1-3 初夏月/九日月①
側頭部を襲った重い衝撃に急激に覚醒を促される。勢いよく開いた黄金の目の前に、板張りの床が広がっている。身動ぎをしたことで辛うじてソファに引っかかっていた下半身が落っこち、ウィリディスは唸りながら俯せになり肘と膝を立てた。
窓に下がった布が朝日を受け止め透けていた。寝ぼけ眼を擦りながらベッドに這い寄り、縁を掴んで顔を出す。猫の手の先、丸く開かれた朱色の瞳とばっちり目が合って、ウィリディスは数回瞬きをし、それから真顔でぶつけたばかりの頭を下げた。
「おはようございます」
「……おはよう、ございます」
「起きられますか」
「あぁ、はい」
もぞもぞと上体を起こす少年の傍らで、ベッド横の木の椅子に座り直す。
「熱は」
問われて少年が自分の手を額にぺたりと当てる。
「大丈夫そうです」
声こそ掠れているが頬には赤みが戻り、口調も歯切れが良い。ベッド横の水差しがほとんど空になっていることからも、回復の度合いが測れた。
「あの」
首からぶら下がっている“それ”を、少年の手が強く握りしめる。
「助けてくれて、ありがとうございます。あの、その、僕は」
そこから先を言いかねているのか、黙り込んでしまう。伏せられた眼差しに、ウィリディスは迷いを見た。
「私はウィリディス。央領・チーシェの用心棒です。貴方は」
毅然とした声が、少年の顔を上げさせる。白くなるほど胸元を握りしめて、少年はベッドの上に正座をした。
「僕は、アウラ。アウランティウム。……東領の、“神の小鳥”です」
朱色の瞳に緊張を宿し、それでも今度は目を逸らさない少年に、ウィリディスは頷きを返した。
「では、アウランティウム。まずは腹ごしらえを。話はそれからです」
応じるより早く、空っぽの腹の虫からの返事が、部屋中に響き渡った。
温めてもらった昨晩のポトフを、アウランティウムはゆっくりと完食した。ここが央領でウィリディスの居候先の客室だと知ると、流石に頭を抱えて唸る。昨日のことはちゃんと全て覚えているけれど、自分の乗った船がどこ行きのものなのかはわかっていなかったという。
「あの時は、とにかく乗ることに必死で……何か思いっきり殴られたし……」
もごもごとした呟きの、特に後半部分を、ウィリディスは聞かなかったことにした。【人間に暴力を振るってはならない】という人間保護法の一文が頭を掠めたような気がするが、恐らく気のせいである。
「東領大使館に貴方を連れていかなければなりません」
「……はい」
諦念と無念の情に押さえつけられたかのように、悄然とうなだれる少年の姿を、ウィリディスはしばし眺め、ポツリと付け加えた。
「……本来ならば、そうすべきでしょう」
「……え?」
耳を疑う少年の胸元で、橙色の種が怪訝そうにチカチカと光る。
「昨日言いましたね、警察には頼れないと。ならば、大使館も同様なのではないですか?」
直球で問うと、アウランティウムの朱色の瞳が大きく揺れた。答えを得て、ウィリディスは猫の腕を組む。
「となると、やはり当初の予定通り、貴方を一刻も早く、東領の人間保護センターに送り届けるのが最善ですか……」
とはいえ、昨日の港での逃走劇は、狒々たちによって“主”に伝えられているはずだ。灰色には少々手こずった気もするが、あんなものが親玉であるとはウィリディスも考えてはいない。向こうの勢力がどの程度かは知らないが、警察が頼れない以上、央領と接する港は押さえられていると考えて良いはずだ。
「あの」
思案に暮れるウィリディスの意識の端を、少年が引く。
「どうして」
「はい?」
思考を妨げられ反射で視線に圧が宿る。一瞬身を引いて、それでも少年はどうして、と繰り返した。
「どうして、大使館に連れて行かないんですか」
「だって、嫌なんでしょう?」
当たり前のように返せば、困惑が戻ってくる。
「でも、僕は、君に返せるものがない」
「それなら、センターに着いたらいただきます。後払いということで。“神の小鳥”を護衛したのなら、流石に何かもらえるでしょう」
「そうじゃなくて」
もどかしげに唸る少年に、少女の黄金の瞳にも険が宿る。
「何が気に食わないんですか。貴方は今、保護獣を殺した相手に追われています。警察にも大使館にも頼れません。央領に匿い続けるには、領全体のリスクが高すぎます。ならば、確実に“保護”される場所にどうにか辿り着かなければなりません。違いますか」
「違わないし気に食わないんじゃない。君にとっての、利点を問うているんです」
大使館に連れて行くことが最も単純で最善の解決策だと知っていて、何故その選択肢を簡単に投げ捨てたのか。
何故、自分が護衛をすることを前提で話をするのか。
「だってウィリディス、君は、“東領の神の小鳥”とは全く関わりのない存在だ。僕を助けたところでリスクばかりで何の利点もない。意味がない。違いますか」
ベッドの端を掴んで乗り出した少年と、椅子の上で腕と足を組む少女の視線が、宙でぶつかって弾けた。うららかな陽射しも朗らかな音色も、窓辺で思わず竦むような空気が室内に漂う。
「……アウランティウム」
名を呼ぶ声は静かだった。
「貴方は、目の前で死にかけている者を、手当はしたから後はご自由にと放り出すことを、是としますか」
淡々とした声音の端々に、焔が覗く。
「追い詰められた者を、別の場所に逃がしてやったから後はがんばれと、手を振り去ることを是としますか」
立ち上がったウィリディスの背後に、少年は颯爽たる鷲の翼を見た。
「一度手を差し出したなら、その手を必要としなくなるまで貸し続ける。その覚悟がなくてどうして、誰かを助ける事ができますか。これは責任であり義務であり、用心棒として生きている私の矜恃です。それ以外に、意味が、理由が、必要ですか」
沈黙の末に返ってきたのは、「いいえ」という小さな否定だった。乗り出していた少年の身体から力が抜け、枕に背を預けて目を閉じ、吐息と共に「ごめんなさい」と呟く。
「僕は、君の意志を、傷つけたみたいです」
「えぇ。次はありません」
空の水差しを手にしかけ、ウィリディスはふと少年を見下ろした。
「起き上がれるようでしたら、顔でも洗いますか。井戸に案内します」
そうします、と苦笑交じりの声が返ってきた。




