初夏の訪問
私は幼い頃から乗り物酔いがひどく、いつも遠出をすれば迷惑をかけた。隣県の親戚が亡くなったとき、急ぎたいのに顔色の悪い私を見て舌打ちをする父の表情は今も憶えている。大人になった今でも、酔い止めは必ず常備していた。その日は運悪く、使い慣れない鞄に荷物を入れ替えたので、部屋に置き忘れてしまったのだ。
「真子、水飲むか」
「ごめん。もらう。」
すっかり座席に染みついた重々しい上半身を持ち上げる。ぬるくなった天然水は、喉をすっきりさせるでもなくたぷんと体内に落ちていった。さっきから道が悪いのか何度も細かに車体が揺れて、そのたびに気持ち悪さがこみ上げて来る。車窓からはビル街ではなく、見慣れない緑が光をめいいっぱいに受けてそよいでいた。
「ここは」
「国道抜けて、山道はいったとこ もうすぐ着くよ」
信司は私と正反対だった。考えるより先に行動するタイプで、自発的に動く彼の周りにはいつも大勢の人がいた。私は誰かと群れるのが苦手で、教室の隅でひっそりと文献に向き合っているような女だった。彼が太陽なら、私は鈍臭くのろまな池の亀だ。
「さっきより顔色いいね。よかった。でも、ウチに着いたら少し休もう。涼子さんが布団用意してくれてるから。」
おかしなことに、私と彼は今付き合っている。しかも、彼の育ての親にご挨拶に来るほど関係は密になっていた。だからこそ、車酔いなんかで彼の顔を曇らせたくなかった。
彼の実家は、私の親戚の家と似て大きな庭があった。綺麗に手入れされた花壇のよこには木製のウェルカムボードが掲げられ、日本家屋との相性の悪さが生活感を醸し出している。
「涼子さん ただいま~」
信司はインターフォンを鳴らすでもなく、遠慮もなしに扉を開ける。「はぁい」と、少し間延びした声と、パタパタとスリッパの急ぐ音が近づく。
「あらまぁ どうも。涼子です。」
「あ、あの、はじめまして、瓶井真子と申します。本日は」
「涼子さん、布団敷いてくれてるんだよね?」
「そうよぉ 具合悪いなんて連絡来るからびっくりしちゃった。
真子さん。とりあえずどうぞ入って、少し休みなさい」
爛々とした大きな目の輝きがまるで少女のような人だ。しかし、普段から着ているのであろう落ち着いた藤色の着物や、一つ一つの丁寧な所作から大人の女性らしさが見て取れる。「ご婦人」という言葉がしっくりくるような印象だった。
「ごめんなさい、いきなりご迷惑をおかけして」
「いいのよ 少し休んだら、きっと楽になるわ。空気がいいもの、ここは」
信司に用意してきた「つまらないモノ」を手渡すと、涼子さんの手に支えられながら玄関のすぐそばにある和室へと導かれる。不思議なことに用意された梅の柄の敷き布団には見覚えがあった。回らない頭では、何時どこで見たのか見当もつかないが。
「服もしわが付いたらいやでしょう。私のお古だけど、これを着たらいいわ。今の若い人に着慣れないかも知れないけど」
涼子さんはテキパキと持ってきた荷物を家に運びながら、流れるように和室の障子をすべて塞ぎ、絹の着物のような寝間着を布団のそばへと置いた。さながら、旅館の女将のようだ。
「本当にすみません。何から何までお世話になってしまって。」
「いいのよ、本当に ゆっくり休んだら話を聞かせてちょうだい。信司君が女の子を連れてくるなんて、はじめてなんだから。ごめんなさいね、ワクワクしちゃって」
「涼子さん、今は休ませてあげてってば」
あらいけない、と身を引く姿はまるで触っちゃ駄目と怒られた子供のようだ。
信司の無邪気な仕草はこの人譲りなのだろう。
「じゃあ、ゆっくりね」
「何かあったら声かけて。俺たちは反対側の部屋にいるから」
静かに障子を閉じると、すぐそばでぱたんと扉の閉まる音がした。反対側、というのは恐らく居間なのだろう。息を潜めれば、二人の声と風に揺れて軽やかに踊る風鈴の音が聞こえる。
本当に空気がいい。少しずつ気分が軽くなるのを感じながら寝間着に腕を通せば、やっと視界が明るくなった気がする。よくよく見れば涼子さんの趣味であろう水彩の花が丁寧に貼られ、ふすまの上には額に入った賞状が並んでいる。布団に寝転び、真上の木目を眺めていたら信司のとも違う、「日比野」家の香りが気になった。
広く、懐かしく、静かな。彼はここで育ったのだ。ぼーっとそんなことを考えていれば、ゆっくりと意識が落ちていく。まぶたを閉じる前に目に入ったのは障子に写る木の葉の影。私はそれを見て、なぜか中学生の夏を思い出していた。




