き布が掴まれて、シスレナはバスンと音を立ててその何かにぶつかる。
同時にぎゅうと逞しい腕に抱かれる。激しい鼓動が耳に響いた。シスレナは絶対的な安心感に涙が浮かぶ。
「シス!シスレナっ!」
「むー!」
シスレナが暴れると少し腕が緩む。
「スパイク!ばかっ!逃げるのよ!煙っ」
「あっ、ごめんっ」
シスレナの指摘でスパイクは、出会った時のように姫を抱えて走り出す。
「ええっ、下ろしてぇー!」
抗議は無視して、スパイクは風のように走る。親が子供を抱くように、膝裏に片腕を通し、もう片方の腕で背中を抱き込み、大きな掌で首から後ろ頭を支える。非常に安定してはいるのだが、煙から逃げ切る自信があるシスレナにとっては屈辱だ。
城まで戻ると、中立の衛兵を引き連れて現場にとって返す。しかし縛っておいた暴漢は、無惨に斬り殺されていた。幸い、姫の直属部隊は避難に徹して剣を抜いていなかった。さらに幸運なことには、たまたまシスレナの薬草園へと向かっていた薬種問屋の一団がそれを証言してくれたのだ。
犯人は捕まらなかったが、シスレナ派の犯罪にはされずに済んだ。しかし、薬草園は一からやり直し。興味を持って見に来てくれた薬種問屋は、また来年見に来ますと社交辞令を残して去った。
だがいまや、シスレナは困窮地区の女神である。愛妾ココ・マリ=グラン侯爵夫人は、困窮まではゆかずとも貧しい一家の出身である。だが、上昇志向が人並み外れていた。
それゆえの、優位に立ちたいという人間の欲求を利用した政略だった。自分自身が周囲を蹴落とし、上の者に取り入って身分を得たのだ。貧民から平民へ、平民から弱小貴族へ、老若男女を味方に抱き込みのし上がった。
ついには国王が表立っての愛妾とする為に、侯爵に娶せ高い身分を与えた。それに勢いを得たココは、崇拝者を誘導して血塗られた権勢を誇る。彼女にとって、人道主義を夢物語に終わらせないというシスレナの強い信念は脅威であった。
一旦事態が収束し、薬草園跡地を片付けていると、スパイクがシスレナの隣に寄ってきた。
「シス、無茶すんな」
「無茶って?」
「まずはシスも逃げろよ」
「そしたらあの草、増殖したわよ。すごいスピードで増えるんだから。放っておいたら、今頃お城も覆われてるわね」
シスレナは厳しい顔をする。
「愛妾のやつ、解ってたのか?」
「さあね」
何処まで狙っていたのか。この国を牛耳りたいだけなのか。外国のスパイで、このグリンウィを滅ぼしに来たのか。
「どのみち、わたくしを犯人にするつもりだったのでしょ」
「シス、魔法が必要なら俺を呼べ」
「ありがとう。でも、対処出来たから」
「何言ってんだ!暗殺者まで来たじゃねえか!」
スパイクは泣きそうな顔をする。
「あら、ちゃんと生き延びたでしょ?」
シスレナは菫色の瞳を悪戯そうに煌めかす。
「シス、困窮地区のみんなを連れて、ウルブズピークに来いよ」
スパイクは真剣に申し出る。
「以前の荒野の小国じゃねえ。場所は変わんねえが、大国の大貴族も、大商人も仲間にいる。見つけた生き残りは僅か5人とその新しい家族だけなんだが、他の国から移り住んで開墾したいって奴もいるんだ」
シスレナは少しだけ考える。現在のウルブズピーク跡地は、絶え間ない戦争の結果、不毛の荒野となっている。元から岩だらけの荒地国家だった。しかし、戦で僅かな資源まで根絶やしにされた。戦勝国にまで見捨てられて放置されている。
「薬草園には、ほんの幾人かだけど困窮地区以外からも来てくれてるわ」
答えを口に出す薊の姫は、紋章にある涙など無縁なようにキッパリと言い切る。
「下を踏みつけて満足する王家なんて、いずれ立ち行かなくなるわよ。民はそうそう言うことなんか聞きゃしないのよ」
その瞳に燃える熱情が、スパイクに誇りを取り戻させてくれたのだ。1年前のあの森を、スパイクは鮮明に思い出す。
「そりゃそうだけどよ、飢え死にするやつがいなくなる前に、シスが死んじまうぜ」
スパイクの声に必死さが滲む。
「わたくし、逃げないわよ!わたくしは、正統な世継ぎの姫なのですもの!」
スパイクは、もう想いを抑えることが出来なかった。愛する姫が、断崖を背に老獪な女狐と命のやりとりをしている。姫の理想は尊敬するが、はらはらして生きた心地がしないのだ。
「シス!シスレナ!グリンウィの世継ぎシスレナ姫」
スパイクは、張り裂けそうな胸から声を絞り出す。
「愛しているんだ!シスを失ったら、俺はどうしたらいい?また、死なないだけの毎日を過ごせって言うのかよ!」
シスレナは驚いて息を呑む。
「え?スパイク」
今までのアプローチを冗談だと思っていたシスレナではあるが、流石にこれは思い違いのしようがない。
「どうしましょう。気づかなくってごめんなさい。でも、わたくし、民を残して去ることは出来ない」
菫色の瞳には、揺るぎない民への想いが燃える。
その時、スパイクは悟った。スパイクが愛したのは、この姫だ。強く気高く、恐れず進む清廉な姫だ。貧民街の更に外れで独り立つ姫だ。母の仇打ちを果たすのは勿論、なおそれよりも高く、全ての民を愛し寄り添う姫だ。
その中には、狡猾な愛妾グラン侯爵夫人その人さえもが含まれているかも知れない。シスレナは、計り知れない神王の器を持っていた。
「姫」
スパイクは思わず跪く。暗い赤毛を夕風が撫でてゆく。彼の国も、数年のうちに復興するだろう。城も再び建つだろう。だが、姫と離れたらその人生に意味はない。どちらかを選ぶなどできない。スパイクはもう迷わなかった。
姫の菫色を、亡国の王子は若葉の色で染めてゆく。
「愛しております。わが真心をお捧げする栄誉をどうかお与えくださいませ」
「無理だわ。貴方は国を再興して王になる。私は、この国に留まり女王となる。共に生きることは出来ないでしょう?わたくし、未来のない恋はいらない」
「違う!続き聞けよ!」
スパイクは再び立ち上がると、姫の手を取り訴える。
「初めの子供はグリンウィの世継ぎに、次の子供はウルブズピークの跡取りに、2人で2つの国を統べよう」
「スパイク、わたくし」
「解ってるさ、今は兄貴みたいにしか見てくれてないんだろ?でもなあ、俺は、出会ったあの日から、シスの気高い魂にずっと焦がれているんだよ」
情熱的な眼差しに、姫の心も走り出す。スパイクは頼もしく、一途で、人の心をたやすく掴む。不思議な魔法の力まで持っている。
「どうしましょう、ああ、どうしましょう」
戸惑い赤くなる姫を、スパイクは優しく包み込む。
「ゆっくりでいいよ。俺が悪かった。焦りすぎたよ」
「違うの!違うのよ、ああ、わたくし、解らなかったの」
姫の手指は、土と薬草で汚れている。ペンダコどころか、最近では拳ダコまで出来ている。きつい吊り目で主張の強い黄金の巻き毛。見た目からして謗られてきた。姫は愛を知らなかった。愛されたことがなかったから。姫は「冷たい義務の子」だから。
「スパイクといると、勇気が出るの。側に来てくださると安心するの。だけど時々胸が苦しくて、なんだか気まずくなっちゃうの」
「シス、それは」
「ええ、嫌だわ、どうしましょう、ねえ、スパイク、わたくしどうしたらいいの?」
シスレナ姫は愛を知った。深く優しく愛されたから。
スパイクは暗い赤毛の無精髭をじょりじょり撫でて、ニヤリと笑う。
「そんなの。縁を結べばいいのさ」
「ご縁を?」
「この先2人で」
「ふたつの国を?」
「そうだよ、共に生きよう」
「共に」
シスレナの眼に涙が浮かぶ。我知らず恋を育てた殿方と、心を通わせたのだと気づき胸がいっぱいになってしまった。スパイクは微笑んで、共に馬車に乗って城へと帰る。貧民上がりのだらしない衛兵と世継ぎの姫が同じ馬車に乗るなどあり得ないのだが、そこはスパイクの魔法で誰も疑問に思わない。
城に到着して馬車を降りると、2人は手を繋ぎ、目隠し柳の元に来た。
「ねえスパイク、目隠し柳の伝説をご存知?」
「目隠し柳?」
「この柳はね、お城の目隠しなんだけど、もうひとつ、名前の意味があるのよ」
シスレナは、愛妾とその息子に何かしてやられるたびにこの柳を蹴飛ばしにくる。スパイクはよくその姿を見かける。その様子は、可愛らしくて好きなのだ。勿論やられるのは腹立たしいので、その度に何かしら仕返しはする。
「ああ、シスがいつも蹴っ飛ばしてる柳か」
「やあねえ、いつもじゃないわ!」
スパイクはニヤニヤしながら、さりげなく繋いだ手をひいた。柳の下で、分厚い胸に金の巻き毛が寄りかかる。
「とにかく!」
シスレナは首まで朱に染めて続ける。
「この柳の下で、恋人同士が目隠しをすれば、男は栄華を、女は夢を手に入れるのよ」
聞くなりスパイクは、シスレナの菫色の瞳を大きな傷だらけの手で塞ぐ。反対の腕は、シスレナを背後から抱き締める。
「シスに夢を手に入れさせてやる!」
「ふふっ、ちょっと違うのよ」
「違うって何がだよ?」
「一回放して」
「おう」
シスレナは逞しい腕の下から抜け出して、スパイクの正面に向き合う。
「もう少しかがんでくれる?」
姫のリクエストに、亡国の王子は素直に従う。
「じゃ、指先を空に向けて、片手で片目ずつ、相手の両眼を塞ぐわよ」
スパイクの手は大きくて、うんと指を窄めなければシスレナの片目ずつを隠すことが出来なかった。2人はそれが可笑しくて、くすくす笑いながら互いに目隠しをした。
「次はどうするんだ?」
「柳の乙女にちなんで、女性から男性に名前を尋ねて互いに名乗るの」
「わかった」
2人は口を閉じる。さやさやと葉擦れの音がする。バッタの跳ねるかすかな音や、てんとう虫が飛び立つ音が聞こえてくる。互いの手の熱がそれぞれの顔を覆って、2人は恥ずかしくて仕方がない。
しばし静寂を楽しんだ後、古式に乗っ取り、2人は仰々しい問答を交わす。
「我が名はグリンウィのシスレナ、世継ぎの姫にてございます。して、何方より来たりし如何なるお方ぞ、柳の客人よ?」
目隠しのまま姫の爽やかな高音が問えば、深く雄々しい亡国の王子の低音が応える。
「遥か荒地の岩城より参上いたしましたるは亡国の王子、ウルブズピークのスパイクとぞ申す者なり」
2人の髪にそよ風が戯れる。
「ウルブズピークのスパイク王子様」
そっと、シスレナの唇が動く。
「グリンウィのシスレナ姫様」
スパイクが声を潜めて名前を紡ぐ。
高く晴れ渡る空にのんびりと雲は流れる。荒涼とした毒蛇の腹の中とも見える城の、その裏庭でしばし穏やかな時が流れる。スパイクは、目隠しを解くと姫を正面から掻き抱く。
「やっと通じた」
その顔は喜びに輝いている。暗い赤毛の無精髭まで、踊り出すかのようである。見上げる姫は、恥ずかしそうにクスリと笑う。
「シス!」
満面の笑みで姫の名を呼び、亡国の王子は口付けを落とす。穢れを知らないふたつの唇は、そうなることが当然のように、優しく甘く触れ合った。
どちらも初めて知る感触に戸惑い、離れた後は困ったような視線を交わす。
胸の疼きを誤魔化すように、スパイクは真面目な話を始める。
「準備を進めちゃあいるが、愛妾のやつはしぶとそうだぜ」
しかしシスレナは飄々と答える。
「粘っていれば、先にあちらの寿命が尽きるわよ」
「ハハッ、あいつもシスには敵わねぇだろうな」
「何よ?どういうこと?」
スパイクは再び跪いて、シスレナのシミとタコだらけの指先に唇で触れる。
「青い柳の薊の姫よ、我が導きの星、我が命、我が魂のよりどころ、わが永劫の伴侶となって下さい」
シスレナは、若葉色の瞳に焼かれる心地がした。
「猛き荒地の狼の剣よ、闇き夜の道標、わが憩い、わが心の悦びよ、永久の旅路を共に歩まん」
シスレナが屈むと、巻き毛が滝のようにスパイクに流れ落ちる。幸せそうに金色の中に埋もれた赤毛の人は、腕を伸ばして姫の頭を抱き寄せる。スパイクの荒れた指が黄金の滝を泳ぐ。信頼と確かな愛に溶けあう吐息は、2人の魂を満たしてゆく。
こうして愛を知らない姫が愛を得て、誇りを忘れた王子は誇りを取り戻した。
後の世に旅の詩人が謡うのは、この姫のことなのだとか。
薊よ薊、荒野に独り
尊く清く、その紫に
朝露光る
涙一粒、柳の陰に
薊よ薊、慕いてふたり
優しくとわに、その紫に
夜露の宿る
涙一粒、柳のしとね