『もう遅い』『ざまぁ』という流行の構造(Web埋蔵版:地下10階からのお願い)
最初に大事だと思う事を書いておきます。
◎我々読者は作品に対して「面白い」または「つまらない」と言う権利は持っている。しかし両者の意見のぶつかり合いは『不毛』でしかない。
皆様、お初にお目にかかります。
「お前の水夫」と申します。
普段は『行くのも大変なのに、得る物は少ない』という困った迷宮の様なエッセイの主をしております。
あまり騒がしさの減らない地上の様子を拝見いたしまして、申し上げたき事があり、この様に罷り越した次第でございます。
しばしの間、私の駄文にお付き合いいただければと思います。
今まで多くの方々が、最近のランキングの傾向について不満を述べられてきました。『もう遅い』『ざまぁ』に関しての批判的なご意見のことです。
その所為か批判的なエッセイも多すぎて『この意見も読み飽きた』という状況になってきていると思います。
しかし私の様な『外野』と言いますか『ニワカ』の目から見ますと、突っ込んだ意見という物が無く「もう見飽きた」「つまらない」以外の事が述べられていたのかと言えば、そうではない様に感じられたのもまた残念に思うところではありました。
小説を見る目というものが、私以上に肥えた方々がいくらでもいらっしゃるはずです。
そういった方々は何故に『流行の構造』についてご意見を述べてはくれないのだろうと、エッセイを読み始めてからそう思う様になりました。
こうした人気作品の傾向について「もう読み飽きた」「ランキングの一覧に異様な雰囲気を感じる」というのは読者諸氏の感想であり、それが小説を作る立場であるにも関わらず、現状に否定的な『作者先生』の意見にそのままなってしまうのは違うのではないでしょうか。
少なくともご自身の思う事に対して「そんなことを詳しく考えている時間は無い」というのも了見が狭い気がするのです。
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※ここで重要なお知らせ
否定的なご意見では無いため、スッカリ漏れてしまいましたが「寒天」先生の【作者目線で「ざまぁこと先行逃げ切り型小説」について語りたい】というランキングに載っているエッセイのことをスッカリ見落としておりました。
ただし「寒天」先生のご意見では、その単純構造を伝えた上で、有効性から来る動機的な側面を語っておられる為、私のオカルト的な自然発生説とは違いますことを先に申し上げておきます。
途中で失礼いたしました。
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この『もう遅い』『ざまぁ』系統の構造というものは、単純にしてしまえば「能力のある不遇な立場の主人公が見直され、間違った権威が零落する」という『革命物語』になってしまいます。
もう少し膨らませて書くと
「不当な評価を受けて権威から『追放』された主人公が、その能力を使って活躍し周囲から認められ、その結果権威としての個人・集団は反省し非を認める・または失墜する」
ということになるかと思います。
これはよくある古い系統の物語構造だと思いますが、同時に今非常に人気のある構造として多くの作者先生が作品に取り入れており、それが直接ランキングに反映されています。
ストーリーの要素をあからさまにタイトルに反映させ、且つその作品が人気を博していることに不満や憤りを感じておられる方々もいらっしゃるのですが、私が観ますにこの流行の広がりの規模というのは見誤られているのではないかと感じました。
この流行はもっと広い範囲で、気が付かない読者さんも居るくらい巧妙に取り入れられているのです。
ここで何点か作品を挙げて、各人気作品にどの様にして『もう遅い』『ざまぁ』が組み込まれているかを知っていただきたいと思います。
まずは「藍藤 唯」先生の【たとえば俺が、チャンピオンから王女のヒモにジョブチェンジしたとして。】を見てみましょう。
主人公の『フウタ』ですが、彼は強すぎて剣闘士として観客を楽しませる試合が出来ませんでした。そして八百長試合によりコロッセオという世俗的『権威』から『追放』されてしまいます。
しかしその後、彼は放浪の果てにスペクタクラという闘技場で大活躍します。
結果、彼の元にはかつて戦った人気剣闘士が集い始めることにより、コロッセオの人気は急落、つまり『失墜』します。ここに『もう遅い』『ざまぁ』が成される訳です。
次に「鍋敷」先生の【俺は全てを【パリイ】する 〜逆勘違いの世界最強は冒険者になりたい〜】を見てみましょう。
この作品では捻りが効いています。
主人公の『ノール』は凄い素質を持っていました。彼は冒険者に憧れましたが、各ジョブの基礎スキルを一つしか身につける事が出来ませんでした。
他のスキルがサッパリ覚えられない『ノール』は冒険者という社会的枠組みそのものから『追放』されてしまいます。
その後『ノール』は猛烈に修行し、基礎スキルだけで全てを退ける実力を身につけます。
彼はその力によって活躍し、王国の権威は自身の非を認めます。ここに『ざまぁ』は成りますが、お互いが謙虚であるためこの辺はあまり目立ちません。
最後に「槻影」先生の【嘆きの亡霊は引退したい 〜最弱ハンターは英雄の夢を見る〜】を見てみましょう。
この作品では『もう遅い』『ざまぁ』の構造は巧妙に隠されています。
そして「槻影」先生は恐ろしい『書き手』でもあります。
主人公の『クライ』は本当に能力があるかは分かりません。
自分に才能が無いという自覚があるため、彼は冒険者を辞めたがっています。つまり自分自身をその業界から『追放』したいのです。
比較対象は実力者であり『権威』でもある彼の仲間達であるため彼は逆の意味で不遇です。しかも仲間により逆に自分を『追放』出来ません。
彼自身としては活躍した意識は無いものの、運の良さと勘違いによって結果的に活躍し、周囲にこれでもかと認められてしまいます。
さらに周囲の実力者や王国という『権威』は自身の非を認めてしまいますが『クライ』はそんな事はしてほしくありません。
この作品の恐ろしい所は『もう遅い』『ざまぁ』の構造を持ちながら、全ての要素を反転させて反映しているのです。
ここまでお読みいただいた方々にはもうお分かりだと思いますが、これら以外の人気作品にもこの構造は取り入れられています。
私の考えるこれ等の表面的理由ですが、この構造を取り入れることで『カタルシスの恩恵だけは受ける事が出来る』からではないかと思っております。
『もう遅い』『ざまぁ』系統の構造の流行具合と申しますか、浸透度合と言うものは測れない程に深く広くなっている事をご理解いただけたものと信じております。
ここからは「どうして今この構造が流行るのか」について考えてみたいと思います。
ことの始まりは1980年代からになるかもしれません。この当時の事は伝聞でしか分かりません。
評論家の「蓮實重彦」先生はあることに注目されました。
それは何かと言えば、この時代を象徴する有名小説家の『個性的な』作品が、どれも『同じ物語構造』に収まっていることでした。
時は下って1990年代を見てみます。
当時の私はと言えば、絵に描いた様な無気力な馬鹿で、ラノベも当然の様に読んでいましたが何も考えていませんでした。
しかし思い返してみますと、同じような『成長物語』であるファンタジー作品が溢れ返っていたと思います。
富士見書房や電撃文庫はこの『同じ物語構造』の小説の量産を以前より自ら煽っていました。
そして現在のことを考えてみたいと思います。
私はおそらくですが、今の状態は『創作の現場で繰り返される傾向というものをただ見せられているだけ』ではないのかと考えてしまうのです。
そしてそれは我々に相応しく、分かり易い程に露骨なだけなのではないでしょうか。
そしてそんな現象が起きてしまうのは『なろう』に満ちる創作意欲の高さを逆に表してはいないでしょうか。
今の代表的な『もう遅い』『ざまぁ』に対する批判は分かります。
それは余りにも露骨でストレートで捻りも工夫も無く、そのままストーリーに反映され、タイトルにまでそのまんま書かれてあります。
しかし、我々は忘れがちですが、ああいった『もう遅い』『ざまぁ』をそのままやってしまう作者先生はアマチュアでございます。プロではありません。
むしろ最初は拙くともそのまんま反映するのが当たり前のことではないでしょうか。
むしろそういったモノを書きながら、自身を鍛えているのは正しい在り方ではないでしょうか。
そしてそんな熱意を持った作者先生を無意識に応援してしまう読者さんが居るというのは、これもまた我々という人間の自然の流れの様なモノではないかと思うのです。
ここまで申し上げて尚、私が一方的に知る批判的な作者先生方の中には
「だが断る!」
とそう仰る方々が居られるのは重々承知しております。
ですが、一種の『甘え』であることも理解してはおりますが
「たまには一歩引いた所から、観てはいただけませんか」
と申し上げたい気分にもなるのです。
これは地下10階に引きこもっている人間のワガママなのでしょう。
もう少し冷静で平穏な環境を望むというワガママなのだと思います。
そしてこんな議論自体が、もう下火になってきているのも事実です。
しかし私はソコに、主張された方の納得を観ることは出来ませんでした。ですからお願いにあがることにしました。
かつて私は【FACT FULNESS】により「お前は典型的な思い込みの人間であり、問題に対処する能力はないのだ」と言われてしまった人間でもあります。
それでも私は『現状に否定的な』創作に携わる方々にも、ある程度の微笑ましい物を見る余裕を持って、この流行を眺めていただきたいとそう思うのです。
私からの『お願い』は以上でございます。
ここまでお付き合いいただいた、あなた様に感謝の意を表しつつ、この駄文を終わりにしたいと思います。