5-1 晩夏月/五日月~寝待
第四章 〝神の小鳥〟と幻獣もどきの選択
根城に帰って倒れ込んだ寝床代わりの干し草は、湿気た匂いがした。
もう帰ってきたのかい、なんて目を見張る女将をよそに、亭主は無言でウィリディスの夕飯を差し出した。
「今回の報酬はさぞかし弾んだんじゃないかい?」
女将に言われて初めて、結局無報酬のままだったことを思い出す。無言でご飯を掻き込むと、彼女は何を察したのか、首を竦めて客の待つ円卓へと歩いていった。
明日には干し草の日干しをしようと誓って我慢しながら眠りについたのに、翌日は朝から雨で、ウィリディスはため息を一つつく。
「もうじき収穫ですし、また報酬代わりに分けていただきますか……」
数日後に馴染み先に赴くと、待っていたのは申し訳なさそうな顔をした馬の夫婦だった。
「今年は育ちが早くてねぇ。晴れ間が続いたもんだから、雨が来る前に刈ってしまったのさぁ」
「冬に備える分以外は、もうほとんど市に出してしまってねぇ」
「……そう、でしたか……」
穫れたばかりの穀物を央領の西部に届けに行くから同行して欲しい、という頼みに応じてみれば、道中で盗人集団に鉢合わせた。西部は〝厄災〟の爪痕が大きく、軽く見ても東領のカラマク州と同様の廃れ方をしている。辛うじて営みが続けられるレベルまで再生した州の長への届け物だったが、生活苦に手癖の悪くなった連中に目をつけられたらしい。爪と牙を剥き出したパンサーの一団を前に、ウィリディスは半眼で腕を鳴らした。
「……良いでしょう。ちょうど、一汗かきたいところでした」
瞬時に三頭を伸し、雇い主を背に残りをジロリと睨みつける。
「私は今、容赦をしたくない気分なので。すみませんが憂さ晴らしに付き合ってください」
ゆらりと燻る何かを背後に見たか、パンサーたちの顔色が変わる。そろりと一歩下がった時には、もうウィリディスの獅子の手が間近に迫っていた。
あちこちに伸びた人獣たちを麻縄で一頭ずつ縛り上げ樹に吊し両手を叩いてから、ウィリディスはそっと眉をしかめる。
東領ほどではなくとも、やはり央領にも依然荒涼とした土地は各地に存在している。少し前の己であれば、土地を蘇らせるという〝神の小鳥〟を一も二もなく待ちわびていただろう。半人獣のなりそこないとはいえ州司の家に連なる者でありながら、何も知らずに。けれど今生この先央領に〝神の小鳥〟誕生の知らせを受けた時、それを素直に喜べないような気がしてならない。
大地の、世界の一部再生か。
たった一人の人間の命か。
例え、生まれたその瞬間から世界への殉職を定められていたとしても。
「……私には、判断がつきません」
呟いて、踵を返した。今の自分の、雇い主の下へと。
傷みの激しい干し草を処分し、先日の報酬の一部で買い求めた新たな束を納屋に敷き詰める。冬の早い央領では、もう一月もすれば気温がグンと下がってくる。冬でも納屋の生活を変えないウィリディスだが、流石に防寒対策は徹底したかった。ましてや、半人獣は人獣よりも人肌の面積が多い分、風邪を引きやすい。
「……まぁ、ひとまずはこんなもんでしょう」
妥協半分満足半分の心持ちで腕組みをしたウィリディスの鼻が、不意にスンと鳴る。慌てて納屋を駆け出れば、中庭の草木を揺らしながら、大きなグリフォニアの人獣が悠々と降りてきた。
「兄上!?」
「やぁ妹よ。央領に戻ってきているのなら家に寄れば良いものを」
爽やかなフォルガの笑みに、ウィリディスの顔が引き攣る。わかりやすすぎる表情の変化を、腕を組んだ兄は笑ってズバリ切り込んだ。
「どうせあれだろう。『守護獣を勤めあげられなかった自分に帰る資格はない』とでも思い込んでいるのだろう」
「……私の住処がもとよりここだったからです。家に帰る必要性を感じなかっただけで」
「まぁ、そういうことにしておくが。この兄を使いに出させるとは、お前も随分と偉くなったものだよ」
「……使い?」
ほれ、と鞄から取り出された小さな麻袋を受け取って、その重みに驚きつつ怖々と紐に爪を引っかけ口を開く。たちまち燦然とした輝きが目に飛び込んできて、ウィリディスはギョッとして思わず袋を閉じた。
「こんな量の金板、いったいどこから……!?」
ざっと見積もっても人獣一頭が半生は遊んで暮らせそうな額はある。震え上がらんばかりの姿に、フォルガは笑いながら教えてやった。
「東領の大使館からさ。『この度は〝神の小鳥〟を正しき守護獣の元までお導きくださり、ありがとうございました。これはほんの御礼です』だと」
かつて会った狸たちのへこへこした顔が思い出される。わざわざ本家に届けるとは、よほどウィリディスに会いたくなかったらしい。
沈黙のまま袋をぶら下げる半人獣の妹に、フォルガはわざとらしく首を傾げた。
「嬉しくなさそうだな。俺でももらったことのない金額だぞ」
「皮肉ですか兄上」
「バレたか」
袋の口からいまだ僅かに覗く栄光の輝きを、見下ろす眼差しは苦い。
「どう見ても口封じ料が含まれています」
「口封じ?」
何食わぬ顔で問い返す兄の顔を、ウィリディスは何とも言い難い表情で見返した。
「アウランティウムの〝未来〟のことです。兄上は、ご存じだったのでしょう」
鷲の目を軽く見開いて、フォルガはなるほどな、と顎を撫でた。
「『正しき守護獣』ってのに会ってもお前がさっさと守護獣の座を明け渡すことはないと思ってはいたが……そういうことか」
曇ったか。
その一言が、無性にウィリディスの堪を逆撫でした。
「……そうやって、訳知り顔で黙っていたわけですか。兄上も、父上も、御師さんも、皆!」
「そりゃそうだろう。それが」
「あの子の願いだから。私が知らない方が都合が良いから!」
冗談ではない。吐き捨てた弾みで袋が滑り落ち、金板が散らばる。
「知らない方が良いこともある。それがわからないお前ではないはずだが」
「それでも、知るべきことというものもあります!」
「ならお前は、あの日他でもないお前に縋ったあの〝神の小鳥〟の風前の希望を吹き飛ばすべきだったと?」
細められた目が射るようにウィリディスを見据える。
「あの〝神の小鳥〟殿にとって、お前は夢であり希望だった。お前も知ろうとしなかった。よしんば知ろうとしたところで……俺たちがどちらを優先させるかなど、わかりきっているだろう」
ウィリディスの無知が、あの時東領の要を救ったと言っても良い。金板を山と寄越すほどには、東領も事態を重く見たのだろう。結果、東領の〝神の小鳥〟の旅は、滞りなくあるべき場所に収まった。
「口止め料込みだとしても、お前にはそれを受け取る価値はあるってことだ。父上も敷居を跨ぐことは許してくれるんじゃないか」
ウィリディスが知ったらどうなるか。今ここに居ることがその答えなのだから、皆がこぞって口を噤んだのは紛れもなく正しい。わかっていても、ウィリディスは握った両の前肢を解くことができない。
はぁ、と、呆れたようなため息が目の前を転がっていった。黄金の輝きに影が差し、一つ一つ爪の先で摘ままれては袋の中に納められていく。最後の一片を摘まんで入れると口を閉め、フォルガは改めてそれを妹へと差し出した。
「どうする。取るかい。半人獣がこの金額を手にすることは稀だ。お前は今、このソル・カダヴェで一番金持ちの半人獣だよ」
頼りなく下がるその麻袋を見る目は、憤りと苦悶に満ちて泣きそうに揺らめいていた。
そんな妹を片眉を上げ見下ろして、フォルガはふと口元を綻ばせた。
「それとも。全てを擲って、失ったものを取り戻しに行くか」
動かない翡翠色の髪に、戯れるように語りかける。
「お前の矜恃。お前の信念。お前の誓い。その全てを、東領の面目も〝正しき守護獣〟の誇りも〝神の小鳥〟の覚悟も全部踏みにじってその手に取り戻すか」
なんたる愚。なんたる勝手。なんたる傲慢。
だが。
「あの〝神の小鳥〟殿は、知っても尚使命を果たす覚悟を決めて生き延びた。少しでもマシな未来を求めてお前に手を伸ばした。非力な人間が、だ。……お前は、どうする?」
「……私は」
項垂れた翡翠色の頭を徐々にもたげ、その影から現れた淡金の瞳に、兄は今度こそ、心底楽しげに笑った。
「やはり、本当に惜しいよ。どうしてお前は、人獣として生まれなかったんだろうな」




