風景画
暗い過去が渓谷に広がる闇と重なり分厚く、五月雨が項垂れた藤の花房を叩いている。紫色の花弁は昼間に出会ったときのような鮮烈さが失われていた。とても優美で繊細な造作も、漆黒の世界においてはどれほど顔を近づけていてもぼんやりと覚束ない。見えないことは、そこにないことよりも儚い。
湖畔をめぐることを唐突に心に浮かべて、表に出て面を上げると旅客のおおよそは寝入ったであろう夜半過ぎの窓に明かりは絶えていた。宴もたけなわだったから、窓の内側には酒気混じりのぬるい鼾がこびりついているに違いない。
傘はご自由にお使いください。群青の作務衣をつけた主人に促されていたものの、どうしてか他人の触れた温もりが残っているような心地がしたから、こうして髪の毛の先からしずくがぽろりと落ちていく。手のひらを胸のあたりまで、左右を合わせて皿代わりにしてみるとすぐに冷たさで満たされた。透明な液体が月の光に照らされていたが、パッと皿を割ればたちまち足元に吸いこまれた。何度か繰り返して、池の蓮の間から蛙の鳴き声がしたところでまた歩き始めた。
椚や樫のアーチは影のトンネルとなっている。道を少し逸れるだけで、より暗い闇の横たわる深みに身を委ねることができる。静かな森の茂みから間断なく可憐な旋律が漂ってくる。湖畔に潜む蛙たちを恐縮させてしまうほどの美しき音色に溢れている。聞き惚れて虜になるのは時間の問題だった。脳が甘く痺れて蕩けてくる。泥濘に膝を折られては黒々とした植物の繁茂する閾へと体が傾いた。視界は雨煙に巻かれてしまい、平衡感覚は容易に失われている。もしかすると陰鬱なアーチを逸脱して、辿るべき道を外れてしまったのではないか。真っ直ぐに歩いているつもりでも、地球の遠心力は常に働いていて、夜の従えるコリオリの法則に騙されてきた先人も少なくないと思う。
夜の手は昼間でも伸びてくることがある。白線に親指と人差し指を添える。心臓がフル稼働している。まだ早い。ピストルが鼓膜を貫いてからが本番だ。落ち着かなくてはいけないね。前日の微睡みに抗うように唱えた呪文を反芻する。大丈夫。大丈夫。大丈夫だから。腰を高く後方に突き出し、頭は低く保ったままにしておく。靴紐をきちんと結んだだろうか。胃がキリキリする。やっぱりサンドイッチでも食べればよかったのか。隣のレーンで呼吸は感じられない。風がそよいで汗をかいていることを知る。目が光ってくる。だからまぶたを降ろす。暗くなったとき、靴紐のことを考えてはいけない。食べ物のことは論外だ。白線の内側に入ったらダメなものはダメなのだ。
破裂した。二度の銃声。群衆のどよめき。数歩先に固定された影が足元から伸びている。紛れもなく影は繋がっている。この両足に繋がっていた。
去年の背中が走っていく。上半身が頼りない。周りと比べると左右に痙攣しているみたいだ。ぶれぶれなのだ。心も、体も。重りをつけるのは好きではない。でもやればやっただけ数字に現れた。時計は嘘を吐かない。体重計も正直だ。ありとあらゆる針は鏡になり得る。針の示す方角に、迷いはなかった。躊躇っている暇などないのだ。二四という基準、三六五という基準、光速は一定であるはずなのに、不可視の矢のごとく過ぎ去っていく。見えない矢なんてない。勘違いも甚だしい。一秒はきっかり一秒なのだから。でも、確認する術がないだけで、時間軸にもコリオリが作用しているとしたら、恥を雪げなかったことに因果が生じている。口には出さない。苦しさが喉につかえて出てこない。出したくても、出したくなくても、声にならない暗黒の塊が澱んで細胞膜に回帰する。夜がしみてくる。レントゲンを撮っても、多分何も写らない。
今年の残像が走っていく。上半身がたくましい。頭から腰まで揺るぎない。体幹を磨くことの難しさを超越し、失敗と成功と涙と嗚咽に裏打ちされた幻想を誰が追い抜けるというのか。大きな怪我も病気もしなかった。すべてがうまくいっていた。本当に引き金は動いていなかったのか。ちっとも。断言するともなく、穏やかな表情で虐げようとする。まじかよ。なあ、冗談だろう。おい。誰か。
真っ直ぐ走って、曲がって、また真っ直ぐ。傾いだ左半身が遠心力で浮遊する。休日の競技場で汗を流すのは日課ですか、と訊かれる。義務です。
課しているのは便宜上自分にしてある。説明するのが面倒くさいからだ。夜が抜けてくれないのです。ふざけているつもりは毛頭なくて、青い春が翳り、灰色の冬に片足を突っ込み始めたら理解も進む。
こけた頬を向かい風がそれ以上にへこませることがない。血液のポンプに健康診断で最低の烙印を捺されても、動かすべき収縮する肉の塊が少ないので問題はない。
そりゃあ始めは文句を言っていた。病院のベッドに横たわっている間に同僚たちはオフィスで会議をしたり、街の見渡せるテラスで食事をしたり。悪いことをした覚えはないのだが、神は目敏く耳敏い、世界のサイコパスランキングで毎年選ばれる百人に見事ランクインした。別にシリアルキラーがノミネートされるわけではなく、総合的に判断される。
バタフライエフェクト。鬼畜なマーダーが、廃屋に連れ込んだ美男子の陰茎を麻酔なし鈍器で昏倒なしに切断する。出血多量で彼は死ぬ。彼のスペルマも道ずれになる。仮に鬼畜なマーダーが車に跳ねられていたり、突然隕石にぶつかっていたら、美男子は生きている。生きている美男子がタチだ。ホームレスを襲う。ここでホームレスはネコだ。二人は互いに逆のベクトルの叫びを上げる。歓喜と絶望のベクトルが重ね合わされる。粘膜の内側で危険なビールスがバースする。ネコに目覚めたホームレスは夜な夜な愛を育みまぐわう。公園の区画にビールスが蔓延る。返しの付いた針で核酸を拡散する。ヤバい、ヤバいと青い鳥が囀ずるころには世界は夜に包まれる。
マーダーは正しいことをした。マーダーは救世主なのだ。
翻ってみると、義務教育を終えて、大した動機もなく姉と同じ高校を選んで、心血注いだ末に結果を出せずに不貞腐れて、無難に就職して、健診を受けて、車椅子を宣告されたことは仕方ないことだ。フライングせずにいたら、誰かを殺していたのだから。
一位になって、天狗になって、酒飲んで、カッとして、ジョッキでぽかり。両手に縄をつけられて、司法の首輪を嵌められて、塀の向こうでカッとして、看守の鍵を奪ってトンカチでぽかり。これだけでも二人死んでいる。さらに父親は仕事を辞めて借金して、母親は心労でやつれて、姉の娘は虐められて、石投げられて、ネットに住所さらされて、まだローンの残っている家のリビングで練炭が炊かれる。これで四人。姉の旦那も後を追ったら五人。
仕方ないのだ。こうなることは宇宙がビッグにバーンっと弾けたときから決まっていたのだから。神の筋書だけはコリオリの要素を反映しない。寸分の狂いもなく、こうなるったら、こうなる。
湖畔を半周すると木々のアーチを通過できる。暗がりのステップを踏襲していく。殴り付けるような雨滴に面食らう。枝葉のヴェールに守られていたらしい。少しも意識していなかった。椚の天蓋が身代わりになってくれていたことに感謝しながら潜るべきだったのだ。どうして過ぎ去ってから気づくのだろう。いつもそうだ。
水仙が岸にびっしり生えていた。池の水と地面との境界を主張するかのような、傲慢な黄色い花。とはいっても真っ暗なので、雨もごうごう降っているし、昼の景色を投影しているに過ぎない。細い葉っぱの輪郭が月に淡く暴かれる。先端が尖っている。耳に入れたら痛そうだ。
殺してほしい。ふいに聞こえた。殺してくれ。まただ。周囲を伺う。誰もいない。首を傾げる。
「たくさん練習したのにね」
「うん」
「残念だったね」
「うん」
うん製造機と化したのに、飽きずに側にいるのは変じゃないか。変なのは、気持ち悪いってことと同義だ。
「勝つことだけがすべてじゃないよ」
気持ち悪い人間は、平気で傷口を抉ろうとするのだ。傷口を抉るのはスコップだ。ドラマで死体をスコップで埋める犯人は裁きを受けた。裁きを受けるのは悪い奴だ。悪い奴はスコップを持っていた。よく見るとこいつはスコップを持っていそうな顔をしている。もはやスコップそのものだ。
「毎朝走ったじゃん。あんなに努力するなんて、できないよ。あたしはソファに寝転がってお菓子食べちゃうよ。我慢できない。凄いよ、頑張ったよ」
スコップにうんと相づちを打つ必要はない。だからうん製造を辞めた。辞めたら楽になった。走るのを辞めたときの爽快感に似ている。何でも放り投げると心地よい。白球なんか、まさしくそうだろう。でなければバット振って、ベース駆けずり回って面白いわけがないよな。手から離れていくのはいいことだ。ようやく分かった、うれしい。
「でもいつまでもくよくよするのは違うと思うな。次があるじゃない。何かに一生懸命になれるのは、それだけで才能だから、自信持ちなよ」
うるせえなあ。で喧嘩は始まる。勝手にしやがれ。で永久に別れる。一度も連絡しなかった。成人式の同窓会には出れなかった。鼻にチューブ刺さっているのを誰にも見せたくなかった。今なら鼻くそが付いていても恥ずかしくない。昔とは訳のわからないものでできている。
結婚したメンバーの名前をスクロールさせていると、スマホが震えた。落としてナースコールを押す。看護婦がスマホを使わないでくださいと言うのを、どこか異国のスラングのように思えて笑った。手から離れていったのに、爽快感に浸れなくなったのは、それからずっとだ。
湯に浸かっていると走れそうだ。アルキメデスは憎いやつだ。樋を伝って迸る熱を帯びた硫黄の匂いがする水が地底深くから汲み上げられる。あったかい湯が、この地に人を呼び、建物を拵えさせて、また人を誘い、排水溝に流れていく。毛と皮脂を融合させた物体が渦巻いて鉄の網目に蠢いている。
露天は屋根がない。屋根がないから雨に叩かれる。だから中にいる。中は濡れない。
「ふうー」
こういう人間を一番に嫌いだ。声を出すな。右足を膝まで入れて、あまりの熱さに痺れている。目は半開きである。おもむろに尻を掻いている。掻いた指で鼻を擦る。こういう仕種が一番に嫌いだ。
「ああーあああー」
タオルを浴槽に沈める。当たり前のように顔を拭いては沈めるを繰り返す。サイコパスランキング堂々の第一位。栄光の首位独走。映えあるチャンピオン。神よ、殺したまえ。
「がはあ。ひいい。ぷふう」
鼻から垂れる白い粘性のゲルの存在を見なかったことにして露天へと向かう。露天は雨ざらしだ。考え直してみれば、気持ち良さそうだ。火照った体を静めるには願ってもない。ドアを開けた刹那に顔が水浸しになる。溺れてしまう。腰が引けた。振り返ると「ぬぐううう」と鼻水が撒き散らされている。選択肢はない。
お湯と雨に挟まれていると不思議と安らいだ。本来のホモサピエンスのあるべき姿に基づいているようだ。裸で自然に絡まれる。石造りの浴槽と、星の瞬く夜空。そこには他はない。
白線もない。金属のレールもない。ピストルもない。電光掲示板もない。なーんにもない。清々しかった。
神がゴールをさせなかったのは、夜があながち悪いものでないと諭すためだったとしよう。
冷静になろう。足の大きさが違う。身長が違う。生まれた日が違う。好きな色が違う。色盲だったらなお違う。違うという概念すら違う。インプットされる情報に偏りがでる。食べてきたものが違う。遺伝子が違う。違うと思わない時点で違う。違うことしかない。
長さを決めて、時間を決めて、方法を決めて、似せて、それっぽく取り繕って、男と女って区別するから余計に誤魔化されて、そこにないはずの何かを無理矢理に作り上げて、比べて、一喜一憂して、勝者は必ず一人しかいなくて、その一人になるための努力を積み重ねて、違うってことを忘れて、忘れることに必死になって、気づいたら燃え尽きて、センスがなかったとか、タイミングが悪かったとか、あいつのせいだとか、ごたくを並べ立てて、あーあ一位になりてえと愚痴をこぼす。
でも一位は一位で、だから何なのって話で、頂点に立って、実はさらに高い場所があったり、険しい道のりが山の向こうにあるのに挫折したり、何もないことに気づいたり、その景色は一位しか知らないから、他の大多数から意味不明支離滅裂罵詈雑言を浴びせられて、死ぬまでずっと続く意味の意味を求める泥仕合にのめり込む余地しかなくなる。
雲は常に落下している。試験管に水性の絵の具を垂らしたものと基本的には同じだ。媒介するものが、空気なのか、液なのかどうかの違いしかなくって、雲は水だし、そのうちに雨と呼ばれる。雨は集落の屋根を伝って、地面を潤す。地中の根に触れて木々に蓄えられる。宿は取れ立ての野菜を振る舞ってくれたから、いつか流れた雨がキャベツの道管に含まれてて、食べて、筋肉に溜まる。走り出すときに貯蔵していた雲だったらしきものが消費される。どこにいったのか分からない。重水素でラベリングしたら面白いかも知れない。
足湯は東屋だから濡れない。木製の長椅子に腰かけると、尻がクッションになった。止めどなく流れる体温の水が歩いてきた道のりの長さを感じさせる。藤の花を摘まんで持ってきていた。白い部分は丸みを帯びていて、紫の輪郭が外周に及ぶごとに濃くなっている。提灯のお陰で、色を識別することができた。靴のまま浸かっても怒られまいと、夜の高揚と結託しかけたのだが、常識が残っていたからやめた。素足は失われた温度を取り返そうとするあまり、酷く火傷をしたように痺れた。
急激な変化には、物事は追いつかないばかりか、それを打ち消す方向に作用したがる。
フィールドに背を向けて、幾度も死のうと画策してみた。河川に沿って歩いていると、丁度良さそうな林があって、ずんずん進んでいくのに、実は奥には空き地が広がっていて、子どもたちが笑顔でかけっこしている。
睡眠薬をたっぷり飲んで、テーブルのコップを薙ぎ倒しフローリングにうつ伏せになっている間に、夢を見た。
白線が引いてあって、親指と人差し指を添える。位置について尻を上げている。このときは頭の中がやけにクリアだ。ピストルに反射した上体が低いポジションを保ったまま、腕を振り始める。視界には自分の影だけが転がっている。脈動に励まされた両足によって推進力が生まれる。首も胸も何もかもぶれない。追いつかれるどころか、横並びから徐々に差は広がるばかりだ。
目が覚めたときには忘れてしまうのに、その日の仕事が妙に捗ってしまう。折角書いた辞職の文章がメールボックスに山積されていく。夢など見なければ、ワンクリックするだけでいとも容易く社会と隔絶されるのに、思い通りにいかない。
神は何を目論んでいるのだろうか。
勝てなかった人間が、輝ける場所を失ったのに、だらだらと生かされている。くだらない日常に埋没していくだけと分かっているのに、終わることを許されない。死ねないのは、死ぬ勇気が足りないからだ。死ぬ方向に駆け出すと、生き残る道に曲げられるし、コリオリの力は無情だと改めて感心する。
足首を湯から外すと、真っ赤な靴下を召したように滑稽だった。この足が負けた足だ。赤く火照った爪先を凝視する目は敗者の瞳だ。お湯の湧き出る音を捉えて、ピストルの幻聴を訊いたのは残念な耳だ。
欠陥だらけの心臓と、薄くなってきた毛髪と、たるんだ肉と皮膚におおわれた獣じみた不可解な生存。きっと山中に放たれた自分のような命をもののけとかあやかしと呼ぶのだろう。
まだまだ夜は明けそうにない。宿に戻る道にはもう草花や蔦はなくって、街路樹だけが続いている。理路整然と植えた誰かによって象られた道だ。温泉もそうだ。源泉のままでは熱いし、毎度縦走してまで入りたいかと聞かれれば、そうではない。何者かが灌漑して、樋を渡してくれて始めて味わえる至福のときを忘れてしまうのか、そもそも考えてすらいないのか。スタートダッシュをし損ねたからこそ心に浮かぶここにいない数々の偉人たちの功績が、だから何なのか、やっぱりどうでもいいことだ。
葉っぱの滴が街灯に煌めいて、そこここに降る雨を緩和している。窓には明かりがついていなくて、寝静まっているらしかった。軒下に体を滑り込ませると、いかに猛烈であったかを傍観できる。屋根を境に降る世界を眺める。すると傘をさした女がやって来た。同じ旅人だろうか。会釈する。近寄ってきた女は、軒下には入らずに傘をさしたまま向かい合う。
「どうしました。こんな夜分に」
自分で言うのも可笑しかった。相手も似たような問いを脳裏に浮かべていたことだから。女はしばらく立ち止まっていた。それから踵を返して歩き始めた。どうしてか、追わねばならない衝動にかられて、いっそう強くなった雨足の渦中に飛び込む。
肩を並べることは憚られて、半歩下がってついていく。浴衣をつけている女の肌は輪郭が露になっていた。鎖骨は丸見えで、慎ましやかな胸の膨らみも雨に押し付けられれば艶かしく、腰のほっそりとしたラインが思わず手を伸ばしたくなるほどに流麗だった。
傘の柄を掴む手首には、深い裂傷が斜めに走っていた。勢いよく刃物を引いたようだ。治っているかのようでいて、ぱっくり開いたところには赤い脈動はなく、空洞がたむろしている。
心を奪われていて、見つめられていることに気づかなかった。黒く淀んだ眼差しに、足湯の蓄熱が失われていることが認識させられた。
曲がりくねる坂道を二人で登っていく。太ももが熱を帯びて、息が苦しくなってくる。そのうちに汗さえかかなくなってくる。夜の雨は冷ややかにしとしとだ。真っ暗な森へと踏み込んでいく。轍があるから未踏ではない。茂みに足をとられる。木立の間隙から宿の明かりが遠退いていくのが分かった。
女の話は突然に始まった。雨垂れの飛沫が重なって、よく聞こえない。耳を済ませる。敗者の耳を傾ける。
女は何をしにやって来たのか分からないという。いつの間にやらこの地にいて、探しているものがある。とても大切なものらしいので、一緒に探すことにした。でもそれが何かは思い出せない。時間が逆上がりしたように、濃密な暗黒が辺りを包む。辛うじて女の手首だけが視認できるものの、木々の幹、足元の泥濘に至るまで、あらゆる景色が混濁していた。迷わないように森林をさすらう。
暗闇に漂流するのは初めてではないが、誰かといるのは経験したことがない。
心細いので、こちらから話しかける。
毎年ね、大会があったんですよ。ただ走るだけなんですけどね。優秀な成績を収めると、地区の代表に選出されるんですね。それになりたくて、頑張ったんです。小さな頃は、走るのが好きで、得意だと思ってました。実際速かったんですよ。同級生に負けないくらいに。楽しかったって記憶してるんですけどね。そもそも楽しいって何なのか、この年になって分からなくなってね。結局楽しくなかったんじゃないかと、今では錯覚してます。
高校生くらいになると、みんな強いんですよ。色んな、それこそ全国津々浦々からやって来る運動神経の塊。走るのが好きだったのに、自分よりも速いやつがいたら、好きって言い張るのは、もう、なんか、ギャグじゃないですか。
ハハッと笑うも女は真っ直ぐに闇を見据えたまま口を閉ざしている。女の視線を辿ると目眩がした。樹木はどれひとつとして直立していない。斜めになったり、横倒しになっていたりする。ふいに躓きそうになる。定まらないはずの焦点が、女は不安ではないのだろうか。
色々忘れてしまった女だけれど、悲しかったことはいつでも鮮明だと言う。ただしそれを曲にするために音楽を習うとか、絵に描くために画材を求めるだとかしなかった。頭の中で表示された風景と感情を、女は自らの外に放つ術を持たなかった。悔やんでなどいない。望んだとしても叶えられなかったはずだから。やらないということは、すなわちできないということだし、やろうと思わないことは、誰かに背中を押されても続かないのだという。ああ、なるほどな。こうして走ることから切断されないのは、まったく反対のことだからか。
悪戯のバレた少女のように、冷笑をたたえた女の面影に覆い被さる雨雲の迫りくるのを頭上に感じる。道は狭くなり、天も低くなってくる。右に曲がろうと、左に折れようとも、コリオリに従って、遥かな定点に吸い込まれていく。なんて楽なのだろうか。女の行き先に身を委ねるだけで、いとも簡単に楽になれる。
手首を握る。ざらつく皮膚の感触はない。闇に癒着した神経は、回路の壊れた機械みたいだ。正しい位置につけた抵抗もむなしく、意に反した動作が腑に落ちない。でも、もうどうだっていい。林の向こうに横たわる川のせせらぎが、雨の旋律を破って届いてくる。川が闇の向こう側にあるよ、と主張している。なんて承認欲求の旺盛な川なのだろう。女は躊躇うことなく川へ導かれる。
目を閉じて、呼吸をやめて、耳に手を当てて、歩く。夜の内側に分厚い膜が形成される。女がどこにいるのか、分かっている。ただ真っ直ぐに進めばいい。ピストルがなくてもタイミングを誤らないし、レーンがなくても辿るべき道のりは外れないのだから。
傘が雨を弾く音だって聞かれない。すでに女の両手は空かも知れない。空っぽの手の片方を、掴んでいたことすら忘れてしまった。濡れる冷たさも、衣服の重みも、少しずつ薄くなっていく。
川には船が渡される。岸にはたくさんの行列があった。
みんなで静かに順番を待つ。女の隣で眠くなったから、膝を折って寝る。腹が減っているような気もする。嘲るような瞳が向けられる。誰も彼もそうして睨み付けてくる。多分、思い込みなのだが、気分が優れない。寧ろ悪い。逃げ出したくなる。どこへ。
尿意を催す。もらしてもいい。もらそうか。いや、やめようか。常識が残っているなら、丁度森で隠れてするといい。提灯の明かりがぼんやりとのぞいているから。立ち上がってみると、女の手首から離れる。いつか味わった一連の動作に首を傾げつつ、森へと戻る。
ポケットのスマホが鳴った。
「はい」
「ちょっと、どこにいるの」
「どこって」分からない。森の中だ。説明は後でするから。電話は切れた。
そのまま電話帳を開いて、消せないままでいたダイヤルを発信する。何度かコールがされて、女の機械的な応答がなされた。朝靄の中で虹が出ている。いきなり明るくなるのだなあ。
上を向いて歩いていると、頬を一筋の五月雨が伝った。昔の歌詞は嘘じゃないか。上を向いているのにな。宿の窓は暗かった。白い空を映している。夜は黒かった。オセロみたいだ。
(了)




