2-2 初夏月/立待②
一階の庭に面したその一室は、白を基調としたよく日の当たる明るい部屋で、木像が机や棚や床に無造作に置かれていた。兎や熊や鹿や馬など獣を象ったそれは、少しつつけばすぐにでも動き出しそうなほど精巧なものばかり。息を呑んで立ち尽くした少年の前で、作業机の前で仁王立ちをしていた長髪の若い青年が、グリフォニアの女性につつかれ振り向いた。
「グルスさん! できました!」
顔を輝かせた彼の滑らかな五本指には、鹿の角を鋭く研いで作った彫刻刀が握られている。州司は僅かに片眉を上げると、重々しく頷いて近寄っていく。
「見て下さいな、なんて凜々しい」
アウランティウムとウィリディスの場所からも見えたそれは、グリフォニアの木像だった。大きく広げた翼、天を仰ぐ嘴、掲げた猛禽類の前肢、たくましい獅子の後肢。空へ飛翔せんとする姿は、躍動感に満ちている。
「玄関に飾っても良いかしら」
「構わん」
家長の即答に、青年の横顔が誇らしげに笑む。そこでようやく、州司はアウランティウムを手招いた。
「〝神の小鳥〟殿。木彫師のキュルテルだ。キュルテル、こちら、東領の〝神の小鳥〟アウランティウム殿であらせられる」
紹介を受けた人間の青年は、緑の目をまん丸に見開いて、それから破顔一笑して手を差し出した。
「まさか〝神の小鳥〟に会えるなんて! この家でお世話になってます、キュルテルです。よろしく!」
「アウランティウムです、よろしくお願いします」
自分と同じ形の手をそっと握り返す。その様子を呆気にとられたまま眺めていたウィリディスは、案内してきた使用人に思わず顔を寄せた。
「いつの間に人間を迎えたのです?」
「半月ほど前です。腕の良い彫刻家が央領の人間保護センターで育ったと聞いて、旦那様が直々に」
保護環境さえ整ってさえいれば、人間は一般家庭でも保護ができる。ただし、それには厳しい審査があり、実際に保護許可が降りるのは、州司のような豊かな立場の人獣ばかりである。
「では保護獣の登録も?」
「はい。名目上は、旦那様がキュルテル様の保護獣です」
思わず唸ったウィリディスである。厳格で知られる州司の父に、人間の保護獣を務める余裕があるのかと疑ったが、少なくとも現段階では一人と一頭の仲は良好に見える。大小の木像を見渡し、微笑ましく見守る母の姿を目の隅にとらえ、ふむ、と腕を組んだ。
「父上が木像好きだとは、知りませんでした」
タンチョウの使用人は肩を竦めたまま、あくまで無言を通した。
夕食を囲む頃には、アウランティウムとキュルテルはすっかり打ち解けたように見えた。というより、キュルテルの屈託なさと好奇心にアウランティウムが引き込まれたと言っても良い。
「アウラ君、東領の霊峰というのはどんな山なんだい? 央領で一番大きいヒアス山より一〇〇〇mも高いと聞いたよ?」
「五領一の高さですからね。すらっとしていて綺麗です。活火山だからか赤い地肌で、岩がゴロゴロしてるんです。僕が行ったのは春先でかなり雪が積もってましたけど、夏でも雪が残る部分もあるみたいです」
「登ったのかい!? 一般民は立入禁止だろう?」
「〝神の小鳥〟として旅立つ時に、神獣に挨拶するために巫女様と保護獣と一緒に登ったんです。そういう慣習らしくて」
「へぇぇ! それで――」
緑の目を輝かせた青年の口は、噛んだり話したりと忙しない。朱色の目を苦笑で飾る少年の手は、先程からずっと止まったままだ。
「キュルテル、質問攻めはほどほどにしないと、アウラさんの食事が冷めてしまうわ」
「おっと、それは駄目だね」
夫人に窘められ、キュルテルが首を竦める。その様子を尻目に黙々と食事を口に運ぶ家長は、しかしこの空気を厭わしく思っているわけではなさそうだ。出て行く前にはなかった光景に、末席のウィリディスはなんとも不思議な感慨を覚える。
軽快な足音と共に扉が開いたのは、アウランティウムの皿がようやく空になり始めた頃だった。
「父上、母上、ただいま戻りました」
現れたのは、眩いほど白い羽毛に凜々しい顔つきのグリフォニアの青年。
「フォルガ、おかえり!」
「キュルテルもただいま」
笑いかけてから、アウランティウムとウィリディスの姿に目を丸くする。
「ウィリディスが帰ってくるとは珍しいな。そちらの少年はお客さん?」
「兄上、彼は」
「フォルガ」
ウィリディスの声を、家長の呼び声が遮る。その重さに誰もが咄嗟に口を噤む中、帰ってきたばかりの長男に、彼は重々しく命じた。
「ここにいるのは東領の〝神の小鳥〟だ。それが連れてきた。お前、それの代わりに彼を東領大使館にお連れしろ」
荒々しく響いた音で、ウィリディスは自分が立ち上がったことを自覚した。音に驚くキュルテルの向かいで、アウランティウムが蒼白の面持ちで固まっている。そんな二人を前に、クシュオの州司はただ己の息子だけを見る。たちまち剣呑な空気になった部屋を見渡し、後継と期されている長男は少しだけ眉を落とした。
「……お話を、伺っても?」
「その必要は、ありません」
か細い声が問いを打ち消す。全員の視線を受け止めて、アウランティウムは血の気の失せた顔に固い決意を宿して、それを告げた。
「僕の守護獣はウィリディスです。彼女以外には護衛も何も、いりません」
「……何ですって?」
愕然と棒立ちになった彼女に、東領の〝神の小鳥〟が席を立ち近付く。その獅子の前肢を柔な人間の両手で取り、額に押し当てた。
「ウィリディス、お願いです。僕の、守護獣になってください」
「……な、にを」
「僕は、本気です。この先誰かを守護獣にしなくちゃいけないなら、僕はウィリディスがいい」
真摯な朱の瞳が、黒の薄布越しに黄金の瞳を射貫く。振り払わねば、という焦燥と、傷つけてはならないという自制が内心で拳を振り上げて、結果じりじりと後退りをする羽目になった。命令を下した父は目を閉じ、母は今にも失神しそうな顔色。キュルテルだけが、ポカンと口を開けている。
と、ウィリディスの両肩に猛禽類の前肢が乗った。見上げると、兄の呆れたような顔があった。
「だから、話を聞かせて欲しいって言っているじゃないか。どうしてこんな状況になっているんだい?」